2 正信偈の説明

↑ 練習した音源(約22分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


正信偈の構造(大きく三つに分かれる)
第一段 総讃(そうさん)「帰命無量寿如来 南無不可思議」
「心の底から阿弥陀仏を敬い、日々の拠り所として生きていきます」というお心の表明

第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章」法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就
第二段 依経段「釈迦章」如来所以興出世~難中之難無過斯
『大無量寿経』に依り、「弥陀章」で 阿弥陀仏の本願を述べ、「釈迦章」で 阿弥陀仏の本願を私たちに教えてくださった釈尊を讃える

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第十八願 至心信楽の願成就の文
阿弥陀様は、心を尽くして、生きとし生けるものに、「真実」を伝えようとしてくださっている。
その阿弥陀様のご苦労は、「南無阿弥陀仏の由来」を伝えることを通して、実現されていく。
そうして、生きとし生けるものが、諸仏・善知識(よき人)を通して、「南無阿弥陀仏の由来」を聞き、「すべての出来事は、お念仏の中で起こっている」ということを知らされ、信心を得て、歓喜(よろこび)にあふれることになる。
そして、その人が「私も阿弥陀様のおられるお浄土に生まれたい」と願えば、阿弥陀様の不可思議なお力によって、たちどころに 心がお浄土に往生し、命終われば、必ず お浄土に生まれて、仏に成ることができる。
ただし、重い罪を犯したり、仏法を謗るという悪をはたらいたりした者は除かれる、

ー1ー


第三段 依釈段(えしゃくだん)「印度西天之論家~唯可信斯高僧説」
七高僧が教えてくださった本願念仏の要点を掲げ、その徳を讃える

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第十七願 諸仏称名の願成就の文
ガンジス河の砂の数ほどおられる あらゆる世界の諸仏如来は、みな共に無量寿仏のおごそかで はかりしれない功徳の不可思議さを讃(ほめ)め嘆(たた)えておられる。

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正信偈は、「称名(第十七願)信楽(第十八願)の悲願成就の文」の歌であり、『教行信証』の中心となる大切なお言葉

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ー2ー


『教行信証』の構造(正信偈が中心にある)
教巻(きょうのまき) 
 「形なき真実の心」が「阿弥陀如来の願い」と「南無阿弥陀仏」によって、「具体的な形」が与えられていることを説く
行巻(ぎょうのまき) 
 南無阿弥陀仏を称えることが、浄土に往生する正しい行であることをあかす
 正信偈
 「南無阿弥陀仏が、この世の中に生まれてくる土台となる出来事」と「その歴史」に感謝をして、合掌をしている

↓ 親鸞聖人の体験を通して語られる「お念仏の教え」

信巻(しんのまき) 
 南無阿弥陀仏を称えるものこそ、必ず浄土に往生することをあかす
証巻(しょうのまき) 
 浄土に往生すれば、必ず 仏に成ることをあかす
真仏土巻(しんぶつどのまき) 
 どこまでも「衆生を救いたい」という阿弥陀様の慈悲が無量寿となり、無量光(智慧)によって私達を救ってくださることをあかす
化身土巻(けしんどのまき) 
 信巻(しんのまき)で説かれたところから外れて、真実の浄土に往生できない者をあかす

ー3ー


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蓮如上人は、そのような「正信偈」と、「和訳の教行信証」といわれる「和讃」に、当時の流行歌で節をつけ、「真宗門徒の朝夕のお勤め」とされた。
 
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『蓮如上人御一代記聞書』第三十一条
「朝夕に正信偈和讃をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」
と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。
これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とは ならないと思う」というものもありましたが、上人は、
「どちらの答えもよくない。衆生が弥陀如来を信じておまかせして、
 その信心一つで救われる道理を、親鸞聖人がお示しになられたものが『正信偈』であり、『和讃』である。
 だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、尊いことだ と 親鸞聖人の御影像の前で喜ぶ、その営みが朝夕の勤行なのである。」
と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

 ↓

蓮如上人は すごいお方であった!

ー4ー


帰命無量寿如来
「帰」‐立ち帰る → 元の状態に戻る
「命」‐本来の命の姿
 ↓
「帰命」‐本来の命の姿に戻る

「無量寿」‐永遠の命
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「無常の身」を抱えている私達の命は、永遠ではない。
しかし、「つながりあう命」の中に、私は 生かされている。
その「つながりあう命」は「永遠の命」と呼べるのではないか。

「如」‐私達が、そこから生まれ、それに支えられて生きて、やがて、そこへ帰っていく、という「命の源」
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「お浄土」として表現されている
 ↓
「如来」‐その「如」を 失っている人間に、「如」を知らせるために、来た
 
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「命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様」のお導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。」

ー5ー


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命の源を知らせる(如来)
 私達の人生は、
「お父さんとお母さんから命をいただいて、いろいろな方々にお育ていただいて、結婚をし、子供を授かり、命を次につないで、命 終えていく」
という 長くて百年くらいの人生なのですが、
「地球に生命が誕生して四十億年」という「命の世界」からみれば、私達は、何らかの意味を持って、無数につながり合う命の中から、進化を繰り返し、「言葉を話し、感情を表現することができる人間」として、この世に生を受けている。
 浄土真宗では、「すべての命の故郷」を「お浄土」といただき、お浄土を「安心して帰っていける場所」としていただいている。
また、阿弥陀様から「いのち、みな 生きらるべし」という「命の願い」をいただき、「私達が、この世の中に、生まれてきた意味」を問いかけられている。

「つながりあう命」を生きる者になる(お念仏)
「私にまで 手渡し で 伝えらえてきたお念仏」から、これまで お念仏を称えてきた「無数の念仏者の人生」を感じさせていただき、私自身もまた、「お念仏」を なんとか「次の方々へ」と伝えさせていただくことを通して、「無数の念仏者の歴史」の中に加わっていき、「つながりあう命」であることを見出していく。

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帰命 無量寿如来(慈悲)
「命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様」のお導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。

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