2014年 1月号 僧伽は、どこまでも、親鸞のお心にかなう法を求める人びとの純粋な集まりであってほしいと思う。

⦅曽我量深⦆

 新年おめでとうございます。新しい年を迎えました。今年は午年(うまどし)ですから、とうとう六度目の年男ということになります。12×6=72 でありますから、自分でも呆れるほどの年齢になっております。思い返してみてください。子供の頃には70歳という年齢の人は大変な老人だと思っておりましたよね。なんと自分がそんな年齢になってしまっているのです。

 ここ十数年のことですがお寺にお参りする人の減少に加速度が着いてきているように思われます。デイ・サービスには欠かさず参加しても、お寺の行事には足を向けないという人がドンドンと増えていきます。このことは、絶対にやり直しがきかないという私たちの命の事実を思うとき考えさせられてしまいます。私は幼児期にあちらの方に行きかける病を経験しており小学生時代はすぐに熱を出して寝込む虚弱児でした。そのためか自分は「必ず死ぬという命を生きているのだ」という意識を早くから持っていたように思います。私たちの命とは間違いなく終わりがまいります。その事実から目をそらして生きるという生き方を選んでしまっているのが高齢化社会という今を生きるそれに該当する人びとなのではないでしょうか。今や、お寺とは命そのものが問いたい問い、問わずにおれない問いとは関係の無い場所だ。という考え方が次第に色濃くなってきているのではないでしょうか。

 私たちの命自身が問いたいと願っていることを宗教といいます。ティリッヒの「究極的関心事」とか清沢満之先生の「人心の至奥より出る至盛なる要求」という言葉がそのことを端的に言い表しているのでしょう。西谷啓治先生は「宗教とは自己というものが真に自己自身になる道であり、同時にまた人間というものが真に人間になるみちである」(「宗教と人生」)と示してくださっています。安田理深先生は「春になったら草木が芽吹くようなもの」というように命自身が持っている必然的に問わずにおれない問いで有ることを言い当ててくださっております。そして、そのような問いに目覚めて、自分自身の一生を自らの命の問いを聞き開いて行く歩みにしてきたのが「真宗門徒」と言われた私たちの先祖の生き方だったのではないでしょうか。真宗門徒とは「親鸞聖人のお心にかなう法を求める人びとの純粋な集まり」なのでしょう。

 今月の言葉は真宗大谷派出版部発行『曽我量深集上』の215pからです。「僧伽」とはサンガまたはソウギャと読みますが、もともとはサンスクリットのサムガsamghaの音写で意味は「和合衆」とされています。真宗教団とは僧と俗でなりたっているのが特色です。俗を別の言い方では門徒と言ってきました。真宗教団とは僧侶と門徒から成り立っているのです。ところが僧という人たちに宗教的な課題を明らかにしようとする願いや使命感があるのでしょうか。現在の私に見えているのは、宗教的な課題を喪失してただ儀式の執行しか念頭にない集団です。そして、そこで教学と言っているものが人間の実生活ということからかけ離れた観念化された文字の世界になってしまっているのではないでしょうか。現実社会は、高齢化社会と呼ばれています。そこに生きる人たちに、寺と寺に住む人たち、つまり僧侶が説く「教え」と言うものが人間の心を揺する力を失っており、魅力が無くなってしまっているのでないでしょうか。お寺が人間の命が求める問いを問い、そして頷くことのできる言葉で語り合える場になることを取り戻さなければなりません。それが「親鸞聖人のお心にかなう法を求める」という歩みになるのだと思います。