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前回 七月のまとめ
〈 原文 〉
本願名号正定(しょうじょう)業(ごう)
〈 書き下し文 〉
本願の名号は正定(しょうじょう)の業(ごう)なり。
〈 意訳 〉
人間には、
「本当に、私の いのちを感動と感謝をもって受けとめたい!
そして、周りの人とも感動と感謝のなかで出遇いたい!」
という 深い願い があります。
(後(のち)に、その深い願いは、阿弥陀様から いただている仏性(ぶっしょう)の願いである と知ることになります。)
その深い願いに目覚めさせ、「その いのちの願いに生きてほしい!」という阿弥陀様の叫び が 本願 と いわれています。
その本願は、「南無阿弥陀仏‐私、阿弥陀仏に南無しなさい」という お名前を、
私達が、いつでも、どこでも、どんな時でも、称えることによって、届けられ、保たれていきます。
なぜならば、その南無阿弥陀仏という お名前には、
〈法蔵(ほうぞう)菩薩で あられた時の 十劫(じゅっこう)にも及(およ)ぶ修行 によって 阿弥陀様に なられた〉
その存在の すべてが、阿弥陀様に なられた願いの すべてが、凝縮(ぎょうしゅく)して込められているからです。
だからこそ、「南無阿弥陀仏」と称えることによって、瞬時(しゅんじ)に、阿弥陀様の存在・願い が思い起こされ、私達は、阿弥陀様を忘れることがないのです。
また、見方を変えますと、私を生かすために働いてくださる、お世話をしてくださる
その すべてを「阿弥陀様」と呼ぶこともできるのです。
ー1-
私たちは この世の すべてのものによって生かされた存在なのです。
つながりの中でしか生きていない というのは「事実」なのです。
これを仏教では「諸法(しょほう)無我(むが)」と呼びます。
そして、そのことは、私たちは すべての いのちと、根源(こんげん)のところで、
共に つながっている ということでもあるのです。
誰も孤独ではなく、誰も排除されていない「いのちの事実」があるのです。
そのことも、お念仏を称えることで、思い起こされ、生きる力 となっていくことです。
だからこそ、本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、浄土往生への正しい行(おこな)いと いえるのです。
↓
親鸞聖人は、四十八願を「真実五願(がん)(十一・十二・十三・十七・十八願)」、
「三願真仮(しんけ)(十八願を真実とし、十九・二十願を方便(ほうべん)の願(がん)(十八願に入るためには、不可欠(ふかけつ)な願い)とする)」などに分けた 新しい読み解き方(かた)をされた
↓
『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』標挙(ひょうこ)の文(もん)(各巻(かくかん)の始めに、要(かなめ)となる お言葉 が 書かれている)
「教巻(きょうのまき)」大無量寿経 真実の教(きょう) 浄土真宗
「行巻(ぎょうのまき)」諸仏(しょぶつ)称名(しょうみょう)の願(がん)(十七願) 浄土真実の行(ぎょう) 選択本願(せんじゃくほんがん)の行(ぎょう)
「信巻(しんのまき)」至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(十八願) 正定聚(しょうじょうじゅ)の機(き)
「証巻(しょうのまき)」必至滅度(ひっしめつど)の願(十一願) 難思議(なんしぎ)往生
「真仏土巻(しんぶつどのまき)」光明無量の願(十二願) 寿命無量の願(十三願)
「化身土巻(けしんどのまき)」
無量寿仏観経(かんぎょう)の意(こころ)
至心(ししん)発願(ほつがん)の願(がん)(十九願)
邪定聚(じゃじょうじゅ)の機(き) 双樹林下(そうじゅりんげ)往生
阿弥陀経の意(こころ)なり 至心(ししん)回向(えこう)の願(二十願) 不定聚(ふじょうじゅ)の機(き) 難思(なんし)往生
ー2-
『真宗児童(じどう)聖典』仏説(ぶっせつ)無量寿経
第一 わたしの国に生まれたなら、いのちを きずつけ合い、欲に よって うばい合い、だれかに支配されること の ないように します。
第二 わたしの国に生まれた人たち は、いのちを きずつけ合い、ひとりじめするために うばい合い、だれかに支配される世界に ふたたび戻ることのないようにします。
第三 わたしの国に生まれた人たち は、金色(こんじき)に光(ひか)り かがやく すがた に なります。
第四 わたしの国に生まれた人たち は、どのような すがた にも なれ、美しいとか、みにくい などの区別がありません。
第五 わたしの国に生まれた人たち は、どんな古い むかしの歴史も知ることができるようになります。
第六 わたしの国に生まれた人たち の眼は、どんなに遠くの ほとけさまの世界も見ることができるように なります。
第七 わたしの国に生まれた人たち の耳は、どんなに遠くの ほとけさまの声も聞くことができるように なります。
第八 わたしの国に生まれた人たち は、他の人の こころ が わかり、世界の人びと の 本当の願いを知ることができるように なります。
第九 わたしの国に生まれた人たち は、不思議な力を持ち、はるか遠くの世界へ自由に いっしゅん で行けるようになります。
第十 わたしの国に生まれた人たち は、自分中心の こころ から解放されて、生きられるように なります。
第十一 わたしの国に生まれた人たち は、ほとけ の さとり を得ることが できます。かならず ほとけ に なることは、人間の世界にいるうちに決まるのです。
第十二 わたしは、光(ひかり)に限(かぎ)りがない ほとけ となって、どんな遠いところ も照(て)らします。
第十三 わたしは、寿命に限りがない ほとけ となって、いつまでも生き続けます。
ー3-
第十四 わたしの国では、わたしの話を聞く弟子が、数えきれない くらいたくさんに なります。
第十五 わたしの国に生まれた人たち は、寿命が つきることがないように なります。また、望(のぞ)めば長くも短くも自由に できます。
第十六 わたしの国に生まれたなら、聞いて苦(くる)しむ言葉が ひとつもない ようにします。
第十七 わたしは、あらゆる世界の多くの ほとけさま達(たち)が、わたしの名を南無阿弥陀仏と ほめ讃(たた)えるように します。
第十八 わたしは、たとえ どんな いのち であっても、本願を信じて、わたしの国に生まれたい と思い、南無阿弥陀仏と称えれば かならず生まれるように します。ただし、父を殺したり、母を殺したり、大切な先生を殺したり、仏法を話す人の邪魔(じゃま)をしたり、ほとけさま の からだ から血を出したりする という、いのちを きずつける 五つの おそろしい罪を犯す人とほとけさま の教え を うたがい、悪く言う人 については、その罪の重さを知るまで待っています。
第十九 わたしは、たとえ どんな いのち で あっても、ほとけ に なりたいという こころ を持って、いろいろな善いことをして、その力で わたしの国に生まれたい と願えば、いのち終わる時には、かならずたくさんの弟子たち と 目の前に あらわれます。
第二十 わたしは、たとえ どんな いのち であっても、わたしの名を聞いて、南無阿弥陀仏を称え、その力で わたしの国に生まれたい と願えば、いつか かならず 願い を かなえます。
第二一 わたしの国に生まれた なら、だれもが みんな、ほとけさま の三十二の特長(とくちょう)を すべて そなえた すがた になります。
ー4-
第二二 どの ほとけさま の 国の人達(たち)でも、道を求める人は みんな、わたしの国に生まれ、かならず ほとけ に なります。
また、悲しみ なやむ人を救いたい と 願う人は、わたしの国からすぐに向かうことができるように なります。
第二三 わたしの国に生まれたなら、道を求める人は みんな、ほとけさま にお会いしたい と思えば、わずかな時間で、数限(かずかぎ)りない ほとけさま の国々すべてに行けるようになります。
第二四 わたしの国に生まれた なら、道を求める人は みんな、ほとけさま にお会いして、おそなえ したい と思えば、どんなもの でも おそなえ できるようになります。
第二五 わたしの国に生まれた なら、道を求める人は みんな、広く深い智慧(ちえ)をもつことが でき、あらゆる人に伝えることができるようになります。
第二六 わたしの国に生まれた なら、道を求める人は みんな、りっぱな からだ になります。
第二七 わたしの国に生まれた なら、すべてのもの は とても きよらか で 美しく、だれもが みんな、なに ひとつ 不自由なく、満(み)ち足(た)りるように します。どれも たいへん 美しく、種類(しゅるい)も多く数えきれないほど です。
第二八 わたしの国に生まれた なら、道を求める人は みんな、善いことを少し しか できなかった としても、光り かがやく 広大な道場樹(どうじょうじゅ)(悟りを開く場所にある菩提樹(ぼだいじゅ))を見ることができるようになります。
第二九 わたしの国に生まれた なら、道を求める人は みんな、ほとけさま の教えをよく覚えて、話して聞かせることができるように なります。
第三十 わたしの国に生まれたなら、道を求める人は みんな、ほとけさま の教えを自由自在に話して聞かせることが できるように なります。
第三一 わたしの国は、きよらかで、さまざまな ほとけさま の世界をはっきりと見ることが できるようにします。
ー5-
第三二 わたしの国は、あらゆる物が それぞれに かがやきながら薫(かお)り、調(ちょう)和(わ)し、すべての世界に満ちるようにします。その薫(かお)りを聞くと、道を求める人は みんな、目覚め、ほとけさま の道 を歩むことができるように なります。
第三三 わたしの光(ひかり)に照(て)らされ、その光に ふれるなら、だれもが みんな、身も こころも やわらぎ、自在で自由になります。
第三四 わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いたなら、だれもが みんな、本当に大切なこと を さとり、いつまでも忘れないように なります。
第三五 わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いて、信じ よろこび、ほとけ に なりたいという こころを持つ女性がいたなら、かならず わたしの国に生まれます。そして どんな性(せい)であっても、差別されることのないように します。
第三六 わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いたなら、道を求める人は みんな、いのち終わったあと、毎日 きよらかな修行をして、最後には、ほとけ になります。
第三七 わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いたなら、だれもが みんな、全身で うやまい、感動して、仏道を歩めるように なります。
この すがた は、周りの人達(たち)に 本当に大切なこと を気づかせるでしょう。
第三八 わたしの国に生まれたなら、だれもが みんな、衣服(いふく)を着たい と思えば、どんな衣服(いふく)でも こころのままに 目の前に出てきます。そして、ほとけさま の教え に ふさわしい衣服(いふく)を自然に身につけることができます。また、だれもが その衣服(いふく)を、縫(ぬ)うことも、染(そ)めることも、洗濯(せんたく)することも 必要のないように します
。
第三九 わたしの国に生まれたなら、だれもが みんな、ほとけさま のように、ほがらかで ここちよく、少しも 不愉快(ふゆかい)なこと のないように なります。
第四十 わたしの国に生まれた なら、道を求める人は みんな、どんな ほとけさま の国であっても、見たい時に、宝(たから)の樹々(きぎ)の中に はっきりと見ることができるように なります。
ー6-
第四一 どこの国の人達(たち)でも、道を求める人は みんな、わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いたなら、ほとけ と なるまでに、自分自身に不足(ふそく)のないようになります。
第四二 どこの国の人達(たち)でも、道を求める人は みんな、わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いたなら、迷っていた こころ が おだやかに なります。ひとたび願(ねが)えば、どんなに多くの ほとけさま でも、大事にすることができ、こころが はげしく ゆれ動(うご)くこと のないように します。
第四三 どこの国の人達(たち)でも、道を求める人は みんな、わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いたなら、その いのちが終わった後、本当に尊(とうと)い家に生まれるように します。
第四四 どこの国の人達(たち)でも、道を求める人は みんな、わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いたなら、おどりだす ほど よろこびが わきあがり、ほとけさま の教え に生きることが はじまるように します。
第四五 どこの国の人達(たち)でも、道を求める人は みんな、わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いたなら、数えきれない たくさんの ほとけさまの おこころでも、一瞬(いっしゅん)にして思(おも)い浮(う)かべられるように します。
第四六 わたしの国に生まれた なら、道を求める人は みんな、自分が 聞きたい と願う ほとけさま の教えは、いつでも、自然に聞けるように します。
第四七 どこの国の人達(たち)でも、道を求める人は みんな、わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いた なら、もう二度と迷わないように します。
第四八 どこの国の人達(たち)でも、道を求める人は みんな、わたしの名、南無阿弥陀仏を聞いた なら、本当に大切なこと に耳を澄(す)まし、じっくりと考え、歩(あゆ)んでいき、決して後戻(あともど)りすることのないように します。
ー7-


ー8-
真実の法(ほう)の世界
(摂法身(しょうほっしん)の願(がん)‐十二・十三・十七願によって、仏(ぶつ)が自(みずか)らの仏身(ぶっしん)を完成させる)
第十二願 光明無量の願
わたしは、光(ひかり)に限(かぎ)りがない ほとけ となって、どんな遠いところ も照(て)らします。
第十三願 寿命無量の願
わたしは、寿命に限りがない ほとけ となって、いつまでも生き続けます。
↓
「正像末(しょうぞうまつ)和讃一八」
超世(ちょうせ)無上(むじょう)に摂取(せっしゅ)し 選択(せんじゃく)五劫(ごこう)思惟(しゆい)して
光明・寿命の誓願(せいがん)を 大悲(だいひ)の本(ほん)と したまへり
〈 意訳 〉
法蔵(ほうぞう)菩薩は、五劫(ごこう)という長い間 考え尽(つ)くされて、諸行(しょぎょう)を捨て、念仏一行(いちぎょう)を
選(えら)び取(と)られて、世(よ)に超(こ)えた最高の誓願(せいがん)を立てられました。
その中でも、光明無量・寿命無量の願(がん)を 阿弥陀如来の大悲(だいひ)の本願の根本と なさったのです。
↓ そして、
第十七願 諸仏(しょぶつ)称名(しょうみょう)の願(がん)・諸仏(しょぶつ)称揚(しょうよう)(ほめたたえる)の願(がん)・往相廻向(おうそうえこう)の願・選択(せんじゃく)称名(しょうみょう)の願
わたしは、あらゆる世界の多くの ほとけさま達(たち)が、わたしの名を 南無阿弥陀仏 と ほめ讃(たた)えるように します。
ー9-
↓
阿弥陀様は、「南無阿弥陀仏を称えることが、浄土往生への正しい行(おこな)いである」と、
諸行(しょぎょう)の中から、いらない行(ぎょう)を捨てて、
私たちに なくてはならない ただ一つの行(ぎょう)「称名(しょうみょう)念仏」を選(えら)び取(と)られ(選択(せんじゃく))、
「第十二願 光明無量の願(がん)」によって、すべての世界を照らしぬかれ、
「第十三願 寿命無量の願」によって、すべての衆生を浄土に摂(おさ)め取って成仏(じょうぶつ)させることを誓(ちか)ってくだされた。
その阿弥陀様のことを、あらゆる世界の「諸仏(しょぶつ)・善知識(ぜんじしき)」は ほめ讃(たた)え、
「諸仏(しょぶつ)・善知識(ぜんじしき)」は、すべての衆生に「南無阿弥陀仏」を称えるよう
勧(すす)めてくださっている(第十七願)。
第十二願・第十三願・第十七願によって、
「真実の法の世界」「阿弥陀様 自(みずか)らの存在」を成就(じょうじゅ)しておられることを、親鸞聖人は読み解かれたのでした。
また、
「往相(おうそう)」とは、衆生が浄土に往生する相(すがた)のこと。
「回向(えこう)」とは、「南無阿弥陀仏」が諸仏(しょぶつ)・善知識(ぜんじしき)(よき人)を通して伝わってくること。
このことによって、
「第十七願を往相廻向(おうそうえこう)の願(がん)と呼ぶことができる」と、親鸞聖人は言われたのでした。
ー10-
衆生の機(き)
(三願転入(てんにゅう)‐親鸞聖人は、自分自身が経験した求道(きゅうどう)の歩みから、
第十九願から第二十願へ、第二十願から第十八願をいただくことができた、
と表された)
↓
第十九願 至心(ししん)発願(ほつがん)の願・修(しゅう)諸(しょ)功徳の願・臨終現前(りんじゅうげんぜん)の願
わたしは、たとえ どんな いのち で あっても、ほとけ に なりたい
という こころ を持って、いろいろな善(よ)いことをして、
その力で わたしの国に生まれたい と願えば、いのち終わる時には、かならず
たくさんの弟子たち と 目の前に あらわれます。
↓
「浄土和讃六一」
至心(ししん)・発願(ほつがん)・欲生(よくしょう)と 十方衆生を方便し
衆善(しゅぜん)の仮門(けもん)ひらきてぞ 現其人前(げんごにんぜん)と願(がん)じける
〈 意訳 〉
第十九願には、
「自分の心を真実にして、どのような善(ぜん)を修(おさ)めてでも、浄土に生まれたい と思え」と、
十方衆生を真実の道に入(はい)らせるための 仮(かり)に設(もう)けられた教え を開き、
この人々の臨終(りんじゅう)には 弟子たち と 目の前に あらわれる と誓(ちか)われた。
↓
《 自力雑(ぞう)行(ぎょう)の歩み 》
悟りを求める心を起(おこ)し、自分の力を頼りにして、さまざまな功徳を積(つ)み、浄土へ往生しようとする
ー11-
↓
第二十願 至心(ししん)回向(えこう)の願・植(じき)諸徳本(しょとくほん)の願・不果遂者(ふかすいしゃ)の願
わたしは、たとえ どんな いのち で あっても、わたしの名を聞いて、
南無阿弥陀仏を称え、その力で わたしの国に生まれたい と願えば、いつか かならず 願い を かなえます。
↓
「浄土和讃六四」
至心(ししん)・回向(えこう)・欲生(よくしょう)と 十方衆生を方便し
名号の真門(しんもん)ひらきてぞ 不果遂者(ふかすいしゃ)と願(がん)じける
〈 意訳 〉
阿弥陀如来は、第十八願 他力念仏に入れない者のために、第二十願を起(お)こし、
「自力の真実心(しんじつしん)から、称名(しょうみょう)念仏して、唱(とな)えた念仏 を 往生の行(ぎょう) として
ふり向け、わが国に生まれたい と 欲(おも)え」と、自力念仏の道を開き、
十方衆生を誘(さそ)い、ついには、「真実の浄土往生を遂(と)げさせる」と お誓(ちか)いくだされた。
↓
《 自力念仏の歩み 》
悟りを求める心を起し、「自分が唱(とな)えた念仏の功徳」によって、浄土へ往生しようとする
↓
ー12-
第十八願 念仏往生の願・選択(せんじゃく)本願の願・至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願・往相(おうそう)信心の願
わたしは、たとえ どんな いのち であっても、本願を信じて、わたしの国に生まれたい と思い、南無阿弥陀仏と称(とな)えれば かならず生まれるように します。ただし、父を殺したり、母を殺したり、大切な先生を殺したり、仏法を話す人の邪魔(じゃま)をしたり、ほとけさま の からだ から血を出したりする という、いのちを きずつける 五つの おそろしい罪を犯す人 と ほとけさま の教え を うたがい 悪く言う人 については、その罪の重さを知るまで待っています。
↓
《 他力念仏の世界 》
自力の歩み を通して、「煩悩具足の身(み)を離(はな)れることはできない」と思い知らされ、開けてくる他力の世界。
「悟りを求める心」も、阿弥陀様からいただいている仏性(ぶっしょう)によって起こってくる心であり、
「お念仏」も、「私が称えていたのではない。
南無阿弥陀仏 が、私の声 と なって、私の口から出てくださっているんだ」と気づかされていく。
自力では助からない と思い知り、ただただ 阿弥陀様に お任せして、
阿弥陀様の手足となって お浄土をこの世に映し出せるよう努め、
その生活の中で、感動と感謝を味わっていくことができる世界。
↓ 第十二・十三・十七・十八・十九・二十願 全部を含(ふく)めて
〈 原文 〉
本願名号正定(しょうじょう)業(ごう) 至心信楽(ししんしんぎょう)願(がん)為(に)因(いん)
〈 書き下し文 〉
本願の名号は正定(しょうじょう)の業(ごう)なり。至心信楽(ししんしんぎょう)の願(がん)を因(いん)とす。
ー13-
〈 意訳 〉
人間には、
「本当に、私の いのちを感動と感謝をもって受けとめたい!
そして、周りの人とも感動と感謝のなかで出遇いたい!」という 深い願い があります。
(後(のち)に、その深い願いは、阿弥陀様から いただている仏性(ぶっしょう)の願いである と知ることになります。)
その深い願いに目覚めさせ、「その いのちの願いに生きてほしい!」という
阿弥陀様の叫び が 本願 と いわれています。
その本願は、「南無阿弥陀仏‐私、阿弥陀仏に南無しなさい」という お名前を、
私達が、いつでも、どこでも、どんな時でも、称えることによって、届けられ、保たれていきます。
なぜならば、その南無阿弥陀仏という お名前には、
〈法蔵(ほうぞう)菩薩で あられた時の 十劫(じゅっこう)にも及(およ)ぶ修行 によって 阿弥陀様に なられた〉
その存在の すべてが、阿弥陀様に なられた願いの すべてが、凝縮(ぎょうしゅく)して込められているからです。
だからこそ、「南無阿弥陀仏」と称えることによって、瞬時(しゅんじ)に、阿弥陀様の存在・
願い が思い起こされ、私達は、阿弥陀様を忘れることがないのです。
また、見方を変えますと、私を生かすために働いてくださる、お世話をしてくださる
その すべてを「阿弥陀様」と呼ぶこともできるのです。
私たちは この世の すべてのものによって生かされた存在なのです。
つながりの中でしか生きていない というのは「事実」なのです。
これを仏教では「諸法(しょほう)無我(むが)」と呼びます。
そして、そのことは、私たちは すべての いのちと、根源(こんげん)のところで、
共に つながっている ということでもあるのです。
誰も孤独ではなく、誰も排除されていない「いのちの事実」があるのです。
ー14ー
そのことも、お念仏を称えることで、思い起こされ、生きる力 となっていくことです。
だからこそ、本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、浄土往生への正しい行(おこな)いと いえるのです。
それは、「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」(第十八願)が、もとになって、証明されています。
ー15-