11 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

↑ 練習した音源(約29 分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


正信偈の構造(大きく 三つ に 分かれる)

第一段 総讃(そうさん)「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
 「心の底から阿弥陀仏を敬い、日々の拠り所として生きていきます」という お心の表明

第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章」法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就
                  「釈迦章」如来所以興出世~是人名分陀利華
  『大無量寿経』に依り、
 「弥陀章」で 阿弥陀仏の本願を述べ、
 「釈迦章」で 阿弥陀仏の本願 を 私達に教えてくださった釈尊を讃える

 (結誡(けっかい))弥陀仏本願念仏~難中之難無過斯
  改めて、阿弥陀仏の本願を振り返り、自らを省みて、深い懺悔と、得難い信心を獲た喜び とをもって、「依経段」を結ぶ

第三段 依釈段(えしゃくだん)
 ( 総讃(そうさん) )印度西天之論家~明如来本誓応機
  七高僧が、釈尊の お心 を 明らかにし、阿弥陀仏の本願が 民族や時代の異なりをも超えた「本当の救い」であることを証明している

 釈迦如来楞伽山~唯可信斯高僧説
  七高僧が教えてくださった本願念仏の要点を掲げ、その徳を讃える 

 ↓

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今日のお言葉

〈 原文 〉
本願名号正定(しょうじょう)業 至心信楽(しんぎょう)願為(に)因
成(じょう)等覚(とうがく)証(しょう)大涅槃 必至滅度(ひっしめつど)願成就 

〈 書き下し文 〉
本願の名号は正定(しょうじょう)の業なり。至心信楽(ししんしんぎょう)の願(がん)を因(いん)とす。
等覚(とうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは、必至滅度(ひっしめつど)の願(がん) 成就(じょうじゅ)なり。

 ↓
第二段 依経段「弥陀章」の結びとなる もっとも大切な四句

 ↓

等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。

〈 言葉の意味 〉
「等覚」→「無上正(しょう)等(とう)正(しょう)覚(がく)」
       ↓
     「無上」‐ その上がなく最高である
     「正等」‐ 偏(かたよ)りが無く 等しい 
     「正覚」‐ 仏の完全な覚り   
  ↓
 この上にない、完全に偏(かたよ)りの無い 仏になることができる すぐれた覚り
  ↓ 簡単にいうと 
 仏に成る

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(『一念多念文意』親鸞聖人 著
 私達の「身」には 無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒り や 腹立ち や そねみ や ねたみの心ばかり が 絶え間なく起り、まさに「命が終ろう と する その時」まで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない。そのような者を「凡夫」というのである。
 水(すい)火(か)二(に)河(が)の譬(たと)え(浄土往生を願う衆生が、信を得て 浄土に至るまでを表したもの)に示されている通り、このような 嘆かわしい 私達 も、二河(にが)に はさまれた 一筋の白道(びゃくどう)、すなわち 本願の はたらき の中 を一歩二歩 と 少しずつ 歩いていくなら、無礙光仏(むげこうぶつ)と示された光明の お心 に 摂め取ってくださるから、必ず浄土に往生することができる。そうすれば、浄土の悟りの花に生れ、阿弥陀如来と同じく、この上ない悟りを開かせていただくのである。〈取意〉)

「大涅槃」→「涅槃」 
  ↓
 苦悩の原因である煩悩をすべて滅(めっ)して、迷いから解放された状態
  ↓ 浄土真宗では、
 阿弥陀様の ご本願 に よって遂(と)げさせていただく「浄土往生」のこと

「証する」‐ 仏の教え に より 真理を体得する。悟りをひらく。

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(《「往生」と「成仏」について 》
 念仏者は、「娑婆世界を生きる身」と「浄土を目指す身」の「二つの立場」に 身を置いて生活をしていく
  ↓
 『親鸞との対話』曽我量深
 往生 も 身 にあり、というのが 浄土宗。
 成仏 も 心 にあり、というのが 聖道門。
 往生 は 心 にあり、成仏 は 身 にあり、というのが 浄土真宗の教え である。
  ↓
 『帖外和讃』親鸞聖人 著
 超世(ちょうせ)の悲願(ひがん) ききしより  われらは生死(しょうじ)の凡夫かは  有漏(うろ)の穢身(えしん)は かわらねど  こころ は 淨土に あそぶなり
  「衆生の苦しみを必ず救う」という世を越えた 大きな あわれみ である阿弥陀様のご本願を聞いた時から、私達は「生まれ変わり 死に変わり 流転し続ける凡夫」となったのでしょうか。
  (いや、そうではないでしょう、元から凡夫でありました。)
  私達は、迷いの世界に留まり続ける 煩悩に穢(けが)れた この身であることは変わらないけれども、お念仏を称えれば、「心」は いつでもお浄土に行って、お浄土の姿を楽しみ、また、そのお浄土の姿からいろいろなことを学ぶことができるのです。)

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「必至滅度の願」第十一願
 私が仏になるとき、私の国(浄土)の天人や人々が、必ず悟りに至る。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
  ↓
 浄土へ往生したものは、必ず悟りに至る、悟りをひらく

「成就」‐物事を成し遂げること。また、願い が かなうこと。

 ↓ 簡単にいうと

私達が、浄土往生を遂げさせていただき、仏に成ることができるのは、阿弥陀様が「必至滅度の願」(第十一願)を成し遂げられているからなのです。

  ↓

正信偈 第二段 依経段「弥陀章」の結び と なる 大切な お言葉
「本願の名号 は 正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願 成就なり。」
  ↓
 「真実五願(十一・十二・十三・十七・十八願(十九・二十願))」を主に表現している

  ↓
親鸞聖人は、四十八願(阿弥陀様が法蔵菩薩であられた時、諸仏の立てられた誓いの中から最も優れたものを「四十八の誓願」として選び取られた)を、さらに、「方便の願(人を良い方向に導く手段・方法)」と「真実の願」とに 分けられた

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 ↓
阿弥陀様の願い
「もし、すべての生きとし生けるもの を 救うことができないのであれば、私は 仏 には 成らない」

 ↓ そのことを実現するために

「光明無量の願」(第十二願)によって、すべての世界 を 照らしぬき、
「寿命無量の願」(第十三願)によって、すべての 生きとし生けるもの を摂取して おさめとっていく、
「ひかり と いのち きわみなき 阿弥陀ほとけ」と 成られた

 ↓「真実の行」諸仏称名の願(第十七願)によって

そして、「その阿弥陀様」を、すべての世界の数限りない仏方(よき人・善知識)が、「南無阿弥陀仏(私は、阿弥陀様を拠り所として生きて行きます)」と ほめたたえ、「すべての 生きとし生けるもの」に、お念仏を称えることを勧めてくださる。そうして、「南無阿弥陀仏」が すべての世界に届けられていく。

 ↓ 私達が、「南無阿弥陀仏」を通して、「阿弥陀様」に出会う

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私達が 本当に願っている「自利(じり)利他(りた)円満」という生き方 に 出会う。
「自利(じり)」‐「自分が助かること」ばかりを考えているために、どうしても 誰か を 犠牲にしてしまう。そうして、なんとなく「後ろめたい気持ち」を持ちながら生活を送る。
「利他(りた)」‐「人の力 に なりたい」と願って、人に尽くす生活を送る。しかし、「自分を犠牲にしてしまっている」所 も あり、なんとなく 心が晴れない。
 ↓
阿弥陀様は、「自利(じり)利他(りた)円満(穏(おだ)やかに、調和が とれている)」。
自分のことを犠牲にして、「他者を救いたい」と願われた わけでもなく、他者を犠牲にして、「悟りを得て、自分だけ 仏に成って救われたい」と願われた わけでもない。
自利(自分を救うこと)と、利他(他者を救うこと)が、矛盾しないで、「私が仏に成ることで、すべての生きとし生けるものを救いたい」と願われた。
そして、「南無阿弥陀仏」が、この私 に 届けられる時には、「阿弥陀様の お心」に学んで、実際に「南無阿弥陀仏」と お念仏を称えて生活をしている「よき人・善知識」との 出会い が ある。

 ↓ それまでの「私達の日常」は、

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(平成二十八年六月十日 紹介)
三つの髻(もとどり) → 自分を飾るもの の 象徴
 一、勝他(しょうた)
  周りの人と比べて、「自分の方が、優れている」と、思おうとする心。逆にいうと、人から見下されるのを嫌う心。
 二、名聞(みょうもん)
  有名になって、一目置かれる存在になろうとする心。権力を求め、その権力で、周りの人を従わせようとする心。
 三、利養(りよう)
  金持ちになろうとする心。お金を持っていない人を見下す。財産の 多い 少ない によって、人の価値を決めてしまう心。

五怖畏(ごふい)(目に見えないもの に 対する 五つの恐れ)
 一、不活畏(ふかつい)
  「生きていけなくなるのではないだろうか・・」という心配。主に衣食住(衣服、食物、住居)の不安。
 二、悪名畏(あくみょうい)
  「周囲から悪く思われていないだろうか」と、絶えず 回り を 気にして、「人に いいところ を 見せよう」と思い、苦労をする
 三、大衆威徳畏(たいしゅういとくい)
  「仲間外れ」にされることを恐れ、実体のない「世間」に おびえる

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 四、命終畏(みょうじゅうい)
  「死んだら どうなるのだろう」という不安。少しでも病気になれば、「死ぬのではないか」と 心細くなる。
 五、悪趣畏(あくしゅい)
   悪趣とは三悪趣「地獄・餓鬼・畜生」。「そのような苦しみの世界に、落ちたりしないだろうか」という不安。「いろいろな不幸」に おびえる。

 ↓《 自力雑行の歩み 》第十九願 至心発願(ほつがん)の願

「阿弥陀様の お心」に触れ、「私も悟りを得て、迷える人々を救いたい。また、私自身のことも救いたい。」と、「悟りを求める心」を起こして、「仏に成るための修行」に励み、さまざまな功徳を積んで行く。

 ↓《 自力念仏の歩み 》第二十願 至心回向の願

修行に励むことによって、逆に、「この 煩悩が限り無く わき起こってくる 人の身体(からだ) を 生きている限り、悟りを得ることは難しい」ということ を 思い知らされ、「阿弥陀様の お念仏の功徳」によって、浄土へ往生しようとする

 ↓ 親鸞聖人が、私達の前に、実践し 明らかにしてくださったこと

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《 法然上人との出会いの意義 》(真宗高田派本山 専修寺 ホームページより)
人生 は 出遇い です。いつ、どこで、どんなことで、誰に出遇うか。そのことが お互いの生涯 を 決めていきます。
親鸞聖人は、二十年という長い 比叡山での修行 に 行き詰まって、その解決を聖徳太子のご示現(じげん)に仰(あお)ごう と、京都にある太子建立の六角堂 に 百日の参籠(さんろう) を されたのでした。
そして、太子の夢告(むこく) に 導かれて、東山(ひがしやま)吉水(よしみず)の草庵(そうあん)に 法然上人を訪ねられました。
草庵には、上人の教え(私達は、「往生の行」として阿弥陀様に選び取られた「念仏」でしか、浄土へいくことはできない という教え)を聞こう と 毎日 庶民が群参(ぐんさん)していました。
聖人も その一人 と なって 百日間 も 聴聞され、ようやく 自分の救われる教え を 思い出されたのでした。
聖人は、この出遇いを『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)(総序(そうじょ))』に
「遇(あ)い難(がた)くして、遇(あ)うことができました。聞き難くして、真宗の教え を 聞くことができました」
と感佩(かんぱい)(心から感謝して忘れない)されています。
また『浄土高僧和讃(源空讃(さん)第四首)』には
「本師(ほんじ)源空(げんくう)いまさずば このたび むなしく すぎなまし」
もし 法然(源空)上人との出遇い が なかったら、せっかく この世に人間 として 生まれてきても、救われることなく 無駄な人生で終わってしまうところでした、と 述懐(じゅっかい)しておられます。

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 ↓ そして、《 他力念仏の世界へ 》「真実の信」第十八願 至心信楽の願

「自力の歩み」を通して、
・「私が 悟り を 求めた心」も、「阿弥陀様からいただいた心」であったことに気づかされ、
・「お念仏」も、「私が お念仏 を 称えていた のではなく、阿弥陀様の不思議な お力 によって、お念仏 が 私の声 と なって、私の口 から 出てくださっていた」と、気づかされる。

 ↓
第十一願 必至滅度の願
 私 が 仏 に なるとき、私の国(浄土)の天人や人々が、必ず 悟り に 至る。そうでなければ、私は 決して 悟り を 開きません。
 ↓
「浄土に往生した者 は、必ず 悟り を 得て、仏 に 成ることができる」という「阿弥陀様の お言葉」を信じて、お念仏を称えて、阿弥陀様に お任せ して 生活を送っていく。

 ↓
本願の名号 は正定(しょうじょう)の業なり。至心信楽(ししんしんぎょう)の願(がん)を因(いん)とす。等覚(とうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは、必至滅度(ひっしめつど)の願(がん) 成就(じょうじゅ)なり。
 本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、阿弥陀様によって選ばれた 浄土へ往生するための正しい行い です。
 それは、「至心信楽の願」(第十八願)が、もとになって、証明されていることです。
 私達が、浄土往生を遂げさせていただき、仏に成ることができるのは、阿弥陀様が「必至滅度の願」(第十一願)を成し遂げられているからなのです。

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 ↓
法蔵菩薩 で あられた時の お誓い
「もし、すべての生きとし生けるもの を 救うことができないのであれば、私は 仏 には 成らない」という お誓いを、
第十一願 必至滅度の願・第十二願 光明無量の願・第十三願 寿命無量の願・第十七願 諸仏称名の願・第十八願 至心信楽の願(第十九願 至心発願(ほつがん)の願・第二十願 至心回向の願)によって、かなえることができ、「阿弥陀様」と なることができた、そのことを表現している 阿弥陀様 に とっても「もっとも 大切な お言葉」となる

《 まとめ 》
第二段 依経段「弥陀章」意訳 法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就
 阿弥陀様が、法蔵菩薩という修行者になられる前、一国の国王であられた時、世自在王仏の「教え」に、深く感動し、国も、財宝や妻子も、すべて を 捨て、出家をし、法蔵菩薩という修行者 に なられたのでした。
 そして、法蔵菩薩は、世自在王仏の所へ 行かれて、二百一十億のさまざまな仏方の国々の成り立ち と、迷える人々が住む国々の「因‐原因」「縁‐条件」「果‐結果」の善悪 を はっきりと見究められ、他の仏を はるかに超え勝れ「諸仏の浄土に往生できていない すべての人々を救う!」という「広大な お誓い」を たてられたのでした。
 そして、五劫 という 果てしなく長い時間、考えをめぐらせて、ついに、「すべての人々を救うことができるのは、お念仏である」ということを発見されたのでした。法蔵菩薩は、世自在王仏に、その「念仏往生を中心とした四十八の願い」を お説きになられる と、重ねて、「この 南無阿弥陀仏の お念仏 を、すべての人々 に 伝える!」と、誓われたのでした。

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 阿弥陀様は、いつでも(無量光)、どこでも(無辺光)、どんな出来事の中でも(無碍光)、私達を照らし続けてくださっている。
・『無対光』という光は、阿弥陀様 の 優れた智慧から放たれる光 であり、この「智慧の光」をいただけば、とても 菩薩方とは比べることのできないような「優れた智慧」が、私達に開かれてくる。
・『炎王光』という光は、諸仏の光 が 届かない「地獄・餓鬼・畜生の世界」 を 温かく照らしてくださっている。
・『清浄光』という光は、人間をいやしく 汚くする「貪りの心」を照らし出し、「欲を起こす必要がなかった」「すべてがいただきものであった」という「他力の中」を生きている ことを 知らせてくださる。
・『歓喜光』という光は、死を恐れて生活する私達 を「浄土に生まれて行く者へ」と お育てくださる。
・『智慧光』という光は、「愚かさ」を照らし出し、「真実」を私達に届けてくださる。
・『不断光』という光によって、絶え間なく 私の背中 を 押してくださり、私 に 仏道 を 歩ませてくださっている。
・『難思光』という光によって、「計らいの心」から離れさせてくださり、
 『無称光』という光によって、「言葉 の とらわれ」から離れさせてくださる。
このような「他と比べるものがない、太陽や月をも超えた、この世 で 最も大きい光(超日月光)」を 阿弥陀様 は 放ってくださっている。
それらの光が、どんなに細かい所でも、無数の世界を どこまででも、照らし尽し、一切の衆生は、この光の輝き を 常に 身に受けているのです。
 本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、阿弥陀様によって選ばれた 浄土へ往生するための正しい行い です。
それは、「至心信楽の願」(第十八願)が、もとになって、証明されていることです。
私達が、浄土往生を遂げさせていただき、仏に成ることができるのは、阿弥陀様が「必至滅度の願」(第十一願)を成し遂げられているからなのです。

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