36 往還回向由他力 正定之因唯信心

↑ 練習した音源(約25分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
近くのご寺院では、下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2019/05/10/wish5/』


《 曇鸞大師(どんらんだいし)(七高僧 第三祖(そ)) 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

今日 の お言葉

〈 原文 〉
往(おう)還(げん)回向(えこう)由(ゆ)他力 正定(しょうじょう)之(し)因(いん)唯(ゆい)信心

〈 書き下し文 〉
往(おう)・還(げん)の回向(えこう)は他力に由(よ)る。正定(しょうじょう)の因(いん)は ただ信心なり。

〈 言葉の意味 〉
「往(おう)・還(げん)の回向(えこう)」‐「往(おう)相(そう)回向(えこう)」と「還(げん)相(そう)回向(えこう)」のこと。

 ↓
「往(おう)相(そう)回向(えこう)」
 私達凡夫(ぼんぶ)が、阿弥陀様 の お浄土 に往生(おうじょう)すること。
 「自利(じり)」(自分が助かる)の成就(じょうじゅ)。(穢土(えど)から浄土に往(ゆ)く相(すがた))
 ↓
しかし、「自利(じり)」(自分が助かる)の成就(じょうじゅ)だけでは大乗(だいじょう)仏教(どのような者であっても、誰もが救われていく教え)とは いえない。
大乗(だいじょう)仏教の根本の精神には、「自分が受け取る利益と、他者が受け取る利益とが一つになる」ということがある。「利他(りた)」(他が助かる)が なければならない。
お釈迦様は、覚(さと)りを得(え)て、仏(ぶつ)に成(な)られ、ご自分(じぶん)の覚(さと)りの境地(きょうち)に安住(あんじゅう)されることなく、世間の迷いの人々の所に出向(でむ)いて 教え を お説(と)きになり、人々を覚(さと)りに導(みちび)いて いかれた。ここに「自利(じり)」「利他(りた)」が一つになった 大乗(だいじょう)仏教の根本 が示(しめ)されている。.

 ↓
「還(げん)相(そう)回向(えこう)」
 お浄土に往生した人が、この迷いの世間に働きかけること。
 「利他(りた)」(他が助かる)の成就(じょうじゅ)。(浄土から穢土(えど)に還(かえ)る相(すがた))

 ↓ しかし、

-3-


「往(おう)・還(げん)の回向(えこう)は他力に由(よ)る」
 「大乗仏教の根本の精神」としては、「往相(おうそう)」(自分が助かる)・「還相(げんそう)」(他が助かる)が 一つのこと といわれているが、私達凡夫(ぼんぶ)にしてみれば、自分の力では「往相(おうそう)」(自分が助かる)は もとより、「還相(げんそう)」(他が助かる)も不可能なこと。私達は、自分で「浄土往生の原因」を作れない。
 まして、お釈迦様のように「人々を覚(さと)りに導(みちび)いていく」ということは到底(とうてい) 不可能なこと。

 ↓
「回向(えこう)」
 振(ふ)り向(む)ける こと。浄土往生の原因を作れない私達 に 代わって、阿弥陀様が原因を作ってくださり、その原因によって生(しょう)じる結果だけ を私達に振(ふ)り向(む)けてくださっている。

 ↓
「回向(えこう)」ということは、七高僧(しちこうそう)の中でも 第二祖(そ) 天親(てんじん)菩薩・第三祖(そ) 曇鸞大師(どんらんだいし)お二人の ご書物 にだけ 出てくる お言葉。
親鸞聖人は、その お二人の ご書物 を手掛(てが)かりにされて、「浄土真宗は回向(えこう)の宗教だ、回向(えこう)こそが浄土真宗の命だ!」と はっきりと押さえることができ、浄土真宗を開くことができた。

『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』教巻(きょうのまき)の初め 意訳 親鸞聖人 著
つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法(ほう)を うかがうと、阿弥陀如来より二種類の相(すがた)が回向(えこう)されている。
一つには、「往相(おうそう)‐私達が浄土に往生し成仏する」という相(すがた)が回向(えこう)されている。
二つには、「還相(げんそう)‐迷いの世界に還(かえ)って衆生を救(すく)う」という相(すがた)が回向(えこう)されて
いる。

-4-


 ↓
「浄土真宗とは、往相(おうそう)・還相(げんそう)という二種類の回向(えこう)を内容とした宗教である。
それ以外に 浄土真宗の教え というのは無い!」という「浄土真宗の要(かなめ)」を非常に端的に押さえている お言葉。
そして、浄土真宗の根本聖典(せいてん)である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は、その 往相(おうそう)・還相(げんそう)回向(えこう)を詳しく展開している ご書物。
(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の下書きが出来た時に、天(てん)親(じん)菩薩と曇(どん)鸞(らん)大(だい)師(し)の一字ずつをいただかれた「親鸞(しんらん)」を 自分の名前 と された。)

 ↓ しかし、

天親菩薩は「二種類の回向(えこう)」を はっきりさせることが できなかった。
『浄土論(じょうどろん)』の終わりの所に、「本願力回向」という お言葉があり、この お言葉は、天親菩薩だけ が いわれた お言葉。そのことを親鸞聖人が非常に大事にして、正信偈の《 天親章 》で 次のように いわれている。

「正信偈」〈 原文 〉
広(こう)由(ゆ)本願力(ほんがんりき)回向 為(い)度(ど)群生(ぐんじょう)彰(しょう)一心(いっしん)
〈 書き下し文 〉
広く本願力(ほんがんりき)の回向に由(よ)って、群生(ぐんじょう)を度(ど)せんがために、一心を彰(あらわ)す。

 ↓
しかし、「天親菩薩が いわれる回向」は、
「自分の積(つ)んだ功徳(くどく)を衆生に振り向けることによって、浄土に生まれることができる」
という「自力(じりき)の回向(えこう)」で、
「阿弥陀様の他力(たりき)の回向(えこう)」ということまでは、はっきりしていなかった。
 ↓

-5-


曇鸞大師(どんらんだいし)が『浄土論註(じょうどろんちゅう)』の中で、「天親菩薩の回向」を取り上げて、「回向に二種類ある」と いわれ、還相回向(げんそうえこう)という お言葉 を初めて使われた。

 ↓ しかし、

曇鸞大師も、また、「回向」ということを、はっきりさせることが できなかった。
「何かを伝えようとしておられるのだけれども、適切な言葉が見つかっていない・・けれども、なにかを 伝えよう としておられることは感じられる・・」
というような文章。
 ↓
『浄土論註(じょうどろんちゅう)』意訳 曇鸞大師(どんらんだいし) 著(ちょ)
回向 に 二種の相(そう)がある。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)である。
往相(おうそう)というのは、自分の修(おさ)めた功徳をもって すべての人に施(ほどこ)し、願(がん)を起(お)こして、共々(ともども)に、かの阿弥陀如来の安楽(あんらく)浄土に生(う)まれよう と 願うことである。
還相(げんそう)とは、かの浄土に生まれた後(あと)に、作願(さがん)(仏(ぶつ)に成(な)り、衆生を救おうという願いを起こす)・観察(かんざつ)(対象をはっきりと観(み)る)の自利(じり)(自分が助かる)を成就(じょうじゅ)し、利他(りた)(他が助かる)の方便力(ほうべんりき)(衆生を導(みちび)く力(ちから))を成就することを得て迷いの世界にあらわれ、すべての衆生を済度(さいど)して仏道に向かわせることである。
往相(おうそう)であっても、還相(げんそう)であっても、みな衆生の苦しみを除(のぞ)いて迷(まよ)いを渡(わた)らせるためである。
 ↓
その曇鸞大師(どんらんだいし)の お心 を はっきり汲(く)み取って、表現されたのが、親鸞聖人。
「阿弥陀様の他力(たりき)の回向(えこう)」ということは、曇鸞大師(どんらんだいし)が お亡くなりになられてから約六三〇年後 に親鸞聖人 が現れるまで、はっきりさせることができなかった。
 ↓

-6-


曇鸞大師(どんらんだいし)が回向(えこう)を、往相(おうそう)と還相(げんそう)の二種類に分け、「阿弥陀様の四十八願 の 第二十二願 が 還相回向(げんそうえこう)について いわれている」と、発見してくださった。親鸞聖人は、その ご功績(こうせき)に大変 感謝をしておられて、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に、曇鸞大師(どんらんだいし)の『浄土(じょうど)論註(ろんちゅう)』が何ヵ所も引用(いんよう)されているが、「証巻(しょうのまき)」に一ヵ所だけ、第二十二願について いわれている所に、『論註(ろんちゅう)』と いわずに、『註論(ちゅうろん)』と示(しめ)されている。その親鸞聖人 の お心 は、「曇鸞大師(どんらんだいし) の ご書物 は、註(ちゅう)(文献(ぶんけん)に解説(かいせつ)を加(くわ)えた書物)ではなく、論(ろん)(菩薩の書かれた文献(ぶんけん))と同じ価値がある 非常に大切な ご書物 なんだ!」ということを表現しておられ、その ご功績への感謝 を表しておられる。

 ↓
「第二十二願 還相回向(げんそうえこう)の願(がん) 」
私が仏(ぶつ)になるとき、他(た)の仏方(ほとけがた)の国の菩薩達が、私の国に生(うま)れてくれば、必ず 一生補処(いっしょうふしょ)の位(くらい)(菩薩の最上(さいじょう)の位(くらい))に至(いた)るでしょう。
ただし、その菩薩の願い に よって、「すべての人々を救うために、さまざまな仏方(ほとけがた)の国へ行きたい」と願うなら、自由にされてもいい。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。

 ↓ その お心 は、

「迷いの世界、苦労の多い世界に、悠々(ゆうゆう)と身を投げ出して、明るく苦労していける 心 を与えたい」という阿弥陀様の誓(ちか)い。

 ↓ 親鸞聖人が明らかにされた「回向(えこう)」

「阿弥陀様 の お心 に触(ふ)れる ご縁 があって、「お浄土に往(ゆ)きたい」と願い、歩み始めると、お浄土から光 が 差(さ)してくる。その お浄土から光 が、明るく、温かく、私を照らして、生きる力 を 与えてくださる。

-7-


そして、悠然(ゆうぜん)と、迷いの世界に身を投げ出して苦労して行ける身 にお育てくださる。
往相回向(おうそうえこう)は お浄土に往(ゆ)く相(すがた)、還相回向(げんそうえこう)は 迷いの世界に還(かえ)って来(く)る相(すがた)。
お念仏をいただくところに、この二つが成り立ってくるのが、浄土真宗です。」
と、親鸞聖人は はっきりと 言い切られた。
「本当に助かる ということは、どういうことなのか?それは、助かっていない迷いの世界 に 身を投げ出していける!
それが「本当に助かった」といえることなのだ!」
ということを、還相回向(げんそうえこう)が、私達に教えてくださっている。
「苦労は いやだ」と言うのでしたら、これは「助かっていない」ことになる。
「どんなに苦労をしてもいい!」と言えることが、本当に助かった証(あかし)。
例えば、冬の寒い時に、銭湯へ行って、一時間ほど 湯に 出たり入ったりして、体が よく温まってから、外へ出てみると、外の寒さ が 苦(く)にならない。
かえって 気持ちがいい ような感じ さえもする。
体が、本当に温かければ、冷たい世界へ出かけて行っても、どうということはない。かえって、心地よいものを感じる。

 ↓ そのことと同じように、

「阿弥陀様 の お心 に触(ふ)れる ご縁 があって、「お浄土に往(ゆ)きたい」と願い、お浄土に向かって 歩み 助けられていく」ということが往相回向(おうそうえこう)。
 ↓
自分が助けられたら、周りの人も「助かってほしい」という心に動かされる。
 ↓

-8-


そして、自分が 本当に助かったら、その助けられた力(ちから) で、「助からない 迷い 苦労のつきまとう世界」に、明るく 身を投げ出して、喜んで、苦労ができようになる、ということが還相回向(げんそうえこう)。
そうなってこそ初めて、自分が「本当に助かっている」と実感がわき、幸せな心 になれる。

 ↓ 逆に言うと、

自分が助かっていなければ、「助からない 迷い 苦労のつきまとう世界」へ出かけて行くことはできない。私達は、
「自分さえよければいい・・ 苦労から逃(のが)れたい・・
他人に流されながら 楽(らく)をして生きて行きたい・・」
という根性(こんじょう)を持っている。しかし、それは、一番 不幸(ふしあわ)せ な 心。

 ↓ しかし、

還相回向(げんそうえこう)は、人間の意識でするもの では ない。
「知らず知らずの内に、周りの人を動かしていく」というような・・
私自身は 往相(おうそう)の歩み に徹底(てってい)していく。そのことによって、計(はか)らずも、還相回向(げんそうえこう)という形を取って、周りの人々に影響を与えてしていく。
 阿弥陀様の場合は、「必ず救う」と誓(ちか)われるけれども、私達は、信心をいただいても 凡夫 ですから、凡夫が人を「必ず救いたい」と願っても、実現できない。
私達の人生の中で一番 大事な仕事は、「自分の子供を ちゃんとした人間 に育て上げること」と いわれている。

-9-


「私は立派な仕事をしています!」と自負(じふ)していても、子供が間違って育ったら、「ただ威張(いば)っているだけの人だ・・」と、思われてしまう。
しかし、「往相(おうそう)・還相(げんそう)回向(えこう)の教(おし)え」に よれば、「厳(きび)しさがなければ、人間は わがままになるだけだ」と、「口うるさい と 思われてもいい」と、いくら 熱心に 子供に教育しよう として みても、そのようなもの は なんにもならない。
子供を本当に「ちゃんとした人間に育てたい」と願うのならば、その願い を大切にしながら、自分自身が厳(きび)しく 一生懸命 ちゃんとした人間になれるように努力するしかない。「他人に厳(きび)しく、自分に甘(あま)い」ということでは、話にならない、ということが教えられている。
私達 凡夫には、往相(おうそう)の歩み に徹底(てってい)していくこと しか できない。
お浄土に向かって 歩み、阿弥陀様に育(そだ)てられて、叱(しか)られて、自分に厳(きび)しく生きていく しかない。
計(はか)らずも、その私の 後(うし)ろ姿(すがた) が 還相回向(げんそうえこう)となって、子供に 何(なに)かを与(あた)え、突(つ)き動(うご)かしていく。

 ↓

〈 言葉の意味 〉
「他力に由(よ)る」
 「私達が期待する、期待しない」とか、そういうことには全(まった)く係(かか)わりの無(な)い、一方的に私達に差し向けられている阿弥陀様の願いに由(よ)る、ということ。「本願力」とも いわれている。

「正定(しょうじょう)」‐正定聚(しょうじょうしゅ)‐正(ただ)しく 仏(ぶつ)に成(な)ること が 定(さだ)まった人々。

-10-


「因(いん)」
 原因。もと に なる もの。
 例えば、「一本の うまそうな大根」の種(たね)(因(いん))は、一つだけ。
 うまそうな大根を育てるための縁(えん)(環境)は、たくさん必要になってくる。
 種をまく時期や、間引する苗(なえ)、栄養のある 深く 軟(やわ)らかく 水はけ の よい土、土寄(つちよ)せ・追肥(ついひ)・中耕(ちゅうこう)など の お世話、草むしり や 害虫(がいちゅう)の駆除(くじょ)など「一本の うまそうな大根」を育てるための縁(えん)は、たくさんあるのだけれども、一本の大根の種(たね)(因(いん))は、一つだけ。しかし、種(たね)(因(いん))が欠(か)けたら、もう絶対に大根は生(は)えてこない。そういう大事な、本当の根本(こんぽん)が 因(いん)ということ。

「ただ信心なり」
 自力(じりき)の信心ではなく、阿弥陀様の本願によって回向(えこう)されている「他力の信心」のこと。
 阿弥陀様の本願 に 素直に従(したが)って おまかせする心。

 ↓
私達が助かる 根本(こんぽん)の 因(いん) が、信心。
いかに 阿弥陀様が「必ず救おう」と、私達に お念仏を与えてくださっていても、この一点が、「信心」が欠(か)けたら、阿弥陀様も どうすることもできない、ということ。

 ↓
私達は、お念仏に出会えたら、助かる。正信偈の初めの方にも、
「本願名号正定(しょうじょう)業(ごう)
 (本願の名号「南無阿弥陀仏」を称(とな)えることは、阿弥陀様によって選(えら)ばれた 浄土へ往生するための正しい行(おこな)いです。)」
とある。
「お念仏に出会えたら、助かる」ということは 間違いない のだけれども、信心という一点を欠(か)いたら、「私達を助けてくださる お念仏」が、もはや絶対に、「助けてくださる お念仏」に ならない。

-11-


このことを曇鸞大師(どんらんだいし)は、自分の問題 として『浄土論註』に明らかにしてくださっている。その曇鸞大師の精神を くみ取られて親鸞聖人は、正信偈に「正定(しょうじょう)の因(いん)は ただ信心なり。」と記された。
 ↓
曇鸞大師(どんらんだいし)が「因(いん)」という言葉でいわれたことを、親鸞聖人は「要(かなめ)」と いわれる。
扇子(せんす)は、竹(たけ)の骨(ほね)が何本もあり、紙の所も多く、大きさ も いろいろある。
しかし、扇子(せんす)は、要(かなめ)の一点で、全体が成り立っている。
逆に、全体を成り立たせる一点を要(かなめ)という。
だから親鸞聖人は、「因(いん)」と いわずに、「要(かなめ)」という言葉で押さえておられる。

『歎異抄』第一章 意訳
阿弥陀様の本願は、老(お)い も 若(わか)き も 善人(ぜんにん) も 悪人(あくにん) も 分(わ)け隔(へだ)て なさいません。
ただ その本願を聞(き)き開(ひら)く信心 が 要(かなめ)である と 心得(こころえ)なければなりません。


まとめ

今日 の お言葉
〈 原文 〉
往(おう)還(げん)回向(えこう)由(ゆ)他力 正定(しょうじょう)之(し)因(いん)唯(ゆい)信心
〈 書き下し文 〉
往(おう)・還(げん)の回向(えこう)は他力に由(よ)る。正定(しょうじょう)の因(いん)は ただ信心なり。

-12-


〈 意訳 〉
「私達 凡夫が、阿弥陀様 の お心 に触(ふ)れる ご縁 に恵(めぐ)まれれば、
・「お浄土に往(ゆ)きたい と願(ねが)い、お浄土に向かって 歩み 助けられていく‐往相(おうそう)」
 という相(すがた)が、阿弥陀様から回向(えこう)される。
・そうして、私自身が助けられた からこそ、
 「周りの人達も、阿弥陀様に助けられてほしい」という 熱(あつ)い想(おも)い に突(つ)き動(うご)かされて、
 「助からない 迷い 苦労のつきまとう世界 に、明るく身を投げ出して、喜んで、苦労ができる者へ と お育ていただく‐還相(げんそう)」
 という相(すがた)が、阿弥陀様から回向(えこう)される。
そうなってこそ、初めて、私自身が「本当に助かっている」と実感がわき、幸せな心 になれる。
ただし、私達 凡夫は、
「阿弥陀様に育(そだ)てられて、叱(しか)られて、自分に厳(きび)しく生きていく‐往相(おうそう)の歩み」に徹底(てってい)していくことしかできない。
還相回向(げんそうえこう)とは、私達が意識をして励(はげ)むもの ではなく、浄土へ向かって歩む行者(ぎょうじゃ)の後(うし)ろ姿(すがた) が、計(はか)らずも、周りの人々に何(なん)らかの影響を与(あた)え、突(つ)き動(うご)かしていく、という相(すがた)。
そして、この往相回向(おうそうえこう)も還相回向(げんそうえこう)も、私達の努力 で 成(な)し得(え)るものではなく、すべては「阿弥陀様 の お力‐他力」に由(よ)る。」
このような「回向(えこう)の相(すがた)」を、七高僧(しちこうそう) 第二祖(そ) 天親(てんじん)菩薩・第三祖(そ) 曇鸞大師(どんらんだいし)が明らかにしようとしてくださったのです。そして、さらに、曇鸞大師(どんらんだいし)は、
「ただし、阿弥陀様が、このように 私達の救われる道 をご用意してくださっていても、阿弥陀様 の ご本願 に 素直に従(したが)い おまかせする 他力の信心 が、私達の心に宿(やど)らなければ、阿弥陀様の救いの道が、全(まった)く 私とは関係のないこと になってしまう。」
と、ご指摘(してき)してくださっています。

-13-