4 十四才 月蓋の話

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富山県高岡市醍醐 善行寺様の聖徳太子御絵伝。昭和34年に新調されました。


 さて、本席は物部守屋の焼き討ちによっても燃えることのなかった一体の三尊仏の話でございます。
 守屋はこの焼け残った三尊仏を憎み、あらゆる手段を使って破壊しようとしたけれども、とうとう壊すことができずに豊浦(とようら)の東の飛鳥川の南の入江(いりえ)に沈めてしまうのです。
 それから時が流れて十五年の後・お太子様二十六才の御時、推古天皇八年に至り、宮廷(きゅうてい)は豊浦(とようら)の宮にございました。
 時に、信州の本田善光と申す者が領地のことで上京して来られました。そうして善光(よしみつ)はことが済み、その帰り道に飛鳥川の南の入江を歩いていたところ「善光(よしみつ)、善光」と呼ぶ声がした。辺りを見回すが人影もなく、入江(いりえ)の方から声がする。
そして、入江(いりえ)の方を覗(のぞ)き見ると、水の底に金色(こんじき)に輝く阿弥陀如来像が沈んでいたのです。驚いて掬(すく)い上げてみると、世に珍しい弥陀・観音・大勢至の三尊仏であったのです。
すると、その三尊仏が善光に向かい語りかけられた。
「善光よ、恐れることはない。汝は今の世のことしか知らないだろうが、汝はインドにおいては月蓋(がっかい)というものであった。百済においては聖(せい)明王(めいおう)として私と約束を交わすほどの縁の深いものであったのだ。汝は今、故郷に帰ろうとしているが、私もそこに連れて行ってくれないだろうか。私は信州の衆生を救いたいと思っている。もし、信濃(しなの)への道のりが遠く、私を背負って旅をすることが辛いと思うのであれは、日中(にっちゅう)は善光(よしみつ)、おぬしが私を背負え。夜になり、人目がなければ私がそなたを背負(せお)おう。」
善光は驚き
「なんと、もったいないことを!どうして私があなた様におぶさることができましょうか。私が必ずあなた様を信濃(しなの)にお連れいたします。」
そう申すと、善光の目からは感激のあまり涙が溢れ出たのです。
 そうして、善光は三尊仏を背負い、信濃(しなの)へ向かったのでした。その道中、三尊仏は善光(よしみつ)にこのようなお話をしてくださった。
「私はある時は、物部の守屋の父、尾輿(おこし)によって難波の堀江(ほりえ)に沈められ、三十三年間そこに沈んでいた。それを曽我の馬子に助け上げられたが、また、物部の守屋の邪見によって飛鳥川の南の入江に投げ入れられて十五年の月日を経た。私は五十年間、物部の難に会って来たのだ。
善光(よしみつ)よ、私は今、おぬしに出会うことができて、本当にうれしい。その喜びは計り知れない。善光(よしみつ)よ、これから私を背負い、七日を経つと、信州のオウミの里、宇沼村のおぬしの家に辿(たど)り着(つ)く。おぬしの屋敷には、私を安置する場所はないであろう。臼(うす)の上に私を供えるがよい。それが、信濃(しなの)の善光寺の始まりとなるであろう」
そのように三尊仏は善光(よしみつ)に話をされたのです。
 それから善光(よしみつ)は三尊仏の仰せのままにいたし、後に善光(よしみつ)は一宇を建立したのです。それが、今にまで伝わる長野の善光寺の始まりでございます。
 
 さて、話は、本田(ほんだ)善光(よしみつ)の前世(ぜんせ)、月蓋(がっかい)の話に移ります。
 インドにお釈迦様がご健在(けんざい)であられた頃、数百の蔵(くら)を持つ大金持ち・月蓋(がっかい)というものがおりました。この男は、欲が深く、お釈迦様のお弟子たちが托鉢に訪(おとず)れても米一粒も施(ほどこ)すことがなかったのです。
ある時、お釈迦様が自ら、月蓋(がっかい)の家に托鉢へ行かれると、月蓋(がっかい)は「今日は仏(ほとけ)が出るとは、何という日だ」と、ぼやき、愚痴を言い、それでも僅(わず)かの米を捧(ささ)げようと、米をもって、いざ、お釈迦様に渡そうとするのですが、その時、欲の心が起こり、一握り分の米を減らそうとしたのです。
するとついに、お釈迦さまは月蓋(がっかい)を激しく叱りつけられたのです。月蓋(がっかい)は、それほど欲の深い者でありました。
 お釈迦様は、月蓋(がっかい)を哀れに思い、僧院(そういん)に戻り、出家の僧の前でこのように言われたのです。
「あの月蓋(がっかい)という者はまことに哀れなものである。たくさんの財産を持つことができたが、執着の心に執(と)らわれ、その財産を守ることだけに頭を悩ませ、苦しんでいる。私たち出家の僧は、何も持たないから、何事にも執らわることがないだけなのです。
何とかして月蓋(がっかい)を救ってあげたいものである。文殊菩薩よ、月蓋(がっかい)を救ってやってはくれないか。」
そのお言葉を聞くと、文殊菩薩は快くお受けいたし、すぐに月蓋(がっかい)の奥方(おくがた)の体に入り、月蓋(がっかい)の子供としてお生まれになられるのです。
月蓋(がっかい)は妻が妊娠したことを知り、ことの他 喜びました。お金の力でなんでも願いを叶えてきた月蓋(がっかい)でしたが、「子供を授かる願い」だけが叶えられなかったのです。
そうして、可愛いらしい女の赤ちゃんが生まれ、名前を如意姫(にょいひめ)と名づけました。月蓋(がっかい)は、蝶よ花よと、その子を大切に育てたのです。
ところが溺愛(できあい)する娘が五歳になると、大変な高熱の出る病にかかってしまうのです。あらゆる医者を呼び、見てもらったが、その病名すらわからなかった。月蓋(がっかい)夫婦(ふうふ)は苦しみ悩み、その夜(よる)は泣き明かしたのです。
そうしたところ、お釈迦様のお弟子でもあり、名医でもあったギバという方が月蓋(がっかい)夫婦(ふうふ)を訪(おとず)れたのです。
そして、その子を診断して、
「この病は私には治すことができません。お釈迦様ならば何とかしてくださるだろう。」
と、言ったのです。月蓋(がっかい)はやむなく、お釈迦様をご招待(しょうたい)いたしました。
月蓋(がっかい)はすがる思いで「何とかして助けてください」と言うと、お釈迦様は
「これは私でもどうすることもできない。阿弥陀如来を念じなさい。阿弥陀如来が来仰(らいごう)してくだされば、必ず 直してくださるに違いない」
月蓋(がっかい)はそのお言葉の通りは、心に阿弥陀如来を念じて「南無阿弥陀仏」と始めてお念仏を称えました。
すると弥陀・観音・大勢至の三尊が光を放ち、月蓋(がっかい)の館(やかた)の屋根に来仰され、寿量品(じゅりょうぼん)を説かれたのです。
如意姫の病は、たちまちのうちに治り、月蓋(がっかい)は小躍(こおど)りせんばかりに喜んだ。そして、お釈迦様に願い出るのです。
「何卒、この弥陀・観音・大勢至の三尊のお姿を私に念持仏(ねんじぶつ)としてお残しください。」と。
そうして、蔵の中からすべての財宝を持ち出し、山のように積み上げました。
お釈迦様はその宝の山に向かい光明を放つと、不思議なことに宝が弥陀三尊へと姿を変えていったのです。
 
 それから時が流れて、この三尊仏は百済(くだら)の国の崇敬王(すうきょうおう)のもとに伝わり、百済(くだら)の国において一千年もの間、衆生済度のお役目を果たされたのです。
そして、聖明王(せいめいおう)の時に、三尊仏は王の夢枕(ゆめまくら)に立ち給(たま)いて、
「我らは東海の国に行きて、凡愚(ぼんぐ)の衆生を救いたい。」と仰せられた。
聖明王(せいめいおう)は謹(つつし)んでその仰(おお)せを受けられ、三尊仏を御輿(みこし)に乗せられて、港へと運ばれていったのです。聖明王(せいめいおう)はその様子を王妃と共にいつまでも見送られたのでした。
 そうして、惠便(えびん)などの僧に守られて欽明天皇十三年に日本の国にお移りいただいたのです。
しかし、その大切な三尊仏が物部の難に会い、長い間難波(なんば)の波間に沈められ、時は移り、推古天皇八年お太子様二十六才の御時、信州の本田善光によって、掬(すく)い上げられ、現在 長野の善光寺の「絶対の秘仏のご本尊 一光三尊阿弥陀如来」となっております。
 善光寺は取りも直さず、善光(よしみつ)の寺(てら)と書いて、善光寺となったのです。