3 六字釈の伝統

2001年 専修学院歎異抄講義
第29講 六字釈の伝統
一、帰命と願生の生活(真宗の本尊の展開)
(カッコ)は 竹中智秀先生の独り言です。

 真宗門徒の伝統は、その家に御本尊を中心とするお内仏を持ち、朝夕の勤行をすることにある。しかし最近は、門徒といっても、お内仏を持たない、また、勤行のできない門徒が多くなっている。(住職の責任ですね)大事なことは門徒と名のる限り、その家に三折本尊であっても、御本尊を持ち、勤行ができるようになることである。みんなも卒業後、どういう生活を始めることになっても、まず、御本尊を持ち、勤行ができるような体制を整えて、その生活を始めてほしい。(なかなか難しいことですが、始めが肝心です)なぜなら、御本尊を中心にして始めて、その場が「如来のまします場」となり、その生活が如来・聖人に護られての生活になるからである。
 私の出会った門徒の一人にAさんがいる。そのAさんは中学生の孫から「おばあさんは、どうして死なないのか」と顔を合わす度に言われるので、(いじめられているわけです)ある時「どうしてそういうのか」と聞いたという。その時、孫は、「学校で先生から「社会へ出た時に、間に合う人間になれ。なれなければ、生きていけない。だから、しっかりと勉強するように」と、いつも言われている、という。しかし、家に帰ってくると、全然間に合っていないおばあさんがいるので、「どうして死なないのか」と聞くのだ、と言った。(我々も直接言われなくても、間接的に言われることがある)その時、Aさんは、その孫に「お前もお内仏に参って、阿弥陀さんに手を合わせて、南無阿弥陀仏と念仏しているだろう。(門徒の家の子供はみんなそうです)その阿弥陀さんがこの私に、「お前もおってもよい」と言ってくださっている。阿弥陀さんは、「間に合う者も間に合わない者も、みんな一緒に生きていきなさい」と言ってくださっている。だから私はその阿弥陀さんの言われる通りにしている。お前も、学校の先生の言うことだけを聞かないで、阿弥陀さんの言われることをも聞くようになればよい。」とAさんは孫に言ったという。(こういうおばあさんがおられる)Aさんにすれば、お内仏の御本尊阿弥陀如来は生きておられるのである。その阿弥陀如来の呼びかけを「南無阿弥陀仏」と念仏しながらAさんは「間に合う者も、間に合わない者も、一緒に生きていきなさい」と聞きとめ、その阿弥陀如来の呼びかけに応えて助けられながら生きているのである。
 なぜ、南無阿弥陀仏と念仏すれば助けられるのか。そのことを具体的に問題にしたのが、善導から始まる南無阿弥陀仏の六字釈の伝統である。それは、観経の下下品において極重悪人が臨終になって、その罪業の業報によって地獄に堕ちるに違いないと恐れて、狂乱した。その時、善友に勧められて、「具足十念称南無阿弥陀仏」と十声称仏することになり、浄土に即得往生して助けられたと、示している。そのことから大衆の中に、称名念仏が根付いていた。しかし、摂(大乗)論家(通論家)の人達が、それを批判した。(インテリ)それは、十声称仏即得往生して、助けられると示しているが、そうではない。浄土に往生して、助かりたいという願いがあることはわかるが、その願いを成就するための行がないではないか。だからそれは、唯願無行である。(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声に出すことが行といえるのか、ということです)また、即得往生してすぐ助けられると、示されているが、そうではない。それは、ずっと後になって、助けられるのであって、それは、別時意説である。そのように摂論家達から批判されて、大衆の中から念仏の声が消えてしまった。(南無阿弥陀仏と学院でいえても、他ではどうでしょう)そういう中で、善導は、「そうではない、具足十念称南無阿弥陀仏は願行を具足しているのであり、それは別時意説ではない」と、反論した。(善導の六字釈といわれる)それが、言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行以斯義故必得往生の六字釈である。聖人は、それを受けて、行巻と尊号真像銘文に聖人独自の六字釈を展開されている。特に、銘文において、聖人は、
一として、「「言南無者」というは、すなわち帰命ともうすみことばなり。帰命はすなわち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがいて、めしにかなうともうすことばなり。」と言い切られ、さらに、
二として「「亦是発願回向之義」というは、二尊のめしにしたごうて安楽浄土にうまれんとねがうこころなり」としめされ、さらに、
三として「「言阿弥陀仏者」ともうすは、「即是其行」となり。「即是其行」は、これすなわち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり。」と、示されている。(これは全く親鸞聖人の独自の六字釈)これは、南無阿弥陀仏とは、我々自身が阿弥陀如来の呼びかけに応えて、阿弥陀如来に帰命し、その浄土に願生することである、と示されているのである。
 我々は、誰もみな、法性法身の世界を故郷とし、大地として存在しているのであるが、そのことを忘れて、思い起こせない。そのために、流転している。そのため我々にそのことを知らせようとして、その法性法身の世界そのものが、まず法蔵菩薩となり、選択本願を建て、その選択本願を成就して阿弥陀如来となり、浄土を示し、さらに、南無阿弥陀仏をもって、我々に呼びかけられているのである。この法性法身の世界といってもそれは、それがどのような存在であれ、存在するものはすべてそのまま摂取不捨して、そこに存在されている世界のことである。それは、現に今、我々自身の上に事実として、成就していることである。その事実を阿弥陀如来は浄土をもって、我々に示し、また、南無阿弥陀仏をもって「我に南無して、わが国に欲生せよ」と呼びかけながら、我々に知らせ、自覚させようとされているのである。聖人は、その阿弥陀如来の呼びかけと同時にその阿弥陀如来の呼びかけを聞き、その事実を自覚することになった。釈迦・弥陀二尊の呼びかけと重ねながら、聖人自身がその釈迦・弥陀二尊の呼びかけに応える者となられた上で、我々にも呼びかけられているのである。それが、銘文の六字釈である。
 我々は、自我を中心としているために、いつでも、今、ここに存在している自分自身をも、他者をも、そのまま受け止められない。そのため我々の生活の現場は、地獄となっている。しかし、そういう我々も、誰も、皆が、法性法身の世界を故郷とし、大地として、そのまま摂取不捨されて存在しているのである。そういう世界が現に今、事実としてある。
 門徒はその家にお内仏の御本尊を持ち、朝夕の勤行をしながら、そのことを日々聞き、確かめ、助けられて、生きてきているのである。そのことを大事にして、我々も、善導や親鸞聖人やAさんのように我々自身の六字釈を明らかにしたいものである。