2014年11月号 本願の道理を知るものは、信心であって知識ではない無い。

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⦅金子大榮⦆『解けゆく心』雄渾社 より

 北風を感じる季節になりました。今月は21日から京都の本山で報恩講が始まります。その頃には寒さも本格的になっていきます。12枚有った今年のカレンダーもいつのまにか残すところは2枚となりました。カレンダーは来年のものに掛け替えることができますが、私たちの命はそうはいきません。私たちの人生にThe endの文字が何時出てくるのか判らないのでありますが、必ず出てくるのです。不思議なことですが自分にはそれは出てこないような思いで過ごしているのが現代人ではないでしょうか。これを妄念妄想と言うのでしょうね。今月の言葉は「金子大榮随想集」第9巻『解けゆく心』231pからです。

 「今月の言葉」としている文章につづいて「われらはつねに普遍の真理を知識で見出そうとしている。それこそ、根本無明といわれているものではないであろうか」と述べられています。普遍の真理とは、時代を越えても真理であり得るものです。そうすると新しいことが優れていると考えがちな機械文明とは違っていることになります。1年たちますと携帯電話やコンピューターの世界では「その機種では使用できません」ということが起こってきます。めまぐるしく変わる世界です。そして新しいモノが良いという世界です。そこから見ますと750年前の親鸞聖人の教えは古いのであり、ましてお釈迦様の教えは遺跡から発掘され博物館に陳列されている遺物のように思えるのでしょうか。現代は極端な言い方かも知れませんが新しい電子器具の機種を持っていることを誇りにして、知識とはそれを操作する事が出来るマニュアルになっているかのようです。

 人間が人間であるという限界を知らないとき、人間自身がまさに人間が作り出してきた世界そのものに不安を感じて不適応症状を引き起こしています。問題行動などと言っていますが敏感な子ども達が小学校で学級崩壊といわれる状況を生み出しています。

 金子先生は「真理は普遍であるとせられているのである。されど、本願の道理(いわれ)を知るものは、信心であって知識ではない無い。ただ大悲の佛心を身にひきあてて感ずるもののみに受け容れられるのである。したがって、知識の立場からは信心の智慧こそ、かえって特殊的なものといわれよう。ここには普遍の真理とということにも、次元的差異があるようである」(232p)と記しておられます。しかし、信心ということ、あるいは宗教ということを理解しようとするときに陥る問題点があります。

 「知識による普遍の真理は万人に承認せられ、信心による普遍の真実はただ個身に体験よってのみ証明せられる。ここをもって「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」との信楽は、すなわち何人もこの法をほかにして救われる道がない、という普遍の道理を身証するものであった」(同前)と『歎異抄』の言葉をひいておられます(聖典640p)

 仏様の言葉を頷くとは、人間として生きることに行き詰まり、悩んでいる身が頷いているのでしよう。その身はダレも代われないのです。ダレが使用しても動く電子機器の世界とは異なるのです。個的な人生を一般化して考えているのが、知識が全世界になってしまった現在社会です。