2017年 1月号 浄土とは人生のゆくえ、往生とは その人生の歩み、本願とは その方向を誤ること なからしめるもの

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金子大栄

 新しい年2017年を迎えることができました。春夏秋冬という四季が巡り重なると、なぜか身体の細胞が成長し、やがて老化していくということは面白いことですね。植物は四季の変化によって生の営みを行っています。枯れ枝から芽を出し、花を咲かせ、葉を茂らせ、実をつけ、枯れ葉を散らして冬眠する。という四季の変化に応じたくり返しのなかで成長し、やがて老化するという一生をすごします。
 新しい年に、ふと こんなことを思いました。「老年には なったが、老境は開かれていない」という駄洒落のようなものですが、長い年月を生きさせてもらったおかげで、このように心境が開けてきた。というものが なにも無いことに改めてウームと考えさせられたのでした。昨年、同級生が病に倒れ、立てない。歩けない現在を「立てる ということは すごいことだったのだ。歩けるということは大変なことだったのだ」と語ってくれましたが、私たちは、立つことができる、歩くことができることに、どれほどの感動と感謝の思いを いだくことができているでしょうか。「当たり前」の一言で、今現在の自分が受けている世界の大きさに気づかないままでいます。このことは、刻々と過ぎ去っていく現在を受け取れないまま ということでもあります。そして現在を受けとれないままの心は、未来も受けとれないのでしょう。

 今月の言葉は金子大栄先生の『浄土の諸問題』あそか書林(昭和43年)からです。文章の前後を紹介します。「「真宗の教えは仏教の人生観である」それが私の領解であります。浄土とは人生のゆくえ、往生とは その人生の歩み、本願とは その方向を誤ること なからしめるもの、念仏とは その歩みに退転なからしめるものであります」(3p)とあります。

 さて、現在の日本社会に欠けている何かを考えてみると「人生観」ではないでしょうか。多くの日本人の頭の中に有るのは、「お金」を いかに多く手にするかばかりでは ないでしょうか。そこには人生観、つまり一回限りの生を どのように生きたら良いのだろうか?という「問い」を持たないままに年月を過ごしていく人の生があるばかりではないでしょうか。そこでは お金をたくさん手に入れることの追求が すべて となり、電通という一流企業が、実は人間が耐えられないような組織であることによって業績をあげているのだ ということが女子社員の自死によって明らかになったのだと思います。また若者が高齢者から お金をだまし取ることが頻発していることからも人間であることを考えようとしない社会であることが いえると思います。「世の中は 食うて 糞して 寝て起きて さて その後は死ぬるばかりよ」一休さんのお言葉です。

 そんな人間の落ち込んでしまっている金銭獲得第一主義には出口がありません。言葉を換えると、自分の描いた人生の意味に縛られて、それに苦しんでいるのではないでしょうか。その苦しみから逃れるのは消費という世界ですが、美味しいもの、流行の先端のファッションも追い求めなければならないという思いが つきまといます。そんな人間の思いに全く異なる観点を与えるのが 仏さまの教え なのでしょう。仏さま「ブッダ」とは 真実に目覚めた人 という意味ですが、真実に目覚めた視点はあまりにも現代人が もっているものと違っています。「浄土」は人間の思いから出てくる世界ではなく、むしろ人間の思いが破れたところから、初めて 願い となって私たちの胸に親しくなってくる世界なのでしょう。その私たちの胸に わき出てくる確かな世界を求めて歩んでいきたいという 願い に立って 人生を歩んでいこうとする生き方のみが、「根無し草の人生に終わることなく、根を大地に張って生きよ」という願いを聞き得るのでしょう。仏に念じられて、仏を念じつつ歩む人生 ということが浄土真宗の世界のように思います。

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