↑ 練習した音源(約32分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
《 天親章 》
『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より
《 天親(てんじん)菩薩(七高僧 第二祖(そ)) 》
天親(てんじん)菩薩は、龍樹菩薩が お亡くなりになられてから約百五十年後に、北インドに誕生された。(生年(せいねん) 西暦三九五年頃 ~ 没年(ぼつねん) 四八〇年頃)
お釈迦様が お亡くなりになられてから約九百年が経っていた天親菩薩の時代は、仏教が大きく二つの部派(ぶは)に分かれていた。
・「上座部(じょうざぶ)仏教(小乗仏教)」‐煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地を目指す教え。
・「大乗仏教」‐多くの人が、誰もが、迷いの無くなった状態に導いて行ける教え。
そして さらに分裂が進んでいって、いくつもの部派(ぶは)が林立(りんりつ)(林のように、たくさん並び立つ)し、それぞれの部派(ぶは)では、「お釈迦様の教え」を誤(あやま)りなく、正しく伝承するために、「教えの緻密(ちみつ)な理論化」が進められていた。
天親(てんじん)菩薩は、若くして伝統のある上座部(じょうざぶ)仏教に出家をし、その天才的な記憶力・理解力によって、学問を究(きわ)め尽(つく)し、「千部(せんぶ)の論師(ろんし)」と呼ばれるほど 厳密(げんみつ)な教学の書物 を 数多く書き記し、その部派(ぶは)を代表する学僧(がくそう)となられていた。
そうしたところ、天親(てんじん)菩薩の兄の無著(むじゃく)に、「お釈迦様が、私達に本当に伝えたかった 教え は、大乗仏教である!」と、厳(きび)しく批判され、説得をされて、兄の無著(むじゃく)から大乗仏教を学ぶようになっていった。
しかし、天親(てんじん)菩薩にとって、これまでの上座部(じょうざぶ)仏教(煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地を目指し、学問・修行を通して 悟りへ と 近づいて行く教え)とは全(まった)く違う、大乗仏教(どのような者であっても、誰もが救われていく教え)は、どれほど深く学問を積(つ)んでいっても理解することができずに、大きな壁にぶつかるように、自分の力の限界を感じ、苦悩の日々が続いていった。
-1-
そのような中で、天親菩薩は、『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』に出遇(であ)われた。
これまでは
「自分の心を正しくしていくことによって、悟りへ と 近づいていくのが大乗仏教だ」と、思い込んでいたが、そうではなく、「阿弥陀様の願いの中に素直に身をゆだねて、阿弥陀様に救われて お浄土で悟りを開(ひら)く、それこそが、お釈迦様が本当に私達に伝えたかった大乗仏教であった!」
と、気づかれた。
そして天親菩薩は、
「『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』の教えを、自分が どのように受け止めたのか」を表(あらわ)された『浄土論(ろん)』を まとめられた。
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『 浄土論 』
始めに、天親菩薩の「阿弥陀様 の お浄土 に生まれたい」と願う心 や「お浄土や阿弥陀様・聖者達の姿(すがた)」が「偈(うた)」として述べられ、その後に「長行(じょうごう)」という その「偈(うた)」の意味を解説しているお言葉がある。
(「論(ろん)」という言葉は、「難しい理論が述べられている」と感じてしまうが、天親(てんじん)菩薩の「お浄土へ生まれたい」という お気持ちを表された「論(ろん)(意味や解説)」)
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《 天親章(しょう) 》に出てくる正信偈 の お言葉 は、すべて『浄土論(ろん)』の お言葉に依(よ)る。
また、次の《 曇鸞(どんらん)章(しょう) 》の お言葉 も、曇鸞大師(どんらんだいし)が『浄土論』を注釈(ちゅうしゃく)された『浄土論註(じょうどろんちゅう)』の お言葉 が中心となってくる。
親鸞聖人の「お名前」(諸説(しょせつ)ある)は、一二二四年 五十二歳の時に、関東において『教行信証』の草稿本(そうこうぼん)が完成した時に、「天(てん)親(じん)菩薩」と「曇(どん)鸞(らん)大(だい)師(し)」の一字ずつ を いただかれた「親鸞(しんらん)」を、「自分の名前」と されている。
それほど、親鸞聖人の人生の中で、天親(てんじん)菩薩が書き記してくださった『浄土論(ろん)』との出会い が、大きな意味を持っていた。
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『 浄土論 』意訳(偈(うた)だけ)
世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に 十方世界に行(ゆ)き渡(わた)って自在(じざい)に救(すく)ってくださる阿弥陀如来を
信じて安楽国(あんらくこく)に生まれることを願う。
私は、修多羅(しゅたら)(ここでは『仏説無量寿経』)を依(よ)り処(どころ)とし、そこに示されてある真実功徳の法(ほう)に帰依(きえ)して、この 願生(がんしょう)の偈(うた)(浄土へ生まれたい という願い込めた偈(うた))を説(と)いて、仏(ぶつ)の教(おし)え と 相応(そうおう)しよう。
(相応(そうおう)とは、例えば 函(はこ)と蓋(ふた)とが ぴったり合(あ)うようなものである(『浄土論註(ろんちゅう)』))
〈 浄土について 〉
・彼(か)の世界の ありさま を観(かん)ずるに、この娑婆(しゃば)の因果(いんが)に超(こ)え勝(すぐ)れている。
・なにものにも さえぎられない ことは、空のごとく、広大であって、境界線(きょうかいせん)のようなもの は 無い。
・「平等に、すべての者が往生できる大道(だいどう)」に かなった智慧と慈悲、この「迷いの世間」を越(こ)え出た「煩悩の穢(けが)れのない善」によって成就されている。
・清(きよ)らかな光明 を そなえている ことは、鏡や太陽や また月のようである。
・「平等に、すべての者が往生できる大道(だいどう)」に かなった あらゆる宝からできていて、すぐれた荘厳(かざり)を具(そな)えている。
・煩悩の垢(けが)れの無い光が、浄土の すべての飾(かざ)り に曜(かがや)いている。
・いろいろな宝よりできている浄土の荘厳(しょうごん)功徳 は、柔(やわ)らかで、自由にめぐっている。
これに触(ふ)れる者は、浄(きよ)らかな楽しみ を生(しょう)じる。
・さまざまな宝の華(はな)が、池 や 流れ に 咲(さ)き乱(みだ)れて、そよ風 は 花びら を ゆるがせ、光が乱(みだ)れ交(まじ)わって、キラキラと輝(かがや)いている。
・りっぱな建物があり、そこでは十方の世界を眺(なが)め、さえぎられることがない。
-3-
・いろいろな宝(たから)の樹(き) に、それぞれ異(こと)なった光 がある。
・宝の欄干(らんかん) が 広く めぐらされてある。
・多くの宝から できている網(あみ) が あまねく空を覆(おお)っている。
・さまざまな鈴(すず)が、声をたてて、妙(たえ)なる法(ほう)を説いている。
・時に応じて清浄(しょうじょう)なる華(はな)や衣(ころも)を雨ふらせ、あまねく妙(たえ)なる香りがする。
・如来の智慧(さとり)より現れている国土(こくど)の光明は、衆生の煩悩の闇を除く。
・清浄(しょうじょう)なる「浄土」の名 は、遠く十方世界に響(ひび)いて、人々を悟らせる。
・正しく覚(さと)られた阿弥陀法王(ほうおう)によって、浄土は、よく治(おさ)め、持(たも)たれている。
・浄土の聖者(せいじゃ)達は、阿弥陀如来の正しい覚(さと)りによって現れた華(はな)の中より生まれる。
・仏法(ぶっぽう)の味(あじ) の 楽しみ を受け、心が安定した状態に入ること を食(しょく)とする。
・永久(えいきゅう)に 身の苦しみ 心の悩み を 離れて、楽しみ を 受けることは、常に絶間(たえま)がない。
・大乗(だいじょう)(どのような者であっても救われていく教え)の善根(ぜんこん)によって成就された如来の世界は、平等で、海が 一つの味 に なるように、成仏できない者は無く、嫌(いや)な譏(そし)りの言葉も無い。
・衆生が求める すべての願い は、よく満足せしめられる。
こういうわけであるから、私は、阿弥陀如来の浄土に生まれることを願う。
〈 阿弥陀様 と 浄土の聖者(せいじゃ)達 について 〉
・はかり知られぬ宝で飾られてある 何とも言えず素晴らしい清浄(しょうじょう)な蓮華(れんげ)でできた台座(だいざ) を、阿弥陀様の座(ざ) とする。
・阿弥陀様の後光(ごこう)の直径は、両手を広げられたほどの大きさ があり、その お相(すがた)は、あらゆる者に超えている。
・阿弥陀様の妙(たえ)なる名号(みこえ)は、十方世界に響(ひび)きわたる。
・阿弥陀様 の お心 は、地(ち)・水(みず)・火(ひ)・風(かぜ)や空(そら)と同じく、平等であって分別(ふんべつ)がない。
-4-
・浄土の聖者(せいじゃ)達は、大乗(だいじょう)の悟(さと)りを開(ひら)かれている。
それは、阿弥陀様の清浄(しょうじょう)なる智慧より生(しょう)じるのである。
・阿弥陀様は、須弥山(しゅみせん)(古代インドの世界観で、世界の中心に そびえ立つ巨大(きょだい)な山)の如(ごと)く すぐれて、これに超えるものがない。天人(てんにん)や菩薩などの浄土の聖者達(せいじゃたち)は、みな 阿弥陀様を尊敬し、仰(あお)ぎ見る。
・阿弥陀様の本願の お力 に 出会って、空(むな)しく過(す)ぎる者(もの)は無(な)く、よく 速(すみ)やかに、海のごとく大きな功徳 を 満足させてくださる。
〈 浄土の聖者達(せいじゃたち)について 〉
・安楽国(あんらくこく)には、浄(きよ)らかな如来の説法があり、浄土の聖者達も また、十方(じっぽう)に現(あらわ)れ、休みなく、清らかな法(ほう)を説いている。
・太陽が 天上にあって 光が地上を遍(あまね)く照らすように、浄土の聖者達は、浄土を動かずとも、さまざまな姿となって現れて、また 須弥山(しゅみせん)のように不動(ふどう)である。
・浄土の聖者達は、さまざまな姿となって現れて、一念(ひとおもい) 一時(ひととき)に、あまねく十方の世界に往(い)って、諸仏を供養(くよう)し、また あらゆる衆生を利益(りやく)する。
・清浄(しょうじょう)なる音楽・華(はな)・衣服(いふく)・妙(たえ)なる香(かお)り など によって、十方諸仏を讃嘆(さんだん)し 供養することに、分(わ)け へだて の 心 が無い。
・仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)の無(な)い いずれの世界にも、菩薩は往(い)って、仏法を示すこと 仏(ぶつ)のようにしたい と願う。
私は、この「願生(がんしょう)の偈(うた)(浄土へ生まれたい という願い込めた偈(うた))」を作って、あらゆる衆生と共に、阿弥陀如来を信じて、安楽国に往生しよう。
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正信偈《 天親章 》の構造
『浄土論(ろん)』
世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に 十方世界に行(ゆ)き渡(わた)って自在(じざい)に救(すく)ってくださる阿弥陀如来を
信じて安楽国(あんらくこく)に生まれることを願う。
↓
『正信偈』
天親菩薩造(ぞう)論(ろん)説(せつ) 帰命(きみょう)無碍光如来(むげこうにょらい)
〈 書き下し文 〉
天親菩薩、論(ろん)を造(つく)りて説(と)かく、無碍光如来(むげこうにょらい)に帰命(きみょう)したてまつる。(令和元年六月十日に見終わりました)
広(こう)由(ゆ)本願力(ほんがんりき)回向 為(い)度(ど)群生(ぐんじょう)彰(しょう)一心(いっしん)
〈 書き下し文 〉
広く本願力の回向に由(よ)って、群生(ぐんじょう)を度(ど)せんがために、一心を彰(あらわ)す。(令和元年九月十日に見終わりました)
『浄土論』
私は、修多羅(しゅたら)を依(よ)り処(どころ)とし、そこに示されてある真実功徳の法(ほう)に帰依(きえ)して、この願生(がんしょう)の偈(うた)を説(と)いて、仏(ぶつ)の教(おし)え と 相応(そうおう)しよう。
↓
『正信偈』
依(え)修多羅(しゅたら)顕(けん)真実 光闡(こうせん)横超(おうちょう)大誓願(だいせいがん)
〈 書き下し文 〉
修多羅(しゅたら)に依(よ)って真実を顕(あらわ)して、横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)を光闡(こうせん)す。(令和元年七月十日に見終わりました)
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『浄土論』
始めの二行目「安楽国に生まれることを願う。」から
最後から三行目「仏法を示すこと 仏のようにしたい と願う。」まで
↓
『正信偈』
帰入(きにゅう)功徳大宝海(だいほうかい) 必(ひつ)獲(ぎゃく)入(にゅう)大会衆(だいえしゅ)数(しゅ)
〈 書き下し文 〉
功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。(今日 見たいと思っています)
得(とく)至(し)蓮華蔵世界(れんげぞうせかい) 即(そく)証(しょう)真如法性(しんにょほっしょう)身(しん)
〈 書き下し文 〉
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に至(いた)ることを得(う)れば、すなわち真如法性(しんにょほっしょう)の身(しん)を証(しょう)せしむ と。(四月に見たいと思っています)
『浄土論』
私は、この「願生(がんしょう)の偈(うた)」を作って、あらゆる衆生と共に、阿弥陀如来を信じて、安楽国に往生しよう。
↓
『正信偈』
遊(ゆ)煩悩林(りん)現(げん)神通(じんづう) 入(にゅう)生死(しょうじ)園(おん)示(じ)応化(おうげ)
〈 書き下し文 〉
煩悩の林(はやし)に遊(あそ)びて神通(じんづう)を現(げん)じ、生死(しょうじ)の園(その)に入(い)りて応化(おうげ)を示す、といえり。(六月に見たいと思っています)
-7-
今日のお言葉
〈 原文 〉
帰入(きにゅう)功徳大宝海(だいほうかい) 必(ひつ)獲(ぎゃく)入(にゅう)大会衆(だいえしゅ)数(しゅ)
〈 書き下し文 〉
功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。
〈 言葉の意味 〉
「功徳」
善(よ)い行(おこな)い を 原因として生(しょう)じる 善い結果 の こと。
一般には、自分が「善い原因」を作り、それによって生(しょう)じる「善い結果」を自分が受け取る と 考えられている。
しかし、「本願他力の教え」では、「あなたを何としてでも救いたい」という阿弥陀様の願い が「善い原因」となり
それによって生じる「善い結果(功徳)」は、阿弥陀様が受け取られるのではなく、「南無阿弥陀仏」という名号 を通して、私達 がいただいている。
↓
『 浄土論 』
始めに、天親菩薩の「阿弥陀様 の お浄土 に生まれたい」と願う心 や「お浄土や阿弥陀様・聖者達の姿(すがた)」が「偈(うた)」として述べられ、その後に「長行(じょうごう)」という その「偈(うた)」の意味を解説している お言葉 がある。
その「長行(じょうごう)」に、法蔵菩薩の五つの修行が成就した結果として、「お浄土や阿弥陀様・聖者達の姿(すがた)」が現れ出たことが述べられている。
↓
-8-
「五念門(ごねんもん)の行(ぎょう)」
阿弥陀様になられる前 法蔵菩薩であられた時、
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉が 五つ あり、
〈 はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ) 〉されて、
「阿弥陀如来と成(な)られ、お浄土が現れる」という「善い結果(功徳)」が生まれた。
↓
「五功徳門(ごくどくもん)」
「阿弥陀如来と成(な)られ、お浄土が現れる」という「善い結果(功徳)」は、
「南無阿弥陀仏という名号」を通して、
五つの〈 衆生に与えられている功徳 〉となる。
(「お念仏 を通して 本願に目覚めたならば、五つの功徳の中に入って行く」
ので「門(もん)(出入り口)」と表現されている)
↓
-9-
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
一、
「礼拝門(らいはいもん)」‐身業(しんごう)(体による行い)で礼拝(らいはい)(敬い、手を合わせる)をされた。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「近門(きんもん)」‐阿弥陀様を礼拝(らいはい)することで、「この私を照らし、育て、豊かな人生に導いてくださる『浄土(真実)』」が、近くなり、私に働きかけてくださる。
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
二、
「讃嘆門(さんだんもん)」‐口業(くごう)(口で言うこと)で讃嘆(さんだん)(心が深く動かされ ほめたたえる)を された。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「大会衆門(だいえしゅもん)」‐阿弥陀様を讃嘆(さんだん)することによって、お浄土で 阿弥陀様の説法を聞く会座(えざ)(集まり)に つらなる大衆(たいしゅう)(大会衆(だいえしゅ))の数(仲間)に入る。
↓ 二「大会衆門(だいえしゅもん)」が、一「近門(きんもん)」を含(ふく)んで
「正信偈」
必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。(今日 見たいと思っています)
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〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
三、
「作願門(さがんもん)」‐意業(いごう)(心に思うこと)で常(つね)に願(ねが)われた。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「宅門(たくもん)」‐一心に 念仏して「お浄土(蓮華蔵(れんげぞう)世界)に生まれたい」と願うことで、お浄土に生(うま)れて「思(おも)いを止(とど)め 心(こころ)を静(しず)める行(ぎょう)」に入る。
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
四、
「観察門(かんざつもん)」‐智慧の眼(まなこ)によって観察(かんさつ)なさった。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「屋門(おくもん)」‐「正しい思いで浄土を観察し、ありのままに その姿を想い描く行(ぎょう)」を修めることによって、浄土に往生して さまざまな法(ほう)の味わい を楽しむ。
↓ 三「宅門(たくもん)」が、四「屋門(おくもん)」を含んで
「正信偈」
蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に至(いた)ることを得(う)れば、すなわち真如法性(しんにょほっしょう)の身(しん)を証(しょう)せしむ と。(四月に見たいと思っています)
↑ 一から四まで が「往相(おうそう)回向‐お浄土に往生して、阿弥陀様の仲間になる」
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お浄土に往生し、阿弥陀様に助けられた者が、今度は、その恩徳(おんどく)に報(むく)いるために、助けてくださった阿弥陀様 の お仕事・事業(じぎょう) に参加していく(還相(げんそう)回向)。
↓
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
五、
「回向門(えこうもん)」‐回向を本(ほん)として功徳を与えようと願われた。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「園林遊戯地門(おんりんゆうげじもん)」‐浄土に生(うま)れた者は、そのまま速(すみ)やかに 自利(じり)の智慧 と利他(りた)の慈悲 とを成就し、「煩悩に満ちた 迷いの世界」に還(かえ)ってきて、さまざまな姿を現(あらわ)し、神通力(じんずうりき)を具(そな)え、思いのままに衆生を仏道に導(みちび)く。
↓
「正信偈」
煩悩の林(はやし)に遊(あそ)びて神通(じんづう)を現(げん)じ、生死(しょうじ)の園(その)に入(い)りて応化(おうげ)を示す、といえり。(六月に見たいと思っています)
↓ 五つ全体の功徳
今日のお言葉
「正信偈」
功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、
〈 言葉の意味 〉
「功徳大宝海(だいほうかい)」
阿弥陀様から与えられている「この上ない 偉大な宝物のような功徳」が、お念仏を称(とな)える私達の身に満ちあふれていることを、水があふれるばかりにある海 に例えている。
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「帰入(きにゅう)」
「帰依(きえ)(最も大切にするべきものを心から敬い、まかせきって、最後の依り所とする)」と「回入(えにゅう)(自力の計(はか)らい から 心を回(まわ)らせて、本願という他力に心身(しんしん)をゆだねる)」とを 一つにした言葉。
↓
私達が お念仏をいただけば、法蔵菩薩の修行によって成就された五つの功徳の全体が、私達の上に働いてくる(功徳大宝海(だいほうかい))。
このことを天親菩薩は『浄土論』で明らかにし、その功徳を たたえて 喜んでおられる。
↓
「正信偈」
必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。
↑ 二の「大会衆門(だいえしゅもん)」が、一の「近門(きんもん)」を含(ふく)んで、記(しる)されている お言葉
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
一、
「礼拝門(らいはいもん)」‐身業(しんごう)(体による行い)で礼拝(らいはい)(敬い、手を合わせる)をされた。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「近門(きんもん)」‐阿弥陀様を礼拝(らいはい)することで、「この私を照らし、育て、豊かな人生に導いてくださる『浄土(真実)』」が、近くなり、私に働きかけてくださる。
↓
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愚痴ばかりを言っていた人が、恨(うら)み言(ごと)ばかりを言っていた人が、愚痴を言いながらも、「あっ 愚痴を言っているなー」と気が付く。「自分が迷ってしまっている」ということに気が付かなかった人が、迷いながらも、
「あっ 私は ちょっと混乱して、訳が分からなくなっているなー」と気が付いてくる。
「浄土の功徳」が、その人に働いてきて、愚痴をこぼしたり、人を恨んだり腹を立てたりしている その中で、「愚痴を言っている・・」「考えなくてもいいことを考えているな・・」と気が付いてくる。
「迷い」が「迷いだ」と思えた所だけが天井に穴が開いたように光が差し、明るくなる。そこで、少し ホッして、胸を撫(な)で下(お)ろすことができる。
迷っている自分に気が付く、それが 私達の救い になる。
(浄土の無い人は、「自分を正当化しよう」という苦しみの中で、迷っていることに気が付けない。思い返して反省をすることもできない。)
↓ このことを含(ふく)んで
〈 善い原因となった法蔵菩薩の修行 〉
二、
「讃嘆門(さんだんもん)」‐口業(くごう)(口で言うこと)で讃嘆(さんだん)(心が深く動かされ ほめたたえる)を された。
↓ はかり知ることのできない長い時をかけて成就(じょうじゅ)
〈 衆生に与えられている功徳 〉
「大会衆門(だいえしゅもん)」‐阿弥陀様を讃嘆(さんだん)することによって、お浄土で 阿弥陀様の説法を聞く会座(えざ)(集まり)に つらなる大衆(たいしゅう)(大会衆(だいえしゅ))の数(仲間)に入る。
↓
-14-
私達が「南無阿弥陀仏」を依(よ)り所(どころ)にするならば、「今、この身のまま」に、「法蔵菩薩であられた時の修行の功徳」が、私達に与えられて、すでに浄土に往生して阿弥陀様の説法を聴聞(ちょうもん)している人々の仲間に必ず 入ることができる。それは、「今、この身のまま で、功徳の名号によって往生が確定する」ということ。
↓
「浄土に往生する」ことを「往相(おうそう)」という。
「浄土に往生する」ということは、「私が阿弥陀様の説法を聞く集まりに加わった」ということに目覚めていく、自覚していくということでもある。
↓
「浄土の徳」が、ここでは「人間関係」という形(かたち)で示(しめ)されている。
人間は、それぞれが経験してきたことに応(おう)じて、いろいろな違い を持っていて、なかなか 一つ には なれない。
気の短い人も いれば、気の長い人も いる。気の大きい人も いれば、気の小さい人も いる。非常に感覚が鋭い人も いれば、鈍感な人も いる。
境遇も 趣味も 考え方も 体も、なにもかもが違う。
「そういう違いを超えて、利害(りがい)を超えて、本当に一つに結ばれる」ということは、信心の世界 以外には無い。
「人間を本当の意味で平等にするのは、信仰の世界 以外には無いんだ!」ということが ここでいわれている。
(「当たらず障(さわ)らず」というのが、人間 の お付き合い)
↓
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だから、私達が信心をいただいた時に、初めて、どんな人 とでも 一つ になれることができる。
私達が念仏をいただくところに、計(はか)らずも「友(とも)」が与(あた)えられてくる。
友(とも)というのは探して得(え)られるものではない。
友(とも)は作(つく)るのではない、友(とも)は与(あた)えられてくるもの。
(それは、決して 都合のいい友(とも) ではない。)
↓
それが非常にありがたいことだ と、ここでは たたえられている。
お念仏をいただくことによって、私達は 孤独から離れることができる。
人間は、にぎやかに暮らしているようだけれども、なにか一つ事(こと)が起(お)これば、独(ひと)りぼっち になってしまう。
お念仏をいただく所に、どういう状態になっても離(はな)れずに、一緒に歩んで行ける 阿弥陀様を中心にして生きる仲間 が与えられる。
まとめ
今日のお言葉
〈 原文 〉
帰入(きにゅう)功徳大宝海(だいほうかい) 必(ひつ)獲(ぎゃく)入(にゅう)大会衆(だいえしゅ)数(しゅ)
〈 書き下し文 〉
功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。
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〈 意訳 〉
私達が阿弥陀様に帰依(きえ)(心から敬(うやま)い、まかせきって、最後の依り所とする)」し、「回入(えにゅう)(自力の計(はか)らい から 心を回(まわ)らせて、本願という他力に心身(しんしん)をゆだねる)」し、お念仏を いただけば、
阿弥陀様が法蔵菩薩であられた時に はかり知ることのできない長い時をかけた修行によって成就された「この上ない 偉大な宝物のような功徳」が、私達の身に満ちあふれることになる。
・阿弥陀様を礼拝(らいはい)(敬(うやま)い、手を合わせる)することで、「この私を照らし、育て、豊かな人生に導いてくださる『浄土(真実)』」が、近くなり、私に働きかけてくださる。
・阿弥陀様を讃嘆(さんだん)(心が深く動かされ ほめたたえる)することで、お浄土で阿弥陀様の説法を聞く会座(えざ)(集まり)につらなる大衆(たいしゅう)(大会衆(だいえしゅ))の数(仲間)に入り、「今、この身のまま」で、お浄土への往生 が 確定する。
そして、いろいろな違いを超えた、利害を超えた、「本当の友」が与えられ、孤独から離れることができる。
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