2 赤尾道宗心得二十一箇条

「赤尾道宗心得二十一箇条」道宗 四十歳頃に書かれた(蓮如上人のご入滅の三年後)
『赤尾の道宗』岩見 護 著(出版社 永田文昌堂 出版年月 1956年4月)の意訳


一、後生の一大事、命のあらん限り、油断してはならぬ。
二、仏法以外の事で、心に深く入る事があったなら、嘆かわしいことだと思って、すぐに捨て去らなければならない。
三、「こんなことではいけない」と、心を引き立て 努力する精神が乏しくなり、勝手気ままな節度にない心が大きくなったら、その心中を引き破ってゆかねばならぬ。
四、仏法について、公明ではなく後ろ暗い、名聞利養の心を持つようなことがあったなら、嘆かわしいことだ と恥じて、出した手を引きこめるような思いをもって、すぐに心をひるがえさなければならぬ。
五、自分の持っている利己心の方に ひいき を して、他人のために悪い事をしてはならぬ。
六、「目に見えぬ仏が、常に見ておられる」と思って、人は知らずとも、わが悪い事は ひるがえし 正さなければならぬ。
七、仏法の方をば、いかにも 深く 重く 仰ぎ 尊び、我が身の方をば、どこまでも へりくだって、行を謹まねばならぬ。
八、仏法をもって世の中の人に用いられようと思うことは、どう考えても嘆かわしいことである。もしそのような心が起こったなら「仏法を信じるのは、ただ このたび後生の一大事を助かるためより 他はないのだ」と思って、世の中に用いられるようと思う心 は、捨ててしまわねばならぬ。
九、道理にかなっていること 外れていることを 正すよりも何よりも、会合の場所が、最悪の雰囲気になってしまったならば、そこから逃れ去らなければならぬ。
十、「道宗めはこれほどの嘆かわしい心中を持っていることよ」と、あなた様がおぼしめされるであろうと思いますと、どう考えましても、それが嘆かわしく 悲しく つらく思われるのでございます。過去のことは、一切 お許しくださることは 承知いたしておりましても、「道宗めは、こんなに嘆かわしい心中の人間だわい」とおぼしめされるであろうと思いますと、どう考えましても、わが身のつたなさ 悲しさを、嘆かわしく思います。前生でも、こんなにつたない心中であったればこそ、今もこのような有様なのであろうと思いますと、申しようもないほど嘆かわしく思います。万が一、ついに御前にまいって、お目にかかる時が来ましても、ここのところが 嘆かわしく思います。ああ、ああ、全くご加護の尽きた この身でございます。どうか、今日まで、お言葉に背いておりましたことをお許しくださいませ。ただただ、仰せに従わせていただきます。
一一、明日とも知れぬ命ではあるが、もし、今日 明日も永らえていて、その際、法義について怠るようなことがあったなら、嘆かわしいと思って、その怠ける心を引き破り、身を励まして、法義に心を入れねばならぬ。
一二、心の中に「目覚めを求める心」が しみじみと起こらぬなら「ああ、あさましや、もったいなや、今生は飢え死に、凍え死に をしても、このたび 後生の一大事を解決して、浄土往生を遂げさせてもらう事こそ、無始広劫以来の望みが、このたび 満足するのであるぞ」と思って、徹底的にわが身を責めて、たちまち「目覚めを求める心」を立てるべきである。もし、それでも「目覚めを求める心」が起こらないなら、「この身は仏罰をこうむったのかもしれん」と思って、心中を引き破り、同行と法義の讃嘆をしたならば、「目覚めを求める心」が起こるであろうから、それをしなくてはいけない。
一三、誤っても、勝手気ままに振る舞って、眠り伏せって、後生の一大事を思わずに、いたづらに暮らすようなことはいたすまい。
一四、「共に、信を語り合うような友が無い」などと、もっともらしいことを言って、教えを聞かない日暮しの言い訳にするようなことが、あってはならぬ。身内の人々に会って、たとえ 教えを十分に心にかけていないにしても、できるだけ心にかけるようにして、まず、「後生の一大事はどうであろうか」と話しかけて、お互いに心の持ち方について「目覚めを求める心」を起こすよう、気をつけるようにせねばならぬ。
一五、ご道場(お寺)のことは、何よりも大切である ということを、十分心に入れておかねばならぬ。
一六、自分を憎む人に対して、こちらも憎み、倒そう というような心を持ってはならぬ。
一七、どうか、わが心が、後生の一大事を、深く気をつけ、油断なくいてくれますようにと思います。ご同行のご注意をいただいたなら、すぐに そのまま 従います。
一八、万事、わが心に執着せずに、どうぞ わが心が、後生の一大事ばかりに深く 心を入れてくれますように、と 思うばかりです。
一九、かように申しますことは、わが心中が、あまりにも 思い知る ということがなく、嘆かわしいので、このように、よくよく 心に相談して
決心したならば、その しるし も あろうか と思って、今 このように申すことです。人様の話してくださったことには、必ず 必ず 従います。
二十、どうか、特別のお慈悲をおかけくださって、間違った方へ行かずに、私の心中をお直しくださいませ、と 思いまいらせるよりほかは
ございません。
二一、思えば、嘆かわしいわが心だなあ。後生の一大事を成し遂げ得ることならば、一命を ものの数 とも思わず、善知識の仰せなら、「何処の果て へ も 行け」と申されても、背きますまい という決心をし、また、唐や天竺まででも、仏法を求め、お訪ね申したい と 思う覚悟でいるのに・・それ程までに 思い切ったわが心 であるのに、それに比べてみれば、如来様の仰せに従い、一心一向になって法義をたしなむという事は、さて さて たやすいことではないかい。よくよく考えてくれよ、わが心よ。この世は、しばらくの仮の世で、久しくおれる所ではない。そうしてみれば、この世においては、飢え死に しても かまはぬ、また、凍え死に しても かまわぬ。それを省みずに、ただ 後生の一大事に油断をしてくれるな。わが心よ。返す返すも、今 申すところに、違わず、わが身を責めて、たしなみぬいてくれよ。どこ どこまでも 国や所の掟 や 規則に背かず、しかも内心に一念帰命の信心の頼もしさ、ありがたさ を しっかり持って、外相は、深く謹むように仕向けてくれよ。わが心よ。