3 帰命無量寿如来 南無不可思議光

↑ 練習した音源(約28分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


帰命 無量寿如来(慈悲)
「命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様」のお導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。

 ↓ お働き

南無不可思議光

  ↑ 七文字に縮められている

 南無 不可思議光如来(智慧) ← 曇鸞大師(七高僧 第三)のお言葉

  ↓

 九字名号 お内仏の向かって左側のお脇掛

  ↓ 言葉の意味

 「南無」← インドの言葉
   ↓ 中国で訳された
 「帰命」→ 本来の命の姿に戻る
   ↓
 不可思議光如来
  阿弥陀様の智慧の光は、思い測ったり、言い表したりできない

 ↓

ー1ー


無量寿如来
 「つながりあう命」の源を知らせるために現れてくださった阿弥陀様
 ↓
いのちの世界は、「私達の計らい」を超えた「本当に、豊かで、満ち足りていて、安心できる世界」である。
 ↓
その いのちの世界が、私達を支えてくださり、「いろいろな形」となって、私達に働きかけてくださっている

 ↓ しかし、私達は、

世界を「人間の知識」によって捕らえようとしている。
そうして、本当は「豊かな いのちの世界」を生きているのに、「人間の知識の中の狭い世界」でしか生きられなくなり、「心」は、暗く、満足も、安心もできなくなっている。
 ↓
三つの髻(もとどり) → 自分を飾るもの の 象徴
 ・勝他(しょうた)
   周りの人と比べて、「自分の方が、優れている」と、思おうとする心。
   逆にいうと、人から見下されるのを嫌う心。
 ・名聞(みょうもん)
   有名になって、一目置かれる存在になろうとする心。
   権力を求め、その権力で、周りの人を従わせようとする心。
 ・利養(りよう)
   金持ちになろうとする心。お金を持っていない人を見下す。
   財産の 多い 少ない によって、人の価値を決めてしまう心。
 
 ↓ おかみそり(帰敬式)で、「三つの髻」を 切り落としている

ー2ー


本当は「豊かで、満ち足りていて、安心できる いのちの世界」を生きているのに、その世界を捨てて、「人間の知識」よって作られた「違う世界」を生きている。

 ↓ そのことに気づかされ、「間違っていたこと」を 思い知らされる時

帰命 無量寿如来(慈悲)
 「命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様」のお導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。

南無 不可思議光如来(智慧)
 いろいろな形となって、私達を支え、働きかけてくださっている阿弥陀様の智慧(光)をいただき、本来の命の姿に戻ります。

 ↓ 聖徳太子
世間虚仮(こけ) 唯(ゆい)仏(ぶつ)是(ぜ)真(しん)
 (世間は、空しく、本物ではない。ただ 仏様だけが、真実なのです。)
  ↓
 『 正像末和讃 』
  和国(わこく)の教主(きょうしゅ)聖徳皇(しょうとくおう) 広大(こうだい)恩徳(おんどく) 謝(しゃ)しがたし 一心に帰命したてまつり 奉讃(ほうさん)不退(ふたい)ならしめよ 
  意訳
   「和らぎの国」の教主(きょうしゅ)(お釈迦さま)である聖徳太子様の広大な慈しみのお心は、感謝しても感謝しつくすことはできない。
   二心(ふたごごろ)なく、聖徳太子様のお言葉に したがわせていただいて、いよいよ怠りなく、お念仏を称えさせていただきましょう。

-3-


 ↓
『尊号(そんごう)真像(しんぞう)銘文(めいもん)』(親鸞聖人 著)の中で、「和朝(わちょう)愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞が「正信偈」の文(もん)」といっている。
  ↓
 和朝 – 和国の朝家(ちょうか)
     ↓
    朝家 – 通常、天皇を中心とした一家。転じて、国のこと
 ↓
聖徳太子様から始まる 仏法の教えを中心としたお浄土が映し出されるような「和らぎの国」。

 ↓ 念仏者は、「娑婆世界を生きる身」と「浄土を目指す身」の
「二つの身」を生きる

『 帖外和讃 』
  超世(ちょうせ)の悲願(ひがん)ききしより われらは生死(しょうじ)の凡夫かは 有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど こころは淨土にあそぶなり
  意訳
   「衆生の苦しみを必ず救う」という世を越えた 大きなあわれみである阿弥陀様のご本願を聞いた時から、私たちは「生まれ変わり 死に変わり 流転し続ける凡夫」となったのでしょうか。(いや、そうではないでしょう、元から凡夫でありました。)
   私たちは、迷いの世界に留まり続ける 煩悩に穢れた この身であることは変わらないけれども、お念仏を称えれば、「心」は いつでもお浄土に行って、お浄土の姿を楽しみ、また、そのお浄土の姿からいろいろなことを学ぶことができるのです。
 ↓

-4-


帰命 無量寿如来(慈悲)
  「命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様」のお導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。
南無 不可思議光如来(智慧)
  いろいろな形となって、私達を支え、働きかけてくださっている阿弥陀様の智慧(光)をいただき、本来の命の姿に戻ります。

 ↓ 「阿弥陀様の命に帰る者」として

この娑婆で、「私がしたいこと、しなければならないこと、私にもできること」という「生きがい」をいただいて生活をしていく。

 ↓親鸞聖人の国家批判

『教行信証』の終りの方の意訳
  私なりに考えてみると、聖道門の教えは、行を修めて、悟りを開くことができずに、長く すたれてしまっている。
  それに比べて、浄土真実の教えは「悟りを開く道」として、今、非常に勢いが増してきている。
   そのような中で、聖道門の僧侶たちは、「教え」に暗く、何が真実で、何が方便であるか を知らない。
  朝廷に仕えている学者たちも、行の見分け がつかず、「よこしまな教え」と「正しい教え」の区別を わきまえていない。
  天皇も臣下の者も、法に背き、道理に外れ、怒り と 怨みの心 をいだき、承元元年(一二〇七年)二月上旬、興福寺の学僧たちは、朝廷に「専修念仏の禁止」を訴えたのである。
  そして、浄土真実の一宗を興された祖師 源空上人をはじめ、その門下の数人は、罪の内容を問われることなく、不当にも死罪、あるいは、僧侶の身分を奪われ俗名を与えられ、遠く離れた土地に流された。
  私も その一人である。だから、もはや 僧侶でもなく、俗人でもない。
  このようなわけで、禿(未熟者)の字をもって、自らの「姓」としたのである。

-5-