8 四十二才 片岡山の飢人に会う

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富山県高岡市醍醐 善行寺様の聖徳太子御絵伝。昭和34年に新調されました。


 さて、本席、お取次ぎさせていただきますご一段は、お太子様、四十二歳のご事跡でございます。
 推古天皇二十一年(西暦で申します六一三年)の冬 十二月一日のことでございます。
お太子様は、斑鳩から難波への第二の官道
・外国からの客人、
・朝廷から臨時で諸国に派遣され、その国を治める役人、
・許可証を持った国営の飛脚、
そのような方々が通られる「官道」と呼ばれる道を新たに開くため、お太子様は調子丸に黒駒を引かせ、その下見に行かれました。
龍田川を越えて片岡山に至り、辺りを見回すと、その日は小春日和の暖かい日で、龍田川の水の流れに暖かい光が揺れて、川沿いの白い砂まで輝き、なんともいえない美しい景色が広がっておりました。
東に鉢伏山(はちぶせやま)を見て、西に孝霊(こうれい)天皇様の御陵(ごりょう)を見て、お太子様は南の方へ片岡山を降りていかれると、突然、黒駒の足が止まり、進まなくなったのです。
調子丸が鞭を加えようとしたが、お太子様はそれをお止(とど)めになられ、「おい、どうした・・・」とやさしく黒駒に語られると「これは何かある」と直感された、黒駒より降りられて、あたりを見回すと、道端に一人の老人が、うつぶせになって倒れておりました。
お太子様はこの老人にお近づきになられ、
「どうしたのです・・・こんな所にうずくまって・・・」
とお言葉をかけられると、老人はわずかに頭を上げて、目を開いた。老人は面長の大きな頭で、耳は長く、開いた細く長い目には光があった。老人の顔には生気のなく、すでに何日も食べ物を食べていないことがうかがえた。老人の身にまとっていたこげ茶色の衣は、垢と埃にまみれ、至ることが破れ、もう衣の面影さえなかった。だが、不思議なことに、この老人からは、大変よい香りがするのです。
 お太子様は老人にお近づきになられ、「汝(なんじ)、必ず命長かならんことを。」とおっしゃられ、おもむろにお召しになっていた紫の衣を脱がれ、老人の肩にその衣をお掛けになられたのです。
老人はかぐわしい衣の香りに呼び覚まされ、もう一度薄く目を開くと、深く頭を下げたのでした。
そうして、お太子様はこのようなお歌を読まれました。
「しなてる 片岡山に 飯(いい)に飢えて 臥(こや)せる その旅人 哀れ 親なしに 汝(なれ)成(な)りけめや 刺竹(さすたけ)の 君はや無き 飯(いい)に飢えて 臥(こや)せる その旅人 哀れ」
このお歌には二つの意味が込められてございます。
普通にこのお歌をいただいてみれば、
「この片岡山の道端(みちばた)に食べ物に飢えて倒れているその旅人の姿は哀れである。育てる親を持たずに汝(なんじ)は成長したのか、仕える主君も持たないのか。食べ物に飢えて倒れているその旅人は哀れである。」
そのようなお心を歌われたのです。

そして、このお歌にはもう一つの意味が込められてございます。
「しなてる 片岡山に 飯(いい)に飢えて 臥(こや)せる その旅人 哀れ 親なしに 汝(なれ)成(な)りけめや 刺竹(さすたけ)の 君はや無き 飯(いい)に飢えて 臥(こや)せる その旅人 哀れ」
「しなてる」の「しな」とは、中国のことでございます。ですから、「しな てる」とは、中国で大変輝いた人、そのような意味でございます。この「老人」は、後(のち)に、日本の庶民の家に生を受けて、民衆の中から仏法の教えを広めようとされた達磨大師の生まれ変わりではないか、そのようにいわれるようになるのですが・・・
達磨大師様は、インドにお産まれになり、中国に渡り、後に禅宗の開祖となられたお方でございます。
「片岡山」とは「片の岡」、それは「大陸の東の端の低い山―日本の国」のことでございます。
「飯に飢えて」とは、日本の国では、まだ仏法の教えが十分に広まっていない、日本の国は仏法の教えに飢えている、との表現でございます。
「臥(こや)せる その旅人 哀れ」とは、「臥(こや)せる」は「横におなりになる」「その旅人」とはこの老人、達磨大師様のことでございます。
達磨大師様は、はるばる日本の国にお生まれくださいました。ですから、「旅人」といわれております。
その達磨大師様が「哀れ」と言われております。
「親なしに 汝(なれ)成(な)りけめや」とは、「仏教の親」でありますお釈迦様がこの日本の国におられない、「私はお釈迦様のように、この日本の国で仏法の教えを人々に伝えることができたであろうか、いや、そのようなことはできなかった・・・」
そのようなお太子様の思いでございます。
「刺竹(さすたけ)の 君はや無き」
「刺竹(さすたけ)の」とは、その下の「君」にかかる枕詞で、「竹が勢いよく成長するような君、そのようなお方がおられない」、それはお太子様が自分自身のことを懺悔(さんげ)され、自分の力の無さを嘆いておられるのです。
そして最後に繰り返し「飯(いい)に飢えて 臥(こや)せる その旅人 哀れ」
「このような日本の国にお生まれになられ、疲れて果てて横たわっておられるあなた様は本当に哀れであります、申し訳ございません。」
そのようなお太子様のお心でございます。

改めて、お太子様が読まれたお歌のお心をいただいてみますと、
インドにお生まれになり、中国に渡り、禅宗の開祖となられた達磨大師様が、はるばるこの日本の庶民の家にお生まれになられ、民衆の中から仏法の教えを広めようとなされたあなた様が、今、こうして疲れ果て、横たわっておられる。そのお姿は本当に尊く、悲しく思うのです。
私はお釈迦様のようにこの日本の国に仏法の教えを伝えることができたでしょうか、いや、そのようなことはできませんでした。私は日本の国に仏教の教えを十分に広めることができませんでした・・・
今、こうして疲れ果て、横たわっておられるあなた様のそのお姿は本当に尊く、悲しく思うのです。
このようなお歌をお太子様は歌われたのです。

 後に、お太子様、四十七歳の御時に膳(かしわで)のお妃様にお太子様ご自身の前世での出来事をお話しになられる、そのような出来事がございました。その時にこのようなことをお話になられました。
「私は昔、中国において数十回も生まれ変り、その度ごとに仏法の教えを広めてきました。そして、今、こうして日本の国に皇太子として生を受け、日本の国にも仏法の教えを広めようとしてきたのです。そうして、私は、日本の国に仏法の教えを広めることができました。
ですが、一人ひとりに仏法の教えを伝えることができなかった・・
今、私は思うのです。この皇太子としての命を捨てて、次に生まれ変わることができたならば、貧しい家に産まれて、出家をし、庶民の中で一人ひとりに仏法の教えを伝えて生きたい、そう思うのです。」
お太子様は四十七歳の時にそのような思いを膳(かしわで)のお妃様にお話になられたのです。

その時、お太子様の頭の中には、垢と埃にまみれ、至ることが破けている衣を身にまとい、疲れ果てて道端に横たわっておられた達磨大師様の尊いお姿があったことでしょう。
「私も地位や位を投げ捨てて、一人の念仏者として、人々の中で、喜びも悲しみも分かち合い、そこにこそ、本当の仏法の教えがある」
そのような思いをお太子様は持ち続けておられたのだと思います。

 話を戻しまして、お太子様のそのお心を聞いた老人・達磨大師様はお歌を返されたのです。どのようなお歌かといただいてみれば、
「斑鳩(いかるが)の 富の小川の 絶えばこそ 我が大君の御名(みな)は忘れめ」
そのお心をいただいてみれば、
「斑鳩(いかるが)の」とは、お太子様のことでございます。
「富の小川の 絶えばこそ」とは、「お太子様のお広めになられた仏法の教えは、今後、この日本の国にずっと続いていくであろう」
「我が大君の御名(みな)は忘れめ」
「我が大君」とは、お釈迦様のことです。
「お釈迦様の御名(みな)は忘れられることはないであろう。今後、日本の国に仏法の教えが広まっていくことだろう・・・」

老人―達磨大師様は、お太子様のお心を知り、読まれたお歌、
「斑鳩(いかるが)の 富の小川の 絶えばこそ 我が大君の御名(みな)は忘れめ」
このお歌のお心をいただいてみれば、
「お太子様が日本の国にお広めになられた仏法の教えは、これから日本の国にずっと続いていくだろう。
これから日本の国に仏法の教えが広まり、人々はお釈迦様の御名(みな)を忘れることはないであろう・・・」
達磨大師様は
「お太子様のご苦労は必ず実を結ぶことであろう・・・これから日本の国に仏法の教えは根付(ねづ)き、隅々にまで、広まっていくことであろう」、
そのようなやさしいお心のこもったお歌を返されたのです。
 その後 お太子様と老人は長い間、話をされ、 お太子様は老人と別れを惜しみながら御殿(ごてん)の方に戻っていかれたのです。
お太子様が御殿の方つかれると、別れた老人のことが気にかかり、使いの者に様子を見てくるよう、お召(め)しになりました。
すると、その老人はすでに息が途絶え、亡くなっていた、との報告を受けられたのです。お太子様はそのことを大変、悲しまれて、厚く葬(ほうむ)るよう、命じられました。
そして、お太子様は老人に着せた紫の衣をお取り寄せになり、その衣を亡き人を偲ぶようにおめしになられたのです。
 すると、そのことを耳にした蘇我馬子の大臣や臣下の者達が大変 怒り、お太子様を非難したのです。
「殿下の聖徳は計り難し。妙迹(みょうせき)たどり難し。しかれども只今は、道のほとりの飢人(うえびと)は卑賎(ひせん)の者なり。何を以って馬よりお降(お)り遊ばし、彼とあい語り、御歌を賜(たまわ)るばかりか、その死に及んで厚く葬り給(たま)うは如何(いかん)。天下の太夫(たいふ)、政道を乱してはいかに国を治めんや。」
このように蘇我馬子の大臣や臣下の者はお太子様のことをそしったのです。
現代のお言葉でいただいてみれば、
「お太子様は何を考えてるのだろうか、その飢え人はもともと身分の卑しい者である。そのような者に対して馬から降りられて、一緒に話をし、お歌まで歌われ、しかも衣服までかけ与えた。また、この死をなげいて、大変りっぱな墓まで建てられている。そういうことをしていると「国の政(まつりごと)の示し」というものがつかないではないか。」
そのようにお太子様を非難されたのです。

 このことはお太子様当時の社会には、差別があり、「死を穢れ」とする神道(しんとう)が盛(さか)んであって、その神道を中心にして政(まつりごと)を行っていたことをうかがい見ることができます。
天皇様は三世紀半ばの邪馬台国の女王(じょうおう)、卑弥呼から続く神道(しんとう)の最高責任者の末裔(まつえい)、また、神様が人間としてお生まれになられたのが天皇様である、そのように信じられておりました。
ですから、天皇様を中心とした当時の日本の国は神道(しんとう)、天照大神様をお祭りする儀式を中心として政(まつりごと)を行っていたのです。
もちろん、お太子様も天皇家の血筋でございましたし、天皇様の代わりに政(まつりごと)を行う「摂政」という高い地位におられました。
その「神道の理(ことわり)」にお太子様は背いてしまったのです。

神道には少し問題がございます。
神道(しんとう)では「血―血液」それと「死」ということを「穢れ」として大変嫌います。
ですから、牛などの動物を殺す仕事をする人たちや、死を扱う私のようなお坊さんを嫌ったり、差別する、そのようなことが起ってきてしまいます。
「女性差別」ということにしましても、女性が子供を出産する時に大量の血が流れる、また、月経の出血がある、そのようなことから、昔から女性が差別されていた一つの原因にもなっております。
差別は、差別されて人に問題があるのではありません。差別は差別をする人に問題があるのです。
子供の「いじめの問題」でもそうです。いじめられる子が悪いのではありません。いじめをする子に問題があるのです。
そういういじめや差別を国が作ってしまっているとしたら、それは国に問題があるのです。

話はお太子様に戻りまして、
お太子様は天皇様の血筋であられ、政(まつりごと)の中心の人物でありながら、道端で倒れている老人を見て、身分の違いがあるからといって、差別することなく、老人にやさしく語りかけられ、神道(しんとう)の「死を嫌う」という理(ことわり)を破られて、亡くなられた老人の着せた紫の衣を取り寄せられ、何事もなかったように、元のごとくにおめしになられたのです。
そして、蘇我馬子の大臣や臣下の者たちに
「そのようなことをされては国の政(まつりごと)に示しがつかないではないか」
そのようにそしられてしまうのです。

 お太子様は、天皇様の血筋であられ、政(まつりごと)の中心の人物でありながら、仏法の教えに出遇われ、阿弥陀様の眼をいただかれ、
「神道(しんとう)の教えでは どうしても 人々の差別する心をなくすことができない、差別を作ってしまうような世界では、人間に生まれた喜びを、生きる喜び得ることは難しい・・・」
そのように見定められ、
「だからこそ、仏法の教えなんだ!
阿弥陀様を中心にして、阿弥陀様のお心、「えらばず きらわず みすてず」のお心を宗とした日本の国に・・・お浄土を映し出すような「和ぎの世界」にこの日本の国を変えていきたい。」
そのような大いなる願いをお太子様は持たれ、阿弥陀様の「えらばず きらわず みすてず」のお心に応えて、「比べず、あせらず、あきらめずに」四十九歳のご生涯をすべてかけられてご苦労くださったのです。