「土徳」について

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「旅の手帳 北陸の観光文化情報誌 季刊(きかん)『彩都(さいと)』」より
(二〇〇七年一月二十日 石川県金沢市高岡町(株)アドマック発行)


豊かな精神土壌
「土徳」の里が 北陸に広がる。
人が造った都会 より、神が造った田舎 こそ 誇り。

「土徳」という言葉がある。広辞苑にも、大辞林にも出てこないので、少なくとも一般的に使われている言葉ではないことが分かるが、雰囲気はなんとなく理解できそうだ。ここでいう「土」は、大地や地面、土壌といった意味ではなく、人が暮らす土地や地域を指すのだろう。「徳」という言葉も、西洋にはない東洋の宗教哲学的な概念であり、身近な日本語の中から端的に指し示す言葉を探すのは難しい。強いて言うなら、品性や恩恵、加護といった解釈が当てはまるのかもしれない。
 この「土」と「徳」を組み合わせた「土徳」とは、要するに、そこにある自然、風物、周囲の人々もひっくるめて、他者に対して安寧をもたらし、それでいて何も求めない品性、品格が宿る土地、地域と形容できそうだ。本来は浄土真宗の教え、考えから生まれた言葉だといい、浄土真宗の盛んな北陸の風土を指し示す一つの表現だと聞いている。
 小誌『彩都』は、金沢に代表される、歴史が醸し出す情趣にあふれた伝統文化を紹介する傍ら、北陸の農村や山村に伝わる人々の無垢な営みにも光を当て、北陸の生活文化、観光文化の語り部であろうと努めてきた。
 今号も、とりわけ真宗風土が濃厚に残る富山県南西部の南砺市の山村、農村をはじめ、能登半島に暮らす人々のさまざまな思いと営みを「土徳」の切り口を意識して特集した。ここで何より強調したかったのは「この土徳に生まれて幸せだった」「こんな地域に生まれたかった」とする地元の人々や旅人の心にほかならない。
 富山県の南砺といえば、自治体合併で南砺市に併合される前の福光町に戦後暮らした稀代の版画家、棟方志功が思いおこされる。棟方は疎開に訪れた福光で「南無阿弥陀仏」の大きな仏意に包み込まれるうち、創作の壁を打ち破り、今に残る数々の名作を生み出したことで知られる。棟方の場合は実際にそこに住み、地元の人々との交流もあったから、真宗王国に息づく蓮如さんの心に触れ、創作に苦悶する心が解き放たれたのかもしれない。
 これこそが、精神世界的な安らぎをもたらす田舎の底力に違いない。しかし残念でならないのは、現代日本が政府を挙げて田舎を取り壊し、何の変哲もないただの町に変貌させてしまったことである。ゲーテは「都会は人が造る、田舎は神が造る」という言葉を残したそうだが、合掌造りの民家が軒を連ねる五箇山、南砺の散居村、能登半島の山里を取材して痛感した思いを言い当てている。
 観光客が求めるものは、三流、四流の都会などではなく、ほっと気持がほぐれ、体の力が抜けて癒される田舎の気配りそのものなのではないか。もしそうなら、素朴な形で生きながらえた人の心も、風物も産物も、今あるままにどうにかして残さなければなるまい。超一流の田舎で誇り高く生き、国内外から訪れる人々を自然な姿で迎え入れる温かく大きな懐をこれからも持ち合わせたいものである。


富山県南砺に「土徳」をみた

三流の都会より超一流の田舎でありたい

 年間の自殺者が三万人を超え続けている日本は病んでいるのかもしれない。将来に不安を持つ人も増えるばかりだ。私たちは戦後、何を手に入れ、何を置き忘れてきたのだろうか。少しは幸せになったのだろうか。その答えを探して富山県南砺地方を訪ねた。そこには、豊かな自然がまだ残り、人々の心に浄土真宗の光が射し、あらゆるものに感謝し、仏を拝んで内省し、目に見えない力に育てられていることを信じて疑わない暮らしぶりを見つけることができた。南砺地方の人たちは、こうした風土を誇らしげに「土徳」と呼ぶ。これこそが、かつてどの地方にも根づき、やがて、見失われていった日本の心なのだ。「三流の都会より、超一流の田舎でありたい」という人々の自然な姿と日常を紹介しよう。


都会は人が造る 田舎は神が造る
真宗大谷派大福寺(南砺市大窪)の太田浩史住職は、無名の職人による民衆的工芸品の美を発掘する民藝運動家として活躍している。「民藝」の美学は、仏教の他力思想に基づいており、太田さんは南砺の「土徳」との深いつながりを見いたして、光を当てようと心を砕いている。「民藝」、「真宗」、「土徳」とはどういうものか、それらの関係性について語ってもらった。

民藝とは、土地の素材と伝統の技に素直な民衆が生み出したもの

 民藝というのは、芸術や美術工芸に対置される言葉です。美術品は芸術家個人の能力で作るもので、希少価値があり、人がまねのできないものを作ろうとします。そして鑑賞して楽しむものです。これに対して民藝に個人性はなく、民衆性があります。民衆的工芸とでも言いましょうか、名もなき民藝が地域でも生産される素材と伝統の技に素直になって作っていけば、どんな平凡な人間でも、天才の作った美に勝る美しいものができるのです。
 民藝には芸術家にできないことが二つあります。一つは、無意識のうちに作ることができるということです。これは芸術家にはなかなかできないでしょう。もう一つは、安く作られることです。美術品は桐の箱に大事に入れて飾っておくもの、展示するものですが、民藝は実用品であり、たとえ壊れても、いくらでも作られる違いがあります。

手仕事が消えれば国が滅ぶ

 今までは美術品の美だけが求められてきましたが、それだけでは美の全体を説明したことにはなりません。これからは民藝的な美とも光を当てていかねばならないのです。同じ人間が営むものづくりの中で、どちらが主流で、大切なものかといえば、美術品よりもむしろ民衆が作り上げる手仕事ではないでしょうか。それは社会や文明の基礎を支えてきたものであり、それが衰えた国はいろいろな方面で力をなくしていきます。重化学工業やIT技術の発展も大事ですが、一つの国にとって大切なものは、ものづくりという原点なのです。民衆の作り出すものが豊かにあふれていれば、その国は美しい国になっていくでしょう。素直で健康的なものを使いこなす生活文化が豊かに発展している国です。安部晋三首相がキャッチフレーズに掲げている「美しい国」の意味はよく分かりませんが、民藝運動に携わる僕らはすでに答を持っている。「美しい国」とはどういう国で、どうしたら作れるのかということを…。
 宗教哲学者の柳宗悦は、そうしたことを大正時代の終わりに民藝運動として提唱しています。富国強兵だとか殖産興業という当時の国是は、今で言う一種のグローバリゼーションでしたが、それによって、産業機械が進出し、手仕事をする職人の職場がなくなっていく時代だったのです。

「おかげさま」と感謝する「他力」の精神風土

 この地には蓮如上人以来の伝統で、他力の思想、精神風土がありました。他力とは、自我を主張するとか、個人主義とか、自分だけ得すればいいという考えとは 反対に、生きること自体を「おかげさま」と人々が互いに感謝することなのです。
 柳宗悦は、今お話しした民藝の思想をどうしたら理論的に証明できるか追求していました。民藝は物ですが、柳はこの地へ来て他力の精神風土に接し、大きなインスピレーションを得たのです。それは、人間を救うための思想、つまり他力の精神は、人とか心の話ですが、民藝という物に関する美の理論が人間の心にもあてはまるということです。心に働いているものが同じように物にも働いている…。人間を超えた大きな力、大自然や大宇宙の力が人間の心に働いたときに「信」になり、物に働いたときに「美」になることをつかんだのです。これを柳宗悦は「美信一如」と言っていますが、これがきっかけとなり、昭和二十三年、城端別院(善徳寺)にこもって『美の法門』を書き上げます。その中で柳は、「民藝美論」という言葉を「仏教美学」と言い換えて、その理論を昇華させているのです。
 それまでは民藝の美といっても、骨董趣味のように、何かちぐはぐなイメージで受け取られていたのですが、民藝の美に触れて人は心も救済されることや、倫理性、道徳性が含まれないと本当の美ではないことが柳宗悦によって理論家されたのです。しかし芸術家は違うのです。たとえば、十九世紀のドイツの作曲家ワグナーのように、天才的に美しい音楽を作るけども人間的には非道徳的だったのと違い、民藝の美しさは道徳性にあるのです。それが他力の思想と出合ったわけで、柳はこの地の人々の暮らしぶり、人生に対する態度は民藝の精神そのものだということに気付いたのです。
 棟方志功が福光へ来て、なぜ作品が急に良くなったのか。柳は、棟方がこの地から受けた目に見えない影響力を「土徳」と名付けました。しかし、それはきっかけに過ぎません。「土徳」は普遍的に、世界中どこにでもあるからです。土徳のないところはありません。世界中の文化はすべて、その地域の伝統と材料に忠実であれば、みな美しいものを作ってきたのです。そういうことを自覚させる要素が北陸の精神文化にあったということでしょう。

 この地域の人々の人生に対する態度を一言で表現すると、感謝の気持ちです。感謝のない幸福 というものは 果たしてあるのでしょうか。お金持ちが幸せだと思う感謝もありますが、それは 自分の幸福に感謝している だけです。これに対して、この地の人たちの感謝は、全方位、ありとあらゆるものに感謝しているのです。「仏さま」だけでなく、「人さま」という言葉もあるほどですから。
 この地では、感謝の気持ちが基盤になって地域社会がつくられているのです。個人主義と違うものですが、しかし、どちらが幸福を達成できるか、少なくとも、幸福感を持っていられるか、ということだと思うのです。
 次に風土、つまり豊かな里山があります。里山があることによって感謝が具体化します。実り とか 自然 とか に 感謝を捧げられるのです。
 もう一つは 真宗独特のもので、お講があります。お講は共同体です。皆で語り合えながら、自分が気づかされるのです。自分が研究して何かをつかむという発想でなくて、周りの人に気づかせてもらうということ。吉川英治(よしかわえいじ)風に言えば、宮本武蔵に言わせたら「我以外皆我師(われ いがい みな わが し)」の精神なのです。極端に言えば、泥棒だろうが なんだろうが 皆師、つまり、「人さまによってお育てに預かる」という発想を持った社会。これがつい最近まで、現実にあったわけです。「結(ゆい)」もそうです。私たちの生活も仕事も一人では できません。五箇山の合掌造りの屋根も かやぶきの仕事は一人の力、経済力で できるものではありません。葬式でも結婚式でも、皆が協力し合って生活してきたのです。
 お講というのは、仏教思想を媒体(ばいたい)として自分を内省する働きがあります。物質的利益の共同体ではないので、お講に入れば楽だ とか 得するという話ではなく、感謝が深まれば深まるほど、「感謝」の心、つまり、社会や他人に尽くすことですが、義務感ではない 自然な気持ちの発露として行動がでてくるのです。それは意識していないから尊いのです。良いことだから やろうというのでなく、当たり前、空気みたいなものなのです。
 だから、棟方志功は『板極道(ばんごくどう)』という著書で、「ここでは誰も彼も、知らずの内、ただ そのままで 阿弥陀さま に なって暮らしているのです」と書いています。棟方志功から見れば そう見えたのでしょうね。
 ボランティアをする人は 達成感が得られる といいますが、ここではそんなものは 全然 求めていません。良いことをしたという気持ちもないし、良いことをしたから気持ちがいいというものでもありません。

蓮如の教えが、空気のように漂っていた

 この精神性は、蓮如上人が十五世紀に この地へ来て すぐにそうなったのでなく、この地の人々が何十世代にわたって、蓮如の教えに基づいて毎日の生活を営んできた、その生活の堆積(たいせき)、蓄積が自然化したものといえるでしょう。それが「土徳」となって 私たちに恵まれているのです。それは無意識化、無自覚化された空気のようなもので、空気には だれも感謝しないでしょう。当たり前すぎて見えなくなっているのです。
 そこへ個人主義というグローバリズム(世界の一体化を進める思想)が入ってくると、「土徳」は 空気みたいなものだから、気がついたら 無くなっている。無くなってみて 初めて喪失感を持つことになります。今がそうでしょう。皆が、無くなったことに ショックを受けている。
あり得ないことが 次々と起こっているからです。田舎の普通の子が 突然キレて、反社会的なことをやったりしています。理由が分からないことが起きているのです。それは社会の基盤が崩れているからなのです。家があちこち傷んで、修理しても 修理しても、ガタがくる。何のことはない、家の基礎を直せばいい。そんなようなことが「土徳」なんでしょうね。

棟方志功の作品を一変させたものとは
 柳(やなぎ)宗悦(むねよし)に才能を見出された棟方志功は、昭和十九年に陶芸家河井寛次郎の勧めで始めて福光の光徳寺へ来ています。そこでインスピレーション(突然のひらめき)を得て 光徳寺の襖絵(ふすまえ)「華厳松(けごんまつ)」を描きました。翌 昭和二十年三月、再び 福光へ疎開で来て、半年も たたないうちに棟方の作品は大きな変化をとげています。このころのこと について棟方はこう言っています。
「いままでは ただの、自力で来た世界を、かけずりまわっていたのでしたが、その足が自然に他力の世界へ向けられ、富山という真宗王国なればこそ、このような大きな仏意の大きさに包まれていたのでした。(中略)富山では、大きないただきものを致しました。それは『南無阿弥陀仏』でありました」(『板極道』)
 一心に取り組んでいて、最後の壁が破れない、打ち破れず悩んでいる人たち。人生に矛盾を感じ、真実を追求していて壁にぶちあたっている人たちも、北陸へ来ると、何か知らないうちにポンとはじけるように超えてしまう。この土地柄は そういう働きをもっていて、その原因を探っていくと蓮如さんに 行き着くのです。これは五百年もかかって作られてきたものだから、大きな財産 と 言わなければなりません。

「土徳」の地で開かれる新しい精神世界

 海外の人も日本人でも、そういう人が来るべき所が南砺なのです。単に観光に来て遊ぶのでなく、巡礼的な観光というべきでしょうか。親鸞聖人も悩んだときにはあちこち聖地を巡ったそうですが、人は困ったときにはそういう所へ行きたくなるものです。何かのきっかけにしたいという意味で、ここはいい場所なのです。柳宗悦も城端別院に七十日こもって『美の法門』を執筆しています。
 この地に起きた民藝運動の中心的メンバーの一人が棟方志功でした。でも、この地の人は棟方志功が「民藝の人」であるとの自覚はあまりないようです。それでは、彼がこの地に愛着を感じ、長く滞在した必然性がりません。棟方は昭和二十六年までいたのです。そうでなければ、戦争が終わったらさっさと帰って言ったはずです。

日本人が壊し、外国人があこがれる日本の田舎

 海外から日本に観光客が何百万人と来ます。政府は リゾート法を作って観光を振興(しんこう)しましたが、レジャー施設は ほとんど人気がない。そこで政府は、外国人観光客に日本へ何を目的に観光に来たか、アンケート調査したそうです。それによると、一位が「神社・仏閣」、二位が「日本の自然」で、政府が驚いたのは三位に「日本の田舎」が入っていたことでした。この三つとも、政府が保全のために努力してこなかったばかりか、三位の「日本の田舎」にいたっては、国力を挙げて 壊してきたものではないでしょうか。
 日本の戦後は、日本列島の均衡(きんこう)ある発展を図(はか)らなければいけないとか言って、田舎を都会にすることが目的になっていました。日本の田舎は 大変価値あるものであることを、恥ずかしいことに、外国人観光客から教えられたのです。
 ゲーテは「都会は 人が造る、田舎は 神が造る」という意味の言葉を残しています。都会と田舎は役割分担があって、都会は 国を物質的に富(と)ましてくれ、田舎は精神的に富(と)ませてくれます。両方がしっかりしていないとうまくいかず、都会を優先して田舎を犠牲にしては その国は だめになってしまいます。
 ところが、今の日本の発想は、田舎の価値を理解せず、田舎を都会化することばかりに力を入れています。そして、都会化しようとする田舎同士の競争になり、その最大の相手が東京だと思っています。一極集中をどう是正(ぜせい)するかなど と 言って、田舎を壊して 全部 都会にしようと一生懸命になっています。
 北陸が二十二世紀に生き残るには 二つの道があると思います。三流の都会になって東京の下僕(げぼく)になるか、あるいは、超一流の田舎を目指すのか、です。超一流の田舎は もちろん、精神的にも物質的にも豊かであるべきです。都会の真似事をする豊かさ では ありません。
 北陸は、交流人口を受け入れる意味で 豊かでなくてはなりません。お金は、美しい里山を整備する とか、より美しい田舎にするために使われるべきです。

 若い人は都会にあこがれるものですが、これからはどこに住むかを選択する時代です。都会が得で、田舎が損という発想ではなくて、自分はどの世界で活躍したいのかを考えてほしいと思います。人類への貢献度は田舎に住むほうがよほど高いはずです。そういう中で自分の価値観、達成感を確立してほしいものです。都会も田舎を無視して成りたつのでなく、田舎に感謝して、恩返しするような都会であるべきだと思います。田舎は親で、都会は子供、ゲーテに言わせれば田舎は神で、都会は人だから…。そうしたら、豊かな田舎が成り立ちます。都会は田舎よりも進んでいて、新しいものが常に正しいと思い込むような都会への不健康なあこがれを抱くのは誤った教育の弊害です。
 機械産業も、その原点である手仕事に感謝し、自分の親、神として敬うべきではないでしょうか。田舎の精神的価値と都会の物質的価値。この共存共栄を図る国であってほしいと思います。五箇山、能登、白山麓など、疎開にさらされている所は大変な財産なのです。こうしたことを宗悦は八十年も前に言っているのです。

私たちは何をすべきなのか

 田舎が豊かになるためには、田舎に住む私たちが国際人にならねばなりません。世界の中で自分の故郷がどういう位置にあるのか、人類にどういう貢献ができるかをグローバルに見られる人間にならないといけません。「真の国際人とは、ふるさとに誇りを持つ人のことである」というのはヨーロッパに定着している考え方ですが、自分のふるさとに誇りを持てない人は、他の国の一人ひとりの人柄、ふるさとに敬愛を持てるはずがありません。互いに腹の底から付き合えないでしょう。
 日本では、国際化という名のもとに英語とかパソコンを教えていますが、子供たちにふるさとに感動する心を持たせる教育が先決ではないでしょうか。日本人は日本の文化にコンプレックスを持っているようです。いまだに黒船のショックを引きずっているわけでもないでしょうが、向こうがわれわれに何を期待しているのか、双方で食い違っているような気がします。われわれは国際社会が期待するようにふるまえば良いのではないでしょうか。国際社会の期待は、日本人がより日本人らしくふるまってほしいということでしょう。
 日本の思想、文化には、ヨーロッパの行き詰った価値観を超えて、ヨーロッパに新しい恩恵をもたらしてくれる可能性があると考えられています。座禅を組んでいるキリスト教の牧師さんは「今の文明の危機的状況にはキリスト教の責任もあり、われわれの姿勢が間違っていた。イエスの教えに戻り、神の愛に帰るには、仏教の教えが必要だ」と言っています。
 グローバル化とは、私たちが、より個性的になることではないでしょうか。グローバリズムの中で生き残るには、北陸がより北陸的になることだと思います。コンビニやデパートがアメリカと同じであってはいけないのです。


南砺の風土と歴史

信仰の深まりが発酵した土徳の里
南砺地方は、富山県の南西に位置する城端町、福野町、福光町、井波町、井口村の平野部と、五箇山の平村、上平村、利賀村の旧八町村を総称した地名である。平野部には、庄川と小矢部川に沿って、豊かな田園地帯に「散居村」が広がり、北陸でも有数の穀倉地帯となっている。五箇山は白山国立自然公園の美しくも厳しい自然を背景に、世界遺産の「合掌造り集落」が静かなたたずまいを見せる。中世に蓮如上人が布教に訪れたことによって、人々の心には浄土真宗の信仰が深く浸透している。平野部と山岳部を併せ持つこの地方は、西は金沢市、南は岐阜県飛騨市や白川村と接し、特に加賀百万石の影響を受けて、越中・富山の文化とはやや趣を異にした独自の風土に根ざした文化を育んできた。かねてから地域間の経済的、人的な結びつきは強く、平成十六年十一月、南砺地方の八町村が合併し、南砺市を誕生させている。

綽如が種をまき、蓮如が水をやり、赤尾の道宗が丹精した越中の真宗

 南砺地方の歴史と文化、人々の暮らしは、浄土真宗を抜きにしては語れない。
 本願寺五世綽如が明徳元(一三九〇)年、北陸での浄土真宗布教の拠点として井波に瑞泉寺(井波別院)を建立して以来、真宗の教えはこの地に乾天の慈雨のごとく浸透する。五箇山では、蓮如の愛弟子、「妙好人(信仰心が篤い在家信者を称賛した呼び方)」と称された赤尾の道宗が、永正十(一五一三)年に行徳寺を開いて村人に教義を説いている。永禄二(一五五九)年、蓮如が開基したとされる善徳寺(城端別院)が加賀・越中の国境付近から城端の地に移築され、南砺地方は北陸における真宗の一大拠点を形成することになる。
 現在わずか六万人が暮らす南砺地方に、本山の代理を務めるほどの格式を持つ「別院」が井波と城端に二つも存在ることからも、本願寺がこの地をいかに重要視していたかを知ることができる。井波別院は、天正十三(一五八五)年に本願寺が豊臣秀吉と講和するまで、城端別院、勝興寺(高岡市)とともに、越中の一向一揆の牙城となり、時の権力と対峙する力を持っていく。

井波、城端の両別院を核として

 こうした歴史的背景のもので、旧井波町と旧城端町は、中世から近世にかけて両別院の門前町として、また、交易が盛んになった旧福野町や旧福光町は市場町として大いににぎわった。
 井波の瑞泉寺に施されている見事な彫刻は、優れた腕を持った宮大工や京国師、塗り師らが京都から呼び寄せられ、残したものである。その技は地元に引き継がれ、井波は木彫美術の町として発展した。現在でもアトリエを構え、彫刻家を目指す若者が全国から集まっている。
 善徳寺のある城端には、四百年前に絹織物産業が興り、加賀藩の保護を受け、「加賀絹」の名で京都や江戸へ運ばれた。また、五箇山の和紙の集配地としても栄え、町衆は大きな財を成していく。城端の街が「小京都」と呼ばれるたたずまいを残しているのは、富を蓄積した町衆が京都などに遊びにでかけ、その文化を持ち帰ったことによるとされる。絢爛豪華な城端曳山、粋で哀調を含んだ庵唄(城端唄)が継承され、往時の繁栄を今に伝えている。

 のどかな南砺の田園地帯に、時間はゆっくり流れている。人々は皆、親切で思いやり が 深い。近所同士の助け合いの精神が色濃く残り、昭和四十年代までは、「家に かぎ なんか かけたことがなかった」と地元のお年寄りが言うように、およそ犯罪とは無縁の土地柄だった。今でも、刑法犯(けいほうはん)認知件数は富山県内で最も少ない市町村の一つである。
 一世帯当たりの住宅延べ面積が全国一の富山県の中でも、南砺地方の人口一人当たりの住宅延べ面積は 県内で最も広いから、おそらく南砺は全国一であろう。
 なぜ広い家が造られるのか。旧城端町の古老は「家をお寺のように使うから」と教えてくれた。真宗門徒の家々に順番に回ってくる「お講」を営みために、百畳を超える部屋が造られ、廊下がなく、すべての部屋は障子で仕切ってある。門徒衆が相集い、読経、説教聴聞のあと、そろって「お斎(おとき)」をいただいた。僧侶の控えの間が必ずあり、玄関は村中の人が 履物を脱げるだけのスペースを確保している。
 宗教的行事である「お講」は、精神的かつ物質的共同体を形成した。蓮如が間引きを禁止したため、この地域では どんな飢饉が訪れようとも産児制限は行わず、村に生まれた子供は「お講」で育て、食べさせた。信仰深い村人が夫婦で何年もの間、本山へ勤労奉仕に行っている間も、残された子供たちを養育(よういく)するのは、「お講」という互助(ごじょ)組織だった。
 「ファミリー(家族)」より「パブリック(共同生活)」。すべては「仏さま」中心の生活が、つい最近まで、この地に息づいていたのである。

豊富な水と緑が癒しの田園空間を奏でる四季折々に美しい姿

 木立に囲まれた農家が、それぞれ百メートルから百五十メートルずつ離れて点在している。上空から見る砺波平野の散居村はよく、大海原に浮かぶ緑の小島のようだと表現されている。この風景は、日本の農村を代表する景観の一つであり、水田に夕日が映える田植えの時期、黄金の稲穂が垂れる実りの秋、真っ白な雪に覆われた冬など、四季折々の美しさを見せてくれる。
 現在の砺波市と南砺市に広がる散居村は面積が約一万三千ヘクタール、散居民家は八千軒から一万軒あるとされる。散居村は全国に岩手県の北上盆地南部、静岡県の大井川扇状地などのほか、富山県にも入善町、黒部市、富山市に存在するが、砺波のそれは広さで最大、散居の形態も典型的なものとされている。

身近な水利が争い好まぬ気質をつくる

 散居村の農家は家の周囲にある農地を耕作している。砺波平野は庄川が作った扇状地で、氾濫によって多くの小川ができ、平野を流れて小矢部川に注ぎ込んでいる。このため、どの家も容易に田に水を引くことがで、地形的な制約がないためだ。だから、家が散らばっていても耕作に支障がない。水利争いなどを無縁にしているこの地の自然環境が、争いを好まない、のんびりとした人々の気質を生んだのだろうか。
 農家を囲んでいる屋敷林は「カイニョ」と呼ばれ、杉、ケヤキなどが植えられている。点在する住居を風雪から守る役割を果たしているが、砺波平野は三方が山に囲まれた盆地状の平野であり、冬は寒く、夏は蒸し暑い盆地特有の気候から逃れる地点も見逃せない。砺波の散居村は多くの地理学者の研究の対象となっており、散居に関しては、加賀藩が一揆を起こさせないよう農民を分断して居住させたとする説、屋敷林の存在については、年貢の対象となる農地の広さが役人に分かりにくいようにしたため、などの説明がされている。
 屋敷林に主に使われる杉は、新築の際の建築用材になり、落ち葉や小枝は燃料に使われた。「高(土地)は売ってもカイニョは売るな」と言われるように、この地では先祖代々、大切に守り育てられてきた。もっとも、最近では落ち葉の始末に悲鳴を上げている家庭も多いため、必要以上の高さまで枝打ちが行われ、景観に影響が出てきているという。
 砺波平野の散居の形態、景観を保全し、活用するため、富山県と砺波市などは田園空間設備事業に乗り出し、今年六月に「となみ散居村ミュージアム」をオープンさせた。美しい自然と伝統文化に恵まれた砺波平野の全体が博物館であるという考えのもとで、郷土学習や地域学習にも力を入れている。「自然の中でいきるための知恵、厳しい自然によって培われた忍耐力や我慢強さ、また勤勉性や協調性、相手を思いやる心は、この土地の『土徳』として伝え、残していかねばならない」と砂田龍次館長は力説する。

失って気付いた屋敷林の恩恵

 もっとも、人口が増えている砺波市では郊外に住宅団地が相次ぎ造成され、個性的な住宅が建ち並ぶ一方で、散居民家には空き家が増えて、管理上の問題が発生している。
 散居民家で現代の生活を営む住民にとって、生活よりも景観保全を優先することに疑問を抱いている住民も少なくない。平成十七年の改正文化財保護法では、重要文化的景観に選定されると、そこに生活している人の立場を考慮した保存法を検討できることになり、砺波市も散居村の景観が選定されるよう手を挙げている。
 平成十六年秋、台風二十三号が砺波平野を襲い、屋敷林の大木があちこちで倒れる被害があった。その冬は大雪となり、次の年の夏は猛暑だった。屋敷林の管理をうとましく思っていた若い住民は改めてその恩恵を知る機会となったという。
 文化的景観は、日々の生活に根ざした身近な景観であるため、価値にはなかなか気付きにくく、失われて初めて、その価値を実感するものだ。かつては「空気のよう」だった「土徳」もしかり、であろう。
 砺波市では今年十月、「スカイフェスとなみバルーン大会」が開催される。秋空に浮かぶカラフルな熱気球。そこから見下ろす散居村の光景はさぞかし美しい眺めだろう。


暮らしと宗教

長い時間をかけて この地に深く根付いていた真宗の精神は、のどかな農村の持つ包容力と化学変化を起こすようにして、人々に純朴で穏やかな気質を植え付けた。だが、その精神の深層には、身を投げ打ってでも「仏敵」と戦う激しい炎が潜んでいることにも目を向けねばならない。
それもこれも、「他力本願」の教えによって、「生」と「死」を見つめながら 仏に一切をゆだねて生きてきたことによるものなのだろう。

仏のように生きる「ヨスマ」な人々

 福光地方に残る「ヨスマ」という方言は、南砺地方の精神風土の一端を言い表していて興味深い。「ヨスマ」とは、「人の世話ばかり焼いているお人よし」というべきか、損得勘定を抜きにして人情だけで動き、そのために一生懸命頑張る人を意味するが、「愛すべき変わり者」とのニュアンスが感じられなくもない。「ヨスマ」な人は、現代でこそ少数派だが、「我」に執着せず、「念仏」を唱え、「感謝」の心を持ち続ける人々は、かつてこの地の真宗門徒の中では多数派、いや、空気のように当たり前のことだったのかもしれない。
 平成十五年五月、南砺地方の民間人を中心にした「南砺ヨスマ倶楽部」が発足し、南砺の魅力をアピールする町おこし運動に取り組んでいる。目に見えない南砺地方の財産。住民がそれに光をあてようとしているのは、とりもなおさず、それが消えつつあるからにほかならない。

農村の原風景を残した念仏者

 南砺市立野原(旧城端町)で民宿「合掌かず良(ら)」を経営する加藤伸治さんも「ヨスマ」な人なのだろう。自転車店を営んでいた加藤さんは昭和四十八年、五箇山の猪谷にあった築三百年の合掌造りの家を買い求め、この地に移築し、自転車店をたたんで五十年から民宿を始めた。かかった費用は総額で一億円近いという。「ヨスマ」なことを、と周囲から言われたものだ。
 桜ヶ池湖畔の高台に建つこの民宿からは南砺平野を一望でき、春から夏にかけて川魚に舌づつみ打ち、秋にはマツタケ、秋から冬にはいろりを囲んで鍋料理を味わうことができる。
 加藤さんが合掌造りの家を買おうと思ったのは、母親の実家が「奥山の秘境」と言われた岐阜県白川村加須良(かずら=昭和四十二年に廃村)にあり、子供のころに遊んだ合掌造りの家に強い郷愁を感じていたからだ。幼いころに心に刻んだ原風景を再現させたいとの思いを実現させた加藤さんは、「本当に文化は辺境にある。モノでなく心の文化を残したかった」と柔和な表情で話す。

砺波詰所は真宗王国の証

 その加藤さんが最近かかわっているのが、「となみ詰所」の存続問題だ。「となみ詰所」は、江戸時代後期、焼失した東本願寺の再建に奉仕するため、砺波地方から駆けつけた門徒衆の宿泊所として、京都市の東本願寺の向かいに開設させた。詰所は再建奉仕の宿舎としてだけでなく、本山の間近で門徒同士が学び、語り合う道場としても利用されてきた。その後は、旅館として株式会社方式で経営が引き継がれてきたが、門徒の間でも次第に詰所の存在意義が忘れられ、利用者の減少による財政難と当番の高齢化のため存続が危ぶまれていた。詰所の売却を凍結させたのが、加藤さんのいとこである加藤平次郎さんだった。
 詰所を存続させようと、真宗大谷派高岡教区の僧侶、門徒有志らが「砺波詰所復興準備委員会」を結成し、詰所の経営を引き継ぐ運動を進めている。旧城端町の大福寺の太田浩史住職が中心となっているこの運動には、加藤さんも主要メンバーの一人として熱心に参加している。
 加藤さんらの願いは、単に詰所という建物物件を残すことではなく、砺波の門徒衆の熱心な信仰心の象徴としての詰所を現代に継承することによって、地域では城端別院を、中央では本山を支えてきた郷土の真宗の本来の力を再生することにある。
 それは、人々がますます心の闇を深めていく現代において、宗教はどうあるべきかという重いテーマを、真宗王国が自ら問いかけているようでもある。

農民を駆り立てた「南無阿弥陀仏」の深層

 世は戦国時代の文明三(一四七一)年、本願寺八世蓮如は、越前に吉崎御坊を開き、北陸での布教の拠点とした。御坊には北陸の多くの門徒が詰めかけ、寺内町を形成したことや、このころから「御文章」が盛んに出され、文書伝道が本格化したことはよく知られているが、同時に蓮如は加賀、越中にも足を運び、文明七年には加賀と越中の国境近い砂子坂(旧福光町)に道場を開く。これが後の城端別院善徳寺と伝えられる。井波の瑞泉寺や、さらに新川郡を経て越後境の南保(現朝日町)まで足を延ばしている。
 それから十年後、越中に一向一揆の嵐が吹き荒れる。
 文明十三(一四八一)年春、越中では旧福光町と旧福野町が接する小矢部川支流の山田川を挟んで、越中の一向一揆勢が加賀国の守護・冨樫政親と組んだ福光城主石黒光義の軍勢を打ち破った壮絶な戦闘があった。越中一向一揆の主戦場とされる田屋川原の戦いである。この決戦の結果、砺波郡一帯は一向宗の支配下に入る。加賀の一向宗徒が富樫政親を自害に追い込み、以後一世紀におよぶ「百姓の持ちたる国」を打ち立てた「長享の一揆」(一四八八)の七年前のことだ。砺波はさしずめ、「百姓のもちたる『郡』」となったのである。
 瑞泉寺の『闘諍記(とうじょうき)』によると、冨樫政親の弾圧を逃れてきた多くの加賀一向宗徒が同寺に身を寄せていたため、政親は寺を焼き払うよう石黒光義に要請、砺波地方での一向勢力の拡大を危ぐしていた光義が、医王山惣海寺の天台宗徒ら総勢千六百人を率いて瑞泉寺を攻めようとした。これを知った瑞泉寺側は、五箇山、般若野、射水郡の一向宗徒の援軍を得て、五千人で迎撃し、激戦の末、ついに光義は福野の安居寺(真言宗)に逃げて切腹したという。この勝利で勢いを増した一向一揆勢が、次の標的を政親に向け、「長享の一揆」に結びついていったことは想像に難くない。
 北陸の一向一揆は守護をも打倒する強力な力となっていたが、蓮如は一揆を「悪行」として門徒に破門を示唆したことがある。「村を焼かれても逃げるな」とも言っている。一向一揆は権力打倒を目指したものではなく、むしろ「講」組織による農民の生活向上を求める闘争に権力側が過剰反応し、信仰が禁止されたときに一斉蜂起し、エネルギーを爆発させたととらえることができる。

秘境の人々に救いの念仏、妙好人・赤尾の道宗

 越中五箇山は、秘境たる地理的条件に加え、かつては冬ともなれば長い間深い雪に覆われ、外界との行き来が完全に遮断された。その閉ざされた世界に生きる人々は、自然と共生しながら、ひっそりと身を寄せ合い、助け合って自給自足の生を懸命に営んでいた。同じことに苦しみ、同じものに喜び、そして、同じものを信じていた。それが何の不思議でもないコミューン(共同体)が形成されていたのである。
 蓮如の時代、五箇山の上平村西赤尾に生まれた「弥七」という男は、幼いときに両親を失い、父母に似た顔の五百羅漢を探す旅に出掛けた。途中、夢の中に現れた高僧から蓮如上人のもとへ行くようにお告げを受けたという。京都の本願寺に蓮如を訪ねた弥七は、ありがたい法話に感涙にむせび、三日三晩蓮如のそばを離れなかったらしい。狭い空間で生きてきた弥七にとっては、針の穴から別天地をのぞいたようなショックだっただろう。
 五箇山に帰ってからも、弥七は京都へ何度も足を運び、蓮如の教えを請うている。蓮如が瑞泉寺を訪れると聞けば、雪深い真冬にもかかわらず西赤尾から師に会いに来た。後に、この篤信の念仏者は、蓮如から「弥七の御文」を授けられ、やがて「道宗」という法名をもらって永正十(一五一三)年、西赤尾で行徳寺を開基した。
 道宗は村の人々に蓮如の教えを説いて回り、浄土真宗を五箇山の隅々にまで広めた。村ごとに念仏道場があり、村人のすべてが真宗門徒になっていく。心一つに念仏を唱える老若男女の恍惚とした表情。蓮如は道宗を通じて、苦しい生活に耐えてきた秘境の人々を、救いと希望で解放したのである。
 「後生の一大事、いのちあらんかぎり、ゆだんあるまじき事」に始まる「赤尾道宗心得二十一ヶ条」には、日々の生活の中で念仏者はどう生きるべきかを、人々の心に染み入るような表現で書き連ねられている。
 道宗はまた、常に自らの慢心を戒め、阿弥陀如来の四十八の誓願になぞらえ、四十八本の割り木の上で眠ったという。目が覚めると仏に合掌し、念仏を唱えたとされる。行徳寺には、この様子を棟方志功が描いた「妙好人赤尾の道宗臥伏の図」が納められている。


柳宗悦と棟方志功

終戦直後、南砺に二人の民藝運動家が滞在した。宗教哲学者の柳宗悦と版画家の棟方志功である。柳は自身の民藝美論を集大成した『美の法門』を書き上げ、棟方はこの地に溶け込む中で作風を大きく開花させた。二人がこの地から受け取ったものは何だったのか。南砺の「土徳」が、ある啓示を二人に与えたとしか言いようがない。

柳宗悦と民芸運動

民藝品に潜む「他力」の思想 と「土徳」の知恵
城端別院で美論の集大成を執筆

 民藝運動の創始者で宗教哲学者の柳宗悦(やなぎ・そうえつ、一八八九‐一九六一)が『美の法門』を執筆したのは、城端別院善徳寺の一室であった。
 昭和二十三(一九四八)年、三たび富山県を訪れた柳は、柳の思想に傾倒していた旧福光町の光徳寺前々住職、高坂貫昭の紹介で城端別院の「御広敷の間」に七十日間滞在し、瞑想にひたりながら大作を仕上げたのである。
 柳がこの地を選んだのは、福光に弟子の棟方志功がいた関係のみならず、南砺では、この土地と自然に根づいた風土が深い「土徳」となっており、また、「真宗王国」の中でも仏に身をゆだねて生きる「念仏者」が渡航に多い土地柄だったからに違いない。何が本当の美なのか、美を成立させるものは何かを考え続けた末、阿弥陀仏の本願の働きによって浄土へ往生できるとする「他力」の思想と同じように、自然に帰依することによって初めて、美を生み出す力が授けられることを理論的に説き明かした。この地の「土徳」が、壁にぶつかっていた柳の背中をポンと押したのだろうか。

名もなき職人が造る日常品こそ美しい

 柳は東京に生まれ、学習院高等科在学中に武者小路実篤、志賀直哉らと文芸雑誌『白樺』の創刊に参加した。東京帝大哲学科卒業後は、朝鮮陶磁器、日本各地の民窯、英国の古陶スリップウェアなど、無名の職人の手による民衆の日常品の美に注目。「民藝」という新語を発案し、「暮らしの美」を旗印とする民藝運動を起こした。
 「民藝」とは、柳によれば「民衆の生活に必要な工藝品の美を二文字に集約させた」言葉。美的価値が高いとされていた豪華で貴族的な工芸品や展覧会に出品される美術品よりも、本当に美しい工芸品は民衆の生活用具である「雑器」の中にもたくさんあることに柳は気付いた。しばらくは「雑器の美」、「下手物(げてもの)の美」などと表現していたが、これらの言葉では誤解が多かったため、「民藝」という新しい概念を創造した。
 昭和九(一九三四)年に日本民藝協会を設立、十一年には日本民藝館を創設して初代館長に就いた。終戦直後の二十一年五月、日本民藝協会富山支部設立記念講演会のため来県、同志である陶芸家の河井寛次郎、濱田庄司、染色家の外村吉之介らとともに、棟方を伴って五箇山に遊び、妙好人・赤尾の道宗の遺跡を訪ねている。
 晩年には、仏教の他力本願の思想に基づく独創的な仏教美学を提唱、新しい美の思想を確立した。昭和三十二(一九五七)年、文化功労者に選ばれた。

土徳が育んだ「世界のムナカタ」

 後に「世界のムナカタ」とまで呼ばれるようになる棟方志功(一九〇三‐一九七五)が初めて富山県福光町を訪れ、作品を制作したのは、日本の敗戦の色濃く漂っていた昭和十九(一九四四)年の五月のことである。民藝運動を通じて昭和十四年ごろから親交を深めていた高坂(こうさか)貫(かん)昭(しょう)が住職を務める光徳寺に滞在していたが、寺の裏山を散歩中にツツジを見ていて突然インスプレーション(突然のひらめき)が沸いたらしく、寺に戻って墨汁で一気に襖絵を描く。これが「華厳松」であり、志功の作風に画期的な変化が表れ始めた作品として知られる。作家の長部日出雄(おさべひでお)が著した志功の伝記『鬼が来た!』には、「志功の描き方は、体ごと筆を襖に叩きつけているようだった。あたかも狂ったように激しく右に左に動き回る…」とあるが、周囲には墨が飛び散り、寺の関係者を大いに驚かせた に 違いない。
 志功は昭和十二(一九三七)年に発表した版画「華厳譜(けごんふ)」で既に宗教的境地を現している。これは十一年に柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎らと知り合い、二人の師から 仏教を学んだ影響と見られている。
 
クマの子が現れる

 志功と柳、河井の出会いのエピソードが おもしろい。昭和十一年の国画会展(こくがかいてん)に 志功は版画「大和し美し(やまとしうるわし)版画巻(かん)」を出品したが、河井は 落選のコーナーに置いてあった この作品を見つけ、「この男は 将来化ける」と直感した。河井は 柳に「クマの子 現れる。すぐ来られたし」と電報を打つ。この作品を見た柳は「おもしろいが、どうも我が強い。自意識が強すぎるから 絵が濁っている。河井のところで 百日教育を受けてから私のところへ来なさい」と 志功を諭した。志功を引き取ることになった河井は 自宅に「クマの子を連れて行く」と 打電(だでん)しておいたところ、家に着くとオリが用意してあったという。
 仏教を学び、柳から「本当の美しさは 個人を超えたところにある」と教えられた志功。昭和二十年春に疎開のため家族と ともに 福光へ引っ越して来て以来、その作品はますます宗教色を強めていく。

棟方は「他力の国」に留学した

 福光へ来てからの志功の作品の変化について、柳は「『我』が消えている」と評価したそうだ。それは、「富山では、大きないただきものを致しました」
(『板極道(ばんごくどう)』)という志功の有名な言葉に表れているように、南砺の真宗の伝統が 志功に内面的な転換を もたらしたのだろう。司馬遼太郎が この文を読んで驚き、「棟方志功は疎開したのでなく、留学したのでないか。自力の国から 他力の国へ留学したのだ。それで 世界の棟方になった」と書いている。
 地元の人たちも、最初は「東京から ピカソみたいな型破りの芸術家がこの田舎にやってきた」程度の気持ちで 受け入れた と みられるが、この地の 念仏の生活に溶け込んで 棟方の姿は、素朴な人柄と ともに 次第に 地域の中で愛されるようになっていく。因習(いんしゅう)が まだ残る南砺地方にあっても、福光の地には 外部から来る人を 優しく受け入れる気風があったのだろう。請(こ)われれば気軽に絵を描いてあげる おおらかな人柄のため、ファンが増え、停車場勤務のファンは 志功に 入手困難な切符 を 特別に回してやった と
いう話も残っている。
 心を開いた志功も精力的に活動している。創作に 励むだけでなく、城端別院で「棟方志功画業展観」を開催し、高岡市では「日本芸業院展」を主宰したほか、新聞の夕刊に挿絵を連載したり、同紙の特派員(とくはいん)として「天皇拝従記」を書いたりして、地元に親しんだ。
 志功は 戦争が終わっても昭和二十六年十一月まで福光に滞在し、数多くの作品を制作した。よほど この地が気に入ったのだろう。志功の作品は 福光美術館と棟方志功記念館「愛染苑(あいぜんえん)」に数多く展示されている。両施設は 作品を鑑賞するだけの施設でなく、志功を育てた「土徳」のメモリアルホールでもあろう。