9 本願名号正定業

↑ 法話の練習した音源です(約43分)。
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。

『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


正信偈 の 概要(がいよう)


正信偈 の お心
 「南無(なむ)阿弥陀仏という お念仏 が、この世の中に生まれる土台(どだい)となった出来事」と
 「その お念仏 が この世の中に広まっていった歴史」に感謝をして、合掌をしている。
 その 正信偈の内容 は「浄土真宗の全体 が ここに言い尽くされている」と いっても過言(かごん)ではない。


正信偈の前の文章の要約(ようやく)(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』行巻(ぎょうのまき) の 終わり)
 「阿弥陀様 の ご恩 が、はかりしれないほど深いことを知り、阿弥陀様に身をゆだねて生きる菩薩」が、
 「正信偈」を作り、申し上げておられる。
 その「正信偈」とは、お釈迦様 の 真実 の お言葉 に従(したが)い、
 大(おお)いなる祖師方(そしがた)の説き明かされた言葉 を 一つ一つ確かめている偈(うた)である。

 ↓

正信偈は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)が記(しる)された偈(うた) なのですが、
親鸞聖人(しんらんしょうにん)の「個人的な感情」は、一切 含まれていない ということがここで いわれている。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、当然 昔からあったはずの「菩薩が阿弥陀様を讃(たた)える偈(うた)」を、
「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」(正式名称)と称(しょう)して、文字にして記(しる)しただけ と思っておられる。

 ↓「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができる。

ー1-


第一段 総(そう) 讃(さん)「帰命(きみょう)無量寿(むりょうじゅ)如来 南無(なむ)不可思議光」
 「心の底から阿弥陀様を敬(うやま)い、日々の拠り所として生きていきます」という お心の表明(ひょうめい)。
 (「総讃(そうさん)」は、独立している お言葉 だが、正信偈全体を包んでいる お言葉 でも ある。)


第二段 依経段(えきょうだん)
「弥陀章(みだしょう)」
 法蔵菩薩因位(いんに)時(じ) ~
 本願名号正定(しょうじょう)業(ごう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう)願為(に)因
 成(じょう)等覚(とうがく)証(しょう)大涅槃(だいねはん) 必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就

「釈迦章(しゃかしょう)」
 如来所以(しょい)興出(こうしゅつ)世(せ) ~ 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)

 『大(だい)無量寿(むりょうじゅ)経』に依(よ)り、
 ・「弥陀章(みだしょう)」で 現に今 私達に働きかけ続けてくださっている 阿弥陀様 と
  阿弥陀様の ご本願 の いわれ を 述べ、
 ・「釈迦章(しゃかしょう)」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるために
  わざわざ この世に お出(で)ましくださった お釈迦様 を 讃(たた)え、
  その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。


( 結誡(けっかい) )弥陀仏本願念仏 ~ 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)
 改めて、阿弥陀様 の ご本願 を 振り返り、自(みずか)らを省(かえり)みて、深い懺悔(さんげ)と、
 得難(えがた)い信心を獲(え)た喜び とをもって、
 「第二段 依経段(えきょうだん)」と 次の「第三段 依釈段(えしゃくだん)」とを つなぐ。


 ↓↑「第二段 依経段(えきょうだん)」と「第三段 依釈段(えしゃくだん)」は 対応していて、
   「第二段 依経段(えきょうだん)」で述べられた お釈迦様の本当に伝えたかった教えが、
   七高僧によって あきらかにされてきたことを「第三段 依釈段(えしゃくだん)」で述べる。

ー2-


「第三段 依釈段(えしゃくだん)( 総讃(そうさん) )
 印度(いんど)西天(さいてん)之(し)論家(ろんげ) ~ 明(みょう)如来本誓(ほんぜい)応(おう)機(き)

 七高僧が出(で)られて、本願念仏の教え を 正しく伝え、
 本願の働(はたら)き に 目覚めるよう 促(うなが)してくださった からこそ、
 「大乗(だいじょう)の中の至極(しごく)」と いえる 浄土の真実の教え が 誤(あやま)りなく
 島国である日本にまで 伝えられたことを、感銘深く 述べられる。
 また、その歴史が、本願念仏の教え こそが、民族や時代の異(こと)なりをも超えた「本当の救い」であることを証明している。


《 龍樹(りゅうじゅ)章(しょう) 》
 釈迦如来(しゃかにょらい)楞伽山(りょうがせん) ~ 応(おう)報(ほう)大悲弘誓(ぐぜい)恩

 お釈迦様 滅後(めつご) 約六百年に、龍樹(りゅうじゅ)菩薩が現れ、仏教には、「聖道門(しょうどうもん)」と
 「浄土門(じょうどもん)」とがあることを、教え示し、人々の 大きな希望 となった。


《 天親(てんじん)章(しょう) 》
 天親(てんじん)菩薩造(ぞう)論(ろん)説(せつ) ~ 入(にゅう)生死(しょうじ)園(おん)示(じ)応化(おうげ)

 お釈迦様 滅後(めつご) 約九百年に、天親(てんじん)菩薩が現れ、『浄土論』を記されて、
 「南無(なむ)阿弥陀仏」をいただくことができれば、「真実の信心」となり、
 阿弥陀様が成就された功徳 が 身に満ちあふれることを教え示した。


《 曇鸞(どんらん)章(しょう) 》
 本師(ほんじ)曇鸞(どんらん)梁(りょう)天子(てんし) ~ 諸有(しょう)衆生皆(かい)普(ふ)化(け)

 天親(てんじん)菩薩の『浄土論(ろん)』を註釈(ちゅうしゃく)された『浄土論註(ちゅう)』を記され、
 「三願的証(さんがんてきしょう)(第十八願の往相(おうそう)回向 により 第十一願の往相(おうそう)回向 が成就し、
 第十一願の往相(おうそう)回向 により、第二十二願の還相(げんそう)回向 が成就する)」を
 明らかにし、すべては「阿弥陀様の力(ちから)‐他力」に由(よ)ることを教え示した。


《 道綽(どうしゃく)章(しょう) 》
 顕示(けんじ)難行(なんぎょう)陸路(ろくろ)苦(く) ~ 至(し)安養界(あんにょうかい)証(しょう)妙果(みょうか)

 末法(まっぽう)五濁(ごじょく)の世 では、「聖道門(しょうどうもん)の教え は 覚(さと)りが得(え)られない教え である」と
 退(しりぞ)けられ、「浄土門(じょうどもん)の教え こそが 私達の通(とお)るべき道である」と
 『安楽集(あんらくしゅう)』によって教え示した。

ー3-


《 善導(ぜんどう)章(しょう) 》
 善導(ぜんどう)独(どく)明(みょう)仏(ぶつ)正意(しょうい) ~ 即(そく)証(しょう)法性(ほっしょう)之(し)常楽(じょうらく)

 中国には大変すぐれた学僧(がくそう)が たくさんおられたが、善導大師(ぜんどうだいし)だけが、
 『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の お釈迦様の本当の お心 を 明らかにされた。


《 源信(げんしん)章(しょう) 》
 源信(げんしん)広(こう)開(かい)一代教(きょう) ~ 大悲(だいひ)無(む)倦(けん)常(じょう)照(しょう)我(が)

 源信僧都(げんしんそうず)は、お釈迦様の一代経(いちだいきょう)を くまなく学び、
 「本願の念仏の教え が 仏教 全体を包(つつ)み込んでいる。
 仏教 全体を、本願の念仏の教え が 根のように支えている。」という仏教の真髄(しんずい)を広く世に公開された。


《 源空(げんくう)章(しょう) 》
 本師(ほんじ)源空(げんくう)明(みょう)仏教 ~ 必(ひっ)以(ち)信心為(い)能入(のうにゅう)

 法然上人も、お釈迦様の一代経(いちだいきょう)を くまなく学び、純粋な宗教を実現するために、
 比叡山(ひえいざん)から下(お)りられ、京都の吉水(よしみず)において、貧富(ひんぷ)・貴賎(きせん)・老若(ろうにゃく)・
 男女・善悪を問わず、濁(にご)った世を生きなければならない人々、真(まこと)の仏教を
 求める人々に、選択(せんじゃく)本願である専修(せんじゅ)念仏の教え を勧められ、
 一日一日を大切に生き切れる 真宗の道 を広められた。


( 結びの言葉 )
 弘経(ぐきょう)大士(だいじ)宗師(しゅうし)等(とう) ~ 唯(ゆい)可(か)信(しん)斯(し)高僧説(せつ)

 「七高僧が その生涯をかけて「お浄土へ往生して、救われて行ってほしい」と、私達に願い、働きかけてくださっている。
 その ご恩(おん)に報(むく)いるためにも、すべての人々は、正しい お念仏 と 信心をいただいてほしい。」
 という 願い を述べ 、「第三段 依釈段(えしゃくだん)」を結ぶ。


 ↓

親鸞聖人(しんらんしょうにん)(一一七三~一二六二年)は、正信偈を「一句(いっく)(ひと区切り)」を七文字、
全部で百二十句の「漢文(かんぶん)」に まとめられ、後(のち)の人達が「お勤め」にも使えるように整えられていた。
それを、蓮如上人(れんにょしょうにん)(一四一五~一四九九年)が、当時の流行歌(りゅうこうか)で「正信偈」に節(ふし)をつけ、「真宗門徒の朝夕(あさゆう)の お勤め」とされた。

 ↓

ー4-


『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』第三十一条
「朝夕(ちょうせき)に『正信偈』と『和讃(わさん)』をおつとめして念仏するのは、往生の因(いん)となると
 思うか、それとも ならないと思うか」
と、蓮如上人が僧たち一人一人に お尋ねになりました。
これに対して、「往生の因(いん)となると思う」と言う者もあり、
また、「往生の因(いん)とは ならないと思う」と言う者もありましたが、上人は、
「どちらの答えもよくない。衆生が弥陀如来を信じて おまかせして、
 その信心一つで救われる道理を、親鸞聖人がお示しになられたものが
 『正信偈』であり、『和讃』である。だから、その お示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、尊いことだ と
 親鸞聖人の御影像(ごえいぞう)の前で喜ぶ、
 その営みが朝夕(ちょうせき)の勤行(ごんぎょう)なのである。」
と、繰り返し 繰り返し 仰(おお)せになりました。

 ↓

※ 正信偈の詳細は、光琳寺ホームページ(http://kourinji.biz)の「正信偈について」をご覧ください!


今日の お言葉

〈 原文 〉
本願名号正定(しょうじょう)業(ごう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう)願為(に)因 
成(じょう)等覚(とうがく)証(しょう)大涅槃(だいねはん) 必至滅度(ひっしめつど)願成就

〈 書き下し文 〉
本願の名号は正定(しょうじょう)の業(ごう)なり。至心信楽(ししんしんぎょう)の願(がん)を因(いん)とす。
等覚(とうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは、必至滅度(ひっしめつど)の願(がん)成就(じょうじゅ)なり。

ー5-


 ↓

第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章(みだしょう)」の結(むす)び となる もっとも大切な四句


〈 言葉の意味 〉
「本願」‐
 「本当に、私の いのちを感動と感謝をもって受けとめたい! そして、周りの人とも感動と感謝のなかで出遇いたい!」
 そのように私達は心の深い所で願っている。「その大切な願いに目覚めてほしい」という 阿弥陀様の叫び が本願
 と いわれている。

 ↓

『歎異抄講義 二』宮城 顗(しずか) 講述 参照
  この私の いのちは ただ事でない という喜びと感動 が 私の人生を支えている

よくよく考えれば、この私が こうして 生きてある ということは ただ事ではない。私が この世に生を受けて、そして何十年 生きてきている。いま こうして生きてある ということは、これは ただ事でない事実だ と。
まあ意識のうえでは 自分の力で生きてきた と思っているのですが、けれども同時に何十年 生きてみれば、自分が努力さえすれば 必ず そうなる という、そういう人生ではない。どれだけ努力しても こえられない いろんな壁がある と
いうことを いや というほど知っている。私が いま細(ささ)やかな存在だけれども、
一人の人間として生きてある ということは ただ事ではないのだ と、そういうことを感ずる 喜びと感動、そして、その喜びと感動から、この いのちを大事に、ただ事でない人生 として、いまを一歩一歩 生きていく ところに
私が救われていく ということがあるのだ と。

ー6-


ですから、人生の一番根本に、この私の いのちを ただ事でない という受けとめ、
そういう喜びと感動がなかったら、あとは お互いに欲を突(つ)っ張(ぱ)りあうしかない
のでしょう。だけども、その喜びと感動に ふと立ち返りますならば、
ただ自分の欲だけを突(つ)っ張(ぱ)らして生きていく ということが できなくなる。
そこに 自分の いのちが ただ事でないように、周りの一人ひとりの いのちが
ただ事でない。こういうことがなかったら 人間の尊さ なんてないのでしょう。
何か すばらしい力をもっているから尊いのではないのです。私の この いのちが
かぎりない人間としての真実を求めて生きてこられた人々の歴史、その歴史のなかでいま私は こうして教えに遇(あ)っている。今日(きょう)まで生き長らえ、しかも その人生のなかで こういう教えに遇(あ)う ということは ただ事ではない。
ですから、このような世界を親鸞聖人は知恩報徳(ちおんほうとく)(受けた恩を知り 徳(とく)(恵(めぐ)み)に感謝して報(むく)いる)と おっしゃるのですね。私ども真宗門徒は、このような聞法会のあとは必ず恩徳讃(おんどくさん)を唱和すると思いますが、つまり真宗の教えというのは その知恩報徳(ちおんほうとく)に尽きるのでしょう。そういう感動と感謝がなかったら、人生は寂(さび)しゅうございますね。そういうものを抱えている。
ほんとうに わが いのちを感動と感謝をもって受けとめたい と。そして周りの人々と感動と感謝のなかで出遇いたい、そういう情願(じょうがん)(心から願うこと)をもっている。
だけど、それを私たちは普段は まったく忘れて 自分の欲望のところで、
所求(しょぐ)(欲(ほっ)し求めること)というところに生きている。ですから、なんとか この所求(しょぐ)をとおして情願(じょうがん)に呼び返そう、なんとか情願(じょうがん)に目覚めてほしい。一人ひとりのなかに流れている願いに目覚めてほしい という叫びが真宗の教えでございます。

ー7-


〈 言葉の意味 〉
「本願の名号」‐
 「名号」と「念仏」は、同じ言葉。
 「名号」とは、私の所ではなく、よき人・善知識(ぜんじしき)の所にある「南無阿弥陀仏」をいう。

 ↓

 「よき人・善知識(ぜんじしき)の教え」を聴聞(ちょうもん)して、「南無阿弥陀仏」と 私達が称える。
私達が称える「南無阿弥陀仏」を「念仏」という。
 また、「南無阿弥陀仏」が、阿弥陀様の本当の お名前。「阿弥陀様」というのは、親しみを込めた略称(りゃくしょう)。
「南無阿弥陀仏‐私、阿弥陀仏に南無しなさい」という お名前に
〈法蔵菩薩であられ、十劫(じゅっこう)にも及(およ)ぶ修行によって阿弥陀様に なられた〉
その存在の すべてが、阿弥陀様に なられた願いの すべてが、凝縮(ぎょうしゅく)して込められている。
その「南無阿弥陀仏」を称えることによって、私達の中に、阿弥陀様という存在が届(とど)けられ、刻みつけられていく。

 ↓

『歎異抄講義 一』宮城顗(しずか) 講述 参照
  名前に、その いのちの いとなみの すべて が刻み込まれている

 名前ということが どんなに大きな問題か ということを教えられましたのは、
詩人で評論家でもありました石原吉郎という人が おられます。この方も終戦後(しゅうせんご)
九年間シベリアで強制労働をさせられて抑留(よくりゅう)されていたわけであります。

ー8-


この方は べつに仏教徒ではないのですが、その抑留(よくりゅう)生活の間(あいだ)に
西元宗助(にしもとそうすけ)という方と たまたま抑留(よくりゅう)所(じょ)で一緒になられて、お二人で じつは
この『歎異抄(たんにしょう)』を一緒に読めるときには、ずっと二人で勉強をしておられた と、
そういう経験をもっておられる人であります。
 その石原吉郎さんが自分がシベリアに抑留(よくりゅう)されていた間のことをとおして書いておられる文章を読ませていただいたことがございます。冬は零下(れいか)四十度(ど)近(ちか)い寒(さむ)さの
もとで、激しい労働をさせられるわけです。しかも大変な食料事情ですね。
当時ソビエトには、よほど物資が不足していたのでしょうか。捕虜(ほりょ)の人たちは 日本軍の捕虜(ほりょ)の人たちがもっていた飯(はん)ごう とかの食器類(しょっきるい)を二人に一つずつ与えられる。
そして そこに二人分の食料が支給(しきゅう)されるわけですね。ところが、それは
大変な貧しい食料でありますから、ほんとうに餓鬼(がき)そのもの だったそうでありますね。いかに公平に二人の間で食事を分けるか、そのことのために お互いが疑心暗鬼(ぎしんあんき)で、ほんとうに浅(あさ)ましいかぎりを尽くした。
 それで じゃぶ じゃぶの米が浮いているような お粥(かゆ)が支給(しきゅう)される。そうすると
その米粒(こめつぶ)を全部すくい上げて、米粒(こめつぶ)を勘定して、それを二等分して、それから
おも湯の部分をきっちり二つに分けて、そして米粒(こめつぶ)を均等に入れる と、
そういうようなことまで したそうであります。それでも飢(う)えと疲れで、
横に並んでいて 様子が おかしいので、手を掛(か)けたら、ちょうど 腐(くさ)った りんご に
指を突っ込んだ感触(かんしょく)が残って、そのまま その男は前のめり になって死んでいる と、そういう状況だったそうです。少しでも、一日でも早く なんとか帰りたい という夢をもっていたもの は、みんな死んだ。
で、もう帰ることをあきらめた と、もう俺は ここで いのちを終わるのだ と
腹をすえたもの だけ が、なんとか生き残った と、石原さんは書いておられます。
これは どこの場合でも そうなのでしょうね。この場所しかない と、ほんとうに
腹を決めるときに、はじめて そこで生きられる ということなのでしょうか。

ー9-


 そういう中で、時どき移動させられることがあったそうです。その途中の汽車の
乗り換えの所などで、別の所に収容されている日本兵捕虜と すれ違う時があったそうです。その時は皆、時間がありませんから、ただ すれ違う相手の手を握り 目を見つめて、「おれは○○出身の何々という者だ」と自分の名前を相手に告げたそうです。
つまり、もう帰れないと覚悟は決めているけれども、自分は ここで こうして
死んでいったということだけは なんとか伝えてほしい という思いを込めて、
わずかに すれ違う瞬間に手を握って目を見つめて名前を告げたそうです。
 あらゆる手段が失われた最後の最後は、自分の名前に自分の思いのすべてを込めて、相手に名を託(たく)すのです。石原さんは、別の収容所のトイレの中などにも名前が刻んであり、その刻まれている名前の一字一字に名を刻んだ者の思いが込められているのだと書いておられます。その文を読んで初めて、名前というのはそういうものだ ということを教えられました。ですから、名前というものは決してただのレッテルではなく、名前を通して もの に出会い、名前を通して 人に出会い、そして名前をもって
人に伝わっていくのです。〈中略〉
 名前は記号のようなものだと思ってしまいますが、よく考えてみると、名前というものほど具体的なものはないのです。名前のところに その人の一生涯が全部、人柄から なにから すべてが凝縮(ぎょうしゅく)しているのです。人々の中に その名前で
刻みつけられるわけです。そのように、仏さまが名にまでなってくださったのが名号です。

ー10-


『覚悟の決め方 僧侶が伝える十五の智慧』田口弘願(ぐがん)さんの所
  田口弘願(ぐがん)さんの「帰命(きみょう)無量寿(むりょうじゅ)如来」という お言葉の受け止め

私たちは、つながりの中で、生きていかざるを得ないのです。仏教が説いているのは そこです。
だから、私を生かすために働いてくれるもの、世話してくれる すべてを
「阿弥陀如来」と名づけたのです。仏教の説く 救われる というのは、
私たちが この世の すべてのものによって生かされた存在なのだ と気づくことなのです。〈中略〉
つながりの中でしか生きていないというのは、「事実」なんです。
そして、この事実に気づかせてくれる教えと出会うことが大切なのです。
仏教では これを「諸法(しょほう)無我(むが)」と呼びます。本当は 一人でいても 一人じゃない。
私たちに つながる たくさんの命 の中にしか、
もろもろの つながりの中にしか、私たちは いない ということなのです。〈中略〉
それは、私たち自身が、お互いを大切にする ということにも つながっていくのです。
そして、つながりの中に生きている自分に気づいたとき、
どう生きていくのか という「新たな問いかけ」が、そこに生まれるのです。
 では、何をよりどころにして生きていけばいいのか。
それは、自分を よりどころ として生きていくのです。
断っておきますが「自分」とは、「今、ここに生きている」という
「我が身の事実」です。「自分の考え」では ありません。
 自分を大事にする ということは、我が身を支えている すべての命 を大事にする ということ。
大事にする というのは、守っていく ということでも ありますが、
「今、ここにいる事実を 当たり前 にしない」ということなのです。〈中略〉

ー11-


命の問題は そこにあるんです。絆(きずな)が見えないときでも、私たちは生きていける。
目の前に誰もいなくても、頭をなでてくれる人が来なくても、
私たちは命の根源(こんげん)のところで、共につながっている ということを感じられる。
誰も孤独ではなく、誰も排除されていない。
その 命の事実 は、信じていいんじゃないでしょうか。
あなたの「命」が、すべての「命」と、いつも つながっていることを忘れないで
ください と、私は僧侶として、皆さんにお伝えしたい。
それが、仏(みほとけ)の願い だと思うのです。

 ↓

〈 言葉の意味 〉
「正定(しょうじょう)の業(ごう)」‐阿弥陀様によって選ばれた 浄土往生への正しい行(おこな)い

 ↓


まとめ

〈 原文 〉       
本願名号正定(しょうじょう)業(ごう)    

〈 書き下し文 〉
本願の名号は正定(しょうじょう)の業なり。

〈 意訳 〉
人間には、
「本当に、私の いのちを感動と感謝をもって受けとめたい!
そして、周りの人とも感動と感謝のなかで出遇いたい!」
深い願いであります。

ー12-


 ↑

(後(のち)に、その深い願いは、阿弥陀様から いただいた仏性(ぶっしょう)の願いである と知ることになります。)

 ↑ 前回 六月に見ました

 『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』親鸞聖人著 意訳
「仏性(ぶっしょう)」とは、すなわち「阿弥陀如来」である。
阿弥陀如来は、数限りない世界の すみずみにまで満ちわたっておられ、すべての命あるものの「心」にまで なっておられる。
その「命あるもの すべての「心」に宿(やど)る阿弥陀如来」を「仏性(ぶっしょう)」と呼ぶのである。
「草や木、山や河や大地がことごとく成仏する」と『涅槃経(ねはんぎょう)』に
説かれてあるのは、その「仏性(ぶっしょう)」によって「阿弥陀如来の四十八の願い」を信じることができるからである。
この「仏性(ぶっしょう)」が備わっているから、「お念仏によって、必ず人々を救う
という阿弥陀如来の お誓い」を、私達は信じることができるのである。
だから、信心をいただくことができるのは、「仏様の お働き」である。

 ↓〈 意訳 〉に戻る

その深い願いに目覚めさせ、「その いのちの願いに生きてほしい!」という阿弥陀様の叫び が 本願 と いわれています。
その本願は、「南無阿弥陀仏‐私、阿弥陀仏に南無しなさい」という お名前を、
私達が、いつでも、どこでも、どんな時でも、称えることによって、届けられ、保たれていきます。
なぜならば、その南無阿弥陀仏という お名前には、
〈法蔵菩薩であられ、十劫(じゅっこう)にも及(およ)ぶ修行によって阿弥陀様に なられた〉
その存在の すべてが、阿弥陀様に なられた願いの すべてが、凝縮(ぎょうしゅく)して込めているからです。

ー13-


だからこそ、「南無阿弥陀仏」と称えることによって、瞬時(しゅんじ)に、阿弥陀様の存在・願いが思い起こされ、私達は、阿弥陀様を忘れることがないのです。
また、見方を変えますと、私を生かすために働いてくださる、お世話をしてくださる
その すべてを「阿弥陀様」と呼ぶこともできるのです。
私たちが この世の すべてのものによって生かされた存在なのです。
つながりの中でしか生きていない というのは「事実」なのです。
これを仏教では「諸法(しょほう)無我(むが)」と呼びます。
そして、そのことは、私たちは すべての いのちと、根源(こんげん)のところで、
共につながっている ということでもあるのです。
誰も孤独ではなく、誰も排除されていない「いのちの事実」があるのです。
そのことも、お念仏を称えることで、思い起こし、生きる力をいただいていけることです。
だからこそ、本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、浄土往生への正しい行(おこな)いと いえるのです。

ー14-