下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』
〈 原文 〉
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)因(いん)位(に)時(じ) 在(ざい)世自在王仏(せじざいおうぶつ)所(しょ)
〈 書き下し文 〉
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の因位(いんに)の時(とき)、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所(みもと)に ましまして、
〈 言葉の意味 〉
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)‐仏法を蔵(おさ)めている菩薩。
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『正像末(しょうぞうまつ)和讃(わさん)講話 正篇(せいへん)』金子(かねこ)大榮(だいえい) 著 昭和十五年発行
法蔵願力(ほうぞうがんりき)
智慧の念仏うることは 法蔵願力(ほうぞうがんりき)の なせるなり
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃(ねはん)をさとらまし
「智慧の念仏」は大勢至(だいせいし)の勧(すす)めではあるが、それは法蔵(ほうぞう)菩薩の願力(がんりき)に依(よ)りて賜(たま)わるものである。
その智慧の念仏と云(い)うのは、渡(わた)り難(がた)い海を渡(わた)る大船(たいせん) であります、どうしたら よいか解(わか)らない所を切り開いて行く智慧 であります。
その念仏をうることは「法蔵願力(ほうぞうがんりき)のなせる」ものであります。
今日も ある所で、どうして法蔵(ほうぞう)というような名がついたのですか、と云(い)う話が出ました。法蔵(ほうぞう)と云(い)う二字は あらゆる法(ほう)を包(つつ)み蔵(おさ)めてある蔵(くら)ということで、人間の どんな憂(うれ)い でも どんな慨(なげ)き でも、どんな悩みでも みんな救う所の法(ほう)を包(つつ)んで居(い)ると云(い)うのが、法蔵(ほうぞう)と云(い)う二字の意義であります。これは阿弥陀如来自(みずか)ら法蔵(ほうぞう)と名告(なの)って、法蔵(ほうぞう)と云(い)う二字の上に 一切衆生の 一切の悩みを救わん と云(い)う意味を表現せられたのであります。その法蔵(ほうぞう)菩薩の願いの力(ちから)が現れて、我々は茲(ここ)に南無阿弥陀仏と称えることになったのである。
ー1-
『それ故(ゆえ)に「信心の智慧なかりせば」、即(すなわ)ち法蔵(ほうぞう)の願力(がんりき)が なかったならば、
「いかでか涅槃(ねはん)をさとらまし」、一切衆生と共に一如(いちにょ)平等のさとりを開くことは出来ぬのであります。
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『専修(せんじゅ)念仏の人』信國(のぶくに) 淳(あつし) 意訳
ところで諸君(しょくん)が ここ(大谷専修(せんしゅう)学院)で学ばねばならぬ仏教 とは 何か というと、諸君(しょくん)自身の内(うち)に見出(みいだ)すべき教え である。その教え は仏陀(ぶっだ)釈尊(しゃくそん)を代表とし、また 私どもにしてみると、特に親鸞聖人を代表とする教え(浄土真宗)である。しかし、その教えは、すでに諸君(しょくん)自身の いのちの内(うち)に、諸君(しょくん)の内(うち)に隠(かく)されている仏法なのである。私は まず最初に 以上のことをはっきりさせて、諸君(しょくん)の注意を喚起(かんき)して おかねばならぬと思う。
仏法とは諸君(しょくん)から仏(ぶつ)を生み出す法(ほう)、諸君(しょくん)を仏(ぶつ)たらしめる法(ほう)である。
そういう仏法が、人間に生まれたことにより、人間としての いのち に、すでに諸君(しょくん)と共にあるのだ と 私は あえて言おう。〈 中略 〉
人間 誰(だれ)も持っている仏法の宝(たから)も、自覚にならぬ以上、誰(だれ)も宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れに終(お)わらざるをえぬ。
そのように人間 誰もが持ちながら、それと気付かずにいた仏法の宝(たから)を、いち早く自己自身の内(うち)に見出(みだ)し、仏(ぶつ)に成(な)る という 自己(じこ)成就(じょうじゅ)を 美事(みごと)に なしとげた人間の歴史、それが仏教の具体的な内容である。
〈 言葉の意味 〉
因(いん)位(に)‐菩薩が、広大な願いをもって、仏(ぶつ)になるための修行をしておられる段階。
↓
「人間の世界」を、底の底の底の・・底まで 掘り下げて、「私たちの救い」を考えてくださっている「阿弥陀様の因位(いんに)の時(とき)」
ー2-
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果位(かい)‐
「因(いん)位(に)」の菩薩の修行が完成し、願いが かなえられて仏(ぶつ)に なられた位(くらい)。
ここでは、阿弥陀様が、「南無阿弥陀仏」という お念仏によって「私たちの救い道」が完成されたこと。
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因(いん)‐物事が起こる「もとになっている事柄(ことがら)」。
果(か)‐因(いん)によって生まれた結果。
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法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の「因(いん)」は、「国王(こくおう)」‐一人の国王(こくおう)が、ある時、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏様の「教え」を聞かれ、深く感動し、「私も世自在王仏(せじざいおうぶつ)のようになりたい!」と、王(おう)の位(くらい)を捨て、国も、財宝や妻子も、すべてを捨てて、出家をし、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者になられた。
(「国王(こくおう)であった」というところに、人生のゴールは、「お金持ちになること」ではない、ということが教えられている。)
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「パドマ幼稚園ホームページ」より
四門出遊(しもんしゅつゆう)。子どもたちに老病死(ろうびょうし)を話す。
二五〇〇年前のインドに生まれた お釈迦様は、若い頃は お城に住む王子様でした。当然 お城での生活は大変豪華(ごうか)なもので、美味(おい)しい食べ物や、きれいなアクセサリーに身を包んだ美女に囲まれて、楽しいイベントには事欠かない贅沢三昧の毎日を過ごしていました。ある時、お城の外の暮らしも どんなものか 見てみたいと思った王子様は、家来(けらい)を連れて、お城の東西南北 四つの門から出かけることにしました。
はじめに東門(ひがしもん)から出かけると、腰は曲がり 足元は おぼつかない、ヨボヨボの老人に出会いました。生まれて はじめて老人を見た王子様は、家来(けらい)に「あれは何者か?」と尋ねました。
ー3-
家来(けらい)は「あれは老人でございます。すべての人間は いずれ老いて、あのようになります」と答えました。王子様は お城に戻って考え込んでしまいました。
また ある時、南門から出かけると、道端に倒れている病人に出会いました。
「あれは何者か?」と尋ねると、家来(けらい)は「あれは病人でございます。すべての人間はいずれ病にかかって、あのようになります」と答えました。次に西門から出かけると、今度は お葬式に遭遇(そうぐう)しました。「あれは何者か?」と尋ねると、家来(けらい)は「あれは死人でございます。すべての人間は いずれ死んで、あのようになります」と答えました。またまた、王子様は深く考え込んでしまいます。
どんな人間も結局最後は、老い、病にかかり、死んでいくのか。だとすると、人間は何のために生まれるのか。贅沢三昧、楽しいことばかりを追いかける人生ではなく、本当の意味で幸せになる には どうすればいいのか。王子様は思い悩み、最後に北門(きたもん)から出かけます。すると、出家した修行者に出会いました。大変 質素(しっそ)な身なり でしたが、凛(りん)とした穏(おだ)やかな表情をされている お姿を見て、王子様は ハッと気づくのです。「人間は皆(みな)、老い、病にかかり、死んでいく と分かっていても、あのように落ち着いて 真(ま)っすぐに生きていくことのできる、確かな心を育(はぐく)むことこそが大事なのだ」。王子様は そう決意して出家の道を求める修行者 となり、のちに悟りをひらかれて、仏教の開祖・お釈迦様となられたのでした。
〈 言葉の意味 〉
世自在王仏(せじざいおうぶつ)‐
智慧と慈悲をそなえた王(おう)のように、世(せ)間(けん)を自由自在(じざい)に救(すく)う仏(ぶつ)。
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、さまざまな仏方(ほとけがた)の国々と、さまざまな迷いの世界を、すべて見通して、「あらゆる人々が救われる道」を見つけよう とされた。
しかし、自分一人の力では、あらゆる仏方(ほとけがた)の悟りの世界を見通すことができない。
ー4-
また、迷える人々は、さまざまな「因(いん)‐種(たね)」を持ち、さまざまな「縁(えん)‐条件」によって、さまざまな「果(か)‐結果」を現(あらわ)し、その すべて を見極(みきわ)めることはとてつもなく困難なことであった。
そこで、世の中のすべて を知り尽くしておられる世自在王仏(せじざいおうぶつ)を、頼りとされた。
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〈 意訳 〉
阿弥陀様が、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者になられる前、一国(いっこく)の国王(こくおう)で あられた時、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の「教え」に、深く感動し、国も、財宝や妻子も、すべてを捨て、出家をし、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者になられたのでした。
そして、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所へ 行かれて・・
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『呼応の教育』信國(のぶくに) 淳(あつし) 著
師を仰(あお)ぐ弟子の心
自己中心的である限り、私どもは絶対に師を仰(あお)ぐことはできません。
師が師であることができるためには、弟子から それが仰(あお)がれるもの と ならなければならぬのですよ。聖人の総序(そうじょ)の文に、「穢(え)を捨(す)て浄(じょう)を欣(ねが)う」者(もの)は、「特に如来の発遣(はっけん)(押(お)し進(すす)めてくださる お働(はたら)き)を仰(あお)ぎ」とあった、あの「仰(あお)ぐ」ということですね。私は思うのですが、本当の師弟関係とは、師を師として仰(あお)ぐその弟子の心によってのみ初めて成り立つことのできるものなんです。そしてそれは なぜか と言うと、師を師として仰(あお)ぐ弟子の心だけが、師の教えをさながらに教え として「こうむる」ことができるのですし、師の教えによって 本当に教えられたもの になることができるからなんですよ。
ー5-
『歎異抄(たんにしょう)』の第二章で親鸞聖人は どう おっしゃっているか。
「親鸞におきては、ただ念仏して、 弥陀に たすけられまいらすべし と、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と、――「よきひとの おおせをかぶりて」と、こう おっしゃっているでしょう。あそこなんだ。あそこに、「よきひとの おおせをかぶりて」というところに、私どもにとっての新しい自己、私どもにとっての真(しん)に浄(じょう)なる自己(私どもが久遠劫来(くおんごうらい) 求めていた、私どもにとっての真実の自己)が生まれる という、希有(けう)最勝(さいしょう)の出来事が起こっているんですよ。
その新しい、その真(しん)に浄(じょう)なる自己が、「たとい、法然聖人に すかされまいらせて、念仏して地獄に おちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからず そうろう」と、そこで言ってるわけなんです。その浄(じょう)なる自己においては、師と弟子とが もはや 決して二つに分かれず、もはや 決して 対立しない、対立を絶(ぜっ)して 本当に 一つになってしまってるんです。
だから あの聖人の お言葉は、もはや 私ども人間の自己中心的な立場においておっしゃっている お言葉なんかではないのです。もし そういう人間の立場でああいうことをおっしゃっている とすれば、それは まったく 師の権威(けんい)への無自覚的(むじかくてき)服従(ふくじゅう) と いわなければならぬことになる。先生の言うことだから、その通(とお)り 信(しん)じます、というだけの話になってしまう。
「よきひとの おおせを かぶりて」と言われるところには、師に対立したり、無自覚的に服従(ふくじゅう)したりする人間は すでに もう おらんのであって、そこには ただ私どもにとっての真(しん)に浄(じょう)なる自己が生まれているのだ ということを、私どもははっきり知っておかなければならんと思う。
↓
ー6-
〈 原文 〉
覩見(とけん)諸仏(しょぶつ)浄土因(いん) 国土(こくど)人天(にんでん)之(し)善悪(ぜんまく)
〈 書き下し文 〉
諸仏(しょぶつ)の浄土の因(いん)、国土(こくど)人天(にんでん)の善悪を覩見(とけん)して、
〈 言葉の意味 〉
諸仏(しょぶつ)の浄土の因(いん)‐
諸仏(しょぶつ)には、必ず 浄土がある。
薬師(やくし)如来‐浄瑠璃(じょうるり)世界、大日(だいにち)如来‐密(みつ)厳(ごん)浄土、毘盧(びる)遮那(しゃな)仏‐蓮華蔵(ぞう)世界 など。
「その浄土に、どのような仏様がおられて、どのような世界が開けているのか」
「どうして、このような世界を開かれたのか」
「仏様の浄土が、どのようにして成り立っているのか」などを、法蔵菩薩は、はっきりと見(み)究(きわ)め、自(みずか)らの修行の内容も深く考えられた。
国土(こくど)‐迷える人々が住んでいる国(「浄土」ではない所)。
人天(にんでん)‐天上(てんじょう)と人間
↓
六道(ろくどう)の迷いの世界
(真宗では、「死後の世界」ではなく、私達の「心の世界」として受け取っている)
「地(じ)獄(ごく)」‐
自分の行(おこな)いの結果として、経験しなければならなくなる耐(た)え難(がた)い苦しみ。誰とも心を通わすことができない孤独。
「餓(が)鬼(き)」‐
満足ができない貪欲(とんよく)のために、無我夢中で貪(むさぼ)り続け、自分自身が苦しまなければならなくなる状態。
「畜(ちく)生(しょう)」‐
道理に対して無知であるために、互いに争い合い、殺し合って、結果として自分が苦しむことになる。
また、考えることを止めて、周りに流されている生き方。
ー7-
「阿修羅(あしゅら)」‐
古代のインドでは戦闘をつかさどる鬼神(きじん)。
自(みずか)らが起こす 怒り・憎しみの心に支配され、かえって自分が傷(きず)つき 苦(くる)しむことになる。
「人(にん)間(げん)」-
人間らしい感情に支配されて、思い悩む。
また、六道(ろくどう)の中で、唯一 仏法の教えに耳を傾けられる時。
「天(てん)上(じょう)」‐自分の思い通りにいき、有頂天になっている状態。
↓
私たちが現在において、入れ替わり立ち替わり、経験しなければならない苦悩の状態を教えたもの。
私達は、いろいろな ご縁の中で、この「六道(ろくどう)の心」をぐるぐる回っている。
「生死(しょうじ)」「生死(しょうじ)流転(るてん)」「流転(るてん)輪廻(りんね)」とも いう。
↓ 仏教の目指すところ
出離(しゅつり)生死(しょうじ)‐
生死(しょうじ)の苦がある現世(げんせ)を離れて、悟りの境地に入ること。
真宗では、仏法に出会い、お念仏を称(とな)え、阿弥陀様を思い起こす時、六道(ろくどう)の心から離(はな)れる と教えている。
↓
『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著
三途(さんず)の黒闇(こくあん)ひらく
難民問題などで広く国際的に活躍しておられる犬養(いぬかい)道子さんは、「国際的にどこへ行っても通用する言葉三つを、幼児のときに おのずと身につけてゆくこと。いま、国際的といいましたが、実は、この三つを知らないと わが家(や)の中でもやってゆけない」といわれ、そしてこの三つを知っていれば、たとえ辺境(へんきょう)の地であっても、最初のドアが開かれる、と おっしゃっています。
ー8-
その三つの言葉とは、「ありがとう」「ごめんなさい」「プリーズ」だと犬養(いぬかい)さんは指摘(してき)されています。
考えてみますと、実はこの三つの言葉を失っている世界が、三悪道(さんあくどう)の世界なのです。
「ごめんなさい」という言葉がない ということは、互(たが)いに自己主張・自己固執(こしゅう)しかなく、互(たが)いに他(た)の存在を無視し、排除(はいじょ)しあうことばかりしている世界です。結局それは弱肉強食という在り方になってしまうのですが、それは、弱者は もちろんのこと、強者もまた最後は孤独に陥(おちい)るほかない地獄の世界であります。
「我(われ)今(いま)帰(き)するところなく、孤独にして同伴(どうはん)無(な)し」という 地獄に堕(だ)したものの嘆(なげ)き は、ほかならぬ、「ごめんなさい」という言葉を失って生きてきた者の行きつく世界であったのです。それに対して、「ありがとう」という言葉がない世界が餓鬼(がき)であります。
今、現(げん)に身(み)にうけている恩徳(おんどく)を知って「ありがとう」といただく心がないとき、人の心は、ちょうど 底(そこ)のない袋(ふくろ) のようなものとなって、どれだけのものをそこに入れても、心(こころ)満(み)たされることがありません。物のあるなしにかかわらず、もっと多く、あれも これも と求めつづけ、不満(ふまん)ばかり募(つの)らせてゆきます。
物がなければもちろん、あればあるで、いよいよ心貧(まず)しくなってゆくのです。
そして第三の言葉「プリーズ」ですが、それは「もし あなたがそれをお望(のぞ)みなら」という意味の言葉です。まわりの人のことを思いやり、自分にできるかぎりのことをしてあげたい と願う心です。その「プリーズ」のない世界は、皆が それぞれ自分のことしか考えない自己中心の世界です。それは快楽(かいらく)を追い求め、快楽(かいらく)を味わうばかりで、自分で努力し、問題を担(にな)い、責任をもつ ということのない者たちの世界です。畜生(ちくしょう)とは傍生(ぼうしょう)という意味の言葉で、他者に もたれかかって要求ばかりしている甘(あま)えん坊(ぼう)のことです。ちょうど甘やかし放題に育てられた子どものように、自分の欲望を抑(おさ)えることを知らず、あたえられたものは貪(むさぼ)り、あたえられなければわめきちらすのです。ですから『涅槃経(ねはんぎょう)』には「『無慙愧(むざんき)(罪を犯したことに、痛みと恥(は)ずかしさを感じる心がない者)』は名づけて「人(にん)」とせず、名づけて『畜生(ちくしょう)』とす」とあります。
ー9-
その三塗(さんず)の世界は、結局 自分しかいない世界であり、「心(しん)塞(ふさが)り意(こころ)閉(と)じ」た黒闇(くろやみ)の世界です。ということは、あくまで自分を良しとしていて、自分の三塗(さんず)的な在り方など少しも見えていないのです。そのために いよいよ黒闇(くろやみ)を深くしていくのです。
ですから、「三途(さんず)の黒闇(こくあん)ひらく」とは、自分の三塗(さんず)以外の何ものでもない すがた がはじめて はっきりと照らし出され、痛まれて、真実の世界を求めずにおれない、浄土に生まれたい と願う心を呼びさまされてゆくことなのです。
修羅(しゅら)・人(にん)・天(てん)
修羅(しゅら)、詳しくは阿修羅とは、神を否定し、神々と闘(たたか)うものを意味します。
神々とは この場合、その世界において犯すべからざる権威(けんい)として立てられているもの といってもよいでしょう。その権威(けんい)を否定し、闘(たたか)う。そのためにいつも全身から血を噴き出すような痛みと、孤独のなかに投げ出されている世界です。
第五に、六道(ろくどう)のなかの ひとつとして、あらためて人道(にんどう)があげられますが、このときは特に不浄(ふじょう)・苦(く)・無常の現実に苦悩(くのう)する者の世界として説かれています。
そして その六道(ろくどう)の最上・最勝(さいしょう)の世界として、天上界(てんじょうかい)は欲が満たされ、快楽きわまりない世界として説かれています。
六道(ろくどう)は一貫(いっかん)して、自我(じが)の欲望(よくぼう)に支配された世界であります。
だから、天上界(てんじょうかい)もまた欲望に支配された世界・欲界(よくかい)に属(ぞく)します。
ー10-
↓
〈 言葉の意味 〉
国土(こくど)人天(にんでん)の善悪‐
迷える人々が住んでいる国の善悪。
良いことをすれば、心に安らぎと喜びが与えられ、満ち足りた気持ちになれる。
悪いことをすれば、心に苦しみが与えられ、罪悪感で悩むことになる。
「それぞれの人」が、「それぞれの行(おこな)い」によって、「それぞれの世界」を持っている。
「花の種」に例えると、人々が、どのような「因(いん)‐種(たね)」を持っていて、それが、どのような「縁(えん)‐条件」よって、芽が出てきて、「果(か)‐花(はな)」を咲かせるのか、を 法蔵菩薩は、はっきりと見(み)究(きわ)められ、「どのような人も救われる世界」とは「どんな世界であるか」探し求められた。
↓
〈 原文 〉
覩見(とけん)諸仏(しょぶつ)浄土因(いん) 国土(こくど)人天(にんでん)之(し)善悪(ぜんまく)
〈 意訳 〉
二百十億もの さまざまな仏方(ほとけがた)の国々の成り立ちと、
迷える人々が住む国々の「因‐原因」「縁‐条件」「果(か)‐結果」の善悪を、
はっきりと見究められ・・
↓
〈 原文 〉
建立(こんりゅう)無上(むじょう)殊勝(しゅしょう)願(がん) 超発(ちょうほつ)希有(けう)大弘誓(だいぐぜい)
〈 書き下し文 〉
無上(むじょう)殊勝(しゅしょう)の願を建立(こんりゅう)し、希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。
〈 言葉の意味 〉
無上(むじょう)‐この上ない。
殊勝(しゅしょう)‐殊(こと)のほか勝(すぐ)れた。
建立(こんりゅう)‐たてること。
希有(けう)‐希(まれ)にしかないこと。
ー11-
大弘誓(だいぐぜい)‐
広大な誓願(せいがん)。菩薩が「一切衆生の救済(きゅうさい)」を願って、必ず 成し遂げよう と定(さだ)めた誓(ちか)い。
超発(ちょうほつ)‐他(ほか)の仏(ぶつ)を超(こ)え勝(すぐ)れている。
↓
「諸仏(しょぶつ)が それぞれの浄土を造(つく)られた お心」とは違い、
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の願いは、
「諸仏(しょぶつ)の浄土に往生できていない すべての人々を救いたい」という願いであった。
↓
〈 意訳 〉
他(ほか)の仏(ぶつ)を はるかに超(こ)え勝(すぐ)れた
「諸仏(しょぶつ)の浄土に往生できていない すべての人々を救いたい」という「広大な お誓(ちか)い」をたてられたのでした。
↓
〈 原文 〉
五劫(ごこう)思惟(しゆい)之(し)摂受(しょうじゅ)
〈 書き下し文 〉
五劫(ごこう)、これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。
〈 言葉の意味 〉
五劫(ごこう)‐
約二十六億年。「一劫(いっこう)」は、二十キロ四方(しほう)の岩山(いわやま)に、天女が百年に一度降りて来て、その羽衣(はごろも)で岩山(いわやま)をなでて、岩山(いわやま)が消える時間。
↓
それほど、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が ご苦労くださり、果てしなく長い時間、考えをめぐらせてくださった。
「それほど、人間は救われない存在なんだ・・」ということを表している。
思惟(しゆい)‐考えめぐらすこと
摂受(しょうじゅ)‐(お念仏を)摂(おさ)め受ける。(お念仏に)行き着く、落ち着く。
↓
ー12-
〈 意訳 〉
そして、五劫(ごこう)という果(は)てしなく長い時間、考えをめぐらせて、ついに、「すべての人々を救うことができるのは、お念仏である」と行き着かれたのでした。
〈 原文 〉
重(じゅう)誓(せい)名声(みょうしょう)聞(もん)十方
〈 書き下し文 〉
重ねて誓(ちか)うらくは、名声(みょうしょう)十方に聞こえん と。
↓
五劫(ごこう)の間、「救われない私たち」を助ける遂(と)げるために、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、考えをめぐらせ、ついに、「私たちを救う お念仏」に行き着かれたのでした。
そのことを世自在王仏(せじざいおうぶつ)に申し上げたところ、
「そなたの「その願い」を、改めて、ここで述べるがよい。」と、世自在王仏(せじざいおうぶつ)はおっしゃられ、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は「念仏往生を中心とした四十八の願い」を申し上げられるのでした。そして、さらに、その四十八願を はっきりさせるために、重ねて「三誓偈(さんせいげ)」を歌われました。その「三誓偈(さんせいげ)」の始めには、「三つの お誓い」が述べられています。
第一に、
「私の願いが、すべて成し遂げられないことがあれば、私は仏(ぶつ)に成(な)りません」という お誓(ちか)いです。
第二に、
「悩み苦しむ あらゆる人々を救えないのであれば、私は仏(ぶつ)に成(な)りません」というお誓(ちか)いです。
第三に、
「私の名声(みょうしょう)(名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」)を、あらゆるところに行き渡らせたい。
もし、私の名が聞こえないことがあるならば、私は仏(ぶつ)に成(な)りません」という お誓いです。
この「第三の お誓い」こそが、四十八願の中心である、ということから、正信偈に「重ねて誓(ちか)うらくは、名声(みょうしょう)十方に聞こえん と」と いわれています。
ー13-
↓ しかし、四十八願の中心は、十八願の「念仏往生の願」では?
第十七願
私が仏(ぶつ)になるとき、すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、皆 私の名をほめたたえるでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
第十八願
私が仏(ぶつ)になるとき、すべての人々が、心から私の言葉を信じ、「私の国に生れたい」と、わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
ただし、五(ご)逆(ぎゃく)の罪を犯したり、仏(ぶつ)の教えを謗(そし)ったりする者だけは、除(のぞ)かれる。
↓ 曽我(そが)量(りょう)深(じん)先生「第十七願と第十八願は、元々は一つであった」
第十八願の「わずか十回でも念仏を称えたならば、必ず、私の国に生れさせよう。」
という「念仏往生の願い」を、
第十七願の「すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、皆 私の名をほめたたえる」ことで、
「南無阿弥陀仏をあらゆる所に行き渡らせて、すべての人々を救いたい」というのが、第十七願と第十八願の お心 となるので、
「私の名声(みょうしょう)(名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」)を、あらゆるところに行き渡らせたい。
もし、私の名が聞こえないことがあるならば、私は仏(ぶつ)に成(な)りません」
という「第三の お誓い」こそが、四十八願の中心となる。
↓
〈 意訳 〉
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、世自在王仏(せじざいおうぶつ)に、その「念仏往生を中心とした四十八の願い」をお説きになられると、重ねて、「この南無阿弥陀仏の お念仏を、すべての人々に伝える!」と、誓われたのでした。
ー14-
まとめ
〈 原文 〉
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)因(いん)位(に)時(じ) 在(ざい)世自在王仏(せじざいおうぶつ)所(しょ) 覩見(とけん)諸仏(しょぶつ)浄土因(いん) 国土(こくど)人天(にんでん)之(し)善悪(ぜんまく) 建立(こんりゅう)無上(むじょう)殊勝(しゅしょう)願(がん) 超発(ちょうほつ)希有(けう)大弘誓(だいぐぜい) 五劫(ごこう)思惟(しゆい)之(し)摂受(しょうじゅ) 重(じゅう)誓(せい)名声(みょうしょう)聞(もん)十方
〈 書き下し文 〉
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の因位(いんに)の時(とき)、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所(みもと)に ましまして、
諸仏(しょぶつ)の浄土の因、国土(こくど)人天(にんでん)の善悪を覩見(とけん)して、
無上(むじょう)殊勝(しゅしょう)の願を建立(こんりゅう)し、希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。
五劫(ごこう)、これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。
重ねて誓(ちか)うらくは、名声(みょうしょう)十方に聞こえん と。
〈 意訳 〉
阿弥陀様が、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者になられる前、一国(いっこく)の国王(こくおう)で あられた時、
世自在王仏(せじざいおうぶつ)の「教え」に、深く感動し、国も、財宝や妻子も、すべてを捨て、
出家をし、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者になられたのでした。
そして、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所へ 行かれて、
二百十億もの さまざまな仏方(ほとけがた)の国々の成り立ちと、
迷える人々が住む国々の「因‐原因」「縁‐条件」「果(か)‐結果」の善悪を、
はっきりと見(み)究(きわ)められ、他(ほか)の仏(ぶつ)を はるかに超(こ)え勝(すぐ)れた
「諸仏(しょぶつ)の浄土に往生できていない すべての人々を救いたい」という「広大な お誓(ちか)いをたてられたのでした。
そして、五劫(ごこう)という果(は)てしなく長い時間、考えをめぐらせて、ついに、
「すべての人々を救うことができるのは、お念仏である」と行き着かれたのでした。
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、世自在王仏(せじざいおうぶつ)に、その「念仏往生を中心とした四十八の願い」を
お説きになられると、重ねて、
「この南無阿弥陀仏の お念仏を、すべての人々に伝える!」と、誓われたのでした。
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