下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
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『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)講義』第一巻 宮城顗(しずか) 著
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、現実の人間以上に、人間の事実、私の事実を 呼び覚ます
安田理深(りじん)先生が おっしゃっています ように、もちろん法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)というのは実在の人物では ありません。ある意味でいえば 小説とか劇の主人公、登場人物の名まえ と 同じで、創作上(そうさくじょう)の名まえ なのです。
ただし その創作された人物が、現実の人間以上に、人間の事実、私の事実というものを 呼び覚ましてくれる ということが あります。
優れた作品に出てくる人物 というのは、現実に実在し 現実生活の中で出会っている人間以上に 人間の深い魂、深い喜び、願い というものを呼び覚ましてくるのです。芝居に感動する というのは、登場人物を通して、自分の中に いままで埋(う)もれていたもの が 掘り起こされてくるから なのでしょう。
それと同じように 法蔵(ほうぞう)とは、私の中の法蔵(ほうぞう) を呼び覚ましてくる名 なのです。
すべての人間の内なる法蔵(ほうぞう)を、法蔵魂(ほうぞうだましい)を呼び覚ます名 なのです。
人間の中に深く埋もれていたもの を呼び覚まし、私どもを貫(つらぬ)いて 一(いち)なるもの を呼び覚ます という意味が 法蔵(ほうぞう)という名 には あるのです。そしてその呼び覚まされた一(いち)なるもの において 出遇う世界 が 浄土であり、清浄(しょうじょう)なる仏(ぶつ)の国土(こくど) なのです。
国土(こくど)ということについて、西谷啓治(にしたにけいじ)先生は、「国土(こくど)を持つとき、はじめて 他者とともなる自己 が立ち現れる」と言われました。普通 われわれは 人と対立した自己 でしかない のです けれども、人との ほんとうの深い かかわり、うなずき の中で自分 というものを見いだすことができる と言われるのです。もっと具体的にいえば、国土(こくど) とは ほんとうに友を賜(たま)わる世界だ ということです。
ー1-
安田理深(りじん)先生は、国土(こくど)とは すべての人間を独立者たらしめる世界だ とおっしゃっています。その 独立者 とは、すべての人 と 平等に出会える人 です。
われわれは、なかなか 人と平等に出会えないのです。
劣等感(れっとうかん)を持って 小さくならなければ ならなかったり、優越感を持って ふんぞり かえって みたり、出会う人によって ぐらぐら揺れるのが私ども です。その意味で 独立者たり得ない ので しょう。
ほんとうに 独立した者 というのは、すべての人と平等に出会える人 なのです。
そのように人間を独立者たらしめる世界、それが国土(こくど)なのです。そういう意味で、世自在(せじざい)、法蔵(ほうぞう)という名を通して 浄土 という問題が展開してくるわけです。
『阿弥陀仏の国か、天皇の国か』竹中智秀(ちしゅう) 著
法蔵菩薩は私である
曽我(そが)先生の生涯(しょうがい)を貫(つらぬ)いているテーマが「法蔵菩薩論(ほうぞうぼさつろん)」です。これは、「法蔵菩薩とは誰のことか」という問いです。この問題は信國(のぶくに)先生自身の生涯(しょうがい)を貫(つらぬ)いているテーマでも あります。信國(のぶくに)先生の場合は、昭和三十年ごろにいなかの門徒の人たちと、「歎異抄」をテキストにした聞法会を もたれる中で、次のように語りかけておられます。
法蔵菩薩は、いろんな人間の姿となって地上に現れるであろう。
男にも なれば 女にも なる。年寄りにも なれば 若い者にも なる。偉(えら)い者(もの)にも
なれば、つまらぬ者にも なる。百姓にも なれば 学校の先生にも なる。
(『無量寿経』に)ちゃんと そう書いてある。だから疑(うたが)わず 遠慮(えんりょ)せずに、
私どもの間(あいだ)からも、「法蔵菩薩は私である、ほかならぬ私自身のことであった」
と 名告(なの)り出る者が どしどし 出て こなければ ならぬ。
(「浄土」、『いのちは誰のものか』所収、樹心社)
ー2-
実(じつ)に大(おお)らかです、実に明快(めいかい)に言い切っておられます。こんなに明快(めいかい)に大(おお)らかに
語ることが できたのは信國(のぶくに)先生以外には おられないのでは ないでしょうか。
みんな 遠慮(えんりょ)しがちです。何か そう言い切ることをためらっているように思います。言い切らないから 力(ちから)が湧(わ)いてこない のです。なぜ ためらうのか、なぜ
言い切れないのか、そこに われわれに おける 如来の本願との出会いの不徹底(ふてってい)さが
あるのに ちがいないのです。
地上の救主(きゅうしゅ) ― 法蔵菩薩出現(しゅつげん)の意義(いぎ) ―
曽我(そが)先生は、大正二年七月号の『精神界(せいしんかい)』(注一)で、「地上の救主(きゅうしゅ)―法蔵菩薩出現(しゅつげん)の意義(いぎ)―」を公(おおやけ)に されています。
親鸞聖人のあと、真宗再興(しんしゅうさいこう)の事業をされたのが蓮如上人ですが、その蓮如上人のあと 長く 真宗再興(しんしゅうさいこう)ということが途絶(とだ)えて いました。たしかに清澤(きよざわ)先生の存在ということは あるのですが、その清澤(きよざわ)先生の事業を受け継いで、その事業を
成熟(せいじゅく)させ 完成させ、そして第二の浄土真宗再興(しんしゅうさいこう)の事業の きっかけを開かれた
のが、この「地上の救主(きゅうしゅ)」が公(おおやけ)にされた時だ と言えます。「地上の救主(きゅうしゅ)」は
そういう意味をもった画期的(かっきてき)な論文です。
曽我(そが)先生は その「地上の救主(きゅうしゅ)」の冒頭(ぼうとう)において、
私は昨年(さくねん)七月上旬(じょうじゅん)、高田の金子君(注二)の所(ところ)に於(おい)て、
「如来は我(われ)なり」の
一句(いっく)を感得(かんとく)し、次(つい)で八月下旬(げじゅん)、加賀の暁烏(あけがらす)君(注三)の所(ところ)に
於(おい)て
「如来 我(われ)となりて 我(われ)を救(すく)い給(たも)う」の一句(いっく)を回向(えこう)していただいた。
遂(つい)に十月頃、
「如来 我(われ)となる とは 法蔵菩薩 降誕(ごうたん)のことなり」ということを気付(きづ)かせて
もらいました。
(『曽我(そが)量深(りょうじん)選集』第二巻、現代仮名づかいに改めた)
と述べられ、法蔵菩薩出現(しゅつげん)の意義(いぎ)を感得(かんとく)された ということです。そして さらに非常に大事なことを展開して おられます。
ー3-
久遠実成(くおんじつじょう)の法身(ほっしん)如来 は 現実の自我(じが)の救済主(きゅうさいしゅ)では ない。
現実界(げんじつかい)の救主(きゅうしゅ)は
亦(また) 必(かなら)ず現実世界に出現(しゅつげん)し給(たも)う人間仏(にんげんぶつ)で あらねば ならぬ。
(同前)
と述(の)べられ、その人間仏(にんげんぶつ)について、それこそが法蔵菩薩である と言い切られて、
法蔵菩薩とは何(なん)ぞや。他(ほか)でない、如来を念(ねん)ずる所(ところ)の帰命(きみょう)の信念(しんねん)の
主体がそれである。 (同前)
と まで 言い切って おられます。
それは信國(のぶくに)先生が、
疑(うたが)わず 遠慮(えんりょ)せずに、私どもの間(あいだ)からも、
「法蔵菩薩は私である、ほかならぬ私自身のことであった」と 名告(なの)り出る者が
どしどし 出て こなければ ならぬ。
(前出「浄土」)
と、いなかの門徒の人たちに語りかけて おられる言葉 と、けっして 別なこと では
ないのです。
(注一)『精神界(せいしんかい)』‐一九〇一年一月、清澤(きよざわ)満之(まんし)を中心とする宿舎(しゅくしゃ)「浩々洞(こうこうどう)」から発刊された「精神主義」を標榜(ひょうぼう)する宗教雑誌。一九一八年廃刊(はいかん)。
(注二)金子君‐金子大榮(だいえい) (一八八一 ~ 一九七六)、真宗大谷派の僧侶。
(注三)暁烏(あけがらす)君‐暁烏(あけがらす)敏(はや)(一八七七 ~ 一九五四)、真宗大谷派の僧侶。
自覚自証教(じかくじしょうきょう)としての真宗再興(しんしゅうさいこう)
真宗門徒が親(した)しんでいる『正信偈』の「法蔵菩薩因位(いんに)時(じ)」の その法蔵菩薩ですが、曽我(そが)先生の「地上の救主(きゅうしゅ)」によって、一種の神話(しんわ)として伝承(でんしょう)されてきた法蔵菩薩の物語 が 非神話化(ひしんわか)されることになったのです。
長い間、阿弥陀如来こそ救主(きゅうしゅ)として、阿弥陀如来によって救済(きゅうさい)されることにして、それで済ませていたのです。単(たん)なる恩寵主義的(おんちょうしゅぎてき)な救済観(きゅうさいかん)が われわれの中に、門徒の中に根付いていました。
ー4-
それが曽我(そが)先生の「地上の救主(きゅうしゅ)」によって、根底(こんてい)から ひっくり返されたのです。阿弥陀如来によって救済(きゅうさい)される ということは、阿弥陀如来を信ずる信心によって、われわれの内(うち)に因位(いんに)の法蔵菩薩が誕生されることなのだ、と。その因位(いんに)の法蔵菩薩によって、われわれ自身が直接 助けられること なのです。だから その因位(いんに)の法蔵菩薩こそが われわれの救主(きゅうしゅ)である と、そういったことを曽我(そが)先生は宣言(せんげん)された
わけです。
そのことによって、浄土真宗 が 「大乗(だいじょう)の至極(しごく)」としての浄土真宗 になった
のです。救済教(きゅうさいきょう)では なし に、自覚自証教(じかくじしょうきょう)として再興(さいこう)する時を迎える きっかけになったのです。ここにこそ親鸞聖人の「浄土真宗」の本流(ほんりゅう)があるわけです。
しかし、信心を得ること そのことが「難中之難(なんちゅうしなん)」のことです。われわれが信心を得ない限り、われわれの中に法蔵菩薩は誕生されませんし、名告(なの)り出られない
わけですから、このことは大変な困難(こんなん)を極(きわ)めることでもあるのです。
信(しん)に死(し)し 願(がん)に生(い)きよ
昭和三十六年(一九六一)に、真宗大谷派の親鸞聖人七百回御遠忌(ごえんき)が つとまり
ました。京都会館で記念の讃仰講演(さんごうこうえん)が もたれたのですが、その時 曽我(そが)先生は
「信(しん)に死(し)し 願(がん)に生(い)きよ」という講題(こうだい)で話をされました。これが曽我(そが)先生における法蔵菩薩論(ほうぞうぼさつろん)の さらなる展開です。大谷派教団における同朋会運動(どうぼうかいうんどう)というのは、
この言葉から始まるのです。それは ずっと 今でも続いています。
大正二年(一九一三)の「地上の救主(きゅうしゅ)」から始まる 浄土真宗再興(しんしゅうさいこう)の気運(きうん) というのが、太平洋戦争(たいへいようせんそう)を経過(けいか)し、その間(かん) いろいろ問題を抱え、また その総括(そうかつ)として
戦争責任を問いながら、ふたたび 浄土真宗再興(しんしゅうさいこう)の時(とき)が熟(じゅく)していく という、
そういうことになっていくわけです。
ー5-
浄土真宗は 本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)に立つ と いわれています。本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)の前半は、
諸有(しょう)の衆生、その名号(みょうごう)を聞きて信心歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念(いちねん)せん。
(真宗聖典二二八頁)
です。ここで親鸞聖人は、本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)を切られます。この前半の文(もん)を
「本願信心の願成就(がんじょうじゅ)」と読まれるのです。
そして本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)の後半は「欲生心成就(よくしょうしんじょうじゅ)」と言われます。それは、
至心(ししん)回向(えこう)したまえり。かの国に生まれん と願(がん)ずれば、すなわち往生を得(え)、
不退転(ふたいてん)に住(じゅう)せん と。唯(ただ) 五逆(ごぎゃく)と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とを除(のぞ)く。
(真宗聖典二三三頁)
です。
本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)の前半が「信に死し」、後半が「願(がん)に生(い)きよ」です。本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)の精神を、曽我(そが)先生が 自分の言葉 として「信(しん)に死(し)し 願(がん)に生(い)きよ」と受け止め、
われわれにも 呼びかけておられる のです。
↓ 吉江 解説
去年の七月・九月に見ました
〈 正信偈 原文 〉
本願名号正定(しょうじょう)業(ごう)
〈 書き下し文 〉
本願の名号は正定(しょうじょう)の業(ごう)なり。
↑
第十八願のことが いわれている所。
第十八願は、難しい お話なのですが、浄土真宗では避けて通れない所。
↓ その第十八願を、私達が しっかり受けとめる と、どうなるのか?
ー6-
〈 『無量寿経』下巻(げかん)の初め 本願成就文(ほんがんじょうじゅもん) 書き下し文 〉
諸有(しょう)の衆生、その名号(みょうごう)を聞きて信心歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念(いちねん)せん。
〈 吉江 意訳 〉
私達 衆生が、南無阿弥陀仏 という 名号の いわれ、阿弥陀様の ご苦労 を知らされて、信心をいただき、喜んで お念仏を称えるようになる。
↓ この お言葉を曽我(そが)量深(りょうじん)先生が、
信(しん)に死(し)し
〈 吉江 意訳 〉
信心をいただいたことによって、自我意識を生きて来た私 が死んでしまった。
〈 『無量寿経』下巻(げかん)の初め 本願成就文(ほんがんじょうじゅもん) 書き下し文 〉
至心(ししん)回向(えこう)したまえり。かの国に生まれん と願(がん)ずれば、すなわち往生を得(え)、
不退転(ふたいてん)に住(じゅう)せん と。唯(ただ) 五逆(ごぎゃく)と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とを除(のぞ)く。
〈 吉江 意訳 〉
阿弥陀様が まごころを込めて、お念仏を私達に届けてくださっている。
その阿弥陀様の まごころ の 通りに、お念仏を称えて、
「お浄土に生まれたい」と願えば、必ず お浄土に往生することができる。
↓ この お言葉を曽我(そが)量深(りょうじん)先生が、
願(がん)に生(い)きよ
〈 吉江 意訳 〉
共に、阿弥陀様の願い に 生きていこうでは ありませんか!
ー7-
『阿弥陀仏の国か、天皇の国か』竹中智秀(ちしゅう) 著
欲生心(よくしょうしん)問題の曖昧(あいまい)さ
実は この「信に死し」というのは、曽我(そが)先生や信國(のぶくに)先生が示されたように、
われわれに おいて 信心が決定する時をあらわす、すなわち われわれにおける
法蔵菩薩の誕生を示す言葉です。法蔵菩薩とは誰のことでもない、私自身のこと で
ある と自覚し 名告(なの)りをあげる、それが「本願信心の願成就(がんじょうじゅ)」ということです。
法蔵菩薩の誕生ということが そこにあるのです。
そして、「願(がん)に生(い)きよ」というのは、われわれに おいて 自覚的に誕生した
法蔵菩薩が、法蔵菩薩であることを自証(じしょう)する わけです。自覚することができたものを「ああ このことであったか」と自(みずか)ら納得(なっとく)も し、世間の人たちに対しても
「法蔵菩薩とは私自身のことである」と言うことができる ということ、そのことを
証明していくのです。これが「願に生きる」ということです。すなわち「欲生心(よくしょうしん)」の問題です。
ですから、『大経』では神話的(しんわてき)に、法蔵菩薩の兆載永劫(ちょうさいようごう)(注一)の修行 ということが表現されていますが、これは 縁ある人と 共に 浄土を願生(がんしょう)すること です。
浄土を願生(がんしょう)する ということは 積極的に浄土を荘厳(しょうごん)する ということです。
そこまで言い切らないと、「法蔵菩薩とは誰のことか」ということが 他人事(たにんごと)になってしまいます。
しかし、こういうことを言って しまえば、かつては 破門される、僧籍剥奪(そうせきはくだつ)
ということだったと思うのです。だから みな ためらって言わない。それで全部曖昧(あいまい)になったのです。
(注一)兆載永劫(ちょうさいようごう)‐「兆(ちょう)」・「載(さい)」は きわめて大きい数の単位。
『大無量寿経』において、法蔵菩薩が四十八の本願をたて、
その成就のために修行した 時の長さ をいう。
ー8-
現実を生きる人
「難思議往生(なんしぎおうじょう)(第十八願の他力念仏により、浄土に往生すること)」というのは
どういうことか と申しますと、日常的に使っている言葉でいえば、「御同朋(おんどうぼう)」
ということです。縁ある人と「四海( しかい)の内(うち) 皆(みな) 兄弟」として一緒に苦労をしていける
ようになった。これが難思議往生(なんしぎおうじょう)です。けっして 個人で たすかる のでは ない
のです。
法蔵菩薩で一番象徴的(しょうちょうてき)なことは、十方(じっぽう)衆生が もし助からなければ正覚(しょうがく)を
取らない ということです。全衆生(ぜんしゅじょう)を自己としている ということは、目の前の人を自分のこと として受け容(い)れ、共に生きることができるか ということになります。
十方(じっぽう)衆生と いっても 目の前にいる人 です。その人を退(しりぞ)けて、十方(じっぽう)衆生というものは ない のです。だから、言葉が消えてしまい、自分が どうして いいか わからないという、そういう現場の状況の中で、その人と共に生きる。そういうことから しか
始まらない問題なのです。
法蔵菩薩は世自在王仏(せじざいおうぶつ)(注一)との出会いの中で、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の弟子となって、
法蔵と名告(なの)った と『大無量寿経』では示されています。そして そこでは、
自分も また 仏(ぶつ)に なりたい という願いを持った者に、一切衆生と共に助かりたい
という願いを持った者に対して、世自在王仏(せじざいおうぶつ)が一言(ひとこと)だけ 言葉をもって激励(げきれい)されて
います。これが 非常に象徴的(しょうちょうてき)な言葉 として語られています。
その時に世自在王仏(せじざいおうぶつ)、その〔法蔵菩薩の〕高明(こうみょう)の志願(しがん)の深広(じんこう)なるを
知(し)ろしめ して、すなわち法蔵比丘(ほうぞうびく)のために、しかも経(きょう)を説(と)きて言(のたま)わく、
「たとえば大海(たいかい)を 一人(いちにん) 升量(しょうりょう)せん に、劫数(こうしゅ)を経歴(きょうりゃく)して、尚(なお) 底(そこ)を窮(きわ)めてその妙宝(みょうほう)を得(う)べき が ごとし。人、心を至(いた)し精進(しょうじん)にして道を求めて
止(や)まざること あれば、みな当(まさ)に剋果(こっか)すべし。何(いず)れの願い をか 得(え)ざらん。」
(真宗聖典一四頁)
ー9-
海の底にある宝を手に入れるために、海の水を全部かい出(だ)してでも得よう とすれば、必ず海の底にある宝を得ることができる。だから しっかりと志(こころざし)を立て、志(こころざし)を貫(つらぬ)いて いけば 果(は)たし遂(と)げられないこと は ない と、そう言って激励(げきれい)しています。
このように法蔵菩薩で象徴(しょうちょう)されているのは、十方(じっぽう)衆生が助からない限りは自分自身が助からない という、ひとりの人 と 本当に出会えない限りは自分は 助かった とは言えない という、そういう願いをもって苦労する者が法蔵菩薩です。
(注一)世自在王仏(せじざいおうぶつ)‐『大無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の師仏(しぶつ)。
『 三(さん)帰依(きえ)文(もん) 』
江戸時代の仏教学者 大内青巒(おおうちせいらん)が、
『法句経(ほっくきょう)』・『華厳経(けごんきょう)』・『法華経(ほけきょう)』
の一部を組み合わせ、まとめたもの ↓願成就して
と いわれている。
大内青巒(おおうちせいらん)は、日本の全ての仏教徒
にとって必要な文言(もんごん)を求められ、
共に唱和できる三(さん)帰依(きえ)文(もん)を作られた。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
第二十一世 大谷光尊(こうそん)に学問を教えられた。
人身(にんじん)受(う)け難(がた)し、いま すでに受(う)く。仏法(ぶっぽう)聞き難(がた)し、いま すでに聞く。
この身(み) 今生(こんじょう)において度(ど)せずんば、さらに いづれの生(しょう)においてか この身(み)を度(ど)せん。
大衆(だいしゅ)もろともに、至心(ししん)に三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し奉(たてまつ)るべし。
ー10-
自(みずか)ら仏(ぶつ)に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生と ともに、
大道(だいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自(みずか)ら法(ほう)に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生と ともに、
深く経蔵(きょうぞう)に入(い)りて、智慧(ちえ) 海のごとくならん。
自(みずか)ら僧(そう)に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生と ともに、
大衆(だいしゅう)を統理(とうり)して、一切無碍(むげ)ならん。
無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法(ほう)は、百千万劫(ごう)にも遭(あい)遇(お)うこと難(かた)し。
我 いま 見聞(けんもん)し 受持(じゅじ)することを得(え)たり。
願わくは如来の真実義(ぎ)を解(げ)したてまつらん。
〈 意訳 〉(鶴田(つるた)義光(よしみつ)さんの意訳を参考)
この世に人間として生まれた深い意味と尊(とうと)さ に、今 初めて気付くことができました。それは まさに 仏法の教えを聞くためであったのだ と、今 ようやく 仏法に出会えた喜びを素直にいただくことができました。
この どうしようもなく 愚か で 迷い続けるしかない身 は、人間に生まれた この一生涯(いっしょうがい)において、もし 救われることが なかったら、もう二度と救われる機会は ない でしょう。
仏法に ご縁があって、今 ここに集(つど)い合(あ)った皆様、共に仏(ぶつ)・法(ほう)・僧(そう)という この世に おける 三つの最高の宝物を「生きる拠(よ)り所(どころ)」として、人生の真実の意味を謙虚(けんきょ)に尋(たず)ねて まいりましょう。
私は、この愚(おろ)かな身(み) を 真実へ と導き、人間に生まれた意味と尊(とうと)さに目覚めさせてくださった お釈迦様の教えを、生涯 生きる拠(よ)り所(どころ)としていただいて まいります。
ー11ー
そして 迷(まよ)い 悩(なや)める すべての命あるもの の 願い を 我(わ)が願(ねが)い として、真実の大(おお)いなる道である お念仏 を この身に深く味わいながら、この世に生きる 真(まこと)の喜(よろこ)び と 満足 を見出して まいりたい と、願(ねが)わずには いられません。
私は、この世で唯一 真実の道である お念仏を、生涯、生きる拠り所として いただいて まいります。
そして 迷(まよ)い 悩(なや)める すべての命あるもの の 願い を 我(わ)が願(ねが)い として、生涯をかけて お釈迦様の教えに学び、この世の 真実 と 迷い と を 見極める眼(まなこ)をどこまでも 深く 見開(みひら)いて まいりたい と、願わずには いられません。
私は 仏法を通(つう)じて出会った 尊(とうと)い師 と 大切な仲間を、生涯、生きる拠(よ)り所(どころ)として いただいて まいります。
そして 迷(まよ)い 悩(なや)める すべての命あるもの の 願い を 我(わ)が願(ねが)い として、仏法に ご縁があって 今 ここに集(つど)い合(あ)った皆様が、お念仏を通(つう)じて 一つ となって 支え合い、この世の いかなる 苦難(くなん) や 悲しみ をも 乗り越えて、共に明るく 真(まこと)の満足を見出しつつ 人生を歩んで いかれることを、願わずには いられません。
ああ、この世の価値ある どんなもの をも 超えて、計(はか)り知(し)れないほど 深く 素晴らしい仏法の教え に 出会えたこと は、まさに 不思議 としか 言いようが ありません。
私は今、遇(あ)い難(がた)い仏法に出会い、確信をもって この身 に いただくことができました。仏法が説(と)く 人生の真実の意味 を、さらに深く この身に味わってまいりたい と、心から願います。
ー12-