11 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就(二周目)

↑ 法話の練習した音源です(約41分)。
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。

『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


正信偈の構造(大きく 三つ に 分かれる)


第一段 総(そう) 讃(さん)「帰命(きみょう)無量寿(むりょうじゅ)如来 南無(なむ)不可思議光」

「心の底から阿弥陀様を敬(うやま)い、日々の拠り所として生きていきます」
という お心の表明(ひょうめい)。
(「総讃(そうさん)」は、独立している お言葉 だが、正信偈全体を包んでいる お言葉 でも ある。)


第二段 依経段(えきょうだん)
 「弥陀章(みだしょう)」
  法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)因位(いんに)時(じ) ~
  本願名号正定(しょうじょう)業(ごう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう)願為(に)因
  成(じょう)等覚(とうがく)証(しょう)大涅槃(だいねはん) 必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就(じょうじゅ)
 「釈迦章(しゃかしょう)」
  如来所以(しょい)興出(こうしゅつ)世(せ) ~
  是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)

『大(だい)無量寿(むりょうじゅ)経』に依(よ)り、
・「弥陀章(みだしょう)」で 現に今 私達に働きかけ続けてくださっている 阿弥陀様 と
 阿弥陀様の ご本願 の いわれ を 述べ、
・「釈迦章(しゃかしょう)」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるために
 わざわざ この世に お出(で)ましくださった お釈迦様 を 讃(たた)え、
 その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。


( 結誡(けっかい) )弥陀仏本願念仏 ~ 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)

改めて、阿弥陀様 の ご本願 を 振り返り、自(みずか)らを省(かえり)みて、深い懺悔(さんげ)と、
得難(えがた)い信心を獲(え)た喜び とをもって、
「第二段 依経段(えきょうだん)」と 次の「第三段 依釈段(えしゃくだん)」とを つなぐ。

ー1-


 ↓↑「第二段 依経段(えきょうだん)」と「第三段 依釈段(えしゃくだん)」は 対応していて、
   「第二段 依経段(えきょうだん)」で述べられた お釈迦様の本当に伝えたかった教えが、
   七高僧によって あきらかにされてきたことを「第三段 依釈段(えしゃくだん)」で述べる。


第三段 依釈段(えしゃくだん)( 総讃(そうさん) )
 印度(いんど)西天(さいてん)之(し)論家(ろんげ) ~ 明(みょう)如来本誓(ほんぜい)応(おう)機(き)

七高僧が出(で)られて、本願念仏の教え を 正しく伝え、
本願の働(はたら)き に 目覚めるよう 促(うなが)してくださった からこそ、
「大乗(だいじょう)の中の至極(しごく)」と いえる 浄土の真実の教え が 誤(あやま)りなく
島国である日本にまで 伝えられたことを、感銘深く 述べられる。
また、その歴史が、本願念仏の教え こそが、民族や時代の異(こと)なりをも超えた「本当の救い」であることを証明している。


釈迦如来(しゃかにょらい)楞伽山(りょうがせん) ~ 必(ひっ)以(ち)信心為(い)能入(のうにゅう)

七高僧が教えてくださった本願念仏の要点を掲(かか)げ、その徳を讃(たた)える。


( 結びの言葉 )弘経(ぐきょう)大士(だいじ)宗師(しゅうし)等(とう) ~ 唯(ゆい)可(か)信(しん)斯(し)高僧説(せつ)

「七高僧が その生涯をかけて「お浄土へ往生して、救われて行ってほしい」と、私達に願い、働きかけてくださっている。
その ご恩(おん)に報(むく)いるためにも、すべての人々は、正しい お念仏 と 信心をいただいてほしい。」
という 願い を述べ 、「第三段 依釈段(えしゃくだん)」を結ぶ。

 ↓

ー2-


今日 の お言葉

〈 原文 〉
本願名号正定(しょうじょう)業(ごう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう)願為(に)因
成(じょう)等覚(とうがく)証(しょう)大涅槃(だいねはん) 必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就(じょうじゅ)

〈 書き下(くだ)し文 〉
本願の名号は正定(しょうじょう)の業(ごう)なり。至心信楽(ししんしんぎょう)の願(がん)を因(いん)とす。
等覚(とうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは、必至滅度(ひっしめつど)の願(がん) 成就(じょうじゅ)なり。

 ↓

第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章(みだしょう)」の結(むす)び となる もっとも大切な四句

 ↓


等覚(とうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは、必至滅度(ひっしめつど)の願(がん) 成就(じょうじゅ)なり。


〈 言葉の意味 〉

「等覚(とうがく)」‐
 「無上(むじょう)正(しょう)等(とう)正(しょう)覚(がく)」
  ↓
 「無上(むじょう)」‐ その上がなく最高である
 「正(しょう)等(とう)」‐ 偏(かたよ)りが無く 等しい 「正(しょう)覚(がく)」‐ 仏(ぶつ)の完全な覚(さと)り
  ↓
 この上にない、完全に偏(かたよ)りの無い 仏(ぶつ)になることができる すぐれた覚(さと)り

 ↓ 簡単にいうと 
 
仏(ぶつ)に成(な)る

 ↓

ー3-


『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』親鸞聖人(しんらんしょうにん) 著 意訳
私達の「身」には 無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)が満ちみちており、欲望も多く、
怒り や 腹立ち や そねみ や ねたみの心ばかり が 絶え間なく起(おこ)り、
まさに「命が終ろう と する その時」まで、
止(とど)まることもなく、消えることもなく、絶(た)えることもない。
そのような者を「凡夫(ぼんぶ)」というのである。
水(すい)火(か)二(に)河(が)の譬(たと)え(浄土往生を願う衆生が、信を得て 浄土に至(いた)るまでを
表したもの)に示されている通り、このような 嘆(なげ)かわしい 私達 も、
二河(にが)に はさまれた 一筋(ひとすじ)の白道(びゃくどう)、すなわち 本願の はたらき の中 を
一歩二歩 と 少しずつ 歩いていくなら、
無礙光仏(むげこうぶつ)と示された光明の お心 に 摂(おさ)め取(と)ってくださるから、
必ず浄土に往生することができる。
そうすれば、浄土の悟りの花 に生(うま)れ、阿弥陀如来と同じく、
この上ない悟りを開かせていただくのである。


〈 言葉の意味 〉

「大涅槃(だいねはん)」‐
 「涅槃(ねはん)」のこと。苦悩(くのう)の原因である煩悩(ぼんのう)をすべて滅(めっ)して、迷いから解放された状態。

 ↓ 浄土真宗では、

阿弥陀様の ご本願 に よって遂(と)げさせていただく「浄土往生」のこと


「証(しょう)する」‐ 仏(ぶつ)の教え に より 真理を体得(たいとく)する。悟りをひらく。

ー4-


 ↓

《「往生」と「成仏」について 》

念仏者は、「娑婆世界を生きる身」と「浄土を目指す身」の「二つの立場」に 身を置いて生活をしていく

 ↓

『親鸞との対話』曽我量深(そがりょうじん) 著
往生 も 身 にあり、というのが 浄土宗。
成仏 も 心 にあり、というのが 聖道門(しょうどうもん)。
往生 は 心 にあり、成仏 は 身 にあり、
というのが 浄土真宗の教え である。

 ↓

『帖外(じょうがい)和讃』親鸞聖人(しんらんしょうにん) 著
超世(ちょうせ)の悲願(ひがん) ききしより  われらは生死(しょうじ)の凡夫(ぼんぶ)かは
有漏(うろ)の穢身(えしん)は かわらねど  こころ は 淨土に あそぶなり
〈 意訳 〉
「衆生の苦しみを必ず救う」という世を越えた 大きな あわれみ である阿弥陀様の ご本願を
聞いた時から、私達は「生まれ変わり 死に変わり 流転(るてん)し続ける凡夫(ぼんぶ)」となったのでしょうか。
(いや、そうではないでしょう、元から凡夫(ぼんぶ)でありました。)
私達は、迷いの世界に留(とど)まり続ける 煩悩(ぼんのう)に穢(けが)れた この身である
ことは変わらないけれども、お念仏を称えれば、「心」は いつでも
お浄土に行って、お浄土の姿を楽しみ、また、そのお浄土の姿から いろいろなことを学ぶことができるのです。

ー5-


「必至滅度(ひっしめつど)の願(がん)」第十一願
私が仏(ぶつ)になるとき、私の国(浄土)の天人(てんにん)や人々が、必ず悟りに至(いた)る。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。

 ↓

浄土へ往生した者は、必ず悟りに至る、悟りをひらく。


〈 言葉の意味 〉

「成就(じょうじゅ)」‐物事を成(な)し遂(と)げること。また、願い が かなうこと。


 ↓ 等覚(とうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは、
   必至滅度(ひっしめつど)の願(がん) 成就(じょうじゅ)なり。
   簡単に意訳しますと

私達が、浄土往生を遂(と)げさせていただき、仏(ぶつ)に成(な)ることができるのは、
阿弥陀様が「必至滅度(ひっしめつど)の願(がん)」(第十一願)を成(な)し遂(と)げられているからなのです。

 ↓

「本願名号正定(しょうじょう)業(ごう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう)願為(に)因
 成(じょう)等覚(とうがく)証(しょう)大涅槃(だいねはん) 必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就(じょうじゅ)」
正信偈 第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章(みだしょう)」の結び と なる 大切な お言葉

 ↓

「真実五願(がん)(十一・十二・十三・十七・十八願(十九・二十願))」を主(おも)に表現している

ー6-


 

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、
四十八願(阿弥陀様が法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)で あられた時、諸仏の立てられた誓いの中から
最も優れたものを「四十八の誓願(せいがん)」として選び取られた)を、
さらに、「方便(ほうべん)の願(がん)(人を良い方向に導く手段・方法)」と「真実の願(がん)」とに分けられた。

 

阿弥陀様の願い
「もし、すべての生きとし生けるもの を 救うことができないのであれば、私は 仏(ぶつ) には 成(な)らない」

 ↓ そのことを実現するために

「光明無量の願(がん)」(第十二願)によって、すべての世界 を 照らしぬき、
「寿命無量の願(がん)」(第十三願)によって、すべての 生きとし生けるもの を摂取(せっしゅ)して おさめとっていく、
「ひかり と いのち きわみなき 阿弥陀ほとけ」と 成(な)られた!

 ↓「真実の行」諸仏称名の願(第十七願)によって

そして、「その阿弥陀様」を、すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)(よき人・善知識(ぜんじしき))が、
「南無阿弥陀仏(私は、阿弥陀様を拠り所として生きて行きます)」と ほめたたえ、
「すべての 生きとし生けるもの」に、お念仏を称(とな)えることを勧(すす)めてくださる。
そうして、「南無阿弥陀仏」が すべての世界に届けられ、すべての生きとし生けるもの が 救われていく。

ー7-


 ↓ 私達が、「南無阿弥陀仏」を通して、「阿弥陀様」に出会う


私達が 本当に願っている「自利(じり)利他(りた)円満(えんまん)」という生き方 に 出会う。

「自利(じり)」‐
 「自分が助かること」ばかりを考えているために、どうしても 誰か を 犠牲にしてしまう。
 そうして、なんとなく「後ろめたい気持ち」を持ちながら生活を送る。

「利他(りた)」‐
 「人の力 に なりたい」と願って、人に尽(つ)くす生活を送る。
 しかし、「自分を犠牲にしてしまっている」所 も あり、なんとなく 心が晴れない。

阿弥陀様は、「自利(じり) 利他(りた) 円満(えんまん)(穏(おだ)やかに、調和が とれている)」。
自分のことを犠牲にして、「他者を救いたい」と願われた わけでもなく、
他者を犠牲にして、「悟りを得て、自分だけ 仏(ぶつ)に成(な)って救われたい」と願われた わけでもない。
自利(じり)(自分を救うこと)と、利他(りた)(他者を救うこと)が、矛盾しないで、
「私が仏(ぶつ)に成(な)ることで、すべての生きとし生けるものを救いたい」と願われた。
そして、「南無阿弥陀仏」が、この私 に 届けられる時には、
「阿弥陀様の お心」に学んで、実際に「南無阿弥陀仏」と お念仏を称えて
生活をしている「よき人・善知識(ぜんじしき)」との 出会い が ある。

 ↓ それまでの「私達の日常」は、

ー8-


三つの髻(もとどり) →  自分を飾るもの の 象徴

一、勝他(しょうた)
 周りの人と比べて、「自分の方が、優れている」と、思おうとする心。逆にいうと、人から見下されるのを嫌う心。

二、名聞(みょうもん)
 有名になって、一目(いちもく)置(お)かれる存在になろうとする心。
 権力を求め、その権力で、周りの人を従わせようとする心。

三、利養(りよう)
 金持ちになろうとする心。お金を持っていない人を見下す。
 財産の 多い 少ない によって、人の価値を決めてしまう心。


五怖畏(ごふい)(目に見えないもの に 対する 五つの恐れ)

一、不活畏(ふかつい) ‐
 「生きていけなくなるのではないだろうか・・」という心配。
 主(おも)に衣食住(衣服、食物(たべもの)、住居)の不安。

二、悪名畏(あくみょうい) ‐
 「周囲から悪く思われていないだろうか」と、絶(た)えず 回り を 気にして、
 「人に いいところ を 見せよう」と思い、苦労をする。

三、大衆威徳畏(たいしゅういとくい) ‐
 「仲間外れ」にされることを恐れ、実体のない「世間」に おびえる。

四、命終畏(みょうじゅうい) ‐
 「死んだら どうなるのだろう」という不安。少し病気になれば、「死ぬのではないか」と 心細くなる。

五、悪趣畏(あくしゅい) ‐
 悪趣(あくしゅ)とは三悪趣(さんあくしゅ)「地獄・餓鬼・畜生」。
 「そのような苦しみの世界に、落ちたりしないだろうか」という不安。「いろいろな不幸」に おびえる。

ー9-


 ↓《 自力雑行(ぞうぎょう)の歩み 》第十九願 至心(ししん)発願(ほつがん)の願

「阿弥陀様の お心」に触(ふ)れ、
「私も悟りを得て、迷える人々を救いたい。また、私自身のことも救いたい。」と、
「悟りを求める心」を起こして、「仏(ぶつ)に成(な)るための修行」に励(はげ)み、
さまざまな功徳を積んで行く。
 
 ↓《 自力念仏の歩み 》第二十願 至心(ししん)回向(えこう)の願

修行に励(はげ)むことによって、逆に、
「この 煩悩(ぼんのう)が限り無く わき起こってくる 人の身体(からだ) を 生きている限り、
悟りを得ることは難(むずか)しい」ということ を 思い知らされ、
「阿弥陀様の お念仏の功徳」によって、浄土へ往生しようとする。

 ↑↓ 親鸞聖人(しんらんしょうにん)が、私達に先立って、実践し 明らかにしてくださったこと

《 法然(ほうねん)上人との出会いの意義 》(真宗高田派(たかだは) 本山 専修寺(せんじゅじ) ホームページより)
人生 は 出遇い です。いつ、どこで、どんなことで、誰に出遇うか。
そのことが お互いの生涯 を 決めていきます。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、二十年という長い 比叡山での修行 に 行き詰まって、
その解決を聖徳太子の ご示現(じげん)に仰(あお)ごう と、
京都にある太子建立の六角堂 に 百日の参籠(さんろう) を されたのでした。
そして、太子の夢告(むこく) に 導かれて、東山(ひがしやま)吉水(よしみず)の草庵(そうあん)に 法然(ほうねん)上人を
訪ねられました。

ー10-


草庵には、上人の教え(私達は、「往生の行」として阿弥陀様に
選び取られた「念仏」でしか、浄土へいくことはできない という教え)
を聞こう と 毎日 庶民が群参(ぐんさん)していました。
聖人も その一人 と なって 百日間 も 聴聞され、
ようやく 自分の救われる教え を 思い出されたのでした。
聖人は、この出遇いを『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)(総序(そうじょ))』に
「遇(あ)い難(がた)くして、遇(あ)うことができました。
聞き難(がた)くして、真宗の教え を 聞くことができました」
と感佩(かんぱい)(心から感謝して忘れない)されています。
また『浄土高僧(こうそう)和讃(源空(げんくう)讃(さん)第四首)』には
「本師(ほんじ)源空(げんくう)いまさずば このたび むなしく すぎなまし」
もし 法然(ほうねん)(源空(げんくう))上人との出遇い が なかったら、せっかく この世に
人間 として 生まれてきても、救われることなく むなしい人生で
終わってしまうところでした、と 述懐(じゅっかい)しておられます。

 ↓ そして、《 他力念仏の世界へ 》「真実の信」第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん)

「自力の歩み」を通して、
・「私が 悟り を 求めた心」も、「阿弥陀様からいただいた心」であったことに気づかされ、
・「お念仏」も、「私が お念仏 を 称えていた のではなく、阿弥陀様の不思議な お力 によって、
 お念仏 が 私の声 と なって、私の口 から 出てくださっていた」と、気づかされる。

 ↓

ー11-


第十一願 必至滅度(ひっしめつど)の願
私 が 仏(ぶつ) に なるとき、私の国(浄土)の天人(てんにん)や人々が、必ず 悟り に 至る。
そうでなければ、私は 決して 悟り を 開きません。

 ↓

「浄土に往生した者 は、必ず 悟り を 得て、仏(ぶつ) に 成(な)ることができる」
という「阿弥陀様の お言葉」を信じて、お念仏を称えて、
阿弥陀様に お任せ して 生活を送っていく。

 ↓

「もし、すべての生きとし生けるもの を 救うことができないのであれば、
私は 仏(ぶつ) には 成(な)らない」という 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ) で あられた時の お誓(ちか)いを、
第十一願 必至滅度(ひっしめつど)の願・第十二願 光明無量の願・第十三願 寿命無量の願・第十七願 諸仏称名の願・第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(第十九願 至心(ししん)発願(ほつがん)の願・第二十願 至心(ししん)回向(えこう)の願)によって、かなえることができ、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が「阿弥陀様」に成(な)られた。
第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章(みだしょう)」の結(むす)び となる もっとも大切な四句
「本願名号正定(しょうじょう)業(ごう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう)願為(に)因
 成(じょう)等覚(とうがく)証(しょう)大涅槃(だいねはん) 必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就(じょうじゅ)」は、
「阿弥陀様 に とっても、もっとも 大切な四句である」といえるのではないでしょうか。

ー12-


《 まとめ 》
第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章(みだしょう)」意訳 
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)因(いん)位(に)時(じ) ~ 必至滅度(ひっしめつど)願成就(じょうじゅ)

 阿弥陀様が、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者に なられる前、一国(いっこく)の国王で あられた時、
世自在王仏(せじざいおうぶつ)の「教え」に、深く感動し、国も、財宝や妻子も、すべて を 捨て、
出家をし、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者 に なられたのでした。
 そして、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所へ 行かれて、
二百一十億の さまざまな仏方(ほとけがた)の国々の成り立ち と、
迷える人々が住む国々の「因‐原因」「縁‐条件」「果‐結果」の善悪 をはっきりと見究(みきわ)められ、
他(ほか)の仏(ぶつ)を はるかに超(こ)え勝(すぐ)れた
「諸仏の浄土に往生できていない すべての人々を救う!」という「広大な お誓(ちか)い」を たてられたのでした。
 そして、五劫(ごこう) という 果(は)てしなく長い時間、考えをめぐらせて、ついに、
「すべての人々を救うことができるのは、お念仏である」ということを発見されたのでした。
 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、世自在王仏(せじざいおうぶつ)に、
その「念仏往生を中心とした四十八の願い」を お説きになられる と、
重ねて、「この 南無阿弥陀仏の お念仏 を、すべての人々 に 伝える!」
と、誓われたのでした。
 阿弥陀様は、いつでも(無量光)、どこでも(無辺光(むへんこう))、
どんな出来事の中でも(無碍光(むげこう))、私達を照らし続けてくださっている。
・また、『無辺光(むへんこう)』は、「有(あ)る」「無(な)い」といった「とらわれ」から離れさせ、
「悪い行(おこな)い」や「煩悩(ぼんのう)」からも離(はな)れさせてくださる。
・また、『無碍光(むげこう)』は、「光とは無縁なもの」と落ち込んでいる人々に、光に気づかせ、やがて「満天(まんてん)ことごとく星が輝いていた」という歓喜(かんぎ)を与えてくださる。

ー13-


・『無対光(むたいこう)』という光は、阿弥陀様の優れた智慧から放(はな)たれる光であり、
 この「智慧の光」をいただけば、とても菩薩方とは比べることのできないような「優れた智慧」が、私達に開かれてくる。
・『炎王光(えんおうこう)』という光は、諸仏(しょぶつ)の光が届かない「地獄・餓鬼・畜生の心」を
 温かく照らして、我(われ) 人(ひと) ともに いのちを輝(かがや)かせ合(あ)う 明るく豊かな世界に導いてくださる。
・『清浄光(しょうじょうこう)』という光は、人間をいやしく、汚くする「貪(むさぼ)りの心」を
 照らし出し、「欲を起こす必要がなかった、すべてが いただきものであった」
 という「他力」の中を生きていることを知らせてくださる。
・『歓喜光(かんぎこう)』という光は、死を恐れて生活する私達を「浄土に生まれて行く者へ」と お育てくださる。
・『智慧光(ちえこう)』という光は、私の「愚かさ」を照らし出し、真実を届けてくださる。
 そして、阿弥陀様の光明の中に生かされていた私に気づかせ、感動と感謝の心を呼び起こしてくださる。
・『不断光(ふだんこう)』という光によって、絶え間なく背中を押してくださり、
 私に仏道を歩ませてくださっている。
・『難思光(なんしこう)』という光によって、「計(はか)らいの心」から離れさせてくださり、
 『無称光(むしょうこう)』という光によって、「言葉に とらわれる心」から離れさせてくださる。
このような「他(ほか)と比べるものがない、太陽や月をも超えた、
この世で最も大きい光(超日月光(ちょうにちがっこう))」を 阿弥陀様は放ってくださっている。
それらの光が、どんなに細かい所でも、無数の世界を どこまで でも、
照らし尽(つく)し、一切の衆生は、この光の輝きを 常に身に受けているのです。

ー14ー


 人間には、
「本当に、私の いのち を感動と感謝をもって受けとめたい!
 そして、周りの人とも感動と感謝のなかで出遇いたい!」
という 深い願い があります。
(後(のち)に、その深い願いは、阿弥陀様から いただている仏性(ぶっしょう)の願いである と知ることになります。)
その深い願いに目覚めさせ、「その いのちの願い に生きてほしい!」という
阿弥陀様の叫び が 本願 と いわれているのです。
その本願は、「南無阿弥陀仏‐私、阿弥陀仏に南無しなさい」という お名前を、
私達が、いつでも、どこでも、どんな時でも、称えることによって、届けられ、保たれていきます。
なぜならば、その南無阿弥陀仏という お名前には、
〈法蔵(ほうぞう)菩薩で あられた時の 十劫(じゅっこう)にも及(およ)ぶ修行 によって 阿弥陀様に なられた〉
その存在の すべてが、阿弥陀様に なられた願いの すべてが、凝縮(ぎょうしゅく)して込められているからです。
だからこそ、「南無阿弥陀仏」と称えることによって、瞬時(しゅんじ)に、阿弥陀様の存在・願い が思い起こされ、私達は、阿弥陀様を忘れることがないのです。
また、見方を変えますと、私を生かすために働いてくださる、お世話をしてくださる
その すべて を「阿弥陀様」と呼ぶこともできるのです。
私たちは この世の すべてのものによって生かされた存在なのです。
つながりの中でしか生きていない というのは「事実」なのです。
これを仏教では「諸法(しょほう)無我(むが)」と呼びます。
そして、そのことは、私たちは すべての いのちと、根源(こんげん)のところで、
共に つながっている ということでもあるのです。
誰も孤独ではなく、誰も排除されていない「いのちの事実」があるのです。
そのことも、お念仏を称えることで、思い起こされ、生きる力 となっていくのです。

ー15-


だからこそ、本願の名号「南無阿弥陀仏」を称えることは、浄土往生への正しい行(おこな)いと いえるのです。
それは、「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」(第十八願)が、もとになって、証明されています。
 私達が、浄土往生を遂げさせていただき、仏(ぶつ)に成(な)ることができるのは、
阿弥陀様が「必至滅度(ひっしめつど)の願」(第十一願)を成(な)し遂(と)げられているからなのです。

ー16-