「旅の手帳 北陸の観光文化情報誌 季刊(きかん)『彩都(さいと)』」より
(二〇〇七年一月二十日 石川県金沢市高岡町(株)アドマック発行)
豊かな精神土壌
「土徳」の里が 北陸に広がる。
人が造った都会 より、神が造った田舎 こそ 誇り。
「土徳」という言葉がある。広辞苑にも、大辞林にも出てこないので、少なくとも一般的に使われている言葉ではないことが分かるが、雰囲気はなんとなく理解できそうだ。ここでいう「土」は、大地や地面、土壌といった意味ではなく、人が暮らす土地や地域を指すのだろう。「徳」という言葉も、西洋にはない東洋の宗教哲学的な概念であり、身近な日本語の中から端的に指し示す言葉を探すのは難しい。強いて言うなら、品性や恩恵、加護といった解釈が当てはまるのかもしれない。
この「土」と「徳」を組み合わせた「土徳」とは、要するに、そこにある自然、風物、周囲の人々もひっくるめて、他者に対して安寧をもたらし、それでいて何も求めない品性、品格が宿る土地、地域と形容できそうだ。本来は浄土真宗の教え、考えから生まれた言葉だといい、浄土真宗の盛んな北陸の風土を指し示す一つの表現だと聞いている。
小誌『彩都』は、金沢に代表される、歴史が醸し出す情趣にあふれた伝統文化を紹介する傍ら、北陸の農村や山村に伝わる人々の無垢な営みにも光を当て、北陸の生活文化、観光文化の語り部であろうと努めてきた。
今号も、とりわけ真宗風土が濃厚に残る富山県南西部の南砺市の山村、農村をはじめ、能登半島に暮らす人々のさまざまな思いと営みを「土徳」の切り口を意識して特集した。ここで何より強調したかったのは「この土徳に生まれて幸せだった」「こんな地域に生まれたかった」とする地元の人々や旅人の心にほかならない。
富山県の南砺といえば、自治体合併で南砺市に併合される前の福光町に戦後暮らした稀代の版画家、棟方志功が思いおこされる。棟方は疎開に訪れた福光で「南無阿弥陀仏」の大きな仏意に包み込まれるうち、創作の壁を打ち破り、今に残る数々の名作を生み出したことで知られる。棟方の場合は実際にそこに住み、地元の人々との交流もあったから、真宗王国に息づく蓮如さんの心に触れ、創作に苦悶する心が解き放たれたのかもしれない。
これこそが、精神世界的な安らぎをもたらす田舎の底力に違いない。しかし残念でならないのは、現代日本が政府を挙げて田舎を取り壊し、何の変哲もないただの町に変貌させてしまったことである。ゲーテは「都会は人が造る、田舎は神が造る」という言葉を残したそうだが、合掌造りの民家が軒を連ねる五箇山、南砺の散居村、能登半島の山里を取材して痛感した思いを言い当てている。
観光客が求めるものは、三流、四流の都会などではなく、ほっと気持がほぐれ、体の力が抜けて癒される田舎の気配りそのものなのではないか。もしそうなら、素朴な形で生きながらえた人の心も、風物も産物も、今あるままにどうにかして残さなければなるまい。超一流の田舎で誇り高く生き、国内外から訪れる人々を自然な姿で迎え入れる温かく大きな懐をこれからも持ち合わせたいものである。
富山県南砺に「土徳」をみた
三流の都会より超一流の田舎でありたい
年間の自殺者が三万人を超え続けている日本は病んでいるのかもしれない。将来に不安を持つ人も増えるばかりだ。私たちは戦後、何を手に入れ、何を置き忘れてきたのだろうか。少しは幸せになったのだろうか。その答えを探して富山県南砺地方を訪ねた。そこには、豊かな自然がまだ残り、人々の心に浄土真宗の光が射し、あらゆるものに感謝し、仏を拝んで内省し、目に見えない力に育てられていることを信じて疑わない暮らしぶりを見つけることができた。南砺地方の人たちは、こうした風土を誇らしげに「土徳」と呼ぶ。これこそが、かつてどの地方にも根づき、やがて、見失われていった日本の心なのだ。「三流の都会より、超一流の田舎でありたい」という人々の自然な姿と日常を紹介しよう。
都会は人が造る 田舎は神が造る
真宗大谷派大福寺(南砺市大窪)の太田浩史住職は、無名の職人による民衆的工芸品の美を発掘する民藝運動家として活躍している。「民藝」の美学は、仏教の他力思想に基づいており、太田さんは南砺の「土徳」との深いつながりを見いたして、光を当てようと心を砕いている。「民藝」、「真宗」、「土徳」とはどういうものか、それらの関係性について語ってもらった。
民藝とは、土地の素材と伝統の技に素直な民衆が生み出したもの
民藝というのは、芸術や美術工芸に対置される言葉です。美術品は芸術家個人の能力で作るもので、希少価値があり、人がまねのできないものを作ろうとします。そして鑑賞して楽しむものです。これに対して民藝に個人性はなく、民衆性があります。民衆的工芸とでも言いましょうか、名もなき民藝が地域でも生産される素材と伝統の技に素直になって作っていけば、どんな平凡な人間でも、天才の作った美に勝る美しいものができるのです。
民藝には芸術家にできないことが二つあります。一つは、無意識のうちに作ることができるということです。これは芸術家にはなかなかできないでしょう。もう一つは、安く作られることです。美術品は桐の箱に大事に入れて飾っておくもの、展示するものですが、民藝は実用品であり、たとえ壊れても、いくらでも作られる違いがあります。
手仕事が消えれば国が滅ぶ
今までは美術品の美だけが求められてきましたが、それだけでは美の全体を説明したことにはなりません。これからは民藝的な美とも光を当てていかねばならないのです。同じ人間が営むものづくりの中で、どちらが主流で、大切なものかといえば、美術品よりもむしろ民衆が作り上げる手仕事ではないでしょうか。それは社会や文明の基礎を支えてきたものであり、それが衰えた国はいろいろな方面で力をなくしていきます。重化学工業やIT技術の発展も大事ですが、一つの国にとって大切なものは、ものづくりという原点なのです。民衆の作り出すものが豊かにあふれていれば、その国は美しい国になっていくでしょう。素直で健康的なものを使いこなす生活文化が豊かに発展している国です。安部晋三首相がキャッチフレーズに掲げている「美しい国」の意味はよく分かりませんが、民藝運動に携わる僕らはすでに答を持っている。「美しい国」とはどういう国で、どうしたら作れるのかということを…。
宗教哲学者の柳宗悦は、そうしたことを大正時代の終わりに民藝運動として提唱しています。富国強兵だとか殖産興業という当時の国是は、今で言う一種のグローバリゼーションでしたが、それによって、産業機械が進出し、手仕事をする職人の職場がなくなっていく時代だったのです。
「おかげさま」と感謝する「他力」の精神風土
この地には蓮如上人以来の伝統で、他力の思想、精神風土がありました。他力とは、自我を主張するとか、個人主義とか、自分だけ得すればいいという考えとは 反対に、生きること自体を「おかげさま」と人々が互いに感謝することなのです。
柳宗悦は、今お話しした民藝の思想をどうしたら理論的に証明できるか追求していました。民藝は物ですが、柳はこの地へ来て他力の精神風土に接し、大きなインスピレーションを得たのです。それは、人間を救うための思想、つまり他力の精神は、人とか心の話ですが、民藝という物に関する美の理論が人間の心にもあてはまるということです。心に働いているものが同じように物にも働いている…。人間を超えた大きな力、大自然や大宇宙の力が人間の心に働いたときに「信」になり、物に働いたときに「美」になることをつかんだのです。これを柳宗悦は「美信一如」と言っていますが、これがきっかけとなり、昭和二十三年、城端別院(善徳寺)にこもって『美の法門』を書き上げます。その中で柳は、「民藝美論」という言葉を「仏教美学」と言い換えて、その理論を昇華させているのです。
それまでは民藝の美といっても、骨董趣味のように、何かちぐはぐなイメージで受け取られていたのですが、民藝の美に触れて人は心も救済されることや、倫理性、道徳性が含まれないと本当の美ではないことが柳宗悦によって理論家されたのです。しかし芸術家は違うのです。たとえば、十九世紀のドイツの作曲家ワグナーのように、天才的に美しい音楽を作るけども人間的には非道徳的だったのと違い、民藝の美しさは道徳性にあるのです。それが他力の思想と出合ったわけで、柳はこの地の人々の暮らしぶり、人生に対する態度は民藝の精神そのものだということに気付いたのです。
棟方志功が福光へ来て、なぜ作品が急に良くなったのか。柳は、棟方がこの地から受けた目に見えない影響力を「土徳」と名付けました。しかし、それはきっかけに過ぎません。「土徳」は普遍的に、世界中どこにでもあるからです。土徳のないところはありません。世界中の文化はすべて、その地域の伝統と材料に忠実であれば、みな美しいものを作ってきたのです。そういうことを自覚させる要素が北陸の精神文化にあったということでしょう。
この地域の人々の人生に対する態度を一言で表現すると、感謝の気持ちです。感謝のない幸福 というものは 果たしてあるのでしょうか。お金持ちが幸せだと思う感謝もありますが、それは 自分の幸福に感謝している だけです。これに対して、この地の人たちの感謝は、全方位、ありとあらゆるものに感謝しているのです。「仏さま」だけでなく、「人さま」という言葉もあるほどですから。
この地では、感謝の気持ちが基盤になって地域社会がつくられているのです。個人主義と違うものですが、しかし、どちらが幸福を達成できるか、少なくとも、幸福感を持っていられるか、ということだと思うのです。
次に風土、つまり豊かな里山があります。里山があることによって感謝が具体化します。実り とか 自然 とか に 感謝を捧げられるのです。
もう一つは 真宗独特のもので、お講があります。お講は共同体です。皆で語り合えながら、自分が気づかされるのです。自分が研究して何かをつかむという発想でなくて、周りの人に気づかせてもらうということ。吉川英治(よしかわえいじ)風に言えば、宮本武蔵に言わせたら「我以外皆我師(われ いがい みな わが し)」の精神なのです。極端に言えば、泥棒だろうが なんだろうが 皆師、つまり、「人さまによってお育てに預かる」という発想を持った社会。これがつい最近まで、現実にあったわけです。「結(ゆい)」もそうです。私たちの生活も仕事も一人では できません。五箇山の合掌造りの屋根も かやぶきの仕事は一人の力、経済力で できるものではありません。葬式でも結婚式でも、皆が協力し合って生活してきたのです。
お講というのは、仏教思想を媒体(ばいたい)として自分を内省する働きがあります。物質的利益の共同体ではないので、お講に入れば楽だ とか 得するという話ではなく、感謝が深まれば深まるほど、「感謝」の心、つまり、社会や他人に尽くすことですが、義務感ではない 自然な気持ちの発露として行動がでてくるのです。それは意識していないから尊いのです。良いことだから やろうというのでなく、当たり前、空気みたいなものなのです。
だから、棟方志功は『板極道(ばんごくどう)』という著書で、「ここでは誰も彼も、知らずの内、ただ そのままで 阿弥陀さま に なって暮らしているのです」と書いています。棟方志功から見れば そう見えたのでしょうね。
ボランティアをする人は 達成感が得られる といいますが、ここではそんなものは 全然 求めていません。良いことをしたという気持ちもないし、良いことをしたから気持ちがいいというものでもありません。
蓮如の教えが、空気のように漂っていた
この精神性は、蓮如上人が十五世紀に この地へ来て すぐにそうなったのでなく、この地の人々が何十世代にわたって、蓮如の教えに基づいて毎日の生活を営んできた、その生活の堆積(たいせき)、蓄積が自然化したものといえるでしょう。それが「土徳」となって 私たちに恵まれているのです。それは無意識化、無自覚化された空気のようなもので、空気には だれも感謝しないでしょう。当たり前すぎて見えなくなっているのです。
そこへ個人主義というグローバリズム(世界の一体化を進める思想)が入ってくると、「土徳」は 空気みたいなものだから、気がついたら 無くなっている。無くなってみて 初めて喪失感を持つことになります。今がそうでしょう。皆が、無くなったことに ショックを受けている。
あり得ないことが 次々と起こっているからです。田舎の普通の子が 突然キレて、反社会的なことをやったりしています。理由が分からないことが起きているのです。それは社会の基盤が崩れているからなのです。家があちこち傷んで、修理しても 修理しても、ガタがくる。何のことはない、家の基礎を直せばいい。そんなようなことが「土徳」なんでしょうね。
棟方志功の作品を一変させたものとは
柳(やなぎ)宗悦(むねよし)に才能を見出された棟方志功は、昭和十九年に陶芸家河井寛次郎の勧めで始めて福光の光徳寺へ来ています。そこでインスピレーション(突然のひらめき)を得て 光徳寺の襖絵(ふすまえ)「華厳松(けごんまつ)」を描きました。翌 昭和二十年三月、再び 福光へ疎開で来て、半年も たたないうちに棟方の作品は大きな変化をとげています。このころのこと について棟方はこう言っています。
「いままでは ただの、自力で来た世界を、かけずりまわっていたのでしたが、その足が自然に他力の世界へ向けられ、富山という真宗王国なればこそ、このような大きな仏意の大きさに包まれていたのでした。(中略)富山では、大きないただきものを致しました。それは『南無阿弥陀仏』でありました」(『板極道』)
一心に取り組んでいて、最後の壁が破れない、打ち破れず悩んでいる人たち。人生に矛盾を感じ、真実を追求していて壁にぶちあたっている人たちも、北陸へ来ると、何か知らないうちにポンとはじけるように超えてしまう。この土地柄は そういう働きをもっていて、その原因を探っていくと蓮如さんに 行き着くのです。これは五百年もかかって作られてきたものだから、大きな財産 と 言わなければなりません。
「土徳」の地で開かれる新しい精神世界
海外の人も日本人でも、そういう人が来るべき所が南砺なのです。単に観光に来て遊ぶのでなく、巡礼的な観光というべきでしょうか。親鸞聖人も悩んだときにはあちこち聖地を巡ったそうですが、人は困ったときにはそういう所へ行きたくなるものです。何かのきっかけにしたいという意味で、ここはいい場所なのです。柳宗悦も城端別院に七十日こもって『美の法門』を執筆しています。
この地に起きた民藝運動の中心的メンバーの一人が棟方志功でした。でも、この地の人は棟方志功が「民藝の人」であるとの自覚はあまりないようです。それでは、彼がこの地に愛着を感じ、長く滞在した必然性がりません。棟方は昭和二十六年までいたのです。そうでなければ、戦争が終わったらさっさと帰って言ったはずです。
日本人が壊し、外国人があこがれる日本の田舎
海外から日本に観光客が何百万人と来ます。政府は リゾート法を作って観光を振興(しんこう)しましたが、レジャー施設は ほとんど人気がない。そこで政府は、外国人観光客に日本へ何を目的に観光に来たか、アンケート調査したそうです。それによると、一位が「神社・仏閣」、二位が「日本の自然」で、政府が驚いたのは三位に「日本の田舎」が入っていたことでした。この三つとも、政府が保全のために努力してこなかったばかりか、三位の「日本の田舎」にいたっては、国力を挙げて 壊してきたものではないでしょうか。
日本の戦後は、日本列島の均衡(きんこう)ある発展を図(はか)らなければいけないとか言って、田舎を都会にすることが目的になっていました。日本の田舎は 大変価値あるものであることを、恥ずかしいことに、外国人観光客から教えられたのです。
ゲーテは「都会は 人が造る、田舎は 神が造る」という意味の言葉を残しています。都会と田舎は役割分担があって、都会は 国を物質的に富(と)ましてくれ、田舎は精神的に富(と)ませてくれます。両方がしっかりしていないとうまくいかず、都会を優先して田舎を犠牲にしては その国は だめになってしまいます。
ところが、今の日本の発想は、田舎の価値を理解せず、田舎を都会化することばかりに力を入れています。そして、都会化しようとする田舎同士の競争になり、その最大の相手が東京だと思っています。一極集中をどう是正(ぜせい)するかなど と 言って、田舎を壊して 全部 都会にしようと一生懸命になっています。
北陸が二十二世紀に生き残るには 二つの道があると思います。三流の都会になって東京の下僕(げぼく)になるか、あるいは、超一流の田舎を目指すのか、です。超一流の田舎は もちろん、精神的にも物質的にも豊かであるべきです。都会の真似事をする豊かさ では ありません。
北陸は、交流人口を受け入れる意味で 豊かでなくてはなりません。お金は、美しい里山を整備する とか、より美しい田舎にするために使われるべきです。
若い人は都会にあこがれるものですが、これからはどこに住むかを選択する時代です。都会が得で、田舎が損という発想ではなくて、自分はどの世界で活躍したいのかを考えてほしいと思います。人類への貢献度は田舎に住むほうがよほど高いはずです。そういう中で自分の価値観、達成感を確立してほしいものです。都会も田舎を無視して成りたつのでなく、田舎に感謝して、恩返しするような都会であるべきだと思います。田舎は親で、都会は子供、ゲーテに言わせれば田舎は神で、都会は人だから…。そうしたら、豊かな田舎が成り立ちます。都会は田舎よりも進んでいて、新しいものが常に正しいと思い込むような都会への不健康なあこがれを抱くのは誤った教育の弊害です。
機械産業も、その原点である手仕事に感謝し、自分の親、神として敬うべきではないでしょうか。田舎の精神的価値と都会の物質的価値。この共存共栄を図る国であってほしいと思います。五箇山、能登、白山麓など、疎開にさらされている所は大変な財産なのです。こうしたことを宗悦は八十年も前に言っているのです。
私たちは何をすべきなのか
田舎が豊かになるためには、田舎に住む私たちが国際人にならねばなりません。世界の中で自分の故郷がどういう位置にあるのか、人類にどういう貢献ができるかをグローバルに見られる人間にならないといけません。「真の国際人とは、ふるさとに誇りを持つ人のことである」というのはヨーロッパに定着している考え方ですが、自分のふるさとに誇りを持てない人は、他の国の一人ひとりの人柄、ふるさとに敬愛を持てるはずがありません。互いに腹の底から付き合えないでしょう。
日本では、国際化という名のもとに英語とかパソコンを教えていますが、子供たちにふるさとに感動する心を持たせる教育が先決ではないでしょうか。日本人は日本の文化にコンプレックスを持っているようです。いまだに黒船のショックを引きずっているわけでもないでしょうが、向こうがわれわれに何を期待しているのか、双方で食い違っているような気がします。われわれは国際社会が期待するようにふるまえば良いのではないでしょうか。国際社会の期待は、日本人がより日本人らしくふるまってほしいということでしょう。
日本の思想、文化には、ヨーロッパの行き詰った価値観を超えて、ヨーロッパに新しい恩恵をもたらしてくれる可能性があると考えられています。座禅を組んでいるキリスト教の牧師さんは「今の文明の危機的状況にはキリスト教の責任もあり、われわれの姿勢が間違っていた。イエスの教えに戻り、神の愛に帰るには、仏教の教えが必要だ」と言っています。
グローバル化とは、私たちが、より個性的になることではないでしょうか。グローバリズムの中で生き残るには、北陸がより北陸的になることだと思います。コンビニやデパートがアメリカと同じであってはいけないのです。
南砺の風土と歴史
信仰の深まりが発酵した土徳の里
南砺地方は、富山県の南西に位置する城端町、福野町、福光町、井波町、井口村の平野部と、五箇山の平村、上平村、利賀村の旧八町村を総称した地名である。平野部には、庄川と小矢部川に沿って、豊かな田園地帯に「散居村」が広がり、北陸でも有数の穀倉地帯となっている。五箇山は白山国立自然公園の美しくも厳しい自然を背景に、世界遺産の「合掌造り集落」が静かなたたずまいを見せる。中世に蓮如上人が布教に訪れたことによって、人々の心には浄土真宗の信仰が深く浸透している。平野部と山岳部を併せ持つこの地方は、西は金沢市、南は岐阜県飛騨市や白川村と接し、特に加賀百万石の影響を受けて、越中・富山の文化とはやや趣を異にした独自の風土に根ざした文化を育んできた。かねてから地域間の経済的、人的な結びつきは強く、平成十六年十一月、南砺地方の八町村が合併し、南砺市を誕生させている。
綽如が種をまき、蓮如が水をやり、赤尾の道宗が丹精した越中の真宗
南砺地方の歴史と文化、人々の暮らしは、浄土真宗を抜きにしては語れない。
本願寺五世綽如が明徳元(一三九〇)年、北陸での浄土真宗布教の拠点として井波に瑞泉寺(井波別院)を建立して以来、真宗の教えはこの地に干天の慈雨のごとく浸透する。五箇山では、蓮如の愛弟子、「妙好人(信仰心が篤い在家信者を称賛した呼び方)」と称された赤尾の道宗が、永正十(一五一三)年に行徳寺を開いて村人に教義を説いている。永禄二(一五五九)年、蓮如が開基したとされる善徳寺(城端別院)が加賀・越中の国境付近から城端の地に移築され、南砺地方は北陸における真宗の一大拠点を形成することになる。
現在わずか六万人が暮らす南砺地方に、本山の代理を務めるほどの格式を持つ「別院」が井波と城端に二つも存在することからも、本願寺がこの地をいかに重要視していたかを知ることができる。井波別院は、天正十三(一五八五)年に本願寺が豊臣秀吉と講和するまで、城端別院、勝興寺(高岡市)とともに、越中の一向一揆の牙城となり、時の権力と対峙する力を持っていく。
井波、城端の両別院を核として
こうした歴史的背景のもとで、旧井波町と旧城端町は、中世から近世にかけて両別院の門前町として、また、交易が盛んになった旧福野町や旧福光町は市場町として大いににぎわった。
井波の瑞泉寺に施されている見事な彫刻は、優れた腕を持った宮大工や彫刻師、塗り師らが京都から呼び寄せられ、残したものである。その技は地元に引き継がれ、井波は木彫美術の町として発展した。現在でもアトリエを構え、彫刻家を目指す若者が全国から集まっている。
善徳寺のある城端には、四百年前に絹織物産業が興り、加賀藩の保護を受け、「加賀絹」の名で京都や江戸へ運ばれた。また、五箇山の和紙の集配地としても栄え、町衆は大きな財を成していく。城端の街が「小京都」と呼ばれるたたずまいを残しているのは、富を蓄積した町衆が京都などに遊びにでかけ、その文化を持ち帰ったことによるとされる。絢爛豪華な城端曳山、粋で哀調を含んだ庵唄(城端唄)が継承され、往時の繁栄を今に伝えている。
のどかな南砺の田園地帯に、時間はゆっくり流れている。人々は皆、親切で思いやり が 深い。近所同士の助け合いの精神が色濃く残り、昭和四十年代までは、「家に かぎ なんか かけたことがなかった」と地元のお年寄りが言うように、およそ犯罪とは無縁の土地柄だった。今でも、刑法犯(けいほうはん)認知件数は富山県内で最も少ない市町村の一つである。
一世帯当たりの住宅延べ面積が全国一の富山県の中でも、南砺地方の人口一人当たりの住宅延べ面積は 県内で最も広いから、おそらく南砺は全国一であろう。
なぜ広い家が造られるのか。旧城端町の古老は「家をお寺のように使うから」と教えてくれた。真宗門徒の家々に順番に回ってくる「お講」を営みために、百畳を超える部屋が造られ、廊下がなく、すべての部屋は障子で仕切ってある。門徒衆が相集い、読経、説教聴聞のあと、そろって「お斎(おとき)」をいただいた。僧侶の控えの間が必ずあり、玄関は村中の人が 履物を脱げるだけのスペースを確保している。
宗教的行事である「お講」は、精神的かつ物質的共同体を形成した。蓮如が間引きを禁止したため、この地域では どんな飢饉が訪れようとも産児制限は行わず、村に生まれた子供は「お講」で育て、食べさせた。信仰深い村人が夫婦で何年もの間、本山へ勤労奉仕に行っている