2016年 10月号 ここ娑婆世界に生まれて 仏に遇わねば 哀れや人は はかない夢を 追いつづけるか。

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浅田正作『骨道を行く』より

 今年の天候は不順です。雨の日が多く、これまで観測されたことの無いような強い台風が上陸して、それがもたらす被害が各地で発生しております。また熊本以後地震が日本列島の各地で発生しております。そんな中で月日は飛ぶように過ぎていき今年も残り三ヶ月になりました。月日の早さは、お迎えの日が近づいていることなのですが、現在の日本社会では、その自分のお迎えという、誰にも代わってもらうことのできない、真剣に考えなければならないことであるにもかかわらず、それから目をそらすという得意技で見ないことにしてやり過ごしてしまうことが流行しております。しかし、どんなに誤魔化しても刻々とお迎えが近づいていることに変わりはありません。そして、わが命と向き合うことから目をそらすという生き方を正当づけるためには様々な理屈を立て続けます。しかし、どれだけ屁理屈を並べ続けてみてもお迎えは必ず来るのです。それならば、お迎えを受け入れるということを考えても良さそうなものですが、それはしたくないようです。

 自分の考え方を絶対に正しいとするところに実は深い迷いの源がある。ということが、佛教があきらかにしている「根本無明(こんぽんむみょう)」という人間のこころの深いところにある暗さでしょう。深いところにあるために自分の目で確かめることが出来ないのです。また、暗いということは見えないということでもあります。その暗さを押し立てますと、仏様のことばを聞こうともしないままで一生を終えるという生き方になってしまいます。どんな理屈を立ててみても、その理屈は暗さを土台にしたものでしかないのです。そのような世界のなかで終わっていくことを空過(くうか)というのでしょう。空しく過ぎた人生、空っぽのまま過ぎていく人生を悲しめないという現代人の病があるのではないでしょぅか。

 今月の言葉は松任の浅田正作さんの念佛詩集『骨道を行く』87pにある「空過」と題する詩です。
「この娑婆世界にうまれて 仏に遇わねば 哀れや人は はかない夢を 追いつづけるか」
『骨道を行く』87p -「空過」- 法蔵館  

 浅田さんは、私たちがいう現実世界を「娑婆世界」という言葉で押さえておられます。娑婆とはインドの言葉である「サーハ」を漢字で表音したものです。「忍土・忍界・堪忍」などと訳されています。思い通りにならない世界となります。もう少し意味を考えてみますと、真実の知恵を持たない無明な者が、それと気づかないままで生きているため苦しみ続けなければならない世界ということでしょう。その苦しみのもとが何かを教え、我々を縛り付けている見えない鎖から解放してくれるのが、真理に目覚めた人、つまり仏の教えなのでしょう。その教えに出会わないかぎり人は「はかない夢を追い続ける」という一生で終わるのだ、と語っておられます。つまり追い続けただけで徒労に終わるのです。

 「はかない」という言葉を辞書で調べますと「①ハカは、仕上げようと予定した作業の目標量。それが手に入れられない。所期の結実のない意 ②これといった内容がない。とりとめがない。(広辞苑)とあり、また別の辞書(大辞林)には ①消えてなくなりやすい。もろくて長続きしない。②不確かであてにならない ③何のかいもない。無益だ。などとあります。「何にもならなかった人生だった」と悔やむ人生には実は行き先が無い。見失って帰るところが無い。という現実があるのだと思います。

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