1 御伝鈔 上巻 第三段「六角告命」 意訳

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御伝鈔 意訳 上巻 第三段「六角告命」

『親鸞聖人伝絵-御伝鈔に学ぶ-』東本願寺出版部より 


 建仁(けんにん)三年(一二〇三)四月五日の夜、親鸞さま は、不思議な夢を見ました。その夢というのは、
「その昔、聖徳太子がいつも礼拝されていた六角堂の救世観音(くせかんのん)が、おごそかな顔だちの高僧の姿となって現れ、真っ白な袈裟を身にまとい、大きな白い蓮の花に おすわりになって、善信(ぜんしん)(親鸞さま)にむかって、
〝 あなたは、今まで 坊さんたるものは妻を めとっては ならない、と 禁止されていた伝統の戒律(かいりつ)を、今こそ破らねば なりません。私は 玉のような美しい女性となり、あなたの妻になりましょう。そして、一生の間、よく あなたの活動をたすけ、いのち終わるとき、私の生涯はこれで十分であったと、心から喜べるようになる極楽浄土に一緒に参りましょう 〟 と 告げられました。
 そして 救世(くせ)観音(かんのん)は さらに、
〝 これは私の誓願(せいがん)なのです。善信(ぜんしん)よ、あなたは この誓願(せいがん)のあらわす深い意味をあきらかにし、色あせた夢 も 希望も もてない人生を歎(なげ)く者に説き聞かせあげるがよい 〟 と お告げになりました。
 そのとき、親鸞さま は、夢の中にありがなら、お堂の正面に向かって東の方を見ると、けわしく そびえたつ山々がならび、その高い山の上に、数限りない人々が集まっているのが見えました。そこでお告げのように、その誓願(せいがん)の意味をその人々に説き聞かせ終わったときに、夢がさめたのです」という内容のものでした。
 今、この記憶を ひもといて、その夢が一体、何をあらわそうとしているかを考えてみると、それはひとえに、私たちのごまかしのない、ほんとうの生き方(真宗)が、いよいよ はっきりするという しるし であり、あるいは、どんな人でも必ず よみがえらせずには おかない、という南無阿弥陀仏の教えが いよいよ みんなのものとなる知らせ に ちがいありません。
 というのは、後に親鸞さま が、次のように説かれているからなのです。「仏教は 昔 インドの国から おこり、中国を通じて この日本まで伝えられました。これは ひとえに 積極的に仏教を学ぼうとされた聖徳太子のおかげであり、その ご恩は 山よりも高く 海よりも深いものがあります。太子によって、はじめて 仏教は 日本の大地に深く根をおろしたのであり、民衆の救いをあきらかにした浄土の教え も この時に伝えられたのです。
 もし、聖徳太子が仏法を敬い、受けつがれることが なかったとしたら、どうして 私たちのような愚か者が、阿弥陀の本願に めぐりあうことができたでしょうか。救世観音(くせかんのん)は、聖徳太子の精神なのです。それが夢の中に現れたのは、特別な偉い人のための教え として 氷詰めになっている仏教 を、今こそすべての人々の生きた教え とするために、その尊いお姿をあらわされた に ちがいありません。
 今 よくよく考えてみると、これはまことに不思議なことですが、私の先生の法然さまが、国家権力の不法な弾圧によって 土佐の国へ追放される ということがなかったならば、私もまた 遠い 越後の国へ島流し されること も なかったでしょう。もし 私が あの越後の国へ追いやられなかったら、夢も希望もなく、食べるだけ に やっとの 最低のひぐらし に あけくれる人々とめぐりあって、喜びも悲しみも ともにしながら、一緒に教えを聞くなどということが どうして できたでしょうか。
これも ひとえに 真実を求めるためには、身の危険も かえりみなかった
法然さま の おかげだ と いわなければなりません。
 そうしてみると、私にとって 法然さま こそ、自分自身を絶対にごまかすことのない、きびしい仏の智慧(勢至(せいし)菩薩)であり、聖徳太子は、こんな 私のような愚か者を 絶対に見捨てることのない仏の慈悲(観音(かんのん)菩薩)なのです。
 だから、私は この二菩薩(にぼさつ)の、自分はどうなってもよいから、苦しみ悩む者を よみがえらせずには おかない、という 無私(むし)の心のはたらき によって、阿弥陀如来の本願を まのあたりに いただいて生きていけるのです。真宗は、この心によって 成りたち、念仏は、この心によって、万人をよみがえらせる はたらき と なってきたのです。
 これは全く、すべて浄土の教えを 命がけ で あきらかにしてくださった大先輩の先生方のお導きに もとづくもの で あって、決して私のような愚か者の独断ではないのです。つまるところ、観音(かんのん)菩薩、勢至(せいし)菩薩の願いは、ただ 南無阿弥陀仏の教えに耳を傾けよ、ということに おさまるのですから、観音(かんのん)菩薩や勢至(せいし)菩薩が、何か不思議な超能力があるのではないか と 思いこんで、ご本尊として拝む など と いうのは、とんでもないことです。それでは わけのわからない偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)に とりつかれてしまいます。私たちが南無阿弥陀仏の教え に 導かれ、育てられていく ところに、観音(かんのん)・勢至(せいし) 二菩薩(にぼさつ)の はたらきが 有り難く この身に感じられてくるのです」と。
 だからこそ、親鸞さま は、聖徳太子を ご本尊に まつりあげずに、ひとえに 太子を 阿弥陀如来の生きた おはたらき として尊敬されたのです。これも ほんとうの仏教に めぐりあうことができた喜びが、ことに大きかったから に ちがいありません。