8 仏光測量なきゆえに 難思光仏と なづけたり 諸仏は往生嘆じつつ  弥陀の功徳を称せしむ / 神光の離相を とかざれば 無称光仏と なづけたり 因光成仏のひかり をば 諸仏の嘆ずるところなり / 光明月日に勝過して 超日月光と なづけたり 釈迦 嘆じて なおつきず 無等等を帰命せよ

↑ 法話の練習した音源です(約30分)。
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。

『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


第4回から、

〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう) 
清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

の お心を、ご和讃からいただいております。


親阿弥陀様が放(はな)っている 十二種類の光について

〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう) 
清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

〈 書き下し文 〉
あまねく、無量・無辺光(むへんこう)・無碍(むげ)、無対(むたい)・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)・智慧光、
不断(ふだん)、難思(なんし)・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放って、塵刹(じんせつ)を照(て)らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

〈 言葉の意味 〉
塵刹(じんせつ)を照(て)らす‐どんな細かい所でも、どこでも照らしている。
群生(ぐんじょう)‐すべての生き物。多くの衆生。 光照(こうしょう)‐仏(ぶつ)の光明が あまねく照らすこと。

〈 意訳 〉
阿弥陀様は、十二種類の光を放(はな)って、どんなに細かい所でも、
無数の世界を どこまで でも、照らし尽(つく)し、
一切の衆生は、この光(ひかり)の輝(かがや)き を 常(つね)に 身に 受けているのです。

 ↓
十二種類の光の分類
・無量光・無辺光・無碍光(むげこう) は、特に 光明の成り立ち を表現する。
・無対光(むたいこう)・炎王光(えんおうこう)(光炎王(こうえんのう)) は、特に 光明の様子 を表現する。
・清浄光(しょうじょうこう)・歓喜光(かんぎこう)・智慧光 は、特に 光明の働き を表現する。
・不断光(ふだんこう) は、特に 絶(た)えることがない光明の様子 を表現する。
・難思光(なんしこう)・無称光(むしょうこう) は、特に 人間には理解できない光明の様子 を表現する。
・超日月光(ちょうにちがっこう) は、譬(たと)え によって、光明全体を表現する。

 ↓

ー1-


《 難思光(なんしこう) 》→ 「難思(なんし)」は「こころ も およばれず」
《 無称光(むしょうこう) 》→ 「無称(むしょう)」は「ことば も たえたり」

 ↓

『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』親鸞聖人著 意訳
「仏性(ぶっしょう)」とは、すなわち「阿弥陀如来」である。
阿弥陀如来は、数限りない世界の すみずみにまで満ちわたっておられ、
すべての命あるものの「心」にまで なっておられる。
その「命あるもの すべての「心」に宿る阿弥陀如来」を「仏性(ぶっしょう)」と呼ぶのである。
「草や木、山や河や大地がことごとく成仏する」と『涅槃経(ねはんぎょう)』に説かれてあるのは、その「仏性(ぶっしょう)」によって「阿弥陀如来の四十八の願い」を信じることができるからである。
この「仏性(ぶっしょう)」が備わっているから、「お念仏によって、必ず人々を救うという阿弥陀如来のお誓い」を、私達は信じることができるのである。
だから、信心をいただくことができるのは、「仏様の お働き」である。
「仏様の お働き」とは、「物事の ありのままの姿」を教えてくださるものである。
「物事の ありのままの姿」とは、「真実そのもの」のことである。
「真実」というものは、色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。
この「真実」の世界から、「阿弥陀如来と お浄土」という お姿を示し、法蔵菩薩と名乗られて、思いはかることのできない 大いなる「お念仏によって、必ず人々を救う という お誓い」を、起こされたのである。
このようにして現れてくださった お姿のこと を、天親(てんじん)菩薩は「尽十方無礙光(じんじっぽうむげこう)如来」と、名づけられたのである。

 ↓

ー2-


「如(にょ)」‐
 私達が、そこから生まれ、それに支えられて生きて、やがて、そこへ帰っていく、という「命の源」のこと。
 「お浄土」として表現されている。

 ↓

「如来」‐その「如(にょ)」を 失っている人間に、「如(にょ)」を知らせるために、来てくださった おはたらきのこと。

 ↓

如来は、色もなく 形もない。だから、考えること も できなければ、「こういうものだ」と 言葉で表すこと も できない。

 ↓

「考えることもできない」のが「難思(なんし)」
「こうだ」とも言えないのが「無称(むしょう)」

 ↓

「本当の世界」とは、私達の「計(はか)らい」を越えている。
「計(はか)らいを越えた世界」が、真実の、「本当に確かな世界」。
「計(はか)らいを超えた、本当に確かな、真実の世界」に、私達は、支えられて生きている。
私達を支えている確かな大地がある。

 ↓

私達の思っているような世界は、狭い世界。
・「目に見えないもの」は、「無い」と思ってしまう。
・「自分の計らい」で、生きているように思っている。
人間の力で、人間を支えるものを、一生懸命 作ろうとしている。
・「名前」をつけることで「世界」を狭くしてしまっている。

 ↓

ー3-


三つの髻(もとどり) → 自分を飾るもの の 象徴

・勝他(しょうた)
 周りの人と比べて、「自分の方が、優れている」と、思おうとする心。
 逆にいうと、人から見下されるのを嫌う心。

・名聞(みょうもん)
 有名になって、一目置かれる存在になろうとする心。
 権力を求め、その権力で、周りの人を従わせようとする心。

・利養(りよう)
 金持ちになろうとする心。お金を持っていない人を見下す。
 財産の 多い 少ない によって、人の価値を決めてしまう心。

 ↓

おかみそり(帰敬式(ききょうしき))で、「三つの髻(もとどり)」を 切り落としている。

 ↓

「お盆」尾畑(おばた) 文正(ぶんしょう) 著 『同朋』二〇二一年一月号(東本願寺出版)より
古代インドに仏教以前からあったバラモン教の教えでは、すべての現象の背後には永遠不滅の実体である「我(が)(アートマン : 霊魂(れいこん))」が存在し、それが輪廻転生(りんねてんしょう)を繰り返す と考えられてきました。それは、いまもヒンドゥー教の文化圏(けん)に根強く影響が残るカースト制度のように、差別的な身分制度の基本にある考え方です。
それに対して、お釈迦さまの教えの根本には「無我(むが)」という思想があります。つまり、肉体が滅(ほろ)んだあとに転生(てんしょう)を繰り返すような「我(が)」などは存在しない という考え方です。そして、ありもしない「我(が)」が存在している と思い込み、それに執着することが人間の苦しみの原因だ とされているのです。

 ↓

ー4-


人間の力で、「命を支えている大地」のようなものを、作れるはずはない。
「私達の思い」「人間の計(はか)らい」は、十分ではない。
このことを「自力無効」という。
私達は、救いがあることを知らずに、「自分の力で なんとかしよう」と計(はか)らって、もがき苦しんでいる

 ↓

「如来」は、私達に「命の源(みなもと) へ帰れ!」と 呼びかけ続けてくださっている

 ↓

「本願招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)」→「衆生に「帰せよ」と命じる如来の呼び声」
招喚(しょうかん)‐招(まね)き呼ぶこと
勅命(ちょくめい)‐逃げ場のない「仏(ぶつ)の仰(おお)せ」

 ↓

そのことが言葉になったのが「南無阿弥陀仏」
「阿弥陀」とは、アミターユス(無量寿)・アミターバ(無量光)という二つのことを表現している お言葉

 ↓ 正信偈では、「阿弥陀」を「無量寿」と「無量光」に分けて

帰命 無量寿如来
 「命の源 を 知らせるために現れてくださった阿弥陀様」のお導きによって、私は「つながりあう命」を生きる者になります。

南無 不可思議光(如来)
 いろいろな形となって、私達を支え、働きかけてくださっている阿弥陀様の智慧(光)をいただき、本来の命の姿に戻ります。

 ↓

「難思光(なんしこう)」によって、「思い」を超えさせてくださる。
「無称光(むしょうこう)」によって、「言葉の とらわれ」から離れさせてくださる。

ー5-


《 難思光(なんしこう)(不断光(ふだんこう))》を表現している ご和讃

仏光(ぶっこう)測量(しきりょう)なきゆえに  難思光(なんしこう)仏(ぶつ)と なづけたり
諸仏(しょぶつ)は往生嘆(たん)じつつ   弥陀の功徳を称(しょう)せしむ

〈 言葉の意味 〉
嘆(たん)じ‐ほめたたえる

〈 意訳 〉
阿弥陀様の光明は、思い量(はか)れないので、難思光(なんしこう)仏(ぶつ)と申(もう)す。
十方諸仏(しょぶつ)が、不断光(ふだんこう)による往生 と その光明の功徳 をほめたたえておられるのです。 

 ↓

曇鸞大師(どんらんだいし)の お言葉「南無不可思議光如来」(九字名号)

 ↓

「不可思議」→ 思いも及ばない ということ

 ↓↑ 同じ

「難思(なんし)」→ 思(おも)い難(がた)い → 思いを越えている



《 無称光(むしょうこう) 》を表現している ご和讃

神光(じんこう)の離相(りそう)を とかざれば  無称光(むしょうこう)仏(ぶつ)と なづけたり
因光(いんこう)成仏のひかり をば  諸仏(しょぶつ)の嘆(たん)ずるところなり  

〈 言葉の意味 〉
神光(じんこう)‐阿弥陀様のすべての形 を 説き表すことができない
神光(じんこう)の離相(りそう)‐神光(じんこう)が、生滅(しょうめつ)(生ずること と 消えること)の相(すがた)を 離れている
因光(いんこう)成仏‐弥陀が光明無量の願(がん)を因(いん)として成仏されたこと

ー6-


〈 意訳 〉
阿弥陀様の光明が、姿形(すがたかたち)を離(はな)れていることは、言葉で言い尽くすことが
できないので、無称光(むしょうこう)仏(ぶつ)と呼ばれるのです。
「光に限りが無いようにしたい」と誓(ちか)われて、無碍光仏(むげこうぶつ)と なられた
阿弥陀様の光明を、諸仏(しょぶつ)が ほめたたえているのです。



《 超日月光(ちょうにちがっこう) 》単独
・私達が見ることのできる光 の中で、一番大きいものは、太陽 → 日光
・また、それ自身に 光はない けれども、太陽の光を受けて、夜を明るく照らしているのが月 → 月光(げっこう)

  ↓

この地上で最も大きい「日光・月光(げっこう)」をも超えた光が、「仏(ぶつ)の光」。
「他(ほか)と比(くら)べるものがない」という喩(たと)え。



《 超日月光(ちょうにちがっこう) 》を表現している ご和讃

光明月(つき)日(ひ)に勝過(しょうが)して  超日月光(ちょうにちがっこう)と なづけたり
釈迦 嘆(たん)じて なおつきず 無等等(むとうどう)を帰命せよ

〈 言葉の意味 〉
超日月光(ちょうにちがっこう)‐日(にち)月(げつ)に超(こ)え勝(すぐ)れて、時間や場所の区別なく 常に照らす光明
勝過(しょうが)‐勝(すぐ)れている
無等等(むとうどう)‐比較できるものがない仏(ぶつ)。弥陀の別名(べつめい)。

ー7-


〈 意訳 〉
光明が、この世の日(にち)月(げつ)に超(こ)え勝(すぐ)れているので、超日月光(ちょうにちがっこう)と呼ばれるのです。
阿弥陀様の その光明 を、お釈迦様が ほめたたえておられるが、言い尽くせない。
この 等(ひと)しきものがない阿弥陀様 を 頼りとして、本来の命の姿に戻るべきである。



十二光のまとめ

〈 書き下し文 〉
あまねく、無量・無辺光(むへんこう)・無碍(むげ)、無対(むたい)・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)・智慧光(ちえこう)、不断(ふだん)、難思(なんし)・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放って、塵刹(じんせつ)を照(て)らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

〈 意訳 〉
阿弥陀様は、いつでも(無量光)、どこでも(無辺光(むへんこう))、どんな出来事の中でも(無碍光(むげこう))、私達を照らし続けてくださっている。
・また、『無辺光(むへんこう)』は、「有(あ)る」「無(な)い」といった「とらわれ」から離れさせ、「悪い行(おこな)い」や「煩悩」からも離(はな)れさせてくださる。
・また、『無碍光(むげこう)』は、「光とは無縁なもの」と落ち込んでいる人々に、光に気づかせ、やがて「満天(まんてん)ことごとく星が輝いていた」という歓喜(かんぎ)を与えてくださる。
・『無対光(むたいこう)』という光は、阿弥陀様の優れた智慧から放たれる光であり、この「智慧の光」をいただけば、とても菩薩方とは比べることのできないような「優れた智慧」が、私達に開かれてくる。
・『炎王光(えんおうこう)』という光は、諸仏(しょぶつ)の光が届かない「地獄・餓鬼・畜生の心」を温かく照らして、我(われ) 人(ひと) ともに いのちを輝(かがや)せあう 明るく豊かな世界に導いてくださる。

ー8-


・『清浄光(しょうじょうこう)』という光は、人間をいやしく、汚くする「貪りの心」を照らし出し、「欲を起こす必要がなかった、すべてがいただきものであった」という「他力」の中を生きていることを知らせてくださる。
・『歓喜光(かんぎこう)』という光は、死を恐れて生活する私達を「浄土に生まれて行く者へ」と お育てくださる。
・『智慧光(ちえこう)』という光は、私の「愚かさ」を照らし出し、真実を届けてくださる。そして、阿弥陀様の光明の中に生かされていた私に気づかせ、感動と感謝の心を呼び起こしてくださる。
・『不断光(ふだんこう)』という光によって、絶え間なく背中を押してくださり、私に仏道を歩ませてくださっている。
・『難思光(なんしこう)』という光によって、「計(はか)らいの心」から離れさせてくださり、
 『無称光(むしょうこう)』という光によって、「言葉のとらわれる」から離れさせてくださる。

このような「他(ほか)と比べるものがない、太陽や月をも超えた、この世で最も大きい光(超日月光(ちょうにちがっこう))」を 阿弥陀様は放ってくださっている。
それらの光が、どんなに細かい所でも、無数の世界を どこまで でも、照らし尽し、一切の衆生は、この光の輝きを 常に身に受けているのです。
 
 ↓

・人間のすべて を 阿弥陀様は照らしてくださっている。
 私が「人には見せられないような、どんなに汚い心」を持っていようとも、阿弥陀様は そのようなことをも わかって、照らし続けてくださっている。

・阿弥陀様の智慧の光 を いただけば、始めは、大雑把なもの しか見えてこないが、だんだん 細かいもの まで見えてくる。

ー9-