1 赤尾の道宗 逸話

赤尾の道宗 逸話
『赤尾の道宗』岩見 護 著(出版社 永田文昌堂 出版年月 1956年4月)の意訳


十歳の時
夕食に出た大きな岩魚を目にし、父に、
「罪のない人間を殺すことは悪いことだというのに、人間が「何も知らない、罪もない魚」を採って食うても、よいものですか?」と尋ねた。
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幼い頃から、鋭い宗教感覚を持っていた。美しい川で遊ぶ魚に対して「罪もない」と、深い慈悲の心を表し、人間の在り方、人間生活の矛盾を強く感じていた。


十三歳以降(両親との死別後)

その一
ある時、伯父の浄徳が 約六㎞ 離れた下流の「小原(おはら)」に出かけていた。
弥七は、伯父に どうしても合わなくてはならない用事ができ、「小原」へと向かうこと となった。
(「小原」は、庄川の対岸にあるため、途中「籠渡し」で、川を渡らなければならない場所であった。)
弥七は、「渡し場」に着き、籠を引き寄せようとすると、なんと、綱が切れており、仕方がなく、渡し場にあった小屋で一夜を明かすこととなった。
 日が昇り、目が覚めると、小屋の外で、小鳥が楽しそうに鳴いていた。見ると、小鳥は、近くの木の枝の間に、巣を作り、親鳥が「ピーピーと楽しそうに鳴く雛」に、餌を食べさせていた。弥七は、それをジッと見ている中に、涙があふれ出てきた。親がいない我が身の寂しさに、川に身を投げて「死のうか」とさえ思い詰めていた。
しかし、その時、幸いにも村人に見つけられ、川を渡り、伯父の所まで連れて行ってもらうことができた。
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いつも「親恋しい」という思いを、押さえ付けるように生活をしていたが、人一倍 繊細な心を持っていた。

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上記の二つの逸話、
・道宗さんの人間生活の矛盾を強く感じる宗教感覚の鋭さ、と
・「親恋しい」という繊細な心を持っていた、
そのことから、蓮如上人を訪ねることになっていきます。


その二
ある時、弥七は、「筑紫の羅漢寺に五百羅漢の石像が安置されており、誰でも そこへ行けば、親の顔が見つかる」という話を聞いた。
伯父は、なかなか許してくれなかったが、「親恋しい」という思いを消せなかった弥七は、羅漢寺を目指し、山を降りた。
越中から加賀へ、加賀から越前へと、約百㎞の山越えの道を歩き続け、越前の麻生津(あそうず)(福井県福井市)という所へ着いた。夕方になり、一休みしようと、道端に腰掛けると、長旅の疲れのせいか、そのまま眠ってしまっていた。そして、不思議な夢を見た。
弥七の前に、一人の僧が現れ、
「おまえは、どこへ行こうとしているのか」と尋ねた。
「筑紫の羅漢寺へ参るのです」と 答えると、
「何の目的があって行くのか」と 問われ、
「父母に会いに行くのです」と、正直に答えた。
「それならば、羅漢寺へ行くのは無駄なことだ。羅漢の石像を拝むだけで、まことに親に会えるわけではない。まことの親に会いたいのなら、京都の東山 大谷におられる蓮如上人に会うがよい。まことの親に会う道がわかるであろう。」
と、僧が言われた。
「あなたは、どのようなお方なのですか」と 尋ねると、
「私は、信州更科(さらしな)の僧である」と言われると、姿が見えなくなった。
(「信州更科の僧」とは、善光寺の阿弥陀如来)
夢が覚めると、
(弥七は、越前までの長旅の間、蓮如上人の噂を聞いていたのであろう)
一心に、京都を目指し、歩き始めた。
弥七は、大谷の本願寺に着くと、勢いよく お堂に 飛び込み、蓮如上人の法話が始まると、目を輝かせ、蓮如上人の顔にしがみつくように、話を聞いた。
そうして、三日三晩、席も立たずに、これまでの
・両親を失い、人生の無常を強く感じていたこと
・罪もない生き物を食べなくてはいけない人間の在り方
・親恋しい という思い
すべてをぶつけるように、聴聞を続けた。
蓮如上人も、その素朴で一途な青年に心を惹かれ、「道宗」という法名をお与えになられ、道宗は、蓮如上人を親のように慕われた。
そうして、道宗は、蓮如上人が、井波の瑞泉寺に来られた時は もちろんのこと、年に一度は、大津であろうと、岡崎であろうと、山科であろうと、蓮如上人の元へ足を運んだ。


その三
道宗は、体の所々に傷跡のようなものがあり、それを見た村人が、「どうしたのか」と尋ねても、恥ずかしそうに隠し、その訳を言わなかった。
不思議に思った村人が、こっそりと 道宗の後をつけて行った。
夜になり、道宗が寝床へ行くと、割り木を一本一本、お念仏を称えながら、並べていき、敷布団代わりに、その上に横になって、せんべい布団をかぶって、寝ていたのです。
しかし、痛いからであろうか、なかなか寝付けないようで、寝がえりを打っては、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」とお念仏を称えていました。
道宗の体に、傷が絶えない訳を知り、村人は、「あんたは、私達に「信じるだけで救われる」と、いつも 聞かせてくださっているが、それは、表向きだけのことで、実は、あのような修行をしなければ、助からないのであろう」と聞いた。道宗は、
「とんでもない、わしの言うことには、裏も表もない。わしのようなしぶとい人間は、布団の上に寝ておれば、ご恩をご恩とも思わずに、一晩中 寝てしまうから、せめて、眠りにくいようにして、痛みで目が覚めた時だけでも、如来様のお慈悲を思わせていただき、念仏 申させてもらおうと、思うだけぢゃ」と言った。


その四
蓮如上人が吉崎に滞在されてから四年後、文明七年(一四七五)八月二十一日、戦国の動乱で吉崎御坊が焼失した。
蓮如上人は、過激になっていく一向一揆を鎮めるためもあり、翌、二十二日の深夜に、鹿島の浦から船に乗って、吉崎を離れられた。
その時に、船に乗り、蓮如上人のお伴をされた三人の中の一人が道宗であった。
道宗は、蓮如上人の所へ参れば、相当の期間 おそばにおられ、蓮如上人から信頼の厚い門徒の一人であったことがうかがえる。


その五
道宗は、各地の同行を訪ねて、蓮如上人の教えを伝えていた。やがて「道宗の名声」が高まるにつれ、一部の人から「道宗さんは、念仏売りだ」と、悪口をいわれるようにもなった。
ある時、道宗は、村人を数人連れて、京参りに出かけ、一緒に行った者たち、無事に帰って来たものの、道宗一人だけ 帰って来なかった。伯父の浄徳が心配をして、
「弥七は、まだ、戻らないが、どうしたのであろうか」
と一行に尋ねると、
「道宗殿は、「念仏売り」だから、方々で、同行に留められ、いつ、帰ってくるか わからん」
と、少しのねたみとそしり心が混じった言葉を返した。
 何日か後に、道宗が戻り、家の縁に腰かけて、草鞋の紐を解こうとすると、伯父の浄徳が
「今、帰ったのか。在所の人が、そなたのことを「念仏売りじゃ」と申しているから、これからは、みんなと一緒に帰るがよい」と注意した。
道宗は、驚き、「念仏売り とは、何としたことだ、そう言われては一大事だ」と、すぐに草鞋の紐を縛り直して、京へと戻り、蓮如上人にお尋ねした。
蓮如上人は
「何を心配している。念仏売り とは、結構な名前ではないか。念仏を大いに売るがよい。売り広めてもらわねばならぬ。しかし、情けないことに、売る手も、買い手も、少なくて困る。」
と仰せられた。道宗は、また、このお言葉に勇気づけられ、帰って行った。
道宗は、細心の注意を払って、教えを伝えておられたことがうかがえる。


その六
《 井波別院瑞泉寺の道宗打ち 》(鐘と太鼓の同時打ち)
瑞泉寺では、一月一日午前一時に、親鸞聖人にお酒とお屠蘇をお供えする献盃式が終ると、鐘楼堂と太鼓堂から「ドーンガーン、ドーンガーン」と「梵鐘と太鼓の同時打ち」が始まります。 
その由来は、蓮如上人が瑞泉寺に ご滞在中の或る年の元旦、特に 雪が深い日のことでした。
道宗が到着しない中に、お朝じを勤める定刻となりました。蓮如上人は「必ず 道宗が来るから 待て」と仰せられて、太鼓を打つ人も梵鐘を撞く人も、道宗の無事を念じて、裏山の尾根に眼を凝らしていました。
一方 道宗は、深雪に 一度は挫折して、尾根に坐り込んでいたのですが、懐中していた仏様に励まされて、再び、雪に体当りするように歩き始めていたのです。 
やがて、白い尾根に黒点がひとつ!
「ヤレ、道宗が来た! 待っていたぞ! もう一息だ! 頑張れ!」
皆の熱い思いが一つになって、「ドーンガーン、ドーンガーン」と太鼓と鐘を鳴らしたのでした。
そうして、道宗は、転がるように、瑞泉寺に着き、お朝じが始められたのでした。
 それから五百年、「鐘と太鼓の同時打ち」を「道宗打ち」と称して、瑞泉寺独特の尊い 元旦の伝統となったのです。