↑ 練習した音源(約28 分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
正信偈の構造(大きく 三つ に 分かれる)
第一段 総讃(そうさん)「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「心の底から阿弥陀仏を敬い、日々の拠り所として生きていきます」という お心の表明
第二段 依経段(えきょうだん)
「弥陀章」法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就
「釈迦章」如来所以興出世~是人名分陀利華
『大無量寿経』に依り、「弥陀章」で 阿弥陀仏の本願を述べ、「釈迦章」で 阿弥陀仏の本願 を 私達に教えてくださった釈尊を讃える
( 結誡(けっかい) )弥陀仏本願念仏~難中之難無過斯
改めて、阿弥陀仏の本願を振り返り、自らを省みて、深い懺悔と、得難い信心を獲た喜び とをもって、「依経段」を結ぶ
第三段 依釈段(えしゃくだん)
( 総讃(そうさん) )印度西天之論家~明如来本誓応機
七高僧が、釈尊の お心 を 明らかにし、阿弥陀仏の本願が 民族や時代の異なりをも超えた「本当の救い」であることを証明している
釈迦如来楞伽山~唯可信斯高僧説
七高僧が教えてくださった本願念仏の要点を掲げ、その徳を讃える
↓
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今日のお言葉
〈 原文 〉
本願名号正定(しょうじょう)業 至心信楽(しんぎょう)願為(に)因
成(じょう)等覚(とうがく)証(しょう)大涅槃 必至滅度(ひっしめつど)願成就
〈 書き下し文 〉
本願の名号は正定(しょうじょう)の業なり。至心信楽(ししんしんぎょう)の願(がん)を因(いん)とす。
等覚(とうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは、必至滅度(ひっしめつど)の願(がん)成就(じょうじゅ)なり。
↓
第二段 依経段「弥陀章」の結びとなる もっとも大切な四句
↓
本願の名号は正定(しょうじょう)の業なり。至心信楽(しんぎょう)の願を因とす。
(本願名号正定業 至心信楽願為因)
〈 言葉の意味 〉
「本願の名号」
↓
「真実を生きる者になれ」という「阿弥陀様の ご本願」が、遠い昔より、私達に働き続けてくださっている
↓
しかし、その「阿弥陀様の ご本願」には、色も形もない
↓
-2-
『唯信鈔文意』より 親鸞聖人著
「仏性」とは、すなわち「阿弥陀如来」である。
阿弥陀如来は、数限りない世界のすみずみにまで満ちわたっておられ、すべての命あるものの「心」にまで なっておられる。
その「命あるもの すべての「心」に宿る阿弥陀如来」を「仏性」と呼ぶのである。
「草や木、山や河や大地が ことごとく成仏する」と『涅槃経』に説かれてあるのは、その「仏性」によって「阿弥陀如来の四十八の願い」を信じることができるからである。
この「仏性」が備わっているから、「お念仏によって、必ず人々を救うという阿弥陀如来 の お誓い」を、私達は信じることができるのである。
だから、信心をいただくことができるのは、「仏様のお働き」である。
「仏様のお働き」とは、「物事のありのままの姿」を教えてくださるものである。
「物事 の ありのままの姿」とは、「真実そのもの」のことである。
「真実」というものは、色もなく、形もない。
だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。
この「真実」の世界から、「阿弥陀如来とお浄土」という お姿 を 示し、法蔵菩薩と名乗られて、思いはかることのできない 大いなる「お念仏によって、必ず人々を救う という お誓い」を、起こされたのである。〈取意〉
↓
いつでも、どこでも称えることのできる名号「南無阿弥陀仏」を通して、私達に「阿弥陀様の ご本願」が、「真実」が届けられる
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「正定(しょうじょう)の業(ごう)」
↓
阿弥陀様によって選ばれた 浄土往生への正しい行い
↓「因とす」→ もとになっている
「至心信楽(しんぎょう)の願」第十八願
私が仏になるとき、すべての人々が、心から私の言葉を信じ、「私の国に生れたい」と、わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
↓
〈 意訳 〉
本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、阿弥陀様によって選ばれた 浄土へ往生するための正しい行いです。
それは、「至心信楽の願」(第十八願)が、もとになって、証明されていることです。
↓ 難しくいうと
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正信偈の前の文章の意訳(平成二十八年四月十日 紹介)
そもそも 誓願の内容には、真実の行信があり、また方便の行信がある。
その 真実の行 を誓われた願は、諸仏称名の願(第十七願)である。
その 真実の信 を誓われた願は、至心信楽の願(第十八願)である。
これがすなわち選択本願の行信である。
この願い を かけられているのは、善・悪、大乗・小乗を問わず、愚かな凡夫として生きる すべての者である。
その者達の往生は、難思議(私達の思いを超えた)往生である。
往生する世界は、真実の本願の世界である。
これは、誓願の不可思議な力によって開かれた唯一の真実の本願の世界であって、『大無量寿経』に説かれた教えの根源、他力真宗の内容である。〈取意〉
↓
選択本願には、
「真実の行」諸仏称名の願(第十七願)、
「真実の信」至心信楽の願(第十八願)がある
↓
「真実の行」諸仏称名の願(第十七願)
私が仏になるとき、すべての世界の数限りない仏方が、皆 私の名をほめたたえるでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
↓
すべての世界の数限りない仏方が、阿弥陀様の名号をほめたたえている。
そのことを通して、私達は「南無阿弥陀仏」をいただくことができる。
↓
「名号」と「念仏」は、同じ言葉
「名号」は、善知識のところ にある。
「善知識の教え」を聴聞して、「南無阿弥陀仏」と 私達が称える。
私達が称える「南無阿弥陀仏」を、「念仏」という。
↓
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『教行信証』信巻
この真実の信心には、必ず 名号を称える というはたらき が そなわっている。しかし、名号を称えていても 必ずしも 他力回向の信心が そなわっているとは限らない。〈取意〉
↓
「名号を称える」ことは、「信心の姿」を表現している
↓
信心は、一人一人違う。
「如来より たまわりたる信心」だから、「みな 同じ」ということではあるが、機の熟している人もあれば、機の未熟な人もいる。
阿弥陀様の本願を、一人ひとりが受け取って、引き受けていく。
そのため、それぞれ 質の違いもあれば、深さの違いもある。
けれど、お念仏「南無阿弥陀仏」は、みんな 同じ。
「みんな、同じ「南無阿弥陀仏」を称えている」というところで、「同朋・同行」として、手をつないでいける世界が開かれてくる。
だからこそ、お念仏は、「真実の行」と いえるのではないか。
↓
「本願の名号は正定の業なり。」
本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、阿弥陀様によって選ばれた 浄土へ往生するための正しい行いです。
(『歎異抄』後序(ごじょ)
ひとつ ことに 痛ましいことがある。
というのは、念仏する について、信心のありよう を 互いに議論したり、人に説き聞かせる時、人の口をふさいで論争に勝とう と するために、まったく親鸞聖人の語られなかったことを、これぞ 聖人のお言葉である と 主張する者がある。
これは、なんとも浅ましく なげかわしいことである。〈取意〉)
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選択(せんじゃく)本願の構造
↓
「選択本願」‐ 阿弥陀仏が法蔵菩薩であられた時、諸仏の立てられた誓いの中から最も優れたものを「四十八の誓願」として選び取られた。
また、四十八願の中でも、特に「第十八願」が、最も大切な願いであることから、「第十八願」を「選択本願」ということもある。
↓
「正信偈の前の文章の意訳」
そもそも 誓願(四十八願)の内容には、真実の行信があり、また方便(人を良い方向に導く手段・方法)の行信がある。
↓
親鸞聖人は、四十八願を「真実五願(十一・十二・十三・十七・十八願)」、「三願真仮(しんけ)(十八願を真実とし、十九・二十願を方便の願とする)」などに分けた 新しい読み解き方をされた
↓
『教行信証』(全六巻)とも 深い関わりがあることが読み取れる。
↓
標挙(ひょうこ)の文(もん)(各巻の始めに、要(かなめ)となる お言葉 が 書かれている)
「教巻(きょうのまき)」大無量寿経 真実の教 浄土真宗
「行巻(ぎょうのまき)」諸仏称名の願(十七願) 浄土真実の行 選択本願の行
「信巻(しんのまき)」至心信楽(しんぎょう)の願(十八願) 正定聚(しょうじょうじゅ)の機(き)
「証巻(しょうのまき)」必至滅度(ひっしめつど)の願(十一願) 難思議往生
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「真仏土巻(しんぶつどのまき)」光明無量の願(十二願) 寿命無量の願(十三願)
「化身土巻(けしんどのまき)」無量寿仏観経(かんぎょう)の意(こころ) 至心発願(ほつがん)の願(十九願) 邪定聚(じゃじょうじゅ)の機 双樹林下(そうじゅりんげ)往生
阿弥陀経の意(こころ)なり 至心回向の願(二十願) 不定聚(ふじょうじゅ)の機 難思往生
真実の法の世界
(摂法身(しょうほっしん)の願‐十二・十三・十七願によって、仏が自らの仏身を完成させる)
第十二願 光明無量の願
私が仏になるとき、私の光明には、限りが無く、数限りない仏方の国々の すべてを照らすでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
第十三願 寿命無量の願
私が仏になるとき、私の寿命には、限りが無く、はかり知れない遠い未来にも 尽きることがないでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
↓
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「正像末和讃一八」
超世(ちょうせ)無上に摂取し 選択(せんじゃく)五劫思惟(しゆい)して 光明・寿命の誓願を 大悲の本(ほん)と したまへり
法蔵菩薩は、五劫という長い間 思惟なさって、諸行を捨て、念仏一行を選び取られて、世に超えた最高の誓願を立てられました。
その中でも、光明無量・寿命無量の願を 阿弥陀如来の大悲の本願の根本となさったのです。
↓
第十七願 諸仏称名の願・諸仏称揚(しょうよう)(ほめたたえる)の願・往相廻向の願・選択称名の願
私が仏になるとき、すべての世界の数限りない仏方が、皆 私の名をほめたたえるでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
↓
「光明無量」は 照らしぬき、「寿命無量」は 摂取して おさめとっていく。
そして、それを勧め称え、みんなに伝えてくれる「諸仏・善知識」を通して、私達に「南無阿弥陀仏」が伝わってくる。
「南無阿弥陀仏」は、諸仏・善知識(よき人)を通して伝わってくる。これを回向という。
「南無阿弥陀仏」が、この私にまで届いたことを、回向成就という。
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衆生の機
(三願転入(てんにゅう)‐親鸞聖人は、自分自身が経験した求道の歩みから、第十九願から第二十願へ、第二十願から第十八願をいただくことができた、と表された)
↓
第十九願 至心発願(ほつがん)の願・修(しゅう)諸(しょ)功徳の願・臨終現前の願
私が仏になるとき、すべての人々が悟りを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心から「私の国に生れたい」と願うであろう。
その人が、命を終えようとする時には、私が多くの聖者たち と 共に、その人の前に現れましょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
↓
「浄土和讃六一」
至心・発願(ほつがん)・欲生(よくしょう)と 十方衆生を方便し 衆善(しゅぜん)の仮門(けもん)ひらきてぞ 現其人前(げんごにんぜん)と願(がん)じける
第十九願には、
「自分の心を真実にして、どのような善を修めてでも、浄土に生まれたいと思え」と、
十方衆生を真実の道に入らせるための 仮(かり)に設(もう)けられた教え を開き、この人々の臨終には、その人の前に来迎すると誓われた。
↓
《 自力雑行の歩み 》
悟りを求める心を起し、自分の力を頼りにして、さまざまな功徳を積み、浄土へ往生しようとする
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第二十願 至心回向の願・植(じき)諸徳本(しょとくほん)の願・不果遂者(ふかすいしゃ)の願
私が仏になるとき、すべての人々が、私の名を聞いて、私の国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心から「私の国に生れたい」と願うなら、その願い を きっと 果(はた)しとげさせましょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
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「浄土和讃六四」
至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し 名号の真門(しんもん)ひらきてぞ 不果遂者(ふかすいしゃ)と願(がん)じける
阿弥陀如来は、第十八願 他力念仏に入れない者のために、第二十願を起こし、
「自力真実心から、称名念仏して 唱えた念仏 を 往生の行 としてふり向け、わが国に生まれたい と 欲(おも)え」と、
自力念仏の道を開き、十方衆生を誘(さそ)い、ついには、「真実報土の往生を遂げさせる」 と お誓いくだされた。
↓
《 自力念仏の歩み 》
悟りを求める心を起し、「自分が唱えた念仏の功徳」によって、浄土へ往生しようとする
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第十八願 念仏往生の願・選択(せんじゃく)本願の願・至心信楽(しんぎょう)の願・往相信心の願
私が仏になるとき、すべての人々が、心から私の言葉を信じ、「私の国に生れたい」と、わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)ったりする者だけは、除かれる。
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《 他力念仏の世界 》
自力の歩み を通して、煩悩具足の身を生きていることを知らされ、開けてくる他力の世界。
「「悟りを求める心」も、阿弥陀様からいただいた心であり、「お念仏」も、「南無阿弥陀仏 が、私の声 と なって出てくださっている」と受け取る。
ただただ 阿弥陀様にお任せして、浄土へ往生させていただく。
↓ 第十二・十三・十七・十八・十九・二十願 全部を含めて
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。
本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、阿弥陀様によって選ばれた 浄土へ往生するための正しい行いです。
それは、「至心信楽の願」(第十八願)が、もとになって、証明されていることです。
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