14 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味(2)

↑ 法話の練習した音源です(約41分)。
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。

『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


今日のお言葉

〈 原文 〉
凡聖(ぼんしょう)逆謗(ぎゃくほう)斉(さい)回入(えにゅう) 如(にょ)衆水(しゅうすい)入(にゅう)海(かい)一味(いちみ)

〈 書き下し文 〉
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅうすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。

 ↓ 四月に見た 第二段 依経段(えきょうだん)「釈迦章(しゃかしょう)」の始め

如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かんとなり。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
〈 意訳 〉
「五濁悪世(ごじょくあくせ)」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
だからこそ 五濁(ごじょく)の悪時(あくじ)に生きる私達は、
その「お釈迦様 の ご恩」に報(むく)いるためにも、
『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願 の 教え」を、信じるべきである。 

 ↓

『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願 の 教え」を信じる と、私達は どうなって いくのか?

 ↓「5つの信心の利益(りやく)」

ー1-


2、一乗(いちじょう)の利益(りやく)
〈 要約 〉
計(はか)らいの心から離れて、如来の本願の世界に心身(しんしん)をゆだねる ならば、いかなる者も「仏様(煩悩の支配を離れた境地(きょうち))」に成(な)ることができる。

〈 原文 〉
凡聖(ぼんしょう)逆謗(ぎゃくほう)斉(さい)回入(えにゅう) 如(にょ)衆水(しゅうすい)入(にゅう)海(かい)一味(いちみ)

〈 書き下し文 〉
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅうすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。


〈 お言葉の意味 〉

「凡聖(ぼんしょう)」‐煩悩に まみれて迷っている「凡夫」と、煩悩を無くして清らかになられた「聖者」

「逆謗(ぎゃくほう)」‐
 「五逆(ごぎゃく)の罪(私を お育てくださるものに背(そむ)く(逆(さか)らう)重い罪)」と、
 「謗法(ほうぼう)(仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る 救われるはずがない者)」

 ↓

「五逆(ごぎゃく)の罪」
一、父を殺すこと(害(がい)父(ぶ))
二、母を殺すこと(害母(がいも))
三、聖者を殺すこと(害(がい)阿羅漢(あらかん)) 
四、仏(ぶつ) の お体(からだ) を傷つけて血を流させること(出仏(しゅつぶつ)身(しん)血(けつ))
五、教団を分裂させること(破(は)和合(わごう)僧(そう))

 ↓

ー2-


第十八願 念仏往生の願(がん)・選択(せんじゃく)本願の願・至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願・往相(おうそう)信心の願
〈 書き下し文 〉
私が仏(ぶつ)になるとき、すべての人々が、心から 私の言葉 を信じ、「私の国に生(うま)れたい」と、わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。
そうでなければ、私は 決して 悟りを開きません。
〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん)(漢文(かんぶん)では「唯除(ゆいじょ) 五(ご)逆(ぎゃく) 誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)」)〉
ただし、五逆(ごぎゃく)の罪を犯したり、仏(ぶつ)の教えを謗(そし)ったりする者だけは、除(のぞ)かれる。

  ↓

『御消息集(ごしょうそくしゅう)』親鸞聖人 著
善知識(ぜんじしき)を おろそかにし、師を謗(そし)る者を、「仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る者」というのです。
また、親を謗(そし)る者 を 五逆(ごぎゃく)の者 というのです。

 ↓

「五逆(ごぎゃく)の罪」「仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る」ということは、言葉に出したり、心で思ったりするだけでも 罪 となる

 ↓

実は、私達は〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉の所に いる

 ↓

『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』親鸞聖人 著
「唯除(ゆいじょ) 五(ご)逆(ぎゃく) 誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)」というのは、「唯除(ゆいじょ)」というのは「ただ除く」という言葉であり、五逆(ごぎゃく)の罪を犯す人を嫌い、仏法を謗(そし)る罪の重いことを知らせようとしているのである。この二つの罪の重いことを示して、すべての世界の あらゆるものが みな もれることなく往生できるということを 知らせよう としているのである。

ー3-


 ↓

〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉は、
「私は五逆(ごぎゃく)の者である・・ また 仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る者である・・」と、
その罪の深さ を徹底的に知らしめて、そのことによって、その者 と 本願 との 関係 を修復させて、
摂(おさ)めとって、お浄土へ迎(むか)え取(と)ってくださる、そのような お言葉であった。


「回入(えにゅう)」‐
 回心(えしん)して帰入(きにゅう)する。
 真実に背を向ける「自分の計(はか)らい」「自分の思い」にこだわり続ける心を捨てて、
 大きな願いの中に生かされている「本来の自分」に 立ち戻ること

「衆水(しゅうすい)」‐いろいろな川の水

 ↓

凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅうすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。


〈 意訳 〉
煩悩に まみれて迷っている「凡夫」も、煩悩を無くして清らかになられた「聖者」も、
「五逆(ごぎゃく)の罪(私を お育てくださるものに背く(逆(さか)らう)重い罪)」を犯(おか)す者も、
「謗法(ほうぼう)(仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る 救われるはずがない者)」も、
真実に背を向ける「自分の計(はか)らい」「自分の思い」に こだわり続ける心 を捨てて、
大きな「阿弥陀様の願い」の中に生かされている「本来の自分」に立ち戻れば、
いろいろな川の水が、海に入って 一つの味 になるように、
どんな者でも、「仏様(煩悩の支配を離れた境地(きょうち))」に成(な)ることができる。

 ↓

ー4-


❍ 人 それぞれ、事情や情況など「違い」がある。
 これまでに生きてきた経過や経歴も さまざまで、
 それによって「善(よ)し悪(あ)しの違い」も出てきてしまう。
 けれども、どのような状態にあろうと、どのような経歴であろうと、
 阿弥陀様の「すべての命を救いたい」という願い の もと では、違い も 区別 も ない。

❍ 凡夫は、たくさんの悪を持っているが、お念仏によって、「その悪」が「仏様の徳」へと変わっていく。
 だから、「仏様(煩悩の支配を離れた境地(きょうち))」に成(な)ることができる。
 「悪」があっても かまわない。それが みな「功徳」に変わる。

 ↓

『高僧和讃(曇鸞(どんらん)大師)』)親鸞聖人 著
罪障(ざいしょう)功徳の体(たい)となる  こおり と みず の ごとくにて
こおり おおきに みず おおし  さわり おおきに 徳 おおし  

〈 現代語訳 〉
罪障(ざいしょう)(煩悩によって作る悪(わる)い行(おこな)い)と 功徳 の 関係 は、氷と水のようである。
氷が多ければ、水も多い。
そのように罪障(ざいしょう)が多ければ、その罪障(ざいしょう)が、多くの功徳に変わっていく。

 ↓ 余談

海援隊(かいえんたい)『贈る言葉』
「人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」

 ↓

ー5-


海援隊(かいえんたい)『贈る言葉』一番の歌詞
暮れなずむ町の 光と影の中 去りゆく あなたへ 贈る言葉
悲しみこらえて 微笑む よりも 涙かれるまで 泣くほうがいい
人は悲しみが 多いほど 人には優しく 出来るのだから
さよならだけでは さびしすぎるから 愛するあなたへ 贈る言葉

 ↓

太宰(だざい)治(おさむ)『斜陽(しゃよう)』(長編小説)
「人 の横に 憂(うれ)い を立てて 優しい と読む
いいかい 人間は 心 に 悲しみ 憂(うれ)い があるから 人に やさしくできるんだ 
そういう人の事を「優(すぐ)れている」とも読む」

 ↓

お念仏によって、「煩悩によって作る悪(わる)い行(おこな)い」が「仏様の功徳」へと変わっていく。
お念仏によって、「無駄なこと なんて 一つも無い」といえるような「生き生きとした生活」が開かれてくる。

 ↓ 逆に言うと

「自分の計らい」「自分の力」では「無駄なこと なんて 一つも無かった」と言える「涅槃(ねはん)(煩悩の支配を離れた境地(きょうち))」に いたることが できない。
誰もが、「自力」では「仏様(煩悩の支配を離れた境地(きょうち))」に成(な)ることができない。

ー6-


 ↓「5つの信心の利益(りやく)」の 一つ目 と 二つ目

1、大乗(だいじょう)の利益(りやく)
『能(のう)発(ほつ)一念喜愛(きあい)心(しん) 不(ふ)断(だん)煩悩得(とく)涅槃(ねはん)』
〈 要約 〉
信心(浄土の大菩提心(だいぼだいしん))を起こす ならば、煩悩を断(だん)ぜずして 涅槃(ねはん)(煩悩の支配を離れた境地(きょうち))を得ることができる

2、一乗(いちじょう)の利益(りやく)
『凡聖(ぼんしょう)逆謗(ぎゃくほう)斉(さい)回入(えにゅう) 如(にょ)衆水(しゅうすい)入(にゅう)海(かい)一味(いちみ)』
〈 要約 〉
計(はか)らいの心から離れて、如来の本願の世界に心身(しんしん)をゆだねる ならば、いかなる者も「仏様(煩悩の支配を離れた境地(きょうち))」に成(な)ることができる。


まとめ

〈 書き下し文 〉
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かんとなり。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
よく一念喜愛(きあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃(ねはん)を得(う)るなり。
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅうすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。

〈 意訳 〉
 「五濁悪世(ごじょくあくせ)」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
 お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。

ー7-


 だからこそ 五濁(ごじょく)の悪時(あくじ)に生きる私達 は、その「お釈迦様 の ご恩」に報(むく)いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願 の 教え」を、信ずるべきである。
 『大無量寿経』に示されている お釈迦様 の お言葉 に従い、阿弥陀様の願い に 気づかされ、信心を賜(たまわ)り、暗い我執(がしゅう)から はじめて 逃(のが)れて、「本当に求めるべきもの」が はっきりしたならば、阿弥陀様の眼(まなこ)を賜(たまわ)り、煩悩 を 生きる力 に 転(てん)じて、煩悩の支配を離れた「涅槃(ねはん)」の境地(きょうち)に いたることができる。(大乗(だいじょう)の利益(りやく))
 煩悩に まみれて迷っている「凡夫」も、煩悩を無くして清らかになられた「聖者」も、「五逆(ごぎゃく)の罪(私を お育てくださるものに背く(逆(さか)らう)重い罪)」を犯(おか)す者も、「謗法(ほうぼう)(仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る 救われるはずが ない者)」も、真実に背を向ける「自分の計(はか)らい」「自分の思い」に こだわり続ける心 を捨てて、大きな「阿弥陀様の願い」の中に生かされている「本来の自分」に立ち戻れば、いろいろな川の水が、海に入って 一つの味 になるように、どんな者でも、「仏様(煩悩の支配を離れた境地(きょうち))」に成(な)ることができる。(一乗(いちじょう)の利益(りやく))

ー8-