2025年 5月号 芥子粒ほどの小さな場でも、そこに身を捨てて 衆生を済なかった処は どこにもない。

原文「芥子の地も捨身(しゃしん)の処に あらざることなし。」

『解読教行信証』

 木々の緑が五月の太陽を浴びて輝いております。住まいしております福野町の中心部の街路樹は、赤や白のハナミズキです。5月初旬には満開になり目を楽しませてくれます。今年の大雪が砺波平野を囲む山々の高い部分に、まだ白く残って居ります。

 今月の言葉は『教行信証』の「行の巻」の言葉です。まず『解読教行信証』の現代語を引用しました。(「上」の100頁で)「芥子粒(けしつぶ)ほどの小さな場でも、そこに身を捨てて衆生を済(たすけ)なかった処(ところ)は どこにもない。」とあります。
その原文は『真宗聖典』では 再版では204頁 初版では185頁にあります。
原文のほうは「芥子の地も捨身(しゃしん)の処に あらざることなし。」です。
元照(がんじょう)律師(1048- 1116 宋の時代の律宗の僧)の文の引用です。

 この言葉に、これまで心をひかれたことは一度もありませんでした。つまり、読めていなかったのです。今回初めて、この言葉が目に留まりました。ご縁がないと、お聖教は読めないのですね。読んでいても読めていなかったのです。
こんな若い住職さんも おられます。夕刻に突然「今から お邪魔してもいいですか?」と電話してこられ、来るや否や
「これまで『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』は一度も読んだことが無かったのですが、始めて目を通す機会があって、こんな言葉があったのか とショックを受けました」と言われたのですが、お聖教の どの言葉に出あうか、そして、それを、いただくことができるのか も ご縁なのですね。

 コメを主食にしている わが日本国でコメ不足が深刻ですが、農家にコメを作るな と指導してきたのは誰だったのでしょう。農家の田んぼは、何代にも わたって、田を耕し、土を肥やしてきた先祖の苦労があって出来上がっているのです。
「うごくとも見えで畑打つ男かな 去来(きょらい)」田や畑には、この句のような苦労がしみ込んでいたのですが 機械力で耕作するようになったときに、それを見失ってしまっていたのではないのでしょうか。現在、ただ今 とは 実に 目には見ることの出来ないような 人の営みの歴史 が もたらしてくれているのです。「恩」という言葉も死語に なりつつありますが、人間の目に見えない働きが、今を成り立たしてくれているということでしょう。ここで言われている「芥子の地も捨身の処にあらざることなし。」とは 如来が 衆生を救わん と された ご苦労の事実に気づいた歴史感でしょう。
星野元豊先生は「法蔵は因位ときから衆生済度の本願を建て、その志を貫いて わき目をふらず あらゆる行を窮め尽くして修行、塵点劫(じんてんこう)という長いあいだ (中略)
衆生を済度せずば やまじ の大慈悲の志をいだいておられたのである。
「三千世界の中 芥子粒ほどの小さな場所でも法蔵菩薩が身を捨てて修行されていないところはない。(「解釈教行信証」上 314頁)と述べておられます。ありとあらゆる命のある限り、その命を救わん とするのが、その願いでありますから。
たとえ芥子粒のような命であろうと命のあるところ すべてが如来の修行された場であるとは 見えていない真実でした。