1 御誕生

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富山県高岡市醍醐 善行寺様の聖徳太子御絵伝。昭和34年に新調されました。


 さて、本席のお取次ぎさせていただきますご一段は、お太子様、ご誕生のご事跡でございます。
 敏達天皇元年、正月一日、丑(うし)の刻、夜も深い、深夜のことでございます。
間人(はしひと)の姫様はお太子様がご入胎されてから十二ヶ月が経ちました。
宮中では、正月一日、元日の朝には、お妃方がそれぞれに仕えている女官を従えて、宮中の十八の御殿を回り、新年をお祝いする、そのような慣わしがございます。
間人(はしひと)の姫様は大きなお腹を抱えながら、その慣わしに従い、宮中の御殿を回り、夫であられる豊日尊(とよひのみこと)の御殿を回り、お帰りになられる時に厩(うまや)の前をお通りになられました。
その時、突然、厩(うまや)に繋いでいた名馬が三声(みこえ)いなないた。
すると、間人(はしひと)の姫様は急に産気づかれ、お太子様がお生まれになられたのです。
そのご誕生を喜ぶように、西の方角、西方浄土から光が射し、宮中を明るく照らしたのです。
ご絵伝様にはここに描かれてございます。

《井波別院瑞泉寺 太子絵伝1幅目 に描かれている》
厩(うまや)には二頭の名馬が繋がれております。
三声 嘶(いなな)いたのは、栗毛の名馬、それは、達磨大師様の変化のお馬であったのです。
お太子様十六歳の御時(おんとき)に、仏敵、物守守屋との日本の国に仏法の教えが栄えるが、滅びるかの瀬戸際(せとぎわ)の戦(いくさ)がございます。
その戦(いくさ)の時にお太子様のお乗りになったお馬がこの達磨大師 化身の「栗毛のお馬」でございます。
もう一頭、葦毛の名馬が繋(つな)がれております。こちらは帝釈天 変化のお馬でございます。
お太子様十歳の御時(おんとき)に、国境に蝦夷(えぞ)の民(たみ)が押し入り、暴れて、敏達天皇様を困らせます。
十歳のお太子様は、その蝦夷(えぞ)の民(たみ)を、武力ではなく、大悲によって治められます。
その時にお乗りになられていたお馬が、《葦毛の名馬を指す》この帝釈天 変化の「葦毛の名馬」でございます。

 達磨大師様と帝釈天は、これからのお太子様の大いなるご苦労、「日本の地に仏法の教えを根付かせる」という大いなるご苦労を思い、「先に、少しでも」と、馬に変化し、鎧(よろい)を打たれ、轡(くつわ)をはめられて、お太子様より先にご苦労を受けられて、お太子様のご誕生を待ちわびておられたのです。
そして、「一刻も早くお太子様にご対面致したい」という思いから、三声のいななき「帰依仏 帰依法 帰依僧」の三帰依文をもって、お太子様をお向かいなられたのです。
そうして、お太子様はその声を聞き、お生まれになられました。
 西方浄土より光が射す中、お太子様は「三界(さんがい)皆(かい)空(くう) 衆(しゅう)苦(く)充満(じゅうまん) 其(ご)中(ちゅう)衆生(しゅじょう) 我(が)当(とう)安立(あんりゅう)」と、達磨大師様と帝釈天にお声をかけられるのです。
どのようなお言葉かと、いただいてみれば、
「人々が、迷いの世界を流転し続けているのは、皆、因縁によって生(しょう)じるのである。もろもろの苦悩が満ち溢れるその只中(ただなか)にいる人々を、まさに、私が、流転のない、迷いの世界から離れた、安心の世界へ導こう」
お太子様は先にご苦労をされて迎えてくれた達磨大師様と帝釈天にそのように申されたのです。
その声は、普通の者には、赤子の泣き声としか、聞こえないものでありました。

お太子様のご誕生を喜ぶ西方浄土からの光は、赤と黄色の二筋の光明でありました。
その光明は明るく、宮中を照らし、(その時は深夜の2時であったが)まるで真昼のように宮中を照らし出し、敏達天皇様を大変 驚かせたのです。
この二筋の光明、赤い光は阿弥陀様の「智慧の光」であり、黄色い光は久世観世音菩薩の「慈悲の光」でありました。

《井波別院瑞泉寺 太子絵伝1幅目 に描かれている》
 こちらに五人の女性がおられます。こちらがお太子様の母君・間人(はしひと)の姫様です。後の四人の女性が、間人(はしひと)の姫様に仕えてしている女官達でございます。

 さて、お太子様がお生まれになられ、産湯(うぶゆ)にお入れしました。
産湯(うぶゆ)の役には大湯人連(おおゆのとのむらじ)と若湯人連(わかゆのとのむらじ)が定められました。
産湯(うぶゆ)には3つの井戸の水が使われた。春日(かすがい)の井戸・千歳(ちとせ)の井戸・赤染(あかぞめ)の井戸でございます。
春日(かすがい)の井戸は熱いお湯が湧いており、千歳(ちとせ)の井戸は大変きれいな、清らかな水が湧いた。赤染(あかぞめ)の井戸は大変冷たい水が湧いておりました。
この3つの井戸の水を汲み上げて、程(ほど)よい温度にして、お太子様をお湯にお入れいたしました。
そうして、産湯(うぶゆ)から引き上げて敏達天皇様 自(みずか)ら白綾(しろあや)の布をお広げになられ、お太子様をお受け取りになられたのです。
そして、皇后(こうごう)広姫様にお渡しになられ、広姫様より、お太子様の父君 豊日尊(とよひのみこと)にお渡しになられ、豊日尊(とよひのみこと)より、母君間人(はしひと)の姫様の懐(ふところ)に抱かれたのであります。お太子様のお体からは、かぐわしい、大変ふくよかな良い香りがいたしたのです。

 こうして産湯(うぶゆ)も終わり、その3日後には敏達天皇様自ら「三日(みっか)の産養(うぶやしない)」として、文武百官を一堂に集められ、それぞれにお祝いの品々を下付されて、宴(うたげ)を開き、お太子様がお生まれになられた喜びを皆と分かち合われたのです。
 天皇様自らお太子様のことを、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と名づけられたのは7日目の夜のことでありました。
その7日目の夜には皇后(こうごう)広姫様が役人や女官たちを集められ、宴(うたげ)を開かれ、お太子様がお生まれになられた喜びを皆と分かち合われたのです。

 さて、お太子様の乳母(うば)には月益(つきます)姫・日益(ひます)姫・玉照(たまてる)姫・唐安(からやす)姫・唐花(からはな)姫の5人が定められました。
月益(つきます)姫は、蘇我馬子の娘で、年は十七才でありました。このお方は多聞天の化身であった、そのように伝えられております。
日益(ひます)姫は、遣隋使で有名な小野妹子の娘で、年は十八歳でありました。このお方は持国天の化身であった、そのように伝えられております。
玉照姫は、仏敵・物部守屋の娘で、年は十九才でありました。この玉照姫は仏敵・物部守屋の娘であったわけですが、五人の乳母(うば)の中でも特に、お命がけでお太子様をお守りして、お育てになられるのです。玉照姫は地蔵菩薩の化身であった、そのように伝えられております。
唐安(からやす)姫は大伴金村の娘で、年は十七才でありました。このお方は広目天(こうもくてん)の化身であった、そのように伝えられております。
唐花(からはな)姫は秦川勝の娘様で、このお方は増上天(ぞうじょうてん)の化身であった、そのように伝えられております。
 この5人の乳母(うば)達はこのような子守唄を歌って、お太子様をお守りし、お慰め申しておりました。お言葉だけお伝えさせていたします。

念々念々念々念々念々念々念々 露々露々露々露々露々露々露々
念禅法師小法師 宿れ宿れ小法師 生める子の下には祢宜羅(ねぎら)が候(そうろう)ぞ

このお歌のお心をいただいてみれば、
「念々」は繰り返す、「露々」は露命・露のようにはかない命ということです。お太子様の前生におかれまして、仏法の教えを広めるために、
インド・中国、そして、日本の国へお生まれくださった。何度もこの世に生まれ変わり、死に変わりされて、仏法の教えを広めるために、力を尽してくださった、そのことを念々と露々を7回繰り返すことでいわれております。
「念禅法師」とは、お太子様の中国での前世・慧思禅師の別名でございます。
「小法師」とは、その慧思禅師が、ただ今 この日本の国に生まれ変わられて、可愛らしい赤ちゃんになっておられる、そのようなことから小法師といわれております。
「宿れ宿れ」とは、「いつまでもこの日本の国に留まって、仏法の教えを広めていただきたい」、そのような願いでございます。
 「生める子の下には祢宜羅(ねぎら)が候ぞ」とは、「お太子様の下には5人の乳母(うば)がお付きしておりますよ・・・」祢宜羅(ねぎら)とは、神主(かんぬし)のことで、神主(かんぬし)が神様にお仕えする様に、私たちもあなた様にお遣(つか)い申しておりますよ、そのようなお言葉でございます。