下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』
第二段 依経段(えきょうだん)
「弥陀章(みだしょう)」法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)因位(いんに)時(じ)~必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就(じょうじゅ)
「釈迦章(しゃかしょう)」如来所(しょ)以(い)興出(こうしゅつ)世(せ)~是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)
〈 要約 〉
『大無量寿経』に依り、
・「弥陀章」で 現に今 私達に働き続けてくださっている阿弥陀様、そして その「阿弥陀様の ご本願 の いわれ」 を 述べ、
・「釈迦章(しゃかしょう)」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるためにわざわざ この世に お出ましくださった お釈迦様 を 讃(たた)え、その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。
↓
〈 原文 〉
如来所(しょ)以(い)興出(こうしゅつ)世(せ) 唯(ゆい)説(せつ)弥陀本願海(かい)
〈 書き下し文 〉
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かん と なり。
〈 言葉の意味 〉
「如来」
↓ ここでは
「釈迦牟尼(しゃかむに)如来」‐「お釈迦様」のこと
↓
「釈迦牟尼(しゃかむに)」‐「釈迦」という部族(国名)の「牟尼(むに)」(聖者)
↓
「如来」の「如(にょ)」
→ 私達が、そこから生まれ、それに支えられて生きて、やがて、そこへ帰っていく、という「命の源」
(浄土真宗では、「お浄土」として表現されている)
↓
ー1-
「如来」‐ その「如(にょ)」を失っている私達に、「如(にょ)」を知らせるために 来た
↓ 称号(しょうごう)(身分などを表す呼び名)で、
釈迦牟尼(しゃかむに)世尊(せそん)(世尊(せそん)‐世の中で最も尊い人) 略して→ 釈尊(しゃくそん)
↓ お釈迦様の本名は
ゴータマ・シッダッタ(漢字では、瞿(く)曇(どん) 悉(しっ)達(だっ)多(た))
「興出(こうしゅつ)」‐
「興(こう)」と「出(しゅつ)」は、同じ意味の漢字。「出」は、出現。
仏(ぶつ) 菩薩が、「俗世(ぞくせ)に迷う者」を、救うために世間に現(あらわ)れること。
「弥陀本願海(ほんがんかい)」‐
「阿弥陀様の海のような ご本願」のこと。
・「海」は、あらゆる川の水を、そのまま受け入れて、一つの味にする。
・海では、あらゆる命が、しっかり と つながり合い、奪(うば)いあったり、支えあったりしながら、生き生きと、命を未来へ つないでいこう としている。
↓
そのような海に例えて、
・「どのような人も、すべて浄土に迎え入れたい」という広く 深い 阿弥陀様の願い
・阿弥陀様の「本願」という海に入り、身をゆだねて 喜ぶならば、世間の欲に まみれ、苦悩する私達 が、生き生きと、生きていけるということを表現している。
↓
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かん と なり。
〈 意訳 〉
お釈迦様が、この世間に お出ましになられた理由・目的は、ただ ただ、私達に、海のような 阿弥陀様の ご本願 を教えるためであった。
ー2-
↓
お釈迦様は、たまたま、この世間に お生まれになり、仏(ぶつ)に成(な)られて、人々に「教え」を説かれたのではない。
お釈迦様が お生まれになられたのは、ただ ただ、「あなたを救いたい」という海のように深い「阿弥陀様の ご本願」に、
すでに「この私」が包まれている、その事実を教えるためであった。
↓ その拠り所
『仏説(ぶっせつ)無量寿経』
如来、無蓋(むがい)の大悲をもって三界(さんがい)を矜哀(こうあい)したまう。世に出興(しゅっこう)したまう所以(ゆえ)は、道教(どうきょう)を光闡(こうせん)して、群萌(ぐんもう)を拯(すく)い恵(めぐ)むに真実の利(り)をもってせん と欲(おぼ)してなり。
〈 意訳(お釈迦様が言われた お言葉) 〉
私は、何ものにも おおわれることのない大悲によって、果(は)てしない迷いの状態にある人々を、哀(あわ)れんでいる。
私が、この世間に出たわけは、「教え」を世に明らかにして、人々を救い、真実の利益(りやく) を 恵み 与えたい と 願うからである。
↓
『仏説(ぶっせつ)無量寿経』は、お釈迦様が世に出られた理由が、明らかに説いてあるため、
「出世本懐(しゅっせほんがい)の経(きょう)‐お釈迦様が世に出られた 本当の お気持ち が表わされている経」と いわれている。
↓ でも、おかしな言い方なのでは?
普通の見方 を すれば、お釈迦様は、たま たま、お生まれになられ、後(のち)に、
苦行(くぎょう)を超えて、ついに「仏(ぶつ)」と成(な)り、「教え」を説かれた、ということなのではないだろうか?
ー3-
↓ いや、これは「宗教心(阿弥陀様から使命をいただいた)による見方」
「この どうしようもない私 を 救うために、お釈迦様が現れてくださったんだ!
お釈迦様が、この世間に お出ましになられた理由は、ただ ただ、この私に、
海のような 阿弥陀様 の ご本願 を 教えるためであったんだ!」
という、心からの深い感激(かんげき)を現された お言葉。
〈 原文 〉
五濁悪時(ごじょくあくじ)群生海(ぐんじょうかい) 応(おう)信(しん)如来如実(にょらいにょじつ)言(ごん)
〈 書き下し文 〉
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
〈 言葉の意味 〉
「五濁悪時(ごじょくあくじ)」‐五つの濁(にご)りのある悪い時代
↓
『仏説(ぶっせつ)阿弥陀経』の終わりの方では、「五濁悪世(ごじょくあくせ)」と いわれている。
私達が生きている この世間は「五濁悪世(ごじょくあくせ)」であり、
私達が生きている この時代は「五濁悪時(ごじょくあくじ)」。
「お釈迦様が生きられた当時」も「五つの濁(にご)りのある悪い世の中」だった。
↓ 五つの濁(にご)りのある悪い世の中
「劫濁(こうじょく)」‐
「劫(こう)」は、「時代」のこと 。時代の汚れ。
疫病(えきびょう)や飢饉、動乱(どうらん)や戦争が続けて起こる など、時代 そのものが汚れている状態
ー4-
「見濁(けんじょく)」‐
「見(けん)」は、「見解(物事に対する考え方や価値判断)」のこと。
邪悪で汚れた 考え方 や 思想 が、常識 となって はびこる状態。
「煩悩濁(ぼんのうじょく)」‐
煩悩による汚れ。ひっきりなしに、欲望や憎(にく)しみなど、煩悩による 悪い行い が、起こる状態。
「衆生濁(しゅじょうじょく)」‐
衆生の汚れ。人々のあり方 そのものが汚れている。心身ともに、人々の資質(ししつ)が衰えた状態。
「命濁(みょうじょく)」‐
命の汚れ。自他(じた)の命(いのち)が軽(かろ)んじられる状態。
また、「生きていくことの意味」が見失われ、「生かされてある」という「有(あ)り難(がた)さ」が実感できなくなり、
満足のない、むなしい生涯を送ることとなる。
↓
お釈迦様の 澄(す)みきった眼(まなこ) から見ると、「世間」は ひどく濁(にご)りきった世の中であった。
↓ しかし、
・私達は、「この世間」にも「この時代」にも 愛着 があり、「もっと いい時代になって ほしいものだ・・」と言いながら、
それを 誰かのせい にして、現実から目を そらしている。
・「悲しいこと」「苦しいこと」「おぞましいこと」・・
そのような出来事が、あまりにも 多すぎて、「慣れっこ」になってしまい、
「驚き」や「悲しみ」の「実感」が、薄(うす)らいでしまっている。
↓
お釈迦様が『大無量寿経』に示された「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして
生きるほかに、「五濁悪世(ごじょくあくせ)」を抜け出していく道はない。
ー5-
↓ 人間の愚かさ について
『歎異抄講義 八』宮城顗(しずか) 講述
無明(むみょう)とは、「何でも 知っている わかっている」という愚(おろ)かさ
無明(むみょう)という言葉は よく お聞きいただいているか と思います。
無明(むみょう)というのは 明らかでない ということで ございますね。明らかでない といいますと、なにか 何にも真実を知らない愚(おろ)かさ と、そういうことだ と私たち すぐ思ってしまいます。だけれども無明(むみょう)というのは、なんにも知らない ということでは ないんですね。私の友達は 何でも知っている愚かさ と、こういう言い方をしてくれました。そして外国のある方は、人間の愚かさ というのは何にも答えが見つからないでいる愚かさ ではないんだ と。愚かさ とは何に対しても 答え をもっている ということだ と、こういうことを言ってございます。無明(むみょう)、愚かさ とは、わからない と お手上げしていることではない。そうではなくて、何でも わかったつもりに なっている。何に対しても ああ それはこういうことだよ と 答え をもっている。それを無明(むみょう)というんだ と、こういう言い方ですね。仏教とは こういうもんだ。そんなものは古臭(ふるくさ)い とか、なにか
こう あらゆるものを批判して決めつけてしまっている。わかったことにして、もう あれは だめだ、これは いい とか いろいろしております。あるいは人間関係、自分の子どもなり、夫婦なり、やっぱり 答え をもっておるんですね。あの子は こうだ、うちの家内は こうだ とか、人間に対しても 答え をもって、決めつけて、そして 答え をもったときは もう 尋ねよう とはしないですね。
ー6-
わかったつもりになっておりますから。私が一番 あの子のことを知っているんだ と、そう思ったときは、じつは 子どもから目そらしているとき です。目をそらして後向きになっているのでしょう。子どものことが ほんとうに わからない というときに、少しでも子どもを理解しよう として、あらためて まなざしをむける ということがあるんでしょうけれども、わかったつもりになったら、もう 尋ねようとしない。
そこではレッテルを貼って、色分けして、あの子は ああだ、この子は こうだ、もう それで すましてしまう。だから、そのことが どんなに この人生の事実、人間の真実 から 私たちの心を遠ざけているか ですね。わかったつもりになっていることが、どんなに真実から私を遠ざけることになっているか。そこに この 無明(むみょう)という言葉は、じつはそういう 私たちの 何でも知っておるつもりになっている愚かさ。ほんとうに日常生活の一つを取りましても、ほんとうに わかっているのか となりますと、まことに曖昧(あいまい)です。しかし 毎日の生活の中では 全部 わかったつもり ですましていく ということがございます。
「納得(なっとく)の いかないことは しない」と言うのなら、この人生は 生きて いけない
現在の私たちは、いわゆる理知(りち)、理性(りせい)というもので生きております。そしてその理性(りせい)は 納得(なっとく)がいく ということを何よりも大事にするのでしょう。こう こう こう だから こうなのだ と、きちんと そこに筋(すじ)が通り、納得(なっとく)が いく。今の若い人たちは、その 納得(なっとく)がいくか、いかないか ということを非常に問題にするわけですね。自分は納得(なっとく)が いかない から、それは したくない と。
ー7-
たとえ学校が決めた行事でも、自分には そういうことをしなければ ならない理由が納得(なっとく)いかない と、だから 自分は参加しません と、こういうことを言ってまいります。そして、そういう 納得(なっとく)の いかないこと は 絶対しない というところに、自分の確かな存在が成り立つのだ と思っております。
けれども、そういうことを言ってきた学生に、納得(なっとく)いかないから しないということなら、君は生きていけるのか ということを申しました。だいたい生まれる ということに少しも納得(なっとく)していないだろう と。納得(なっとく)した上で生まれてきたのか と。私の、こういう具体的な人生 を決めている 根本の条件 ですね、私が日本人である とか、男である とか、あるいは 寺の跡継(あとつ)ぎ として周りから決められてきた とか、そういうことは全部、決して納得(なっとく)して選び取ったことではないのですね。おまえは、こういう世の中だけれども、それでも人間として生まれたいか と尋ねられて、そして考えて、自分で結論を出して納得(なっとく)の上で生まれてきたか というと、そういう人生ではない ですね。おまえは男になるか、女になるか、男になれば こういう しんどい面もあるよ と、女になればこういう面倒な面もあるよ と、どっちにする という選ぶ時を与えられた覚えがない。生まれてみたら 日本人であり、男であり、さらに言えば 気がついたら 生まれておった ということであります。その私たちの人生の一番の根本、その出発点、その出発点としての根本は ちっとも私は納得(なっとく)しないままに始めさせられている。
そして、そのうえで さらに、いつのまにか 年をとっていく。これも納得(なっとく)して年とってきたわけではないのですね。もう七十か というようなことで、自分で驚かなければならない。決して納得(なっとく)して年老いてきたわけでもありませんし、納得(なっとく)して病気になるわけでもない。ましてや 死ぬ ということも なかなか 納得(なっとく)はいかない。人生の一番の根本、誰でもが みんな そこを通って いかなければならない、その根本のことの全部が 納得(なっとく)のいかないまま でございます。ですから、納得(なっとく)の いかないことは 俺は しないのだ と いばるのなら、生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)、その人生を生きていくことは できないはず で ございますね。
ー8-
だけど、私の いのち は、わたしの頭が納得(なっとく)する しない を超えて、生きたい という願いをもって 燃えている。ほんとうに生きたい と。決して頭は納得(なっとく)した覚えがない の だけれども、この身に いただいている いのち そのもの は 叫んでおりますね。やはり、こう私たちが 追い詰められれば 何とか逃(のが)れて生き抜きたい と必死にもがく。それこそ、いのち は 最後の最後まで生きようとする、そういう はたらきをもっているのが、いのち で ございましょう。
『歎異抄講義 二』宮城顗(しずか) 講述
科学技術が発達すれば するほど 人間は 事実 を拒絶(きょぜつ)していく
現代は科学技術の時代といわれますけれども、その科学技術の一番先端(せんたん)の仕事をなさっている方々が、逆に 科学技術がもっている問題を深く感じられて、あらためて問い直しておられる ということが、いろんな人によって発表されております。
つい最近 読ませていただいたのですが、これは国立岡山病院の小児(しょうに)医療センターのお医者さんで、駒沢(こまざわ)勝(まさる)という先生ですが、この方(かた)が、「医(い)と私と親鸞」という文章を書いているのですね。この文章によりますと、ご両親は非常に熱心な念仏者であったようでありまして、とくに お母さんが、いつも たった一つ願いがある と。何だ というと、これをしてくれ と言って、手を合わされる のだそうです。手を合わして念仏申してくれ、それだけが願いだ と いつも言われた。で、その頃は、それこそ医学のほうに希望をもってやっていた時分(じぶん)だから、そんな念仏の教えだとか、仏教は ぜんぜん信ずる気にも ならないし、聞く気にも ならない。だけど、お母さんが面倒(めんどう)にいうから、南無阿弥陀仏か といって口先だけで南無阿弥陀仏と、そういう態度で いつもしていた と。けれども、小児医療センターというところで、子供さんの病気をずっと見る。
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のなかには、白血病だとか癌で、医療の介(かい)なく死んでいく子供に何人も立ち合う、そういうなかで だんだん いろんな問題を感じられて、いま そういう 親鸞聖人の言葉に、絶えず聞き直していく ということをなさっているようでございます。
これは お医者さんの新聞でしょうか、『日本医事新報(いじしんぽう)』とありますが、そのなかで、医学とか科学というのは何か というと、事実を拒絶(きょぜつ)することから始まっている。医学とか技術の一番 根本は拒絶(きょぜつ)する ということにある。つまり医学で いいますと、病気を拒絶(きょぜつ)する。死ぬことを拒絶(きょぜつ)する。病気になることは人間として あっては ならないことだ。だから、病気になったら、その病気を一刻も早く治して、もとの健康な身体(からだ)にしよう と。そこから いろんな技術が、医学が発達してきた。だけど、この 生活の事実 を 拒絶(きょぜつ)する ということから出発する。その 拒絶(きょぜつ)する というところには、その心は 必ず 憎しみの心 と結びつく。それは そうですね。病気になったら、なんで私だけ こんな目に合わなければならないのか。そして 周りで 元気そうな人 を見ると 腹も立ってきましょう。その 自分の いのちの現実を受け入れられない。だから、その現実を拒絶(きょぜつ)して、もっと願(ねが)わしい健康な状態を回復しよう と。
それから科学技術からいえば、たとえば昔は 寒ければ寒い。その寒さのなかに一つの いろんな 人生の楽しさ とか、人間の心の美しさ とかを、寒さ は寒さのなか に感じて、それを歌に詠んだり、絵に描いたりしていた。けれども現在は寒ければ暖かくすればいい と、寒い状態にあることを拒絶(きょぜつ)して 暖かくしよう と技術で解決する。それは全部 現にある状態を拒絶(きょぜつ)する ということから出発しているのだ と。それは 必ず 憎しみ という心に つながっていく。
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そうではなくて 事実 を 事実として 受け入れていく。憎しみ に対して 愛 というのは、たとえば 一人の人を愛する ということは、その人の あるがまま を全部受け入れていくことなのですね。ですから愛という言葉は、あるいは愛という心は受け入れる ということにあるのでしょう。憎しみ は 拒(こば)む ということになる。
ですから、人生を愛する ということは 人生の事実をすべて受け入れる。病気になれば その病気をほんとうに生きる。なにか そこに自分の事実、人間の事実を拒絶(きょぜつ)するのではなくて 受け入れていく ということを、駒沢(こまざわ)さんは言われます。科学技術というのは拒絶(きょぜつ)ということから出発しているし、それは憎しみということにずっと つながっている といわれる。しかも科学技術が発達すれば するほど受け入れていく心をどんどん、どんどん失わせていく。科学技術が発達すれば するほど 人間の事実を受け入れていく心を どんどん奪い取っていく。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
〈 言葉の意味 〉
「如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)」‐「阿弥陀様 の ご本願」が説かれた お釈迦様 の お言葉(『大無量寿経』)
「群生海(ぐんじょうかい)」‐「群生(ぐんじょう)」は「衆生」と同じ。「あらゆる 生きとし生けるもの」。
↓↑ 対応している
「本願海(ほんがんかい)」
・「あらゆる 生きとし生けるもの(地球上には約五百万~三千万種類)を救う」と誓われた「阿弥陀様 の ご本願」は、海のように 深くて広く、私の思い が およぶものではない。
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・「海」は、あらゆる生命の源(みなもと)。「なさけない生き物」としか言いようのない私達 人間 が、本当に「命 あるもの」として、人生を生ききるためには、海のような阿弥陀様の大きな願いの中に包まれていることに気づかされることが必要となる。
↓
〈 まとめ 〉
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かん と なり。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
〈 意訳 〉
「五濁悪世(ごじょくあくせ)」を抜け出していく道は、「阿弥陀様の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただ ただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
だからこそ 五濁(ごじょく)の悪時(あくじ)に生きる私達は、その お釈迦様の ご恩(おん) に 報(むく)いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の教え を、信じるべきである。
ー12-