2026年 1月号 浄土に照らされて現実を生きる、現実を常に浄土に照らして生きていく。聞法とは生きるということであり、法に照らされて生きるということなんです。

宮城 顗(しずか) 『「御文」私見』より 

 新しい年を迎えました。今年は午(うま)年ですね。なんと 私が この世に生まれてから7巡目の午年です。十二支では馬とは書かないのですね。もっとも馬と書きますと まさに馬齢を重ねている私の命になってしまいます。午は 時間で 午の刻とか、正午とか午前・午後のように使われており、馬は動物のウマになります。
 今月の言葉は宮城顗先生が昭和57年に高山別院で講義された記録です。たまたま古書店で手に入れることができたものです。
 今月の言葉にさせていただいた言葉に続いて、「そして その浄土荘厳の前に身を据える ということは、それこそ自己の分限(ぶんげん)を身をもって知らされていくことがある。なんとかすれば なんとかなる という身じゃない、いかに勤め、行うても すべて虚仮(こけ)の行(ぎょう)ということ、その事実を知らされていくことなんです。」(23頁)という言葉が続いています。
 私達の思っている「聞法」が仏法についての知識ばかりを増やしていくことになってしまって 身の事実を いよいよ深く知らされていくことになっていかないことが 現にあるのではないでしょうか。ここで言っておられる「浄土荘厳」とは お仏壇ということです。そして「聞法とは生きるということであり、法に照らされて生きるということなんです。」と言っておられます。
 「そして その浄土荘厳の前に身をすえる ということは、それこそ自己の分限を身をもって知らされていくことがある」と言っておられます。「聞法」とは どこでしているのか ということが大切なのでした。仏さまの前で、だったのです。仏さまの前で、仏さまの言葉を聞かしていただくのでした。そのことを忘れると、知識ばかりを増やす努力になってしまうのですね。そうなると、身は正直という言葉がありますが、聞法が、身のよろこびになっていかない ということがあるのではないでしょうか。「聞法とは生きるということであり、法に照らされて生きるということ」であるときに、「聞法」は私たちの身が よろこぶ という事実に目覚めることでもあります。聞法は身が求め 身が喜ぶ事実でないでしょうか。