5 智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬもの は なし 真実明に帰命せよ / 解脱の光輪きわもなし 光触かむるものは みな 有無を はなると のべたまう 平等覚に帰命せよ

↑ 法話の練習した音源です(約41分)。
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。

『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


前回から、

〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう) 
清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

の お心を、ご和讃からいただいております。


《 和讃の見出し 》
親鸞聖人は、生涯 五百十余首(よしゅ)の和讃を作られた。

『浄土和讃』一一八首(七十六歳の頃の作)
・冠頭(かんとう)和讃 二首
・讃(さん)阿弥陀仏偈(げ)和讃 四十八首 ※ 弥陀(みだ)成仏の このかたは
・無量寿経(むりょうじゅきょう)和讃 二十二首
・観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)和讃 九首
・阿弥陀経(きょう)和讃 五首 ※ 十方微塵(みじん)世界の
・諸経(しょきょう)和讃 九首
・現世利益(げんぜりやく)和讃 十五首 ※ 南無阿弥陀仏をとなうれば
・勢至(せいし)和讃 八首

『高僧(こうそう)和讃』一一九首(七十六歳の頃の作)
・龍樹(りゅうじゅ)讃(さん) 十首
・天親(てんじん)讃(さん) 十首
・曇鸞(どんらん)讃(さん) 三十四首
・道綽(どうしゃく)讃(さん) 七首
・善導(ぜんどう)讃(さん) 二十六首 ※ 釈迦 弥陀(みだ) は 慈悲の父母(ぶも)
・源信(げんしん)讃(さん) 十首 ※ 専修(せんじゅ)のひとをほむるには
・源空(げんくう)讃(さん) 二十首
・結讃(けっさん) 二首

ー1-


『正像末(しょうぞうまつ)和讃』一一六首(八十五歳の頃の晩年(ばんねん)の作)
・夢告(むこく)和讃 一首
・三時(さんじ)和讃 五十八首 ※ 無碍光仏(むげこうぶつ)の みことには
               ※ 弥陀(みだ)大悲(だいひ)の誓願(せいがん)を
・誡疑(かいぎ)和讃 二十三首
・皇太子(こうたいし)聖徳(しょうとく)奉讃(ほうさん) 十一首 ※ 大慈(だいじ)救世(くせ)聖徳皇(しょうとくおう)
・悲嘆述懐(ひたんじゅっかい)和讃 十六首
・善光寺和讃 五首
・自然法爾章(じねんほうにしょう) 
 慚愧(ざんき)和讃 二首
以上 計(けい)三五三首を「三帖(さんじょう)和讃」と呼んでいる。

『皇太子(こうたいし)聖徳(しょうとく)奉讃(ほうさん)』 七十五首(八十三歳の頃の晩年(ばんねん)の作)
『大日本国(だいにほんこく)粟散王(ぞくさんおう)聖徳太子奉讃(ほうさん)』 百十四首(八十五歳の頃の晩年(ばんねん)の作)
『帖外(ちょうがい)和讃』 九首(親鸞聖人 作 と いわれているが真偽(しんぎ)未決(みけつ)の和讃)


阿弥陀様が放(はな)っている 十二種類の光について
〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう) 清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

〈 書き下し文 〉
あまねく、無量・無辺光(むへんこう)・無碍(むげ)、無対(むたい)・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)・智慧光、不断(ふだん)、難思(なんし)・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放って、塵刹(じんせつ)を照(て)らす。一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

ー2-


〈 言葉の意味 〉
塵刹(じんせつ)を照(て)らす‐どんな細かい所でも、どこでも照らしている。
群生(ぐんじょう)‐すべての生き物。多くの衆生。 光照(こうしょう)‐仏(ぶつ)の光明が あまねく照らすこと。

〈 意訳 〉
阿弥陀様は、十二種類の光を放(はな)って、どんなに細かい所でも、
無数の世界を どこまで でも、照らし尽(つく)し、
一切の衆生は、この光(ひかり)の輝(かがや)き を 常(つね)に 身に 受けているのです。

 ↓

十二種類の光の分類
・無量光・無辺光・無碍光(むげこう) は、特に 光明の成り立ち を表現する。
・無対光(むたいこう)・炎王光(えんおうこう)(光炎王(こうえんのう)) は、特に 光明の様子 を表現する。
・清浄光(しょうじょうこう)・歓喜光(かんぎこう)・智慧光 は、特に 光明の働き を表現する。
・不断光(ふだんこう) は、特に 絶(た)えることがない光明の様子 を表現する。
・難思光(なんしこう)・無称光(むしょうこう) は、特に 人間には理解できない光明の様子 を表現する。
・超日月光(ちょうにちがっこう) は、譬(たと)え によって、光明全体を表現する。

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《 智慧光 》を表現している ご和讃
智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬもの は なし 真実明(しんじつみょう)に帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
有量(うりょう)の諸相(しょそう)‐すべての限りのある衆生。
光暁(こうきょう)‐光明は衆生の闇を除くので暁(あかつき)に譬(たと)える。 真実明(しんじつみょう)‐真実の智慧の光明。

〈 意訳 〉
私達が計(はか)り知(し)ることのできない阿弥陀様の無量の光が、すべての人々を照らしてくださっている。
この阿弥陀様の真実の光によって、本来の命の姿に戻るべきである。

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〈 ご和讃 の お心 〉『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著 
  「智慧の光明はかりなし」とは「量(はか)る可(べか)らず」ということ

 この「量(はか)る可(べか)らず」という言葉で思い出すことのなかに、明治の文学者、 国木田(くにきだ)独歩(どっぽ)の『牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)』という小説のなかに出てくる岡本という男の言葉があります。
彼は そのことのためなら何を投げ出してもよい、そのことが叶わないならば他の何が満たされても無意味だと思える、そういう願いがある という。そして その願いを早くいえ と、はやしたてる友人に向かって静かにいいます。
「びっくりしたい というのが 僕の願い なんです」
 友人たちは、何(なん)のこった、ばかばかしいと怒りだす。それに対して、岡本は言葉をつづけます。
「宇宙の不思議を知りたい という願いではない、不思議なる宇宙を驚きたい という願いです」
「死の秘密を知りたい という願いではない、死という事実に驚きたい という願いです」
「必ずしも 信仰そのもの は 僕の願いではない。信仰無くしては片時(かたとき)たりとも安(やす)んずるあたわざるほどに この宇宙 人生の秘儀(ひぎ)に悩(なや)まされんことが僕の願いであります」
 今日(こんにち)まで人類は、自分の分別(ふんべつ)で「宇宙の不思議を知りたい」「死の秘密を知りたい」と全智(ぜんち)をかたむけてきました。そして、現代人は科学の力を駆使(くし)して、宇宙の不思議、海底(かいてい)の不思議、人体の不思議を次々と あかるみにしてきました。しかし それと
ともに、不思議なる宇宙に驚く という体験、死という事実に驚く心を失ってきました。感動する心を失ってきたのです。

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 今、「量(はか)る可(べか)らず」ということで いいあらわされていますのも、まさにそのように、「宇宙の不思議を」「死の秘密(ひみつ)を」知ろうとするような、そういう仕方(しかた)、つまり仏(ぶつ)を、光明を自分の前に据(す)えて、自分の ものさし で知ろうとするかぎり、決してその「智慧の光明」にふれることはできない。そうではなくて、「不思議なる宇宙を驚(おどろ)く」「人生の秘儀(ひぎ)に悩まされる」という体験において はじめてふれ、うなずくことができるのだ ということなのです。つまり、その光明のなかに自分を見出す という感動において、はじめて うなずくことができるのです。
そのことが次に、「有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく 光暁(こうきょう)かぶらぬもの は なし」とうたわれているのであります。

 ↓

『親鸞(しんらん)の主著(しゅちょ)『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の世界』延塚(のぶつか)知道(ともみち) 著 
  本願とは何か

 我われの記憶には ありませんが、赤ちゃんの時には自我が まだ ありませんから、犬も猫も草も木も すべて の いのち と 同じ いのち を生きていたのではないでしょうか。そこでは自分への執着もありませんし、自分を中心に考えることも できませんから、内(うち)も外も一つです。自我ができてからの人間の意識(いしき)は、自分を中心にして 善いか 悪いか 勝つか 負けるか と、相対的にしか考えることができませんが、赤ちゃんの時は環境も主体も一つ、一如(いちにょ)(一つでありながら異(こと)なるが、異(こと)なるといっても本質的に一つであること)です。その一如(いちにょ)の世界を、仏(ほとけ)さまの世界 と考えても間違いではありません。
 言葉によって四歳か五歳頃に自我(じが)が生まれると、記憶以前の一如の世界などまるで なかったかのようです。しかし記憶にはありませんが、我われの意識を超えた存在の深みに、かつて経験していた仏さまの世界が生きて はたらいているのではないでしょうか。

ー5-


 もし仮に 人間が自我(じが)だけで生きている とするなら、勝つか 負けるか しかありませんから、喧嘩で勝ったら喜べばいいのでしょうが、勝っても なぜか反省します。それは 自我を超えたもの と、関係している証拠でしょう。
 また、人間の歴史 は 戦争の歴史 ですが、一体、殺し合いなど世界中の誰が望(のぞ)んでいるでしょうか。生きとし生けるものは
「いのち みな生きらるべし」、それが一切の人類の祈(いの)りでしょう。その祈りは、世間を超えた仏さまの世界からの促(うなが)しのように感じます。
 だとすれば、赤ちゃんの時に経験していた仏さまの世界こそが人間存在の根源的な故郷でしょう。そこからのはたらきを、『大無量寿経』は阿弥陀如来の本願力(ほんがんりき)と教えているのではないでしょうか。ですから、浄土からの阿弥陀如来の名告(なの)りである南無阿弥陀仏には、世間の分別(ふんべつ)を破る智慧が湛(たた)えられています。我われの方は、その名号の意義を聞法の苦労の中で聞き取る以外にはありません。
 やがて時機が熟(じゅく)して南無阿弥陀仏が この身に届いた時には、世間の欲に汚れていない本願の智慧の光に、自分中心の執着こそが地獄を作っていると照らし出されるのです。その時、凡夫のままで本願力(ほんがんりき)の方から開かれた大涅槃(だいねはん)の覚(さと)り(迷いや悩みを離れた安(やす)らぎの境地)に包(つつ)まれて、欲望の身だからこそ、大涅槃(だいねはん)に向かって歩もうとする仏道に立たされるのです。それは三毒(さんどく)(貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・愚(おろ)かさ)の欲(よく)を超えて、人間が人間以上のある者に成っていこうとする道です。その歩みを、往生として教えるのが浄土教です。

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『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著 
  偏頗(へんぱ)あるもの

 「不可量(ふかりょう)」・「不可思議(ふかしぎ)」といいますと、現代の私たちは また、不可思議なものをさがしはじめます。たんぼのなか や地下鉄の壁に奇妙(きみょう)な模様(もよう)があらわれた、空に不思議な物体があらわれた、超能力者が不思議な現象を見せた。そういうことに関心を寄せます。しかし、そういうことではないのです。
 たとえば、ここに こういう詩があります。
  いい日だ つつじの花のむこうを 老人が歩いて行く 赤ン坊をおぶっている
  足どりも 軽やかだ 右足 左足 右足 左足 あっ 片足で立った 
  おっ 半ひねり すごいなぁ人が歩くって 私も前は あんな見事な技をこともなく毎日やっていたのか
 事故で首の骨を折り、そのために首から下が動かなくなってしまわれた星野富弘(とみひろ)さんは、口にくわえた絵筆で美しい花の絵を描きつづけておられますが、「れんげつつじ」の花の絵に添えておられるのが、この詩です。
 右足・左足と交互に出して自由に歩く、ふっと立ちどまって片足をあげる、何かのはずみで体をひねる。私たちが毎日 あたりまえのこと としていることがどんなに不思議なことであったか、できない体になってみて はじめて思い知った といわれているのです。物が在(あ)る、私が生きている、手足が動く、そのことこそが、実は不可思議で かたじけないことであったのです。
 だから、あの宮沢賢治も、その死の十日前の手紙に、
「風のなかを自由にあるける とか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円(なんえん)か(お金)を手伝える とか いうようなことはできないもの から見れば 神の業(わざ)にも均(ひと)しいもの です。そんなことは もう人間の当然の権利だ などというような考え では、本気に観察した世界の実際と余(あま)り遠(とお)いものです」

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と書いておられます。この手紙の文章は、〈 私のこういう惨(みじ)めな失敗は ただ もう今日(こんにち)の時代一般の巨(おお)きな病(やまい)、「慢(まん)(思いあがって見下すこと)」というものの一(いち)支流(しりゅう)に過(あやま)って身(み)を加(くわ)えたことに原因します 〉という悲歎(ひたん)のなかで書かれたものであります。今まで あたりまえのこと としていたこと、当然の権利としていたことが、「神の業(わざ)にも均(ひと)しい」不可思議さを感じ、感動し感謝する そこにのみ、物との生きた ふれあい、うなずきがあったのです。
 人類が、その科学・技術の進歩のなかで、物ごとを対象的・分析的に理解し、それを人間社会にとって都合のよいように改変(かいへん)し、利用することに夢中になっていた間に、生きた いのちの ぬくもり をもった ふれあい を失い、感動 とか感謝など とは まことに無縁な生活を、人類中心に築(きず)いてきました。そのことがどんなに愚(おろ)かな所業(しょぎょう)であったかを、今、いろいろな環境破壊や人間関係の崩壊(ほうかい)の現実のなかで思い知らされているのです。
 しかも それは、ちょっと反省し、考え直すぐらいのことで克服し、正(ただ)してゆけるようなことではありません。私たちの、ものごとを対象的にとらえてゆく主観性、親鸞(しんらん)聖人の お言葉 でいえば、私たちが皆もっている「偏頗(へんぱ)」性、つまり、かたよった受けとめ、不公平なものの見方しかできない在り方は、ただ そのときうっかりして、というようなことではないのです。人間の主観性、憍慢(きょうまん)性、一人ひとりの偏頗(へんぱ)性は、人類が、そして私自身が、長い歴史を重ねてつくりあげ、育てあげてきたものなのです。まさに「有量(うりょう)」なるものとしての現実なのです。

 ↓ だからこそ

智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬもの は なし 真実明(しんじつみょう)に帰命せよ
(私達が計(はか)り知(し)ることのできない阿弥陀様の無量の光が、すべての人々を照らしてくださっている。
 この阿弥陀様の真実の光によって、本来の命の姿に戻るべきである。)

 ↓

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   真実明(しんじつみょう)

 光明を向こうに仰(あお)ぎ見るのではないのです。もともと光そのものは、色もなく、形もないものです。その光が光明、明るさになり、輝き になるのは、光を碍(さえ)ぎるものにおいて であります。
光の はたらき は、光に照らし出されたものの明るさ によって はじめて知られるのです。
 しかも光は、光自(みずか)らの色を主張する 形であらわれるのではなく、逆に、光の流れを さまたげた物そのものの、それぞれの色を輝(かがや)かす という形であらわれるのです。
 いいかえますと、親鸞(しんらん)聖人は自分自身の現実の相(すがた)を信知(しんち)せしめられたその歓(よろこ)びにおいて、仏(ぶつ)を真実明(しんじつみょう)と仰(あお)がれ、私たちに 帰命せよ と勧(すす)められているのです。

 ↓

ノーマン・ヴィンセント・ピール(アメリカの牧師 自己(じこ)啓発(けいはつ)作家(さっか))
自分の考え方を変えなさい。そうすれば世界が変わる。
(この自然界の真理は、しっかりと体得して日々実践していくことです。
 人間界では依然として、誰かが環境や世界を変えてくれるものだ と考えている人が多いですね。
 これでは いつまでも環境は変わることなく、いつまでも不平不満ばかりが募(つの)っていくことになります。
 身近な環境を変えることは至(いた)って簡単なことです。
 自然界の環境は、自分自身の投影(とうえい)だと感じて間違いありません。
 自分が変われば環境は変わります。
 身近な環境がそうであれば、人間界全体、自然界全体も全(すべ)て繋(つな)がっていますから、
 個々(ここ)が変わっていけば必ず変化していくことになります。)

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《 無辺光(むへんこう) 》を表現している ご和讃
解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きわもなし 光触(こうそく)かむるものは みな
有無(うむ)を はなると のべたまう 平等覚(びょうどうかく)に帰命(きみょう)せよ

〈 言葉の意味 〉
解脱(げだつ)‐業(ごう)の束縛(そくばく)を離(はな)れる徳(とく)。仏(ぶつ)の この徳が、衆生の悪業(あくごう)煩悩を除(のぞ)く。

有無(うむ)‐
 「我(われ)あり 法あり」とする見解(けんかい)と、「我(われ)もなく 法もなし」とする見解(けんかい)。
 二つの邪見(じゃけん)。

平等覚(びょうどうかく)‐
 平等とは、偏(かたよ)りや差別がなく、みな等(ひと)しいこと。諸法(しょほう)の平等を覚(さと)り、平等の慈悲(じひ)で衆生を救う阿弥陀様のこと。

〈 意訳 〉
「悪い行(おこな)い」や「煩悩」から離(はな)れさせてくださる阿弥陀様の無辺(むへん)の光が、
私の身(み)に触(ふ)れると、「有(あ)る」「無(な)い」といった「とらわれ」から離れることができる。
この阿弥陀様の平等の お悟り をいただいて、私達は本来の命の姿に戻るべき
である。

〈 ご和讃 の お心 〉『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著 
  解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きわもなし

 多くの人々を絶望のなかに置きざりにしてゆくような解脱(げだつ)の道とは いったい何なのか。
―― 親鸞(しんらん)聖人が二十年の修行の はて に 山を捨てられたのも、教理(きょうり)としては すべての人々を平等に救う教えが説かれてあっても、現実には多くの人々を排除(はいじょ)してゆく上に成り立っている山の宗教の在り方に絶望されたからでしょう。――
 「解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きわもなし」の一句に、すべての人々が「皆(みな)、同じく、斉(ひと)しく」解脱(げだつ)を得(え)ることのできる道を求め 求めて 歩まれた親鸞(しんらん)聖人の、本願の大道(だいどう)にその道を見出された歓喜(かんぎ)の情(こころ)が うたわれているのだ と思います。 

ー10-


  見濁(けんじょく)(邪悪(じゃあく)で汚(よご)れた 考え方 や 思想(しそう) が、常識 となって はびこる状態)

 考え方が皆(みな)それぞれに違うのは、混乱ではありません。その社会が健全(けんぜん)である証(あかし)でもあります。皆(みな)が同じ考え方しか口にしない という在り方のほうが、よほど不健康で不気味(ぶきみ)ですら あります。だから、考え方が皆(みな)違うのが「見濁(けんじょく)」ではありません。そうではなくて 互(たが)いに自分の考え方を絶対的なもの と固執(こしつ)し、他(ほか)の考え方に耳を傾(かたむ)け ともに考えてゆくことができない在り方が「見濁(けんじょく)」と呼ばれるのです。


  平等覚(びょうどうかく)

 友達から、「真理は二人から はじまる」という意味の言葉を教えられたことがあります。一人の人が語ったことが他(ほか)の人によって、なるほど そのとおりだと うなずかれたとき、はじめて その言葉は真理性をもつのです。そして さらに、二人のうなずき が 二人となり四人となり、さらに時代を貫(つらぬ)き 国を超えて、多くの人々に うなずかれたとき はじめて、説かれていることが 真理である ということが具体性をもつのです。
 阿弥陀一仏(いちぶつ)が いくら 本願こそ正しい教えだ と説いておられても、それだけでは何の証拠にも なりません。だからこそ十方衆生に、諸仏がほめ たたえている(第十七願)ということが誓われるのです。阿弥陀の本願を証明するものは諸仏であり、十方衆生であります。親鸞(しんらん)聖人が「正信偈」において、三国(さんごく)七高僧(しちこうそう)をとおして正信(しょうしん)念仏を讃嘆(さんだん)し、勧(すす)められているのも そのためです。
 その人が同じ人間であるのなら、たとえ その人がどれほどの悪人であろうと、その人と ともに うなずき合い、平等に出会える道を開き、成就しよう とされるところに、本願を そのいのちとするところの「浄土三部経」の歩み があるのです。

ー11-


 ↓ それではプーチンも平等に救われるのか?

「大谷大学ホームページ きょうのことば – [一九九九年七月]」
  「無慙愧(むざんぎ)」は名(な)づけて「人(にん)」とせず、名づけて「畜生(ちくしょう)」とす。

 「あんなひどいことをするなんて、とても人間とは思えない。」信頼を裏切られたり、信じられないような仕打(しう)ちを受けた時、口を突いて出ることがあります。そこには、人間として許されるべきではない行為ということが前提(ぜんてい)になっています。しかしながら、いったい何をもって人間というのだろうかと考えてみると、問題はそんなに簡単ではありません。
 人間にとっての教育ということを生涯の課題とした林(はやし) 竹(たけ)二(じ)(一九〇六~一九八五)は、「人間について」という授業の中で、「人間に生まれた ということだけで人間と言えるだろうか」という問題提起をしています。それは、人間とは、人間として育てられ、学びを通して人間になっていく必要があることを述べているのです。
では、何を学べば本当の意味での人間になったと言えるのでしょうか。
 表題(ひょうだい)に挙(あ)げた言葉は、『涅槃経(ねはんぎょう)』という お経の言葉で、親鸞(しんらん)(一一七三~一二六二)が『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』信巻(しんのまき)に引用(いんよう)しているものです。父を殺してしまい、大きな苦悩を抱(かか)えている阿闍世(あじゃせ)王(おう)に対して、耆婆(ぎば)という大臣(だいじん)が仏(ぶつ)の教えとして、次のように述(の)べる中(なか)に出てきます。
  「慙(ざん)」は内(うち)に自(みずか)ら羞恥(しゅうち)すること、「愧(き)」は人に対し頭を下げ自(みずか)らのいたらなさをわびること、「慙(ざん)」は人に羞(は)じること、「愧(き)」は天に羞(は)じること。このことを「慙愧(ざんぎ)」という。「慙愧(ざんぎ)なき者」は「人」と いわず、「畜生(ちくしょう)」という。
 罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥(しゅうち)する心が慙愧(ざんぎ)です。慙愧(ざんぎ)がなければ、人と呼ぶことはできないと言われているのです。

ー12-


 誰かを傷つけることは確(たし)かに問題です。また、傷つけまい と思っていても、傷つけてしまうこともあります。しかし、そのことをどう受け止めているのか、これは もっと大きな問題です。
 耆婆(ぎば)は次のように続けます。
  「慙愧(ざんぎ)があればこそ、すなわち父母(ふぼ)や師や年長の人を恭敬(うやま)うことができるのであり、慙愧(ざんぎ)があればこそ、父母(ふぼ)・兄弟・姉妹あることの意味がわかるのです。」と説かれています。善(よ)きことです。大王よ、あなたは すべてを慙愧(ざんぎ)なさっておられます。
慙愧(ざんぎ)の心が人間関係を開くのである と。
 慙愧(ざんぎ)において はじめて人を人として敬(うやま)うことが成り立つのです。慙愧(ざんぎ)の心がなければ、人間関係を生きていながらも相手を人として見ることができません。慙愧(ざんぎ)によって 人と人との間(あいだ)を生きる、文字通り「人間」たらしめられるのです。耆婆(ぎば)が阿闍世(あじゃせ)王に対し、慙愧(ざんぎ)の心を懐(いだ)いていることが大事だ と言ったのはこのためなのです。
 本当の意味での人間となっていく原点、それが慙愧(ざんぎ)なのです。

ー13-