1 帰命無量寿如来

↑ 法話の練習した音源です(約34分)。
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。

『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


正信偈 の お心
「南無(なむ)阿弥陀仏という お念仏 が、この世の中に生まれる土台(どだい)となった出来事」と
「その お念仏 が この世の中に広まっていった歴史」に感謝をして、合掌をしている。
その 正信偈の内容 は「浄土真宗の全体 が ここに言い尽くされている」
と いっても過言(かごん)ではない。

正信偈の前の文章の要約(ようやく)(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』行巻(ぎょうのまき) の 終わり)
「阿弥陀様 の ご恩 が、はかりしれないほど深いことを知り、阿弥陀様に身をゆだねて生きる菩薩」が、
「正信偈」を作り、申し上げておられる。
その「正信偈」とは、お釈迦様 の 真実 の お言葉 に従(したが)い、
大(おお)いなる祖師方(そしがた)の説き明かされた言葉 を 一つ一つ確かめている偈(うた)である。

 ↓

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正信偈は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)が記(しる)された偈(うた) なのですが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の「個人的な感情」
は、一切 含まれていない ということが ここで いわれている。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、当然 昔からあったはずの「菩薩が阿弥陀様を讃(たた)える偈(うた)」を、
「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」(正式名称)と称(しょう)して、文字にして記(しる)しただけ と 思っておられる。

 ↓「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができる。

第一段 総讃(そうさん)
帰命(きみょう)無量寿(むりょうじゅ)如来 南無(なむ)不可思議光
「心の底から阿弥陀様を敬(うやま)い、日々の拠り所として生きていきます」という お心の表明(ひょうめい)。
(「総讃(そうさん)」は、独立している お言葉 だが、正信偈全体を包んでいる お言葉 でも ある。)

第二段 依経段(えきょうだん)
「弥陀章(みだしょう)」
 法蔵菩薩因位(いんに)時(じ) ~ 必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就
「釈迦章(しゃかしょう)」
 如来所以(しょい)興出(こうしゅつ)世(せ) ~ 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)
『大(だい)無量寿(むりょうじゅ)経』に依(よ)り、
・「弥陀章(みだしょう)」で 現に今 私達に働きかけ続けてくださっている 阿弥陀様 と阿弥陀様の ご本願 の いわれ を 述べ、
・「釈迦章(しゃかしょう)」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるために
 わざわざ この世に お出(で)ましくださった お釈迦様 を 讃(たた)え、
 その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。

( 結誡(けっかい) )
弥陀仏本願念仏 ~ 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)
改めて、阿弥陀様 の ご本願 を 振り返り、自(みずか)らを省(かえり)みて、深い懺悔(さんげ)と、
得難(えがた)い信心を獲(え)た喜び とをもって、
「第二段 依経段(いきょうだん)」と 次の「第三段 依釈段(いしゃくだん)」とを つなぐ。

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 ↓↑「第二段 依経段(えきょうだん)」と「第三段 依釈段(いしゃくだん)」は 対応していて、
   「第二段 依経段(えきょうだん)」で述べられた お釈迦様の本当に伝えたかった教えが、
   七高僧によって あきらかにされてきたことを「第三段 依釈段(いしゃくだん)」で述べる。

第三段 依釈段(えしゃくだん)( 総讃(そうさん) )
印度(いんど)西天(さいてん)之(し)論家(ろんげ) ~ 明(みょう)如来本誓(ほんぜい)応(おう)機(き)
七高僧が出(で)られて、本願念仏の教え を 正しく伝え、本願の働(はたら)き に 目覚めるよう 促(うなが)してくださった からこそ、
「大乗(だいじょう)の中の至極(しごく)」と いえる 浄土の真実の教え が 誤(あやま)りなく
島国である日本にまで 伝えられたことを、感銘深く 述べられる。
また、その歴史が、本願念仏の教え こそが、民族や時代の異(こと)なりをも超えた「本当の救い」であることを証明している。

《 龍樹(りゅうじゅ)章(しょう) 》
釈迦如来(しゃかにょらい)楞伽山(りょうがせん) ~ 応(おう)報(ほう)大悲弘誓(ぐぜい)恩
お釈迦様 滅後(めつご) 約六百年に、龍樹(りゅうじゅ)菩薩が現れ、仏教には、「聖道門(しょうどうもん)」と
「浄土門(じょうどもん)」とがあることを、教え示し、人々の 大きな希望 となった。

《 天親(てんじん)章(しょう) 》
天親(てんじん)菩薩造(ぞう)論(ろん)説(せつ) ~ 入(にゅう)生死(しょうじ)園(おん)示(じ)応化(おうげ)
お釈迦様 滅後(めつご) 約九百年に、天親(てんじん)菩薩が現れ、『浄土論』を記されて、
「南無(なむ)阿弥陀仏」をいただくことができれば、「真実の信心」となり、
阿弥陀様が成就された功徳 が 身に満ちあふれることを教え示した。
《 曇鸞(どんらん)章(しょう) 》本師(ほんじ)曇鸞(どんらん)梁(りょう)天子(てんし) ~ 諸有(しょう)衆生皆(かい)普(ふ)化(け)
天親(てんじん)菩薩の『浄土論(ろん)』を註釈(ちゅうしゃく)された『浄土論註(ちゅう)』を記され、
「三願的証(さんがんてきしょう)(第十八願の往相(おうそう)回向 により 第十一願の往相(おうそう)回向 が成就し、
第十一願の往相(おうそう)回向 により、第二十二願の還相(げんそう)回向 が成就する)」を
明らかにし、すべては「阿弥陀様の力(ちから)‐他力」に由(よ)ることを教え示した。

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《 道綽(どうしゃく)章(しょう) 》
顕示(けんじ)難行(なんぎょう)陸路(ろくろ)苦(く) ~ 至(し)安養界(あんにょうかい)証(しょう)妙果(みょうか)
末法(まっぽう)五濁(ごじょく)の世 では、「聖道門(しょうどうもん)の教え は 覚(さと)りが得(え)られない教え である」と
退(しりぞ)けられ、「浄土門(じょうどもん)の教え こそが 私達の通(とお)るべき道である」と
『安楽集(あんらくしゅう)』によって教え示した。

《 善導(ぜんどう)章(しょう) 》
善導(ぜんどう)独(どく)明(みょう)仏(ぶつ)正意(しょうい) ~ 即(そく)証(しょう)法性(ほっしょう)之(し)常楽(じょうらく)
中国には大変すぐれた学僧(がくそう)が たくさんおられたが、善導大師(ぜんどうだいし)だけが、
『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の お釈迦様の本当の お心 を 明らかにされた。

《 源信(げんしん)章(しょう) 》
源信(げんしん)広(こう)開(かい)一代教(きょう) ~ 大悲(だいひ)無(む)倦(けん)常(じょう)照(しょう)我(が)
源信僧都(げんしんそうず)は、お釈迦様の一代経(いちだいきょう)を くまなく学び、
「本願の念仏の教え が 仏教 全体を包(つつ)み込んでいる。
仏教 全体を、本願の念仏の教え が 根のように支えている。」
という仏教の真髄(しんずい)を広く世に公開された。

《 源空(げんくう)章(しょう) 》
本師(ほんじ)源空(げんくう)明(みょう)仏教 ~ 必(ひっ)以(ち)信心為(い)能入(のうにゅう)
法然上人も、お釈迦様の一代経(いちだいきょう)を くまなく学び、純粋な宗教を実現する
ために、比叡山(ひえいざん)から下(お)りられ、京都の吉水(よしみず)において、貧富(ひんぷ)・貴賎(きせん)・老若(ろうにゃく)・
男女・善悪を問わず、濁(にご)った世を生きなければならない人々、真(まこと)の仏教を
求める人々に、選択(せんじゃく)本願である専修(せんじゅ)念仏の教え を勧められ、
一日一日を大切に生き切れる 真宗の道 を広められた。

( 結びの言葉 )
弘経(ぐきょう)大士(だいじ)宗師(しゅうし)等(とう) ~ 唯(ゆい)可(か)信(しん)斯(し)高僧説(せつ)
「七高僧が その生涯をかけて「お浄土へ往生して、救われて行ってほしい」と、私達に願い、働きかけてくださっている。
 その ご恩(おん)に報(むく)いるためにも、すべての人々は、正しい お念仏 と 信心をいただいてほしい。」
という 願い を述べ 、「第三段 依釈段(いしゃくだん)」を結ぶ。
 
 ↓

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親鸞聖人(しんらんしょうにん)(一一七三~一二六二年)は、正信偈を「一句(いっく)(ひと区切り)」を七文字、全部で百二十句の「漢文(かんぶん)」に まとめられ、後(のち)の人達が「お勤め」にも使えるように整えられていた。
それを、蓮如上人(れんにょしょうにん)(一四一五~一四九九年)が、当時の流行歌(りゅうこうか)で「正信偈」に節(ふし)をつけ、「真宗門徒の朝夕(あさゆう)の お勤め」とされた。

 ↓

『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』第三十一条
「朝夕(ちょうせき)に『正信偈』と『和讃(わさん)』をおつとめして念仏するのは、往生の因(いん)となると
 思うか、それとも ならないと思うか」
と、蓮如上人が僧たち一人一人に お尋ねになりました。
これに対して、「往生の因(いん)となると思う」というものもあり、
また、「往生の因(いん)とは ならないと思う」というものもありましたが、上人は、
「どちらの答えもよくない。衆生が弥陀如来を信じて おまかせして、
 その信心一つで救われる道理を、親鸞聖人がお示しになられたものが
 『正信偈』であり、『和讃』である。だから、その お示しをしっかりと聞いて信心を得て、
 ありがたいことだ、尊いことだ と 親鸞聖人の御影像の前で喜ぶ、
 その営みが朝夕(ちょうせき)の勤行(ごんぎょう)なのである。」
と、繰り返し 繰り返し 仰(おお)せになりました。

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第一段 総讃(そうさん)
「総讃(そうさん)」は、独立している お言葉 だが、正信偈全体を包んでいる お言葉 でも ある。

〈 原文 〉    
帰命(きみょう)無量寿(むりょうじゅ)如来  

〈 書き下し文 〉
無量寿(むりょうじゅ)如来に帰命(きみょう)し、

〈 言葉の意味 〉
「帰(き)」‐立ち帰る。元の状態に戻る。
「命(みょう)」‐本来の命の姿 のこと。
 ↓
「帰命(きみょう)」‐本来の命の姿に戻る。

「無量寿(むりょうじゅ)」‐
 永遠の命。「無常(むじょう)の身(み)」を抱えている私達の命は、永遠ではない。
 しかし、「つながりあう命」の中に、私は 生かされている。
 その「つながりあう命」は「永遠の命」と呼べるのではないだろうか。

「如(にょ)」‐
 私達が、そこから生まれ、それに支えられて生きて、やがて、そこへ帰っていく、という「命の源」のこと。
 「お浄土」として表現されている。
 ↓
「如来」‐
 その「如(にょ)」を 失っている人間に、「如(にょ)」を知らせるために、来てくださった おはたらきのこと。

〈 意訳 〉
「命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様」の お導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。
(「心の底から阿弥陀様を敬(うやま)い、日々の拠(よ)り所(どころ)として生きていきます」という 心の表明(ひょうめい)。)

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『覚悟の決め方 僧侶が伝える十五の智慧』
「今、ここにいる「自分」を大切にする」 からの引用

〈一七〇ページ〉
 私たちは、つながりの中で、生きていかざるを得ないのです。仏教が説いているのはそこです。
だから、私を生かすために働いてくれるもの、世話してくれるすべてを「阿弥陀如来」と名づけたのです。
仏教の説く 救われる というのは、私たちが この世の すべてのものによって
生かされた存在なのだ と気づくことなのです。

ー7-


〈一七一ページ〉
つながりの中でしか生きていないというのは、「事実」なんです。
そして、この事実に気づかせてくれる教えと出会うことが大切なのです。
仏教では これを「諸法(しょほう)無我(むが)」と呼びます。
本当は 一人でいても 一人じゃない。
私たちに つながる たくさんの命 の中にしか、
もろもろの つながりの中にしか、私たちは いない ということなのです。

〈一七二ページ〉
 それは、私たち自身が、お互いを大切にする ということにも つながっていくのです。
そして、つながりの中に生きている自分に気づいたとき、
どう生きていくのか という「新たな問いかけ」が、そこに生まれるのです。
 では、何をよりどころにして生きていけばいいのか。
それは、自分を よりどころ として生きていくのです。
断っておきますが「自分」とは、「今、ここに生きている」という
「我が身の事実」です。「自分の考え」では ありません。
 自分を大事にする ということは、我が身を支えている すべての命 を大事にする ということ。
大事にする というのは、守っていく ということでも ありますが、
「今、ここにいる事実を 当たり前 にしない」ということなのです。

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〈一八八ページ〉
 命の問題は そこにあるんです。絆(きずな)が見えないときでも、私たちは生きていける。
目の前に誰もいなくても、頭をなでてくれる人が来なくても、
私たちは命の根源(こんげん)のところで、共につながっている ということを感じられる。
誰も孤独ではなく、誰も排除されていない。
その 命の事実 は、信じていいんじゃないでしょうか。
 あなたの「命」が、すべての「命」と、いつも つながっていることを忘れないでください と、私は僧侶として、皆さんにお伝えしたい。
それが、仏(みほとけ)の願い だと思うのです。



まとめ

帰命(きみょう)無量寿(むりょうじゅ)如来

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命の源を知らせる(如来)
 私達の人生は、
「お父さんとお母さんから命をいただいて、いろいろな方々にお育ていただいて、
結婚をし、子供を授かり、命を次につないで、命 終えていく」
というような 長くて百年くらいの人生なのですが、
「地球に生命が誕生して四十億年」という「命の世界」からみれば、
私達は、何らかの意味を持って、無数に つながり合う命が、進化を繰り返し、
「言葉を話し、感情を表現することができる人間」となり、私達は、この世に生を受けている。

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 浄土真宗では、「すべての命の故郷(ふるさと)」を「お浄土」といただき、
お浄土を「安心して帰っていける故郷(ふるさと)」としていただいている。
また、阿弥陀様から「いのち、みな 生きらるべし」という「命の願い」を
いただき、「私達が、この世の中に、生まれてきた意味」を問いかけられている。

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「つながりあう命」を生きる者になる(お念仏)
「私にまで 手渡し で 伝えらえてきた お念仏」から、これまで お念仏を称えてきた「無数の念仏者の人生」を
感じさせていただき、
私自身もまた、「お念仏」を なんとか「まわりの方々へ」と伝えさせていただくことを通して、
「無数の念仏者の歴史」の中に加わっていき、「つながりあう命」であることを 改めて いただいていく。

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帰命(きみょう) 無量寿(むりょうじゅ)如来(慈悲)
「命の源 を知らせるために現れてくださった阿弥陀様」のお導きによって、
私は「つながりあう命」を生きる者になります。

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