7 三十一才 遠征中止、観勒渡来

《井波別院瑞泉寺 太子絵伝6幅目 に描かれている》

 さて、本席、お取次ぎさせていただきますご一段は、お太子様二十七歳から三十一歳までの朝鮮半島における日本の足場「任那(みまな)」のご事跡、お太子様三十一歳の御時に来朝された百済の僧・観勒のご事跡でございます。
 お太子様の時代、外国との関係におきまして、欽明天皇様の時代・欽明天皇二十三年(西暦で申しますと五六二年)に失ってしまった朝鮮半島における日本の足場「任那(みまな)」の回復が大きな課題でありました。
それは推古天皇様にとりましても放置できない問題でありました。また、戦争のない穏やかな世界を理想とされるお太子様に取りましても、避けて通れない問題でもあったのです。
隣国・新羅は日本の外交・軍事の圧力があると従うふりをして貢物を献上し、その圧力がなくなると再び貢物を献上しなくなり、「任那(みまな)」を襲撃し我が物にしようとしておりました。
そのような新羅の態度に、推古天皇八年(西暦で申しますとちょうど六〇〇年)に、推古天皇様も出兵を余儀(よぎ)なくされ、お太子様もその出兵に反対することができないような状況となってしまったのです。
ついに、その二年後の推古天皇十年の春に新羅討伐のため、お太子様はお太子様と母親が同じ、弟であられた来目皇子(くめのみこ)を将軍に任命した。しかし、来目皇子(くめのみこ)が九州の筑紫(つくし)という所に着くと、来目皇子(くめのみこ)は病(やまい)を患い、そのために新羅討伐は実行されなかったのです。その翌日の春に、来目皇子(くめのみこ)はその病のためにお亡くなりになられて、出兵は中止となったのです。
続いて翌年、お太子様の異母兄弟であられる当摩皇子(たぎまのみこ)が将軍となり、再び新羅討伐のため、出兵することとなりました。しかし、その途中で当摩皇子(たぎまのみこ)のお妃(きさき)様(さま)がお亡くなりになり、そこで当摩皇子(たぎまのみこ)は引き返してしまい、結局また討伐は中止となってしまうのです。
新羅討伐の計画が二度とも、お太子様の血筋の近い方々の死によって中止となりました。
しかも二回目の当摩皇子(たぎまのみこ)の場合ですと、戦争にお妃様を連れていかれ、本人ではなく、そのお妃様の死によって、途中から引き返してしまい何の処罰もなく、「ただ討伐が中止になった」、とだけ記されております。
 当時の状況から考えますと、どう考えてもこの二人を将軍に任命したのは、お太子様のご意志が働いていたと思われます。
来目皇子(くめのみこ)・当摩皇子(たぎまのみこ)は、新羅討伐を任命(にんめい)された時、本心は強く平和を望んでいながら、立場上、自分たちに討伐を命じざるをえなかったお太子様のお気持ちを無言のうちに汲み取ったのでしょう。
自分一人の死によって、推古天皇様や蘇我馬子の意志があった討伐を中止に追い込み、お太子様の理想とされた「和」を実現しようとされたのではないでしょうか。
そして、当摩皇子(たぎまのみこ)の場合、さらに夫の決心を知ったお妃様が身代わりに死を決断されました。
お太子様にとって、もっとも身近な二人の人間の死によって、新羅との戦いを避けることができたのです。
それ以降、新羅討伐はお太子様がお亡くなりになられるまで行われなかったのです。

 お太子様は、様々な妥協を繰り返しながら、しかし、理想は決して捨てずに、先の先まで見通されたその中で、一歩、一歩、理想に近づけていかれたのです。そのように政治にたずさわっておられたお太子様を想像することができます。

 さて、次に、お太子様三十一歳の十月に、百済の僧、観勒が来朝し、暦学・天文・遁甲・方術の書を賜る、そのような出来事がございました。
百済の僧、観勒が来朝いたしますと、お太子様は四人の学生(がくしょう)を選ばれ、観勒より暦学・天文などを学ばせました。
大陽胡史祖(おおやまのふひとのおや)と王(おう)陳(ちん)は暦学を学びました。暦学とは、こよみの作り方や、そのための法則を記したものです。また、それは年間の行事や農耕の時期をも記されている当時の近隣の国々の学問の集大成でありました。
大伴村主高聴(おおとものたかくき)は天文・地理・遁甲を学びました。天文とは太陽や月、星座によって吉凶、縁起がよいとか悪いなどを占(うらな)うものです。地理とは、山や川の道理を示したものです。遁甲とは、人の目をまぎらわして身体(からだ)を隠す妖術でありました。これが日本の忍術(にんじゅつ)の始まりで、大伴村主高聴(おおとものたかくき)は後にお太子様より大伴忍(おおとものしのび)という名をいただき、甲賀(こうが)忍者の初代棟梁(とうりょう)となっていきます。お太子様はそのような忍びを使い、戦を起こそうとするものを暗殺して、
戦(いくさ)を阻止する・・・いわゆる「枝打ち」ということもされながら、日本の国を正しい道へと導こうとしておられたのです。
山背(やましろ)の臣(おみ)・日立(ひたち)は方術を学びました。方術とは 天候を観察したり、亀の甲羅を焼いて吉凶、縁起がよいとか悪いなどを占(うらな)うもので、これが陰陽道の始まりになっていくのです。
こうして、日本の国に暦学・天文などが本格的に受け入れられていきました。
 その様子をご覧になられていたお太子様は次のような不思議なことを言われました。
「我、昔、衡山(こうざん)にありて修行せし時、この観勒はわが弟子なりき。常に七曜(しちよう)の度数(どすう)を唱え、山河(さんが)の利害をのみ語りたれば、我はその術を厭(きろ)うて避けたるに、今また追いて来たれるなり。」
お太子様はそのように言われるのです。どのようなお言葉かと、いただいてみれば、
「私は中国に六度、生(う)まれ変わり、その最後の生(せい)を受け、衡山(こうざん)で修行していた。その時、この観勒は私の弟子であった。
だが、いつも日にちを数えて、占(うらな)いをしては「縁起がいいとか悪い」などをいい、また、山や河などを見ては、占(うらな)いをし、「縁起がいいとか悪い」などといい、いつもそのようなことばかりをいうものだから、私はその術を嫌って、避けていたものだったが、今、日本に生まれた私を追って、観勒はこの日本の国にまでやってきたよ」と、昔のことを思いながら、懐かしそうに語られたのです。