3 十才 蝦夷鎮撫

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富山県高岡市醍醐 善行寺様の聖徳太子御絵伝。昭和34年に新調されました。


 さて、本席お取次ぎをさせていただきますご一段は、お太子様十歳の御時、敏達天皇九年から十年の春二月までの「蝦夷の民 襲来」のご事跡でございます。
蝦夷とは、今では「北海道のこと」をいう言葉となっておりますが、お太子様当時は、今の東北地方から北海道にかけて、そこに住んでいた人々のことを「蝦夷の民」と呼んでおりました。
蝦夷は、お太子様より約五百年前、ヤマトタケルノミコトという武人によって、平定された土地でした。しかし、その時に多くの蝦夷の民が殺されており、「いつの日か 大和朝廷を撃ち落とそう」と恨みを持ち、大和朝廷を撃つ力を蓄えていたのでした。
 そうして五百年が経ったお太子様十歳の御時に、蝦夷の民「三億六万七千余人」という信じられないほどの大軍が、大和朝廷に押し寄せてきたのでした。
すぐに物部氏・中臣氏・蘇我氏などの豪族が集められ、軍議が行われたのですが、こんな緊急事態であるにもかかわらず、お互い 日頃から仲が悪く、意見も合わずに、具体的な行動に出ることができなかったのです。
そうこうしているうちに、今でいうと、秋田県より岐阜県を越え、ついに滋賀県の近江にまで蝦夷の大軍が押し寄せてきてしまっていたのでした。
この緊急事態に、敏達天皇様は、お太子様を隣に座らせて、今一度豪族達を集められ、軍議を開かれたのでした。
軍議は物部氏の「蝦夷を撃ち滅ぼすべし」との声に沸騰していったのですが、その時、敏達天皇様は傍らに座らせていたお太子様に
「汝はどう思う?」と、お太子様に意見を求められたのでした。
お太子様は静かに
「私のような年少の者が、「この国の一大事」に、口をさしはさむのは、大変 恐れ多いことでございます。」
と、申されたのですが、言葉を続けて、
「物部氏の申されることは、真に道理に適うことでございます。そうではございますが、同じくこの「日本の国」に住む蝦夷の民を、この国を治めておられる天皇様の軍が撃ち滅ぼす、ということは大変 悲しいことでございます。もっとよい方法はないものでしょうか?」
とおっしゃられたのでした。
そうして、
「武力を持って彼らを撃ち倒してしまったならば、必ず 彼らの子孫が恨みを抱き、再び武力を持って押し寄せて来ることでしょう。
よろしかったら、私に、彼らの大将と話をさせていただけないでしょうか?私が、彼らの話を聞き、褒美を与えて、彼らの心を静めてみせましょう。」
そのようにいわれたのでした。
敏達天皇様は、蝦夷の民にまで、「大和朝廷には、お太子様というすぐれたお考えと深い思いやりのお心を合わせ持つすばらしいお方がおられる」という噂が、蝦夷の民にまで、広まっていることを知っておられて、集まっていた豪族達に
「どうだろうか、一度お太子様に任せてもらえないだろうか。」といって、軍議を閉められたのでした。
 そうして、お太子様は、ただ一人で、三億という信じられないほどの蝦夷の大軍に向かっていかれたのでした。
その「あまりにも無鉄砲」としか思えないお太子様のその行動に、蘇我の馬子の一軍がついていったのですが、お太子様は
「ここより先は私一人で行きます。あまりにも大勢で出向いたならば、蝦夷の民も疑いの心を持つことでしょう。」
と言われたのですが、蘇我の馬子は数名の家臣を引き連れて、お太子様の後に付いて行ったのでした。
そうして、御絵伝様には、「蝦夷の民の軍」と「お太子様」が出会われた所が描かれてございます。
《井波別院瑞泉寺 太子絵伝2幅目 に描かれている》
こちらの場面では蝦夷の民が大きな岩を投げつけております。そして、お太子様はその岩を鞭で打ち落としております。

 お太子様は「なんとか犠牲を出さずに、蝦夷の民と話ができないだろうか」と、一つの策を用(もち)いられたのでした。蕪矢(かぶらや)という、弓矢の先に、竹や木を削って、株の形の笛と取り付けたのでした。そして、その弓矢を射ると、まるで雷のような音がなったのです。
お太子様は、この蕪矢(かぶらや)を毎日毎日、蝦夷の大軍に放たれたのでした。蝦夷の民は、その蕪矢(かぶらや)というものを知らず、「晴れているのに雷が鳴っている」としか思うことができず、「お太子様が不可思議な雷を操るお方だ、このようなお方に太刀打ちすることはできない」と、ついに、蝦夷の民は、お太子様に降伏したのでした。
 降伏した蝦夷の民にお太子様は、
「どうして、大和朝廷に攻め入ってきたのですか」
と尋ねると、
「理由は二つある。一つは、五百年も昔のことにはなるが、ヤマトタケルによって、私達の「たくさんの先祖の命」が奪われた。その恨みである。もう一つは、日本国の東半分を我が領地にしたかった」
そのようにいわれたのでした。
お太子様は、
「あなた方は、私のような十歳の子供にさえ降伏してしまったのです。いくら大勢で攻め込んできても、大和朝廷に、敵うはずがないのです。今後は、子孫にいたるまで、このような争いは起こさないでください。」
そのようにいわれると、蝦夷の民は謹んでそのお言葉に頷かれたのでした。
そして、お太子様は大きな紙に「二度と大和朝廷に攻め入ることはいたしません」と書かれ、蝦夷の民の大将たちの両手に墨を塗り、その紙に手形を押させて、重ねて 争いを起こさないことを誓わせたのでした。(これが「手形」の始まり と 伝えられるところでございます。)
 さて、そうしてお太子様は、
「ところで、私に石を投げてこられたお方、あなた方のお力をお見せいただきたい。」
とおっしゃられると、六百人力と呼ばれた副将軍キクシンドウが歩み出て、八尺(しゃく)の大きな岩、約二m五十cmの大きな岩を、五尺(しゃく)一m五十cmほど投げ上げたのでした。
次に、七百人力と呼ばれた副将軍ヤシャシンドウが、一丈(じょう)の大きな岩、三mもある大きな岩を投げ上げると、なんと、お太子様は、その岩をバチーンと蹴り上げられたのでした。
そのお太子様が岩を蹴り上げた音は、雷が鳴るくらいの凄まじい音で、蝦夷の民を大変驚かせた、ということでございます。そして、その岩が「ズドーン」と落ちてきて、深さ五尺、一m五十cmほどの大きな穴が開いた、ということでございます。
そして、お太子様は、この地をイワネの山と名づけられ、
「この石がある限り、今日の約束を忘れてはなりませんよ」
とおっしゃられると、蝦夷の民達は口をそろえて、
「大和なる 石根(いわね)の石のあらんほど 我が大君の御言(みこと)忘れじ」
と、口をそろえて言ったのでした。
 そうして、お太子様は、蝦夷の民達に、たくさんの財宝を分け与えられて、民達は、喜んで蝦夷の地へと帰っていかれたのでした。