正親含英 『浄土真宗』42頁 法蔵館
今年の6月は、猛暑日が続き、梅雨明けが例年になく早いという気象の異変を身近に感じさせられながら終わりました。海水温が かってない高さ だそうです。これは日本列島に豪雨をもたらす恐れがあるのだそうです。トカラ列島で地震が頻発していることもテレビの画面に その都度 震度の文字が現れます。優しいはずの自然が荒々しいものに変化してきております。でも、その変動の元凶は人間にありそうです。
北陸では「祠堂経」という言い方がされていますが「永代経」という地方もあります。亡くなった方の法名軸や法名帳を掲げて読経する法要です。一般に、亡くなった身内の為にお寺で読経してもらい供養する。というように理解されていると思います。しかし、真宗は 亡き人の供養のための お経 ということには ならないはずです。『歎異抄』の5章には「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだ そうらわず。」とあります。そして「わがちから にて はげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をたすけ そうらわめ」と「わがちから」つまり「人間の力で はげむ善」に すがろうとする思い で いったい何ができるのだ。そこで働いているのは「自力」ではないか。「ただ自力をすてて、いそぎ浄土の悟りをひらきなば」と本当に「有縁を度すべき」道がしめされています。
6月と7月は、この「祠堂経」に お招きいただく月ですが、この法要は、法名つまり釋のなになに となっている有縁の方から呼び出されてお寺の御本尊の前に座り、お経を聞かせていただき、そこに普段は さげることのない頭を下げ、めったにすることのない合掌をさせていただくのです。たとえ声に南無阿弥陀仏と出さなくても、心の中で念仏することが出来る ご縁を、まだ この娑婆に生きている私たちの身がいただく一日だと思うのです。そして聞かなければいけない声は、「お前も必ずこうなるよ」ということでしょう。
私たちの「我(が)」は、私たちの自分の力では絶対に崩せません。行き詰るだけです。行き詰っている我を手離すことが出来ないことを、「悩んでいる」とか「苦しんでいる」とかと考えていますが、我に執着していることでもあります。正親先生は「念仏は、大きな光の前に自分が見出された声であります。それを逆にいえば我のくずおれた音であります。」と教えてくださっています。私たちの目は外向きです。外の世界しか見ることが出来ないのです。外野席という ことばがあります。ここでは外を批判したり、非難したり、わが身を省みることのないところに座っております。巻頭の言葉に続いている言葉をご紹介します。このようになっています。「念仏は、大きな光の前に自分が見出された声であります。それを逆にいえば 我の くずおれた音 であります。主張するものが なくなった沈黙の声 であります。ゆえに、自分は念仏している。他は念仏申さない ということはない のであって、念仏すら忘れてくらす自分に聞こえてくる我を呼ぶ声であります。」
「祠堂経」あるいは「永代経」は私が、あるいは私たち娑婆世界で うろうろしている者たちが 亡き人の為に供養する ということではないのでしょう。仏さまの所に行かれた方からの声なき声の呼びかけを聞かせていただく場をいただくのではないでしょうか。
正親先生の先生である金子大栄師は「念仏というのは自我崩壊の音であり絶対沈黙の声である」と表現しておられます。師弟間で同じことを、少し異なる言葉で語っておられます。個性ですね。