下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』
第4回から、
〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう)
清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)
の お心を、ご和讃からいただいております。
親阿弥陀様が放(はな)っている 十二種類の光について
〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう)
清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)
〈 書き下し文 〉
あまねく、無量・無辺光(むへんこう)・無碍(むげ)、無対(むたい)・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)・智慧光、
不断(ふだん)、難思(なんし)・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放って、塵刹(じんせつ)を照(て)らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。
〈 言葉の意味 〉
塵刹(じんせつ)を照(て)らす‐どんな細かい所でも、どこでも照らしている。
群生(ぐんじょう)‐すべての生き物。多くの衆生。 光照(こうしょう)‐仏(ぶつ)の光明が あまねく照らすこと。
〈 意訳 〉
阿弥陀様は、十二種類の光を放(はな)って、どんなに細かい所でも、
無数の世界を どこまで でも、照らし尽(つく)し、
一切の衆生は、この光(ひかり)の輝(かがや)き を 常(つね)に 身に 受けているのです。
↓
十二種類の光の分類
・無量光・無辺光・無碍光(むげこう) は、特に 光明の成り立ち を表現する。
・無対光(むたいこう)・炎王光(えんおうこう)(光炎王(こうえんのう)) は、特に 光明の様子 を表現する。
・清浄光(しょうじょうこう)・歓喜光(かんぎこう)・智慧光 は、特に 光明の働き を表現する。
・不断光(ふだんこう) は、特に 絶(た)えることがない光明の様子 を表現する。
・難思光(なんしこう)・無称光(むしょうこう) は、特に 人間には理解できない光明の様子 を表現する。
・超日月光(ちょうにちがっこう) は、譬(たと)え によって、光明全体を表現する。
↓
ー1-
《 無対光(むたいこう) 炎王光(えんおうこう)(智慧光(ちえこう)) 》を表現している ご和讃
無明の闇(あん)を破(は)するゆえ 智慧光仏(ちえこうぶつ)と なづけたり
(一切の諸仏(しょぶつ)の智慧を集めたまえるゆえに智慧光(ちえこう)と もうす
一切諸仏(しょぶつ)の仏(ぶつ)に なりたもうことは この阿弥陀の智慧にて なりたもうなり)
一切諸仏(しょぶつ)三乗衆(さんじょうしゅう) ともに嘆誉(たんよ)したまえり
〈 言葉の意味 〉
無明 ‐ 智慧の明るさ が無い 煩悩業障(ごっしょう)。
今は、特に疑惑(ぎわく)(真偽(しんぎ)や正(せい)・不正(ふせい)についての疑(うたが)い)を指す。
智慧光仏(ちえこうぶつ) ‐ 曇(くも)りなき智慧から現れる 光明の仏様
三乗衆(さんじょうしゅう) ‐
声聞(しょうもん)(仏(ぶつ)の教えを聞いて悟る人)・縁覚(えんがく)(独(ひと)りで覚(さと)る人)・菩薩 (自利(じり)利他(りた)の大道(だいどう)(自(みずか)らの悟りのために努力し、他(ほか)の人の救済のために尽くす)を歩む人)、いずれも「仏(ぶつ)の悟り」を 目指して精進(しょうじん)している人
嘆誉(たんよ)‐ほめたたえる
〈 意訳 〉
智慧の明るさ の無い人々の「疑いの暗闇(くらやみ)」を破るので、智慧光仏(ちえこうぶつ)と呼ばれるのです。
また、智慧光仏(ちえこうぶつ)とは「一切の諸仏(しょぶつ)の智慧を集めた」という お名前でも あり、
一切の諸仏(しょぶつ)の智慧を集めたことによって、阿弥陀様は「すべての諸仏(しょぶつ)の師」と なられたのです。
この阿弥陀様を、諸仏(しょぶつ)や三乗衆(さんじょうしゅう)達が、共に ほめたたえておられます。
↓
「無対光(むたいこう)」‐菩薩方(がた)とは比べることのできないほどの智慧の光である。
「炎王光(えんおうこう)」‐阿弥陀様の光の輝き は いかなる仏様よりも優れている。
ー2-
↓
「蓮如さんの お文様 二の八 本師本仏(ほんしほんぶつ)」《 現代意訳 》
十悪(じゅうあく)・五逆(ごぎゃく)の罪人(ざいにん)も、五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人(にょにん)(当時 女性は浄土に往生できない と言われていた)も、みんな むざむざと十方(じっぽう)三世(さんぜ)の諸仏(しょぶつ)の悲願(ひがん)に もれて、すてられてしまった私たちのような凡夫(ぼんぶ)である。
そこで、弥陀如来と申すのは、三世(さんぜ)十方(じっぽう)の諸仏(しょぶつ)の本師(ほんし)本仏(ほんぶつ)である。久遠(くおん)実成(じつじょう)の古仏(こぶつ)として、現在のような諸仏(しょぶつ)に見はなされてしまった末代(まつだい)不善(ふぜん)の凡夫(ぼんぶ)、五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人(にょにん)を、弥陀のみが、我ひとり たすけん という超世(ちょうせ)の大願(だいがん)をたてて、私たち すべての衆生を 平等に たすけよう と誓(ちか)われて、この上のない誓願(せいがん)をおこし、すでに阿弥陀仏と おなりになったのである。〈中略〉
《 原文 》
それ十悪(じゅうあく)・五逆(ごぎゃく)の罪人(ざいにん)も●五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人(にょにん)も●むなしく みな十方(じっぽう)三世(さんぜ)の諸仏(しょぶつ)の悲願(ひがん)に もれて●すてはてられたる われらごときの凡夫(ぼんぶ)なり●しかればここに弥陀如来と もうすは●三世(さんぜ)十方(じっぽう)の諸仏(しょぶつ)の本師(ほんし)本仏(ほんぶつ)なれば、久遠(くおん)実成(じつじょう)の古仏(こぶつ)として●いまのごときの、諸仏(しょぶつ)に すてられたる●末代(まつだい)不善(ふぜん)の凡夫(ぼんぶ)●五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人(にょにん)をば、弥陀に かぎりて●われ ひとり たすけん という超世(ちょうせ)の大願(だいがん)をおこして●われら一切衆生を 平等に すくわん と ちかいたまいて●無上(むじょう)の誓願(せいがん)をおこして●すでに阿弥陀仏となりましましけり●〈中略〉
《 清浄光(しょうじょうこう) 歓喜光(かんぎこう) 智慧光(ちえこう) 》
三毒(さんどく)の煩悩(貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち))に対して、現れる三つの光
「貪欲(とんよく)」→(に対して)「清浄光(しょうじょうこう)」
「瞋恚(しんに)」→(に対して)「歓喜光(かんぎこう)」
「愚痴(ぐち)」→(に対して)「智慧光(ちえこう)」
↓
ー3-
「仏教に知らされて 〜三毒(さんどく)の煩悩〜」阿部 信人(のぶと)
(真宗⼤⾕派 ⻘少幼年センターホームページより)
【 私の在(あ)りよう 】
「これで十分」ということがない。これが「貪欲(とんよく)」です。ウルグアイの元大統領で「世界一貧しい大統領」と呼ばれたホセ・ムヒカさんという方がおられます。財産と呼べるものは小さな家と古い車のみ。大統領の給料として支給された月 百十五万円の九割を社会福祉のために寄付されていた方です。彼は「貧乏な人とは少ししか物を持っていない人ではない。無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と言われました。先日 十六年使用した我が家のテレビが壊れました。思いきって今までより画質も綺麗(きれい)で大きなテレビを購入しました。欲しいものが手に入り満足のはずが、「別売りのスピーカーをつけるとよりいいですよ」と勧められた途端にスピーカーが欲しくなりました。まさに「満足しない人」です。どこまでも満足しない、まだ欲しい、もっと欲しい、そういう限りない欲のことを「貪欲(とんよく)」というのです。
また、私たちは自分の価値観や思いを握りしめて、自分は正しい と思えば一歩も譲りません。お互い 自分の主張を通そう と言い争い、それが通じなければ相手に対して腹を立てます。また、自分は正しいと思い込んでいると、不都合なことが起こったとき、失敗したとき、その原因を 他(ほか)のせい にしていきます。そして、そこでも やはり腹を立て、怒り、ときには憎むことさえあるのです。そのような「怒り」「憎しみ」を「瞋恚(しんに)」といいます。一度でも夫婦喧嘩をされたことがある方は、思い当たることがないでしょうか。
三つ目の「愚痴(ぐち)」とは「本当のことが分かっていない」ということです。一般的には「愚痴(ぐち)をこぼす」というように、不平不満が口からこぼれることを言います。そして、その原因は たいてい人間関係から起こります。お釈迦様はすべてのものは縁によって起こり、縁によって滅(めっ)していくという「縁起(えんぎ)の法」を説かれました。それは、あらゆるものが関わり合っている ということです。
ー4-
自分も他の人も互いの存在に意味があり、関わりながら支え合って生きているということです。しかし、そのことが分からず、自分の基準や ものさしでしか物事を見ることが出来ない、愚かな知り方なので「愚痴(ぐち)」というのです。本当のことが分かっていない からこそ、自分の思いだけで他(た)に対して不平不満をこぼしていくのです。
【 知らされて 知る 】
教えの鏡によって明らかにされる私たちの姿は、決して居心地の良いものではないかもしれません。自己中心的な生き方であったり、欲にまみれ、自分の思いを握りしめ、腹を立てたり憎んだり。つながりや関係の中で、互いに支え合いながら生きているにも かかわらず、そのことが分からないまま 迷い続ける私の姿が照らし出されるからです。ただ そこに「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生」を「必ず救う」と お誓い下さった阿弥陀仏の本願の お目当て は 当(まさ)に私であった、救われなければ助からない私であった と気づかされるのです。そして同時に、そのような私が、このとき この瞬間、生かされていることが ただ事ではないのだ と知らされてくるのです。私たちは既にして自分の思慮(しりょ)分別を超え、無量なる いのちによって生かされているのです。それは お念仏となって私たち一人一人に届けられています。
「南無阿弥陀仏」と お念仏申し、いま私を生かし続けて下さる つながりや関わり、無量なる いのち に思いをいたしながら「有(あ)り難(がと)う」と頂(いただ)ける人生を有縁(うえん)の方(かた)とともに歩みたいものです。
ー5-
《 清浄光(しょうじょうこう) 》
「貪欲(とんよく)」‐ 貪りの心 → 人間をいやしく、汚(きたな)くする
↓↑「清浄光(しょうじょうこう)」が「貪欲(とんよく)」を照らし、「貪欲(とんよく)」が「清浄(しょうじょう)」に変わる
「清浄(しょうじょう)」‐「欲を起こす必要がなかった、すべてが いただきもの で あった」
という「他力」の中を生きていることを知らせてくださる。
《 清浄光(しょうじょうこう) 》を表現している ご和讃
道光(どうこう)明朗(みょうろう)超絶(ちょうぜつ)せり 清浄光(しょうじょうこう)仏(ぶつ)と もうすなり
ひとたび光照(こうしょう)かぶるもの 業垢(ごうく)を のぞき解脱(げだつ)をう
〈 言葉の意味 〉
道光(どうこう) ‐ 仏(ぶつ)の悟りの道から放(はな)たれる光明
明朗(みょうろう) ‐ こだわりがなく、明るく ほがらかなこと
超絶(ちょうぜつ) ‐ 程度が他よりも はるかに飛び抜けて勝(すぐ)れていること
清浄光(しょうじょうこう)仏(ぶつ) ‐ 清浄(しょうじょう)無垢(むく)な心から現われる 光明の仏様
業垢(ごうく) ‐ 悪業(あくごう)と煩悩
解脱(げだつ)をう ‐ 悟りを開く
〈 意訳 〉
仏様の悟りの道から放(はな)たれる光は、明るく、ほがらかで、こだわりがなく、
あきらかに他より勝(すぐ)れているから、清浄光(しょうじょうこう)仏(ぶつ)と申す。
ひとたび この光明に照らされると、悪業(あくごう)煩悩が除(のぞ)かれ、悟りを開くことができる。
ー6-
《 歓喜光(かんぎこう) 》
「瞋恚(しんに)」‐ 怒り、腹立ち、憎しみ
↓↑「歓喜光(かんぎこう)」が「瞋恚(しんに)」を照らし、「瞋恚(しんに)」が「歓喜(かんぎ)」へと変わる
「歓喜(かんぎ)」
『一念(いちねん)多念(たねん)文意(もんい)』親鸞聖人 著
「歓喜(かんぎ)」 というのは、「歓(かん)」は 身に よろこび が あふれることであり、
「喜(ぎ)」は 心に よろこび が あふれることである。
すなわち、得(え)なければ ならない浄土往生を、必ず得(え)るであろうと、
あらかじめ往生に先立って よろこぶ という意味である。
↓
《 歓喜光(かんぎこう)(無辺光(むへんこう))》を表現している ご和讃
慈光(じこう)はるかに かぶらしめ ひかり の いたるところには
法喜(ほうき)をう とぞ のべたまう 大安慰(だいあんに)を帰命せよ
〈 言葉の意味 〉
慈光(じこう) ‐ 大慈悲(だいじひ)から放(はな)つ光明によって、その光に照らされた衆生に利益(りやく)を与える
法喜(ほうき) ‐ 法を聞いて、非常に喜ぶこと。歓喜光(かんぎこう)の利益(りやく)。
大安慰(だいあんに) ‐ 恐怖(きょうふ)している衆生を慰(なぐさ)め、心静かに落ち着かせ、諭(さと)し、喜びを与える
〈 意訳 〉
慈悲(じひ)の光明が、遠く どこまでも行きわたり、光に照らされた者に、
信心を起こさせ、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の闇(やみ)を消し去り、大きな喜びを与えてくださる。
この一切衆生の数多くの嘆(なげ)き・憂(うれ)い・悪(あし)きことを、皆 失わせて、
安らかにしてくださる阿弥陀様を頼りとして、本来の命の姿に戻るべきである。
↓
ー7-
五怖畏(ごふい)(目に見えないもの に 対する五つの恐れ)
一、不活畏(ふかつい) ‐ 衣食住(衣服、食物(しょくもつ)、住居)の不安
二、悪名畏(あくみょうい) ‐「周囲から悪く思われていないだろうか」と、絶えず回りを気にしている
三、大衆威徳畏(たいしゅういとくい) ‐「仲間外れ」にされることを恐れ、実体のない「世間」に怯(おび)える
四、命終畏(みょうじゅうい) ‐「死んだら どうなるのだろう」という不安
五、悪趣畏(あくしゅい) ‐
悪趣(あくしゅ)とは三悪趣(さんあくしゅ)「地獄・餓鬼・畜生」。「そのような苦しみの世界に、落ちたりしないだろうか」という不安。
↓
「死を恐れる生活」が「浄土へ生まれて行く者へ」と変わっていく
↓
「瞋恚(しんに)」が「歓喜(かんぎ)」へと変わる
《 智慧光(ちえこう) 》
「愚痴(ぐち)」‐ 自分の愚かさを知らない → 賢(かしこ)い つもりでいる
↓↑「智慧光(ちえこう)」が「愚痴(ぐち)」を照らし、「愚痴(ぐち)」が「智慧」へと変わる
「間違い」を「間違い」と知らせてくださる。 智慧の無い者は、自分の愚かさ が わからない。
ー8-
《 智慧光(ちえこう) 》を表現している ご和讃
智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬもの は なし 真実明(しんじつみょう)に帰命せよ
〈 言葉の意味 〉
有量(うりょう)の諸相(しょそう) ‐ すべての限りのある衆生
光暁(こうきょう) ‐ 光明は衆生の闇を除くので暁(あかつき)に譬(たと)える
真実明(しんじつみょう) ‐ 真実の智慧の光明
〈 意訳 〉
私達が計り知ることのできない阿弥陀様の無量の光が、
すべての人々を照らしてくださっている。
この阿弥陀様の真実の光によって、本来の命の姿に戻るべきである。
《 不断光(ふだんこう) 》を表現している ご和讃
光明てらして たえざれば 不断光(ふだんこう)と名づけたり
聞光力(もんこうりき)のゆえなれば 心(しん)不断(ふだん)にて往生す
〈 言葉の意味 〉
聞光力(もんこうりき)‐光明の威力(いりょく)を聞く。本願力を信じること。
不断(ふだん)‐菩提心(ぼだいしん)(自らの さとりを求め、世の人も救おうとする心)が絶えない
〈 意訳 〉
阿弥陀様の光明が、途絶(とだ)えることなく、
すべてを照らし尽くしておられるので、不断光(ふだんこう)仏(ぶつ)と呼ばれるのです。
ー9-
この絶え間なく照らしてくださる阿弥陀様の光明によって、
信心が凡夫の心に常に留(とど)められるから、浄土へ往生できるのです。
↓
私の力ではない。
「教えの力」が、絶え間なく 私を前に進めてくださる。
「教え」を聞けば、聞いた「教えの力」が、私を前に進めてくださる。
ー10-