- 浄土とは人生のゆくえ、往生とは その人生の歩み、本願とは その方向を誤ること なからしめるもの
⦅金子大栄⦆
NO211 2017年1月号「教願寺だより こころの通信」です - 弥陀の本願は、誰もが迷わない易行の大道、念佛往生の大道を一切衆生のために開顕してくだされたのであります。
⦅曽我量深⦆
NO211 2016年12月号「教願寺だより こころの通信」です - 限られた見える世界がすべて では ない。その奥に見えない永遠・無限の世界が つらなっている。
⦅金治 勇⦆
NO211 2016年11月号「教願寺だより こころの通信」です - ここ娑婆世界に生まれて 仏に遇わねば 哀れや人は はかない夢を 追いつづけるか。
⦅浅田 正作⦆
NO211 2016年10月号「教願寺だより こころの通信」です - 念仏生活というのは、娑婆にありながら阿弥陀の浄土を願生させてもらっているということでしょう。
⦅松原 祐善⦆
NO211 2016年9月号「教願寺だより こころの通信」です - 法をときてきかすひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。
⦅存覚⦆
NO211 2016年8月号「教願寺だより こころの通信」です - 生死を離れるとは、生と死を二つに見分けて、生に執着し、死を恐れるという心を離れるということなのです。
⦅宮城 顗⦆
NO211 2016年7月号「教願寺だより こころの通信」です - 私はこの病気(結核)になったのが、非常な良縁であったので、もしこの病気にならなかったならば、これ程まで に宗教の真髄を味わい、これ程までに如来の光明を 認むることができなかったかも知れないのであります。
⦅清沢 満之⦆
NO211 2016年6月号「教願寺だより こころの通信」です - 貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。
⦅ホセ・ムヒカ⦆
NO211 2016年5月号「教願寺だより こころの通信」です - この旅は自然へ帰る旅である 帰るところのある旅だから 楽しくなくてはならないのだ もうじき土に戻れるのだ。
⦅高見順⦆
NO211 2016年4月号「教願寺だより こころの通信」です - 合掌礼拝には合掌礼拝の言葉がある。それが南無阿弥陀仏です。
⦅正親含英⦆
NO211 2016年3月号「教願寺だより こころの通信」です - 宿業の内に我等は如来に会ひ、また宿業を通して仏は衆生に来る。
⦅曽我量深⦆
NO211 2016年2月号「教願寺だより こころの通信」です - 本願の不思議は念仏しない者には信ずることができない。
⦅金子大榮⦆
NO211 2016年1月号「教願寺だより こころの通信」です - ただ、仏法は聴聞にきわまることなり。
『蓮如上人御一代記聞書193条』
NO211 2015年12月号「教願寺だより こころの通信」です - 心にうれしきことは、その儘なるものなり。寒なれば寒、熱なれば熱と。
『蓮如上人御一代記聞書203条』
NO210 2015年11月号「教願寺だより こころの通信」です - 仏法は知りそうもなきひとが知るぞ。
『蓮如上人御一代記聞書167条』
NO209 2015年10月号「教願寺だより こころの通信」です - 聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくば、いたずらごとなり。
『蓮如上人御一代記聞書11条』
NO208 2015年9月号「教願寺だより こころの通信」です - 信なければ我になりて、詞もあらく、諍いも必ず出来するなり。
『蓮如上人御一代記聞書293条』
NO207 2015年8月号「教願寺だより こころの通信」です - 信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり。
『蓮如上人御一代記聞書180条』
NO206 2015年7月号「教願寺だより こころの通信」です - 仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめ。
『蓮如上人御一代記聞書54条』
NO205 2015年6月号「教願寺だより こころの通信」です - 往生は、一人一人のしのぎなり。一人一人に仏法を信じて後生をたすかることなり。
『蓮如上人御一代記聞書172条』
NO204 2015年5月号「教願寺だより こころの通信」です - 聖教よみの聖教よまずあり。聖教読まずの聖教よみあり。
『蓮如上人御一代記聞書95条』
NO203 2015年4月号「教願寺だより こころの通信」です - 「極楽はたのしむ」と聞きて「参らん」と願い望む人は仏にならず。
『蓮如上人御一代記聞書123条』
NO202 2015年3月号「教願寺だより こころの通信」です - 一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。
『蓮如上人御一代記聞書137条』
NO201 2015年2月号「教願寺だより こころの通信」です - つみけしてたすけたまはんとも、つみけさずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからいなり。
『蓮如上人御一代記聞書38条』
NO200 2015年1月号「教願寺だより こころの通信」です - 浄土真宗は、悟る仏も迷う衆生も相互に南無阿弥陀仏と念ずる。
⦅曽我量深⦆
NO199 2014年12月号「教願寺だより こころの通信」です - 本願の道理を知るものは、信心であって知識ではない無い。
⦅金子大榮⦆
NO198 2014年11月号「教願寺だより こころの通信」です - 我々は貧乏で苦しむというが、そうでなくて自己自身を苦しむ。
⦅安田理深⦆
NO197 2014年10月号「教願寺だより こころの通信」です - 娑婆世界におって助けられていくのを往生と いいます。
⦅曽我量深⦆
NO196 2014年9月号「教願寺だより こころの通信」です - 生老病死に逼悩せられ、愚痴の心は冥から冥へ、苦悩より苦悩へと迷い趣きます。
⦅正親含英⦆
NO195 2014年8月号「教願寺だより こころの通信」です - 生死甚だ厭いがたく、仏法また欣いがたし
⦅善導大師⦆
NO194 2014年7月号「教願寺だより こころの通信」です - われわれが考えねばならないのは「死」一般についてのことではなく「私の死」ではないだろうか。
⦅河合隼雄⦆
NO193 2014年6月号「教願寺だより こころの通信」です - 南無阿弥陀仏というのは、仏様の本願によって成就なされたところのつまり言葉である。
⦅曽我量深⦆
NO192 2014年5月号「教願寺だより こころの通信」です - 人間はどこまでも自然の子である。自然の懐に帰りうるところに人間のあらゆる志願の満足がある。
⦅松原祐善⦆
NO191 2014年4月号「教願寺だより こころの通信」です - 年とるにつれ 弱るにつれ 尽きぬ命が 私の底から湧いているのを いつしか 拝むようになり
⦅榎本栄一⦆
NO190 2014年3月号「教願寺だより こころの通信」です - どんな人の胸をたたいてもそこからは一粒の涙が流れてくる。そうであればこそ、一人ひとりに佛がましますということです。
⦅幡谷 明⦆
NO189 2014年2月号「教願寺だより こころの通信」です - 僧伽は、どこまでも、親鸞のお心にかなう法を求める人びとの純粋な集まりであってほしいと思う。
⦅曽我量深⦆
NO188 2014年1月号「教願寺だより こころの通信」です