幸せの見つけ方

『幸せの見つけ方』(心に響く法話シリーズ①)
京都 大谷中・高等学校長・四国教区善照寺住職 真城 義麿 氏


七、「命日」は「浄土への誕生日」

 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる
という 親鸞聖人のご和讃 があります。
 『阿弥陀如来』という仏様 は、
「どんな状態の、どの人も、絶対に 一人残らず 捨てない」
と、約束された仏様なのです。
皆さんの中に、阿弥陀如来から 捨てられる人 は、一人もいません。間違えなく 往生させていただけることが、約束されている。そのようなことに 本気で出会う と、
「この私の人生のすべて は、ちゃんと意味があるんだ」
と、いうことになっていきますね。
 私は一九九三年に住職になりました。住職になって、ある方のお葬式 に行って、導師を勤めながら、非常に『素朴な疑問』が湧いてきました。不謹慎ではありますが、お経を称えながら、ずっとそのことを考えていました。それは、
「なぜ死んだ日のことを『命日』というのか」ということです。亡くなった日 ですから、『亡日』というのなら わかるのに、「なぜ「命日」というのだろう」ということです。
 『命日』は『命の日』と書きます。『命の日』ということは『誕生日』ということでしょう。お経を称えながら考えていても、今一つ ピン と こなかったのですが、お葬式が終わって、遺族の代表の方が挨拶をされた その中で、教わりました。遺族の方が
「亡き母が、生前中はお世話になりました」と、こう おっしゃったのです。これって おもしろい と思いませんか?
「死ぬ前は、お世話になりました。」というならわかりますよ。『生前』というのは、『生れる前』と書くのですから・・・皆さんもそういう場合には、そう おっしゃるのではないでしょうか。
「それは、どういうことか」というと、私たちの先輩(親鸞聖人もそうですけれども)ずっと「死ぬ」ということではなく、「極楽浄土へ往生させていただく」と、おっしゃるんです。
ですから、『命日』とは、『浄土への誕生日』なんですね。私たちはその『浄土への誕生日』に向かって、生きているのです。
 よく、お葬式の場では、
「安らかにお眠りください」などと、言いますけれども、『浄土真宗・お念仏の教え』では、
「安らかにお眠りください」ということはないのです。亡くなった方は、安楽に眠って など、いられないのです。
皆さんも、生きてる間に 辛いこと や 苦しいこと がたくさんあって、「死んだら、楽に眠っていたい」そのように思っているかもしれませんが、そうはいかないのです。
往生をされたら、その後『諸仏』になられます。皆さんはこれから『仏様』になられるのです。『仏様』になられたら、今度は、『次の迷っている人たち に『働き』をかけ、次の人たち を救う』という『大仕事』をされるわけです。『亡き人』は往生された その時 から、私たちに様々な『働き』をかけてくださいます。私たちに『命』や『生きること』を考えさせ、『人間 が、繋がりの中で生きていること』を思い起こさせてくれます。『お葬式』や『ご法事』は、そういうご縁 がなかったら、ひょっとしたら、『ご本尊』の前に座ることがなかったかもしれない私たち を、亡き人 が、連れてきてくれたのです。
「お寺へ行くのに時間がかかる。手間もかかる」
「お金も使わなければならない」・・・
「私が行かなくては」と、思いながらやってきたけれど、ご本尊さまの前に座ってみると、「そうではなかった」と気づかしてもらいます。「亡き人のお働き で、私を ここへ 座らせてくださり、大事なご縁 に、会わせてくださった」と、気づかせてもらえます。『亡き人』が、私 を動かしてくださったのです。


八、つながりを生きよう

 さて、『私たちが人生を終えたらお浄土に救い取られるということが、確実である』と、『約束されている』ということが、今 私に与えられている『嫌なこと』『辛いこと』も含めて、「それには、ちゃんと意味があるんだ」ということにしてくれるのですね。「そこに繋がってくるんだ」ということですね。
「こんな人生を生きていて、何になるんだろう・・・」
そういう風に思わずにいられない時もあるかもしれません。ですが、「そうじゃないんだ」ということです。
 そして、「私たちが生かされて、生かして生きている」ということは、先ほどいいましたような 縁起の世界の話 でいうと、どの人 も みんな 私にとって 大切な人 なのです。つまり、どの人 の みんな 私を支えてくださっている人 なのです。「私にとっては、あの人だけは、いてほしくない」という・・・その 一番嫌いな人 が、実は、私を支えてくださっている。また、「私がその人を支えている・・・」「そういう関係にあるんだ・・・」ということです。
しかし、情けないことに、私たちは そういうこと が、全然わからないのです。ですから、毎日のように、様々な殺人事件が報道されます。「殺した相手は、自分にとって邪魔だった」と思って、殺したかもしれません。けれども、「殺した相手が、実は私を支えている大切な人だった」ということなんです。私はその人に支えられ、私がその人を支えている。「そういう関係のものを、私は断ち切ってしまった」ということになるんですね。他殺 というのは、そういう点で、ものすごく大変なことですね。
ですが、そういうことが見えなくなってしまうような世の中 に、私たち自身 が、してしまったのです。私たちは、一人一人が みんな 『かけがいのない私』という人生 を賜ったわけです。しかし、世の中は、人間をまるで『物』のようにしてしまいました。
一昨年、東京の秋葉原で無差別殺傷をした人がいます。その時に、「殺す相手は、誰でもよかった」という言葉が報道されました。
その彼は、それと同じようこと を、勤め先 から言われているわけです。「雇う相手は誰でもいいんだ」ということです。
「三人が必要な時には、ただ 三人の労働力 があれば、それでいいんだ。あなたでなければならない ということは、なにもない。五人 必要な時は、五人。一人だったら、あなたはいらない。」と、こういう世界ですね。
つまり、私が『かけがえのない大切な命』を生き、そして、『お互い 関係性の中で、支えあって、補い合って生きている』ということが、もう ズタズタ に切られているわけです。そういう とっても寂しい寂しい世界 になってしまいました。
お正信偈の後ろの方に『源信広開一代教』という言葉があります。『源信』とは、お坊さんのお名前です。七高僧のお一人で、平安時代の始め頃の方です。『往生要集』という書物を書いておられて、その中に『地獄のこと』を書いておられますが・・・
『地獄』というのは、『場所の名前』ではありません。『迷いの状態の最悪の状態のこと』を『地獄』といいます。
その源信は(一つには)「我、今、帰するところ無し」「帰る所がないのが、地獄である」といいます。
そこへ帰れば、もう構えることもいらない。守ることもいらない。防御することも、鎧(よろい)兜(かぶと)を着ることもいらない・・・「ありのままのこの私 が、そのまま で、安心していられる」という『帰り場所がない』のが、『地獄である』といいます。
それから引き続いて、「孤独にして、同伴あることなし」といっています。共に生きていきたいのに、『共に』ということを切られてしまうのが、『地獄』である。『無視される』『のけ者にされる』『差別される』『いじめにあう』・・・これはみんな『地獄』です。
私たちは繋がりの中で、生きているんです。「繋がりの中で生きているのに、それを切られてしまう。まるで、いないか のように、ふるまわれてしまう。繋がっていたいのに、切られる・・・」これが『地獄』だ、というわけですね。
私たちは、互いに生かしあい、支え合い、助け合って生きていくように、生まれ付いているのです。先ほども言いましたが、私たちは、未熟に産まれて、未熟なまま 死んでいくのですから・・・
残念ながら、『人間を完成させて死ぬ』そういう人は、いないのです。
どの人も、未熟なまま 死んでいなかなくてはなりません。
つまり、私たちは『できること』『できないこと』両方を抱え持ったままなのです。『強い所』『弱い所』両方 抱え持ったまま 生きていくわけですね。
ですから、一人では生きていけないのです。『お互いに助け合いながら、支え合いながら・・・直接ではなくても、自分はいろいろなものに生かされている、支えられている』ということを感じながら、生きていかなくてはなりません。
それは、『今 生きている人』だけではないのです。お別れで涙を流したあの亡き人 が、今も 私を支えてくださっています。私を応援してくださっています。私のことを案じて、心配してくださっています。
『そういう中に私がいる』ということがわかってくると、振り返ってみれば・・・私たちは、今、『幸せのど真ん中』に生きているんだけれども、ちっともそのことを見ることもなく、どこか、なにか、『特別なもの』が手に入ったら、もう そこから先は、ずっと 幸せ でいけるような『錯覚』を、『幻想』を持って生きていますが、「そうではないんだ」ということですね。瞬間瞬間の中に、私たちが『幸せ』を見つけることができ、感じ取ることができれば、『そこに幸せがある』ということです。
ですから、「亡き人々と共々、どう生きていくか」・・・これからも たくさんのこと を、『亡き人』が教えてくださいます。気づかせてくださいます。あるいは、『働き』をかけてくださっている ということを、感じられることもあるでしょう。そのような中で、亡き人と共々に、大事な人生の中で、生まれた意義を確かめ、生きる喜びを味わいながら、大事に生きていきたいものですね。