2016年 6月号 私はこの病気(結核)になったのが、非常な良縁であったので、もしこの病気にならなかったならば、これ程までに宗教の真髄を味わい、これ程までに如来の光明を認むることができなかったかも知れないのであります。

清沢 満之

 この数年間は自宅の周囲では聞こえなくなっていたカッコウの鳴き声でしたが、今年は早朝から元気な鳴き声が聞こえています。町の中をあちらこちらと飛び回り、よく響く声で「カッコウ」と歌っております。山で聞いても、山里で聞いても、河原で聞いても、それぞれの場所が不思議に似合う鳴き声です。

 六月六日は清沢満之先生のご命日です。明治36年(1903)40歳という若さでした。しかし、その膝下から現代社会に生きる人間が求めずにおれない心の要求に応えうる視座を持った真宗の教えの学びを担った人々が続々と生まれてきたのです。なお、お生まれになったのは文久3年(1863)です。

 清沢先生は名古屋の貧しい武士の家に生まれましたが、俊英ぶりが認められて大谷派宗門の援助で東京大学に進み哲学を学びました。その後25歳で京都府尋常中学の校長に就任しています。しかし、これを27歳の時には辞職します。このころから禁欲生活の実験を始めます。それが激しいものになっていき ついに結核を発病します(31歳)。38歳で東京に開校した真宗大学の学長(学監)に就任しますが39歳で辞任、この年は長男 信一さん・奥様のヤスさんが続けて亡くなります。40歳の年に3男の広済さんが4月に亡くなり、その後、6月には先生ご自身も亡くなられたのです。

 私たちの一生が、清沢先生のような生涯であったとしたら私たちはどのような言葉でその一生を受け取るのでしょうか。明治時代の結核という病は不治の病でした。ここには書いていませんが先生の一生は志とすることがすべて壊れるようなものでした。大谷派の宗門の改革ということに取り組もうとされたのですが、その結果は僧籍剥奪、宗門からの追放だったのです。このような人生の苦悩に出会わないように何か私たちを超越した存在に頼って、実現してもらうことが信心だとか、宗教の効能であるかのような考え方が根深く人間の心の中にはあります。ここで言われている宗教は、そのようなものではありません。

 このような人生を歩んだ先生の立脚地を「精神主義」と言われています。その「精神主義」について「精神主義とは、宗教を信じ、その宗教の立場に心を据えるものでありますから、宗教以外の事に心の立場を据えるものとは自ずから違います。」(50p)としたうえで「世間凡ての宗教以外の学問に重きを置きて、その学問が真理を教える者であるとしておる者に対し、否、学問は主とならぬというのが精神主義である」(同前)そして「私共は仏を信ずるものであるから、仏を信ずるということを主として、他のことを見ていくのである」(51p)また「宗教には、自力の宗教と他力の宗教とがありますが、私共はとうてい自力には及びませぬ。それ故 自力の精神主義ではなくて、他力の宗教による故、私共の精神主義とは、如来の広大なる他力によって、すべての事を見ていくのである」(51p)と精神主義が定義されています。また宗教による満足とは「金や、名誉や、知恵や、権力やその他かかるものが揃うがごとき満足ではない」。(52p)と私たちがこれを手にすることが「満足する」こととだ考えている内容を手にすることではないとしています。現在の社会の中にある宗教のとらえ方は「金や、名誉や、知恵や、権力やその他かかるものが揃うがごとき満足」を得ようとするものになっているのではないでしょうか。
 しかし、死病をえることによって深く「宗教の真髄を味わい、如来の光明を認める」ことができたとき、この死病にさえも深い意味を見いだすことが可能なのだと述べられています。
テキストは『定本 清沢満之文集』の「精神主義」松原祐善 寺川俊昭 編 法蔵館 を使用しました。

2016年 6月号 私はこの病気(結核)になったのが、非常な良縁であったので、もしこの病気にならなかったならば、これ程までに宗教の真髄を味わい、これ程までに如来の光明を認むることができなかったかも知れないのであります。」への2件のフィードバック

  1. 今日は本当にありがたい場を設けていただきまして誠にありがとうございました。
    村上さんの素晴らしいピアノ演奏といい、感極まる映像といい、感動を与える数々から、今でもその余韻に浸っております。
    こんな素晴らしい催し物は、もっと大勢の方々に観てもらえば良いと感じました。
    ところで以前からご住職の立ち振る舞いを見ていて、この辺のお坊様とは一味違うな!と見てきましたが、このホームページを見て茨城県産と云うことが分かり、やっと理解した次第です。
    今後とも地域や、困った方々の為に引き続き、精一杯のご尽力を期待しております。

    •  本当に、お暑い中、お越しいただきまして、ありがとうございました!
      「ピアノと映像と声の時間」、すばらしい企画で、僕も感動して、涙をこらえながら 座っておりました。
      また、顔が広く、行動力のあるお手次のご住職に、その感動をお伝えいただけましたら、より多くの方に見ていただけるのではないかな、と思ったりもいたします。(このような活動をしていることが、あまり知られておりませんで…)
       僕は、おっしゃる通り「茨城県産」でございまして、お寺のことも よくわかっていないものですから、開き直って、自由に行動させていただいている次第でございます。
       また、気軽に遊びに来てください! ありがとうございました!

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