9 不断 難思 無称光 超日月光

↑ 練習した音源(約25分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 原文 》
普(ふ)放(ほう)無量無辺光 無碍無対光炎王(こうえんのう) 清浄歓喜(かんぎ)智慧光 不断難思無称光 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

《 書き下し文 》
あまねく、無量・無辺光・無碍、無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断、難思・無称光、超日月光を放って、塵刹(じんせつ)を照らす。一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

《 意訳 》
阿弥陀様は、十二種類の光を放って、どんなに細かい所でも、無数の世界を どこまで でも、照らし尽し、一切の衆生は、この光の輝きを 常に身に受けているのです。

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十二種類の光の分類
「無量光(無量)」「無辺光」「無碍光(無碍)」は、仲間
 この三光が十二光を代表している。
 「いつでも(無量光)、どこでも(無辺光)、どんな出来事の中でも(無碍光)」。
 この三光で「阿弥陀様の光明の ほとんど」が言い尽くされている。
 あとの「九光」は、大事な点を さらに詳しく おさえている。
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「無対光(無対)」「炎王光(光炎王)」は、仲間
「清浄光(清浄)」「歓喜光(歓喜)」「智慧光」は、仲間
「不断光(不断)」は、単独
「難思光(難思)」「無称光」は、仲間
「超日月光」は、光全体を表現している お言葉
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『正信偈』
摂取心光常照護(摂取の心光 常に照護したもう)
〈 意訳 〉
阿弥陀仏の大慈悲心の光に、照らされ、摂め取られれば、常に阿弥陀様に護られる

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《 不断光 》の ご和讃
光明てらして たえざれば 不断光と名づけたり 聞光力(もんこうりき)のゆえなれば 心(しん)不断(ふだん)にて往生す

〈 言葉の意味 〉
聞光力‐光明の威力を聞く。本願力を信ずる意。
不断‐菩提心の絶えない

〈 意訳 〉
阿弥陀様の光明が、途絶えることなく、すべてを照らし尽くしておられるので、不断光仏と呼ばれるのです。
この絶え間なく照らしてくださる阿弥陀様の光明によって、信心が凡夫の心に常に留められるから、浄土へ往生できるのです。
 
 ↓

私の力ではない。
「教えの力」が、絶え間なく 私を前に進めてくださる。
「教え」を聞けば、聞いた「教えの力」が、私を前に進めてくださる。

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《 難思光 》→ 「難思」は「こころ も およばれず」
《 無称光 》→ 「無称」は「ことば も たえたり」
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『唯信鈔文意』より 親鸞聖人著
 「仏性」とは、すなわち「阿弥陀如来」である。
阿弥陀如来は、数限りない世界のすみずみにまで満ちわたっておられ、すべての命あるものの「心」にまで なっておられる。
その「命あるもの すべての「心」に宿る阿弥陀如来」を「仏性」と呼ぶのである。
「草や木、山や河や大地がことごとく成仏する」と『涅槃経』に説かれてあるのは、その「仏性」によって「阿弥陀如来の四十八の願い」を信じることができるからである。
この「仏性」が備わっているから、「お念仏によって、必ず人々を救うという阿弥陀如来のお誓い」を、私達は信じることができるのである。
だから、信心をいただくことができるのは、「仏様のお働き」である。
「仏様のお働き」とは、「物事のありのままの姿」を教えてくださるものである。
「物事のありのままの姿」とは、「真実そのもの」のことである。
「真実」というものは、色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。
この「真実」の世界から、「阿弥陀如来とお浄土」というお姿を示し、法蔵菩薩と名乗られて、思いはかることのできない 大いなる「お念仏によって、必ず人々を救う という お誓い」を、起こされたのである。
このようにして現れてくださった お姿のこと を、天親菩薩は「尽十方無礙光如来」と、名づけられたのである。〈取意〉
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如来は、色もなく 形もない。だから、考えること も できなければ、
「こういうものだ」と 言葉で表すこと も できない。
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「考えることもできない」のが「難思」
「こうだ」とも言えないのが「無称」
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「本当の世界」とは、私達の「計らい」を越えている。
「計らいを越えた世界」が、真実の、「本当に確かな世界」。
「計らいを超えた、本当に確かな、真実の世界」に、私達は、支えられて生きている。
私達を支えている確かな大地がある。
 ↓
私達の思っているような世界は、狭い世界。
・「目に見えないもの」は、「無い」と思ってしまう。
・「自分の計らい」で、生きているように思っている。
人間の力で、人間を支えるものを、一生懸命 作ろうとしている。
・「名前」をつけることで「世界」を狭くしてしまっている。
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三つの髻(もとどり) 
・勝他(しょうた)
 周りの人と比べて、「自分の方が、優れている」と、思おうとする心。逆にいうと、人から見下されるのを嫌う心。
・名聞(みょうもん)
 有名になって、一目置かれる存在になろうとする心。権力を求め、周りの人を従わせようとする心。
・利養(りよう)
 金持ちになろうとする心。お金を持っていない人を見下す。財産の 多い 少ない によって、人の価値を決めてしまう心。
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人間の力で、「命を支えている大地」のようなものを、作れるはずはない。
「私達の思い」「人間の計らい」は、十分ではない。
このことを「自力無効」という。
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「如来」の「如」→ 私達が、そこから生まれ、それに支えられて生きて、やがて、そこへ帰っていく、という「命の源」→「お浄土」として表現されている
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「如来」→ その「如」を 失っている人間に、「如」を知らせるために、来た
 ↓
私達は、救いがあることを知らずに、「自分の力でなんとかしよう」と計らって、もがき苦しんでいる
 ↓
「如来」は、私達に「命の源 へ帰れ!」と 呼びかけ続けてくださっている
 ↓
「本願招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)」→「衆生に「帰せよ」と命じる如来の呼び声」
 招喚‐招き呼ぶこと
 勅命‐逃げ場のない「仏の仰せ」
 ↓
それが言葉になったのが「南無阿弥陀仏」
「阿弥陀」→ アミターユス(無量寿)・アミターバ(無量光)
 ↓
帰命 無量寿如来
 「命の源 を 知らせるために現れてくださった阿弥陀様」の お導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。
南無 不可思議光(如来)
 いろいろな形となって、私達を支え、働きかけてくださっている阿弥陀様の智慧(光)をいただき、本来の命の姿に戻ります。

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「難思光」によって、「思い」を超えさせてくださる。
「無称光」によって、「言葉のとらわれ」から離れさせてくださる。


《 難思光(不断光) 》の ご和讃
仏光測量(しきりょう)なきゆえに 難思光仏と なづけたり 諸仏は往生嘆(たん)じつつ 弥陀の功徳を称せしむ

〈 言葉の意味 〉
嘆じ‐ほめたたえる

〈 意訳 〉
阿弥陀様の光明は、思い量れないので、難思光仏と申す。
十方諸仏が、不断光による往生 と その光明の功徳 をほめたたえておられるのです。 

 ↓

曇鸞大師「南無不可思議光如来」(九字名号)

 ↓

「不可思議」→ 思いも及ばない ということ

 ↓↑ 同じ

「難思」→ 思い難い → 思いを越えている

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《 無称光 》の ご和讃
神光(じんこう)の離相(りそう)を とかざれば 無称光仏と なづけたり 因光(いんこう)成仏のひかり をば 諸仏の嘆ずるところなり  

〈 言葉の意味 〉
神光‐阿弥陀様のすべての形 を 説き表すことができない
神光の離相‐神光が、生滅(生ずること と 消えること)の相 を 離れている
因光成仏‐弥陀が光明無量の願を因として成仏されたこと

〈 意訳 〉
阿弥陀様の光明が、姿形を離れていることは、言葉で言い尽くすことができないので、無称光仏と呼ばれるのです。
「光に限りが無いようにしたい」と誓われて、無碍光仏となられた阿弥陀様の光明を、諸仏がほめたたえているのです。

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《 超日月光 》単独
・私達が見ることのできる光 の中で、一番大きいものは、太陽 → 日光
・また、それ自身に 光はない けれども、太陽の光を受けて、夜を明るく照らしているのが月 → 月光

 ↓

この地上で最も大きい「日光・月光」をも超えた光が、「仏の光」。
「他と比べるものがない」という喩え。



《 超日月光 》の ご和讃
光明月(つき)日(ひ)に勝過(しょうが)して 超日月光と なづけたり 釈迦 嘆(たん)じて なおつきず 無(む)等(とう)等(どう)を帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
超日月光‐日(にち)月(げつ)に超え勝れて、時間や場所の区別なく 常に照らす光明
勝過‐勝れている
無等等‐等しく等しきものがない仏。弥陀の別名。
塵刹を照らす‐どんな細かい所でも、どこでも照らしている

〈 意訳 〉
光明が、この世の日(にち)月(げつ)に超え勝れているので、超日月光と呼ばれるのです。
阿弥陀様の その光明 を、お釈迦様が ほめたたえておられるが、言い尽くせない。
この 等しきものがない阿弥陀様 を 頼りとして、本来の命の姿に戻るべきである。

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十二光のまとめ

《 原文 》
普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

《 書き下し文 》
あまねく、無量・無辺光・無碍、無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断、難思・無称光、超日月光を放って、塵刹(じんせつ)を照らす。一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

〈 言葉の意味 〉
塵刹を照らす‐どんな細かい所でも、どこでも照らしている

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《 意訳 》
阿弥陀様は、いつでも(無量光)、どこでも(無辺光)、どんな出来事の中でも(無碍光)、私達を照らし続けてくださっている。
・『無対光』という光は、阿弥陀様の優れた智慧から放たれる光であり、この「智慧の光」をいただけば、とても菩薩方とは比べることのできないような「優れた智慧」が、私達に開かれてくる。
・『炎王光』という光は、諸仏の光が届かない「地獄・餓鬼・畜生の心」を温かく照らしてくださっている。
・『清浄光』という光は、人間をいやしく、汚くする「貪りの心」を照らし出し、「欲を起こす必要がなかった、すべてがいただきものであった」という「他力」の中を生きていることを知らせてくださる。
・『歓喜光』という光は、死を恐れて生活する私達を「浄土に生まれて行く者へ」と お育てくださる。
・『智慧光』という光は、「愚かさ」を照らし出し、真実を私達に届けてくださる。
・『不断光』という光によって、絶え間なく背中を押してくださり、私に仏道を歩ませてくださっている。
・『難思光』という光によって、「計らいの心」から離れさせてくださり、『無称光』という光によって、「言葉のとらわれる」から離れさせてくださる。このような「他と比べるものがない、太陽や月をも超えた、
この世で最も大きい光(超日月光)」を 阿弥陀様は放ってくださっている。
それらの光が、どんなに細かい所でも、無数の世界を どこまで でも、照らし尽し、一切の衆生は、この光の輝きを 常に身に受けているのです。
 
 ↓
・人間のすべて を 阿弥陀様は照らしてくださっている。
人には見せられないような、どんな汚い心を持っていようとも、
阿弥陀様は そのようなことをも わかって、照らし続けてくださっている。

・阿弥陀様の智慧の光 を いただけば、始めは、大雑把なもの しか
見えてこないが、だんだん 細かいもの まで見えてくる。

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