5 十六才 戦争

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富山県高岡市醍醐 善行寺様の聖徳太子御絵伝。昭和34年に新調されました。


 さて、本席は、お太子様十六歳のご一段をお取次ぎさせていただきます。
 お太子様、一週間以上の不眠不休の看病の甲斐なく、父君・用明天皇様がお亡くなりになられました。
仏敵・物部の守屋は、ご心労なさせれお太子様を見て、「今こそ、最良の時なり」と、全国の豪族達にこのような御触れを出していたのです。
「今、用明天皇様が病に罹(かか)り、瀕死(ひんし)の状態である。これは、我が国の神を疎(おろそ)かにし、外国の神を容認してしまった祟(たた)りである。このまま、外国の神を野放しにしておいては、いずれ、我が国に大きな災いが起こるであろう。用明天皇様がお亡くなりになられた、その時こそ、外国の神を追い払う最良の時である。我々の力を結集(けっしゅう)して、外国の神を追い払おうではないか。我に力を貸し、この戦で手柄を上げたものには、思いのままの褒美が手に入るであろう。」と。

物部の守屋は、お太子様が憎いからこのような行動をとったわけではなく、本心から日本の国を大切に思うから、このような行動をとったのです。ですが、それは真実に暗い、愚かな行動であったと言わざるを得ません。
親鸞聖人の和讃にも
「如来の遺教(いきょう)を疑謗(ぎぼう)し 方便破壊(はえ)せむものは 弓削(ゆげ)の守屋とおもうべし したしみ ちかづくことなかれ」
とお示しくださったことであります。今のお言葉でいただいてみれば、
「お釈迦様の残された真実の教え、仏法の教えを疑(うたが)い謗(そし)ったり、出家した僧侶や寺や尊い木像など仏法様をお伝えする尊いものを破壊したりする者は、弓矢に撃たれた物部の守屋と同じ者だと思うべきである。親しみをもったり、近づいたり、してはならない。」
そのように親鸞聖人も和讃でお示しくださっているところであります。
 
 さて、お太子様は守屋が用明天皇様のお亡くなりになる時を睨(にら)んで、仏法様を追い払う戦をするために全国の豪族に呼びかけて、兵を集めていることに脇目も振らずに、父君・用明天皇様のご看病をなされた。しかし、その甲斐なく用明天皇様はお亡くなりになられたのである。悲しみにふけるお太子様に曽我の馬子の大臣が慌(あわ)てて進言なされた。
「守屋が、この時とばかり兵を集めております。お太子様が喪(も)に服(ふく)しておられたといても、守屋は必ず攻めてきます。守屋はすでに、「河内(かわち)の国・木(き)の本(もと)」に陣(じん)を整(ととの)え、いつ攻めてくるか分からないような状況です。今攻められては、ひとたまりもございません。私もあなたも殺されてしまうでしょう。」とそのように馬子の大臣はお太子様に進言なされたのです。
お太子様は、目を閉じて少し俯(うつむ)いてお考えになられている様子でしたが、顔を上げられて、
「今、守屋を倒さなければ、仏法の教えがようやく日本の国に根付こうとしている時であるのに、その芽(め)が潰されてしまう。如来の光明がこの日本の国を照らそうとしているのに、今、守屋を倒さなければ、また日本の国は、光を失い、闇から闇へと彷徨(さまよ)うことになるのである。」
お太子様は自分に言い聞かせるように、そのことを言われ、馬子の大臣に、兵を集めるよう命じられるのです。・・

 お太子様のその時のご心労をお察しいたせば、誰よりも深く父君・用明天皇様お慕いし、その父君が一週間以上にも及ぶ看病の甲斐なく、少し前に息を引き取られたのです。私たちには想像することもできないような深い悲しみの中に沈んでおられたお太子様が、父君のご葬儀の用意を差し置いて、戦いの用意をなされたのです。守屋との戦いのために父君の遺体を何日も放置しなければならなかったのです。一刻も早く父君のご葬儀をいたしたかったことでしょう。お太子様の心中はどれほどのものがあったのか・・・これもひとえに日本の国に仏法の教えが栄えるが、滅びるかの瀬戸際(せとぎわ)なれば、末世の有情・後の日本の国を想い、涙を忍(しの)んでのご決断であったのです。

 さて、お太子様と仏敵・物部の守屋との戦いは7月1日(ついたち)・2日(ふつか)・3日(みっか)の三日間(みっかかん)であった。
守屋の軍勢は河内(かわち)の国・木(き)の本(もと)と申す辺りに城を築いた。城の周りに稲の藁を積み上げ囲いとした。稲村(いなむら)の城と称した。この稲の藁を積み上げた囲い、敵が城を燃やそうと、矢に火を付け、放ったとしても、積み上げた稲の藁に水を含ませれば、火は容易に城に燃え移ることはない。とても、優れた城構えである。
この物部の守屋という豪族、国の祭事(さいじ)・軍事を司(つかさど)る豪族であった。祭事とは神様を敬う儀式を行うことである。軍事とは戦のための武器を作ったり、兵を整えたりすることである。
お太子様に味方する曽我の馬子の大臣はいつでもお太子様の傍(かたわ)らにいて国の政(まつりごと)を行う豪族であった。
物部氏も曽我氏も国を左右するほどの力を持つ豪族であったが、いざ、戦(いくさ)となればその力の差は歴然(れきぜん)であり、先ほど申した「稲村の城」を取って見ても、戦においては物部氏の真の力を発揮するところであった。
また、物部氏とお太子様、それぞれについた豪族の数は歴然たるものがあった。先に「今こそ異国の神を追い払うべし」と全国に号令(ごうれい)をかけた物部氏の下(もと)に集った軍勢は20万8千騎であった。
それに対してお太子様の下(もと)に集ったのは253騎であった。
そのようなとてもお太子様には勝ち目のない状況で、日本の国に仏法の教えが栄(さか)えるが、滅びるかの瀬戸際の戦(いくさ)が幕(まく)を開けようとしていたのである。
お太子様はお考えになられた。
「このような少ない人数では、もし、守屋がこちらに攻めてくるようなことがあれば、たちまちに滅ぼされてしまうであろう。なにかいい方法はないだろうか。
奇襲(きしゅう)はかけてはどうだろうか。少ない人数ではあるけれど、奇襲をかければ活路(かつろ)を見出(みい)せるのではないだろうか。それしかないだろう・・」
そのようにお考えになられたのが七月一日(ついたち)未明(みめい)まだ夜が明(あ)けきらない頃であった。
お太子様は急いで兵を整えて、静かに守屋のもとへ兵を急がせた。
しかし、高く組まれたやぐらの上にいた兵士にお太子様の軍勢が逸早(いちはや)く見つかってしまった。
「お太子様・曽我の軍勢が来たぞー」と太鼓(たいこ)や鐘(かね)がドン,ドン、ガーン、ガーンと守屋の城に鳴り響いた。次の瞬間,守屋の城門が勢いよく開き「待ってました」と言わんばかりに、守屋の兵が「どーっ」とお太子様目がけて押し寄せてきたのです。お太子様の軍勢はひとたまりもなく、あっという間に蹴散らされてしまった。
 皆バラバラに落ち延び、お太子様もどうにか落ち延びられた。お太子様「今、ここで引き下がってしまっては勝つ見込みがなくなってしまう。今一度、傷ついた兵をまとめて、攻め入れば何か活路が見出せるかもしれない。」とお考えになられ、同日(どうじつ)巳(み)の刻(こく)午前10時に今一度兵を整え、守屋の城に近づき、襲撃(しゅうげき)の機会を窺(うかが)っておられた。
すると、守屋の城の門や軍門が同時開き、今度は四方から守屋の軍勢がお太子様に攻め寄せて来たのです。お太子様の軍勢はまたどうすることもできずに、散乱し、難波のあたりまで落ち延びるのです。
 午(うま)の刻・正午頃に大和の国平群郡(へぐりのこおり)立野坂(たつのざか)の東のあたりでお太子様は兵を整え、このように申されたのです。
「私たちの軍はいかに、一騎当千(とうせん)の武者(むしゃ)の集まり、と雖(いえど)も、わずか253騎である。守屋の兵は20万8千騎の大軍である。攻めるには甚だ難しい。私は、万が一、守屋を討てずに命を失うこととなってもかまわないと思っている。しかれども、私がいなくなってしまったら、仏法の教えをどのようにして広めることができるだろうか。仏法の教えが日本の国に広まらなければ、この国の生きとし生けるものは、この先、安心を手に入れることはできないであろう。本当に残念なことである。」
そのようにお嘆きになられると、阿多伽(あたか)の山より60人くらいの男たちが薪(たきぎ)を担(かつ)いで下りて来たのです。身の丈(たけ)は7尺(しゃく)200mはあろうか、立派な体格の勇ましい男たちであった。その者たちがお太子様の前に進み出て、跪(ひざまず)いた。
「私たちは少々年をとっておりますが、この体はいまだ衰えを知りません。もし、お許しをいただけるのであれば、私たちをお太子様の軍に加(くわ)えていただけないでしょうか。」そのように申したのです。
 また、生駒(いこま)の峰の麓より百姓が一人歩いてくるのが見えた。その身の丈はなんと8尺、200mを優(ゆう)に越えていた。肌の色は白く、美しい顔立ちで、目に光があった。その者がお太子様のお馬を引いていた鍛冶師丸(かじしまる)に尋ねた。
「この頃の噂では、仏法の大敵である物部の守屋討伐のために、大変なご苦労をされておられる方がいると聞くが、その尊いお方とは この方であろうか。もし、私に弓矢をいただけるのであればお力をお貸しいたしたい。」
お太子様はこのことに大変お喜びになられ、阿多伽(あたか)の山より来た男たちを「阿多伽の臣(おみ)」、生駒(いこま)の峰より来た男を「坂本の臣(おみ)」と名づけられた。「阿多伽の臣」の本地は毘沙門天、「坂本の臣」の本地は文殊菩薩であり、それぞれ姿を変えてお太子様にご加勢(かせい)くださった、そのように伝えられるところてある。
 
 日は移り二日の卯(う)の刻・午前6時頃に、泊瀬皇子・竹田(たけだの)皇子(おうじ)並びに曽我一族など7将軍を整え、守屋のもとに向かった。
守屋の城からは矢を惜しむことなく、雨が降るかのごとく矢が降ってくる。その矢を凌(しの)ぐと守屋の兵が怒涛(どとう)のごとく押し寄せてきた。お太子様の兵は一歩も引かず乱れ合い戦う。旗は風になびき、防ぐ兵、攻める兵、進退(しんたい)盛んに乱れ争う。城を守る兵は入れ替わり力を尽くし、城を守り、ある者は気疲れにより倒れ、力尽きて討ち死にするものの数はもう数えることができない。
 しかれども、お太子様の軍勢と守屋の軍勢、あまりにも多勢に無勢(ぶぜい)、お太子様の軍勢は幾度も守屋の軍に囲まれて、この囲いを破り、また、守屋の軍に囲まれる。ついにはそれぞれバラバラになって退却せざるを得なくなった。ある者は生駒山(いこまのやま)に至り、ある者は信貴山に至り、身を隠した。
お太子様と秦の川勝も退却を余儀なくされ、南東(なんとう)の方角に馬を走らせた。その退却するお太子様に守屋の数万の兵が、「お太子様の首を、手柄を我に、」と亡者のごとく迫り来る。悪いことに、お太子様の行く手には見通しの良い荒れ野が続くばかり。身を隠す所もなく、窮地(きゅうち)に追い込まれるのです。
そのような中、一本の椋(むく)の大木(たいぼく)がお太子様の目に留まったのです。お太子様はその大木に向かい、願われた。
「椋(むく)の大木よ、汝(なんじ)に人のような感情があるとは思わないが、よく私の声を聞きたまえ。我は仏法の大敵守屋を降伏(こうぶく)する者である。しかし、今窮地に追い込まれ、我が身が危(あや)うい。願わくは、我を助けたまえ。」
すると、不思議なこと椋の大木が二つに裂け、その中が洞穴(ほらあな)のようになったのです。お太子様と川勝は馬を従えその中に入ると椋の大木は元の一本の木へと姿を戻したのです。
守屋の兵はお太子様たちの姿を見失い、「仕損じた」と悔しがっていると、悲しいことに椋の大木から馬のしっぽが見えてしまっていたのです。それを守屋の兵が見つけると、「お太子様はこの木の中にいるぞ」と騒ぎたて、、その木に火を放ち、お太子様を亡き者にしようとしたのです。守屋の兵が火を付けようとしたその時、なんと、その馬のしっぽが無数の蜂に姿を変え、守屋の兵に襲いかかった。蜂は守屋の兵の兜や鎧の中に入り込み、体のいたる所を刺す。堪らず、守屋の兵は皆退散するのです。

 後にお太子様はこのご恩を忘れず、一寺(いちじ)を建立されました。それが河内の国の椋(むく)の木の太子堂であります。