6 光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし 光沢かぶらぬものぞなき 難思議を帰命せよ / 清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繋も のぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ / 仏光照曜最大一 光炎王仏と なづけたり 三途の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ

↑ 法話の練習した音源です(約43分)。
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。

『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


前々回から、

〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう) 
清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

の お心を、ご和讃からいただいております。


親阿弥陀様が放(はな)っている 十二種類の光について

〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう) 
清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

〈 書き下し文 〉
あまねく、無量・無辺光(むへんこう)・無碍(むげ)、無対(むたい)・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)・智慧光、
不断(ふだん)、難思(なんし)・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放って、塵刹(じんせつ)を照(て)らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

〈 言葉の意味 〉
塵刹(じんせつ)を照(て)らす‐どんな細かい所でも、どこでも照らしている。
群生(ぐんじょう)‐すべての生き物。多くの衆生。 光照(こうしょう)‐仏(ぶつ)の光明が あまねく照らすこと。

〈 意訳 〉
阿弥陀様は、十二種類の光を放(はな)って、どんなに細かい所でも、
無数の世界を どこまで でも、照らし尽(つく)し、
一切の衆生は、この光(ひかり)の輝(かがや)き を 常(つね)に 身に 受けているのです。

 ↓
十二種類の光の分類
・無量光・無辺光・無碍光(むげこう) は、特に 光明の成り立ち を表現する。
・無対光(むたいこう)・炎王光(えんおうこう)(光炎王(こうえんのう)) は、特に 光明の様子 を表現する。
・清浄光(しょうじょうこう)・歓喜光(かんぎこう)・智慧光 は、特に 光明の働き を表現する。
・不断光(ふだんこう) は、特に 絶(た)えることがない光明の様子 を表現する。
・難思光(なんしこう)・無称光(むしょうこう) は、特に 人間には理解できない光明の様子 を表現する。
・超日月光(ちょうにちがっこう) は、譬(たと)え によって、光明全体を表現する。

 ↓

ー1-


《 無碍光(むげこう) 》を表現している ご和讃
光(こう)雲(うん)無碍(むげ)如(にょ)虚空(こくう) 一切の有碍(うげ)にさわりなし
光沢(こうたく)かぶらぬものぞなき 難思議(なんしぎ)を帰命せよ 

〈 言葉の意味 〉
無碍(むげ)‐衆生の煩悩悪業(あくごう)に妨げられない。
その徳を 広大な空(虚空(こくう)の如(ごと)し)に喩(たと)える。
有碍(うげ)‐数多くの 障(さわ)り がある。
光沢(こうたく)‐「沢(たく)」は うるおい。「雲」に うるおい が あるので、光雲(こううん)の縁語(えんご)となる。
難思議(なんしぎ)‐不思議と同じ。心(こころ)が及(およ)ばないので 難(なん) 思(し)議(ぎ) という。

〈 意訳 〉
阿弥陀様の光明は、何ものにも妨げられることなく、
すべてのもの に 恵み を 与えてくださっている。
この私達の心では及ぶことのできない阿弥陀様の光 を 頼り として、
本来の命の姿 に 戻るべきである。

〈 ご和讃 の お心 〉『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著 
  光雲(こううん)を感じとる心

 見上げるかぎり大空全体を覆いつくしている雲、その雲が朝日を受けて、光(ひか)り輝(かがや)いている。かつて、安田理深(りじん)先生が、浄土の二十九種類の荘厳(しょうごん)(おごそかに飾られた姿)について、次のような美(うつく)しい譬(たと)えをもって お話してくださったことがあります。
  初めは「観(かん)彼(ぴ)世(せ)界(かい)相(そう)」というわけで、一つの星を見たのである。
  ――その星を見ていると、その星の向こうに空が深まっていく。
  そして星の向こうに次第に遠い星が見えてくる。

ー2-


  初めは 空に またたいている一つの星 であったが、次第に内観(ないかん)の眼(まなこ)が
  開けてくると空は星に充満(じゅうまん)している。
  満天(まんてん)ことごとく星である というのが 二十九種(しゅ)荘厳(しょうごん)功徳である。
 光雲(こううん)という言葉には、まさに そのように、満天(まんてん)ことごとく星であったことに気づいた人の 驚(おどろ)き と 喜び に通(つう)ずる深い感動 が こめられているのを感じるのです。雲は 無数の水滴(すいてき)の集まり です。その水滴(すいてき)の ひとつひとつが光を受けキラキラ輝き、全体が光雲(こううん)となって、見上げている人を包んでいる。同じように、無碍(むげ)の光明を身に受け、その身(み)を輝(かがや)かしている人、よき人一人に出会ってみれば、ここにも あそこにも、今まで まったく気づくことのなかった よき人々のましましたことに驚(おどろ)く。それはやがて、満天(まんてん)の光雲(こううん)に包まれて立っていた自分自身への歓喜(かんぎ)となってゆく。
 光雲(こううん)、こういう言葉を感じとる心は、長い間、闇夜(やみよ)の深さを味わいつくしてきた人なのでしょう。そして同じように尽(じん)十方無碍光(むげこう)という言葉に感動する心もまた、自分自身を、光から もっとも遠く距(へだ)たり、光とは無縁なもの としての自分 を思い知った人なのでしょう。我こそは光の真ん中に立ちうるもの と自負(じふ)している者にとって、「尽(じん)十方無碍(むげ)」などということには何の感動もないのでしょう。


  空(そら)のごとく、広大な浄土

 だいたい、その世界(浄土)が どれほど広大であるといっても、そこに誰も生まれてこない ということなら、そんな広さなど何の意味もありません。といって、たとえ わずかの人でも、その国(浄土)に生まれてくる人があれば、「如(にょ)虚空(こくう)(空(そら)のごとく)」とは いえないはずです。たとえ、その国を見渡(みわた)したとき 人がいる とも見えないほどであっても、やはり事実としては、その国に生まれ出た人の分だけその世界は狭くなっている道理だからです。

ー3-


しかも阿弥陀如来は、一切の衆生をことごとく摂取(せっしゅ)して捨てじ と誓(ちか)われているのです。十方三世の衆生を迎え入れながら、しかも結果として「究竟(くきょう)如(にょ)虚空(こくう)広大無辺際(むへんざい)(浄土は、空のごとく、広大で、境界線のようなもの は無く、なにものにもさえぎられない)」などと いえるのでしょうか。
 考えてみますと、ただ ひとつ そういい得(え)るときがあります。それは、その国に生まれた人が一人ひとり、その国を開いてゆく人となってゆくときです。もし人々が その浄土に生まれて、やれ嬉しや と浄土の お客さんになって座りこんでいるのなら、一人より二人、二人より十人、百人と、その人数が増えてゆく分だけ、その国は狭くなってゆくばかりです。
 しかし、もし一人・二人・十人・百人とその国に生まれた人が、それぞれに浄土建立(こんりゅう)の事業に参加し、浄土を開いてゆくもの と されるならば、そのときには浄土に生まれた人の その数だけ 浄土は広くなってゆくわけです。だから そのときには、どれだけの人が その国に生まれよう と「如(にょ)虚空(こくう)(空(そら)のごとく)」ということになります。つまり一人ひとりが、その浄土を建立された願心(がんしん)に うながされて、その願(がん)に生きる身と されてゆくのです。浄土に生まれん と願って(願生(がんしょう))、浄土に生まれ得(え)たとき(得生(とくしょう))、その人は浄土の願(がん)に生きる(願生(がんしょう))身 とされるのです。
 そして今、この和讃の「光(こう)雲(うん)無碍(むげ)如(にょ)虚空(こくう)」ということも、まったく同じ意味なのだと思います。「一切の有碍(うげ)にさわりなし」とありますように、有碍(うげ)がない というのではありません。ただ その有碍(うげ)の一切が尽(じん)十方無碍光(むげこう)の徳(とく)をあらわすのに、すこしもさわりに ならない どころか、かえって無碍光(むげこう)の徳を
表現するもの と されてゆくということなのでしょう。

ー4-


  難思議(なんしぎ)

 光(ひかり)と如来とは ひとつなのです。つまり、如来というものが どこかにおられて、その如来が ときどき ピカーッと光を放っておられる というのではないのです。光としての はたらき そのもの を 如来 と仰(あお)いでおられるのです。しかも その光の
はたらき は、光に照らし出されたものが、そのものの色を輝(かがや)かすことによって はじめて知りうるものでありました。その光に照らし出されたもの のほかに、光如来(こうにょらい)といっても具体的ではありません。
 ところで今、その光如来(こうにょらい)としての阿弥陀如来を「難思議(なんしぎ)」と呼ばれています。「難思議(なんしぎ)」とは文字どおり、思議(しぎ)し難(がた)い、思いはかることも言葉をもってあげつらうこともできない、不可思議ということです。しかし、くりかえし申しますように、どこかに おられる如来を、まことに思議(しぎ)し難(がた)い方(かた)だ といっているのではありません。その光(ひかり)を被(こうむ)ったものが、その我が身の事実を難思議(なんしぎ)と感嘆(かんたん)しているのです。つまり、難思議(なんしぎ)なる如来とは、すべての人々の上に難思議(なんしぎ)な体験を開く如来ということであります。
 その難思議(なんしぎ)な体験というのも、決して世にいう奇跡的なことではありません。
この私が「光沢(こうたく)」・かぎりなく いのちをうるおす光明 を身に受けている ということの 驚(おどろ)き です。どう考えても光沢(こうたく)を被(こうむ)るはずのない この私 が、今(いま)現(げん)に光沢(こうたく)を被(こうむ)っている ということです。さらに申しますと、いよいよ 光沢(こうたく)を被(こうむ)るはずのない我(わ)が身(み) ということが思い知らされつづけ、同時に その我が身が今(いま)現(げん)に光沢(こうたく)を被(こうむ)っている事実に ふれつづけてゆく 歓喜(かんぎ) であります。
 譬(たと)えて申しますと、それは「ありがとう」という心です。何かをいただいたり、親切にされたときに、ありがとう といいます。その ありがとう という言葉は、もともと あるはずがないことだ という自覚と、しかもそのことが今(いま)現(げん)に我(わ)が身(み)の上(うえ)にある という 歓(よろこ)び とが ひとつに うなずかれている言葉であります。

ー5-


 実際、こういうことをしてもらう資格が自分にはある、こういうものをもらって当然だ と思っている人には、ありがとう という言葉はありません。それどころか、もっと速く、もっと多く と注文をつけさえするかもしれません。こんなに親切にしてもらう資格など まったくない この私 が、にもかかわらずこんなにも親切にしてもらっている と思うとき、自然に心から「ありがとう」という言葉が出るのでしょう。難思議(なんしぎ)というのも、まさに そのような心を開く名なのであります。


《 無対光(むたいこう)(清浄光(しょうじょうこう))》を表現している ご和讃
清浄(しょうじょう)光明ならびなし 遇斯光(ぐしこう)のゆえなれば
一切の業繋(ごうけ)も のぞこりぬ 畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
遇斯光(ぐしこう)‐この光明に遇う。光となって遇(あ)いに来てくださる阿弥陀様 のこと。
業繋(ごうけ)‐罪業(ざいごう)(自分が作った悪い行(おこな)い)に束縛(そくばく)されること。
畢竟依(ひっきょうえ)‐究極の帰依処(きえしょ)。最後の依(よ)りどころ。

〈 意訳 〉
貪欲(とんよく)の罪を消し去る 清らか で 透(す)き通(とお)る阿弥陀様の光明は、他(ほか)に並ぶものがなく、
この光明に出会えた ならば、すべての束縛(そくばく)から離れることができる。
この 究極の依(よ)り処(どころ) となる阿弥陀様の光(ひかり)を頼りとして、本来の命の姿に戻るべきである。

ー6-


〈 ご和讃 の お心 〉『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著 
  清浄光(しょうじょうこう)

 親鸞聖人は その「清浄(しょうじょう)」の文字の左側に、「澄(す)み きよし、貪欲(とんよく)の罪を消さんために、清浄光(しょうじょうこう)明(みょう)というなり」と書きそえて おられます。人をして「三垢(さんく)(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))消滅(しょうめつ)し、身意(しんい)柔軟(にゅうなん)」ならしめる はたらき を讃(たた)えられた名(な)であります。
 「清浄(しょうじょう)であれ」、それが仏教の教えの根本であります。たとえば「七仏通誠(しちぶつつうかい)の偈(げ)」というのがあります。仏(ぶつ)として尊(とうと)ばれた方々が皆(みな)すべて、ひとしく說かれたこと、仏教とは どういう教えなのかを一口(ひとくち)に うたったもの として尊(とうと)ばれている偈文(げもん)であります。それは「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是(ぜ)諸(しょ)仏教」(もろもろの悪(あく)を作(な)すことなかれ。もろもろの善を奉(つと)め行(おこな)え。自(みずか)ら その意(い)を浄(きよ)くせよ。これ諸仏(しょぶつ)の教えなり)という、わずか四句の偈文(げもん)です。〈 中略 〉
 たとえ悪いことをしてしまったとしても、申し訳ないことをした と、あらためて教えに聞き直してゆくことがあるならば、我(われ)・他者(ひと)ともに その心が澄(す)み、清(きよ)められることもありますが、もし 我(われ)こそは と、自分の正しさをいいつのり、我(われ)に正義あり と主張し 固執(こしつ)するならば、努力すれば するほど他者との間(あいだ)に壁(かべ)をつくり、他(た)を批判(ひはん)し、排除(はいじょ)することにも なってゆきます。
 実際、人間は自(みずか)らに正義の旗(はた)をひるがえしながら、その正義の名においてどれほど残虐(ざんぎゃく)なことを行ってきたか、正義の意識あればこそ、想像を絶(ぜっ)するような非道(ひどう)をあえて犯(おか)しえたのです。

ー7-


  畢竟依(ひっきょうえ)

 清浄光(しょうじょうこう)明(みょう)に値(あ)うことによって、一切の業繫(ごうけ)も のぞこりぬ と うたわれています。その「業繫(ごうけ)」の文字に宗祖は、「罪の縄(なわ)に しばらるるなり」と左訓(さくん)されています。罪業(ざいごう)が除(のぞ)かれるのではなく、犯(おか)した罪業(ざいごう)に しばられている思いが除(のぞ)かれるのです。
 たとえば、父王(ふおう)を殺して王位(おうい)についた阿闍世(あじゃせ)は、全身に膿瘡(うみかさ)ができるまで、その罪を悔(く)い、畏(おそ)れます。そして、罪のために今すでに このような報(むく)いを受けている。さらに無間(むけん)の地獄に堕(お)ちる日も遠くないに ちがいな いと深く悩(なや)み悶(もだ)えます。そのために何も手につかなくなる、それが業繫(ごうけ)のすがた です。
 その阿闍世(あじゃせ)が、大臣耆婆(ぎば)に ともなわれて仏陀(ぶっだ)の御許(みもと)にゆきます。そのとき仏陀(ぶっだ)は、阿闍世(あじゃせ)のために月愛三昧(がつあいさんまい)に入(は)られ、清(きよ)らかで涼(すず)しげな光明をもって阿闍世(あじゃせ)を
包(つつ)まれます。と、たちまちに、阿闍世(あじゃせ)の全身をおおっていた膿瘡(うみかさ)が癒(い)えた と説かれています。
 月愛三昧(がつあいさんまい)――月光(げっこう)は 愛の はたらき として譬(たと)えられています。月の光は闇を破るものではありません。逆に、闇を包んで輝くのです。冬の月夜(つきよ)を想ってください。月光(げっこう)は まさに〈闇いよいよ深くして、光いよいよ強し〉という姿で輝いています。『涅槃経(ねはんぎょう)』には その月愛三昧(がつあいさんまい)を次のように説いています。
 第一には、よく一切の青蓮華(しょうれんげ)を開かしめる、と。それは、ただただ世間をはばかるような心で、自分の罪業(ざいごう)に とらわれ、苦しんでいたものに、人間としての魂の目覚め が開かれてくることを譬(たと)えるのです。
 第二には、闇夜(やみよ)を照らして、路(みち)ゆく すべての人を歓喜(かんぎ)せしめる。つまり、人間として悩み、道を求めて彷徨(さまよ)うている人々に、まことの道を照らし、歩ましめるのです。

ー8-


 第三には、一切衆生が愛楽(あいぎょう)せずにおれない甘露味(かんろみ)のごときものである とあります。蓬茨祖運(ほうしそうん)先生は、「これ まさに、如来の慈心(じしん)そのものに触れて歓喜(かんぎ)愛楽(あいぎょう)すること月光(げっこう)を浴びて立つがごときをあらわす」と表現しておられます。
 そもそも、月光(げっこう)ということには、自己を無(む)にしたものの、清浄光(しょうじょうこう)明(みょう)の輝きがあります。わが光(ひかり) という思いが まったくなく、ただ ひたすら陽(ひ)の光を身に受けている、その姿が あたりをおのずと照らしているのです。
 つまり、月愛三昧(がつあいさんまい)というところに、仏陀(ぶっだ)が阿闍世(あじゃせ)の苦悩を受けとめておられる ということがあるのでしょう。私たちは、たとえ自分で自分の犯(あやま)ちを意識していても、それを他(ほか)から頭ごなしに叱責(しっせき)され、批判されると、なかなか素直に頭を下げることができないものです。しかし、本当に自分の苦悩を 我(わ)がこと として受けとめ、ともに苦悩し、ともに地獄にも堕(お)ちてゆこう としてくださる人 に遇えば、今まで罪の意識に しばられ、絶望的な思いに沈みこんでいた心が、おのずと開かれるものです。心が開かれる ということは、何事も なかったようにケロッとしてしまう ということではありません。今まで罪を本当に 我がこと として ひきうけられない心が、我が身をしばっていたのです。
 つまり、「業繫(ごうけ)も のぞこりぬ」とは、実(じつ)は自(みずか)らの罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)の すがた に頭が下がった ということです。同時に、自(みずか)らの罪業(ざいごう)として あきらかに照らし出してくださった光明に、いよいよ目覚めてゆく すがた であります。わが闇(やみ) と法(ほう)の光(ひかり) を同時に知らされた歓(よろこ)び の すがた です。
 その光明の はたらき において帰依(きえ)せしめられる、いかなる罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)のもの も、ひとしく「如来の慈(いつく)しみの心(こころ)に触(ふ)れて よろこび好(この)むこと 月光(げっこう)を浴びて立つがごとき」思いに満たされる というところに、その仏徳(ぶっとく)が「畢竟依(ひっきょうえ)」と讃嘆(さんだん)されるのです。いかなるものをも包(つつ)み照(て)らして洩(も)らすことがない、そのすがたを畢竟(ひっきょう)
――罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)の我(われ)らの最後の依(よ)り処(どころ)と、帰命せしめられるのです。

ー9-


《 炎王光(えんおうこう)(光炎王(こうえんのう)) 》の ご和讃
仏光(ぶっこう)照曜(しょうよう)最大一(いち) 光炎王仏(こうえんのうぶつ)と なづけたり
三途(さんず)の黒闇(こくあん)ひらくなり 大応供(だいおうぐ)を帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
照曜(しょうよう)‐照らし、輝くこと。
三塗(さんず)‐火(か)塗(ず)・刀(とう)塗(ず)・血(けち)塗(ず)(地獄・餓鬼・畜生)のこと。
大応供(だいおうぐ)‐生きとし生けるもの に 心から敬(うやま)われる仏(ぶつ)のこと。

〈 意訳 〉
この仏(ぶつ)の光(ひかり)の輝(かがや)きは、第一に勝(すぐ)れているので、光炎王仏(こうえんのうぶつ)と名づけられる。
この仏(ぶつ)の光は、他(ほか)の諸仏(しょぶつ)の光(ひかり)が届(とど)かない「地獄・餓鬼・畜生」の暗(くら)い闇(やみ)を、
明るく照らしてくださっている。
この本当に敬(うやま)うべき阿弥陀様を頼(たよ)りとして、本来の命の姿に戻るべきである。

 ↓
阿弥陀様の光明だけが、地獄・餓鬼・畜生にまで光が届く。
他(ほか)の諸仏(しょぶつ)の光は、届かない。

〈 ご和讃 の お心 〉『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著 
  仏(ぶつ)の光(ひかり)に ふれる

 生活の現実は、確かに 弱肉強食のすがた をしています。しかし、そのことに満足できないものを、弱いものが敗れてゆくのは仕方ないことだ と見過(みす)ごしてゆくことを許さないものを、私たちが かかえているということも否定できない事実なのです。癌(がん)と闘いながら人生を生き切られた千葉敦子さんが、「本当に豊かな社会とは、死ぬときに豊かな心で死ねる社会だ」といっておられますが、そういう豊かさを求める心を賜(たまわ)っているという事実があるのです。

ー10-


 だからこそ私たちに、社会の在り方、人間の生き方に問いをもち、悲しみ 悩み、罪の意識をもつ ということが起こっても くるのです。また、だからこそ教法(きょうぼう)にふれるとき、今まで あたりまえのこと、しかたないこと としてきた生活の現実が、人間として深く悲痛(ひつう)すべきもの として自覚されてくる ということが起こってもくるのです。


  三途(さんず)の黒闇(こくあん)ひらく

 難民問題などで広く国際的に活躍しておられる犬養(いぬかい)道子さんは、「国際的にどこへ行っても通用する言葉三つを、幼児のときに おのずと身につけてゆくこと。いま、国際的といいましたが、実は、この三つを知らないと わが家(や)の中でもやってゆけない」といわれ、そしてこの三つを知っていれば、たとえ辺境(へんきょう)の地であっても、最初のドアが開かれる、と おっしゃっています。
 その三つの言葉とは、「ありがとう」「ごめんなさい」「プリーズ」だと犬養(いぬかい)さんは指摘(してき)されています。
 考えてみますと、実はこの三つの言葉を失っている世界が、三悪道(さんあくどう)の世界なのです。「ごめんなさい」という言葉がない ということは、互(たが)いに自己主張・自己固執(こしゅう)しかなく、互(たが)いに他(た)の存在を無視し、排除(はいじょ)しあうことばかりしている世界です。結局それは弱肉強食という在り方になってしまうのですが、それは、弱者は もちろんのこと、強者もまた最後は孤独に陥(おちい)るほかない地獄の世界であります。「我(われ)今(いま)帰(き)するところなく、孤独にして同伴(どうはん)無(な)し」という 地獄に堕(だ)したものの嘆(なげ)き は、ほかならぬ、「ごめんなさい」という言葉を失って生きてきた者の行きつく世界であったのです。それに対して、「ありがとう」という言葉がない世界が餓鬼(がき)であります。

ー11-


今、現(げん)に身(み)にうけている恩徳(おんどく)を知って「ありがとう」といただく心がないとき、人の心は、ちょうど 底(そこ)のない袋(ふくろ) のようなものとなって、どれだけのものをそこに入れても、心(こころ)満(み)たされることがありません。物のあるなしにかかわらず、もっと多く、あれも これも と求めつづけ、不満(ふまん)ばかり募(つの)らせてゆきます。物がなければもちろん、あればあるで、いよいよ心貧(まず)しくなってゆくのです。
そして第三の言葉「プリーズ」ですが、それは「もし あなたがそれをお望(のぞ)みなら」という意味の言葉です。まわりの人のことを思いやり、自分にできるかぎりのことをしてあげたい と願う心です。その「プリーズ」のない世界は、皆が それぞれ自分のことしか考えない自己中心の世界です。それは快楽(かいらく)を追い求め、快楽(かいらく)を味わうばかりで、自分で努力し、問題を担(にな)い、責任をもつ ということのない者たちの世界です。
畜生とは傍生(ぼうしょう)という意味の言葉で、他者に もたれかかって要求ばかりしている甘(あま)えん坊(ぼう)のことです。ちょうど甘やかし放題に育てられた子どものように、自分の欲望を抑(おさ)えることを知らず、あたえられたものは貪(むさぼ)り、あたえられなければわめきちらすのです。ですから『涅槃経(ねはんぎょう)』には「『無慙愧(むざんき)(罪を犯したことに、痛みと恥ずかしさを感じる心がない者)』は名づけて「人(にん)」とせず、名づけて『畜生』とす」とあります。
 その三塗(さんず)の世界は、結局自分しかいない世界であり、「心(しん)塞(ふさが)り意(こころ)閉(と)じ」た黒闇(くろやみ)の世界です。ということは、あくまで自分を良しとしていて、自分の三塗(さんず)的な在り方など少しも見えていないのです。そのために いよいよ黒闇(くろやみ)を深くしていくのです。
 ですから、「三途(さんず)の黒闇(こくあん)ひらく」とは、自分の三塗(さんず)以外の何ものでもない すがた がはじめて はっきりと照らし出され、痛まれて、真実の世界を求めずにおれない、浄土に生まれたい と願う心を呼びさまされてゆくことなのです。

ー12-


  誰大応供(だいおうぐ)を帰命せよ

 ふだん私たちは、自分の利害ばかりを問題にし、ソロバンをはじいて暮らしています。そして、そこに くりひろげられる生活のすがた が三途(さんず)の黒闇(こくあん)であったのです。そこでは、私たちの いのち は 欲(よく)に覆(おお)われてしまって、閉じられ、かたくなに なってゆくばかりです。
 しかし実は、本当に自分の人生を捧(ささ)げ切(き)っても悔(く)いのない、そして そのことが我(われ) ひと ともに そのいのちを、人生を輝(かがや)かし、明るく豊かにすることになる、そういうものを人間は心の底で願い求めているものなのです。
人生の慶(よろこ)びは、何かを我(わ)が身(み)にとりこむ すがた においては ついに見出せないものです。かえって、そのことのためなら喜んで我(わ)が身(み)を投げ出さずにはおれない という、そういうものとの出遇いにおいて賜(たまわ)るものなのです。供養(くよう)せずにおれない自分に出遇(であ)う、それは「自分が可愛(かわい)い ただ それだけのことで 生きていた」ものにとって、まったく新しい自己の誕生を意味するものであります。

ー13-