4 弥陀成仏の このかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり

↑ 法話の練習した音源です(約38分)。
下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。

『音楽素材 : PeriTune URL:https://peritune.com/blog/2018/04/24/gentle_theme/』


今回から、

〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう) 
清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

の お心を、ご和讃からいただいていきたいと思います。


和讃について

『三帖(さんじょう)和讃講義(こうぎ)』柏原(かしわばら)祐義(ゆうぎ) 著(ちょ) 大正六年発行
 詩(し)は人生における心(こころ)の花(はな)である。人の心が何等(なんら)かの大きな力に触(ふ)れる時、必ず それは詩(し)となって表(あらわ)れる。 大自然の美(び)に打(う)たれる時、人情(にんじょう)の玉(たま)に触(ふ)れる時、さては宇宙に漂(ただよ)う大霊(だいれい)の神秘(しんぴ)に接(せっ)する時、私供(わたしども)の心(こころ)は詩(し)の花(はな)となって開(ひら)かざるを得(え)ない。されど 田草(たぐさ)取(と)る少女(しょうじょ)にも詩(し)がある、木(き)こる山(やま)にも歌がある。まして無限絶高(ぜっこう)の神仏(しんぶつ)の御霊(みたま)に触(ふ)れる宗教において、どうして詩(し)なきことがあろう、讃歌(さんか)なきを得(え)よう。されば、昔(むかし)も今(いま)も、宗教のあるところには必ず麗(うるわ)しい詩(し)がある。〈 中略 〉
 宗祖(しゅうそ)聖人(しょうにん)には、かように幾多(いくた)の讃歌(さんか)の製作(せいさく)がある。実(じつ)に聖人(しょうにん)は鎌倉時代における和讃述作(じゅっさく)の代表者といってよい。特に この『三帖(さんじょう)和讃』に至(いた)っては、日本仏教史上の和讃文学の代表的作物(さくぶん)と称(しょう)すべきである。『浄土和讃』は正(まさ)しく浄土三部経の縮小図(しゅくしょうず)であり、『高僧和讃』は三国(さんごく)七高僧の教えの真髄(しんずい)であり、最後の『正像末(しょうぞうまつ)和讃』は 聖人(しょうにん)の心の味わいの披露(ひろう) である。したがって、この『三帖(さんじょう)和讃』は、浄土真宗の教えと信仰と歴史との粋(すい)を顕(あら)わせるものである。この『三帖(さんじょう)和讃』を拝読(はいどく)すれは、親(した)しく弥陀(みだ)の「浄土へ来たれ」と招(まね)き呼(よ)ぶ声(こえ)、釈迦(しゃか)の「浄土に往生せよ」と勧(すす)める声に接し、三国(さんごく)七祖(しちそ)の教えに触(ふ)れ、宗祖(しゅうそ)聖人(しょうにん)の信念(しんねん)と一つになることができる。
これによって、この『三帖(さんじょう)和讃』が浄土真宗における位置(いち)を知るべきである。

 ↓

ー1-


・和讃の中の漢字には、すべて ふりがな がつけられている。
・一句全体の、あるいは一部分・一語の意味が わかりやすいように仮名(かな)で説明が施(ほどこ)されている。
 (字の左側に おかれていますので、左訓(さくん)と呼ばれている。)
・全体が七(しち)五(ご)調(ちょう)四句で一首(いっしゅ)を形(かたち)づくり、第一行を一字上(あ)げ にして読みやすいようにされている。
・漢字の一つ一つに、その発音の清濁(せいだく)を示す圏発(けんはつ)がつけられている。

 ↓

すべての和讃は、親鸞聖人が、自分の遇(あ)いえた よき人々、聞きえた仏教を、多くの人々と ともに、声をそろえて讃嘆(さんだん)したい という願いによってつくられたものであることを物語(ものがた)っている。

 ↓

『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著
 日本の仏教の歴史のなかでも、和讃をつくっておられる方は多く、たとえば、すでに奈良時代に日本語による和歌(わか)形式(けいしき)の仏教讃歌(さんか)が つくられていた とも伝えられています。近(ちか)く平安時代中期には、源信僧都(げんしんそうず)の『極楽六時讃(ごくらくろくじさん)』や『来迎讃(らいごうさん)』を中心とする多くの和讃が、そして鎌倉時代中期になりますと、たとえば親鸞聖人より六十年ほど後に世に出られた一遍(いっぺん)上人の和讃など、数多くの和讃が残されています。

ー2-


 しかし、そのなかでも、もっとも多くの和讃を残しておられるのが親鸞聖人であります。今日(こんにち)残されています和讃の数は、実に全部で五百十余首(よしゅ)に及(およ)んでいる といわれています。〈 中略 〉
 他(ほか)の方々の和讃は、いうなれば、教化(きょうけ)の方法 として つくられているものが多いのです。もちろん、親鸞聖人の場合も、「現世利益(げんぜりやく)和讃」の「和讃」の文字の左訓(さくん)に、
「やわらげ ほめ」という言葉を添(そ)えておられますから、むずかしい経文(きょうもん)を「やわらげ」て わかりやすくし、その言葉の尊(とうと)さを「ほめ」て、広く人々に伝えたいという意図があったことは もちろんです。
 しかし同時に、たとえば『正像末(しょうぞうまつ)和讃』において、時代・社会の現実を身の事実として深く受けとめられ、さらには「愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじゅっかい)和讃」のように、深く 自(みずか)らの在(あ)りよう を悲歎(ひたん)する精神 というものが 全体を貫(つらぬ)いている ということが知られるのであります。そして、そのような悲歎(ひたん)を とおして仏(ぶつ)の大悲(だいひ)方便(ほうべん)が讃嘆(さんだん)され、経文(きょうもん)や高僧方(こうそうがた)の教えが「やわらげ ほめ」られているのです。
 そこにありますものは、他(ほか)の方々の和讃のような教化者(きょうけしゃ)としての姿勢ではなく、どこまでも聞法者(もんぼうしゃ)としての姿勢であります。深く法(ほう)が讃嘆(さんだん)され、きびしく身の事実が悲歎(ひたん)されているのです。そして それこそが、親鸞聖人の五百十余首(よしゅ)に のぼる和讃を貫(つらぬ)いている大きな特徴である と いってもよいかと思います。
 はじめに、これだけのことを心にとどめておいていただきまして、以下、和讃に学んでゆきたいと思っています。

 ↓

はるか蓮如上人の時代から、真宗門徒が毎日の暮らしのなかで ともに唱和(しょうわ)し、
その言葉のひびき に身(み)をひたしてきた親鸞聖人の和讃ですが、
親鸞聖人が亡くなられてから七六〇年を経(へ)た今日(こんにち)の私達にとっては、
使われている言葉も難(むずか)しくなってしまいました。
親鸞聖人の ご和讃の お心 を、わかりやすく ひもといていきたいと思います。

ー3-


阿弥陀様が放(はな)っている 十二種類の光について

〈 正信偈 原文 〉
普(ふ)放(ほう)無量無辺光(むへんこう) 無碍(むげ)無対(むたい)光炎王(こうえんのう) 清浄(しょうじょう)歓喜(かんぎ)智慧光 不断(ふだん)難思(なんし)無称光(むしょうこう) 超日月光(ちょうにちがっこう)照(しょう)塵刹(じんせつ) 一切群生(ぐんじょう)蒙(む)光照(こうしょう)

〈 書き下し文 〉
あまねく、無量・無辺光(むへんこう)・無碍(むげ)、無対(むたい)・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)・智慧光、不断(ふだん)、難思(なんし)・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放って、塵刹(じんせつ)を照(て)らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。

〈 言葉の意味 〉
塵刹(じんせつ)を照(て)らす‐どんな細かい所でも、どこでも照らしている。

群生(ぐんじょう)‐すべての生き物。多くの衆生。  

光照(こうしょう)‐仏(ぶつ)の光明が あまねく照らすこと。

〈 意訳 〉
阿弥陀様は、十二種類の光を放(はな)って、どんなに細かい所でも、
無数の世界を どこまで でも、照らし尽(つく)し、
一切の衆生は、この光(ひかり)の輝(かがや)き を 常(つね)に 身に 受けているのです。

 ↓

十二種類の光の分類
・無量光(無量)・無辺光・無碍光(むげこう)(無碍(むげ))は、特に 光明の成り立ち を表現する。
・無対光(むたいこう)(無対(むたい))・炎王光(えんおうこう)(光炎王(こうえんのう))は、特に 光明の様子 を表現する。
・清浄光(しょうじょうこう)(清浄(しょうじょう))・歓喜光(かんぎこう)(歓喜(かんぎ))・智慧光 は、特に 光明の働き を表現する。
・不断光(ふだんこう)(不断(ふだん))は、特に 絶(た)えることがない光明の様子 を表現する。
・難思光(なんしこう)(難思(なんし))・無称光(むしょうこう) は、特に 人間には理解できない光明の様子 を表現する。
・超日月光(ちょうにちがっこう) は、譬(たと)え によって、光明全体を表現する。

ー4-


《 無量光 無辺光(むへんこう) 無碍光(むげこう) 》を表現している ご和讃
弥陀(みだ)成仏の このかたは いまに十劫(じっこう)をへたまえり
法身(ほっしん)の光輪(こうりん)きわもなく 世(せ)の盲冥(もうみょう)をてらすなり

〈 言葉の意味 〉
弥陀(みだ)成仏‐
阿弥陀様が、本願を成就され、仏(ぶつ)に成(な)られた。
このかたは‐過去の時点から現在まで。「この お方は」という意味ではない。

十劫(じっこう)‐時間の最大の単位。はるかな時(とき)を経(へ)ていること。

法身(ほっしん)の光輪(こうりん)‐
法身(ほっしん)は、生死(しょうじ)の苦(く)を離(はな)れた清浄(しょうじょう)の仏身(ぶっしん)。
光輪(こうりん)は、光明を車輪(しゃりん)に譬(たと)える。

盲冥(もうみょう)‐愚(おろ)かで智慧に明るくない者。

〈 意訳 〉
阿弥陀様が、本願を成就され 仏(ぶつ)に成(な)られて、すでに十劫(じっこう)という はるかな時(とき)を経(へ)ている。生死(しょうじ)の苦しみから離(はな)れた 清(きよ)らかな阿弥陀様の光明は、愚(おろ)かで真実に暗い すべての人々を照らしてくださっている。(最初に 寿命無量・光明無量の阿弥陀様 を讃(たた)える。)

 ↓

無量光‐はるかな昔から今にいたるまで(寿命無量)、私達を照らし続けてくださっている。
無辺光(むへんこう)‐世界の隅々(すみずみ)まで、すべての人々を照らしてくださっている。
無碍光(むげこう)‐清(きよ)らかな阿弥陀様の光明は、「愚(おろ)かで真実に暗い」ということにも碍(さまた)げられない。

 ↓

いつでも(無量光)、どこでも(無辺光(むへんこう))、どんな状況の中にあっても(無碍光(むげこう))、
阿弥陀様は、私達に光(ひかり)を届(とど)けてくださっている。
お念仏を称えて、その光に気づけば、どのような状況の中にあっても、
「救われる道」が見えてくる。「絶望」ということが無くなる。

ー5-


〈 ご和讃 の お心 〉
『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著 
  いまに十劫(じっこう)をへたまえり

「(阿弥陀様が成仏される前、前身(ぜんしん)であった 法蔵(ほうぞう))菩薩が、「私の智慧の火をもって、一切衆生の煩悩を焼きつくそう。もし 一人でも成仏できないでいる ということがあるならば、私は決(けっ)して仏(ぶつ)には なりません」と誓(ちか)われた。にもかかわらず、まだ すべての衆生が成仏してもいないのに、(法蔵(ほうぞう))菩薩だけが すでに自(みずか)ら成仏しておられるのは なぜなのか。それは ちょうど、木(き)の箸(はし)(の先に火を付け、その箸(はし))で草木(くさき)を焼きつくそう と夢中になっていたら、草木(くさき)を焼きつくす前に、その木(き)の箸(はし)の方(ほう)が焼けてしまったようなものだ」と。
そこに曇鸞大師(どんらんだいし)は、「その身(み)を後(あと)にして、身(み)を先(さき)にする」という老子(ろうし)の言葉を
ひいておられます。自分のことなど後(あと)まわし にして、人々を救うことに ひたすらであったために、かえって その身(み)が先(さき)に成仏したのだ、といわれているのです。
 実際、その願いを おこした人(ひと)自身が、その願いに身を焼きつくすことがなければ、その願い が人を目ざましめ、動かすことなどありえないのです。
その願い に燃えている人 によって 願い は 次々と、あらたな火を呼びおこしてゆくのです。
 そして そのように、願(がん)が力(ちから)と成(な)って はたらき(願(がん)をもって力(りき)を成(じょう)ず)、その はたらき において、願(がん)が つねに あらたに されてゆく(力(りき)もって願(がん)に就(つ)く)、それを成就(じょうじゅ)というのです。本願が、本願をおこした人を超えて、すべての人の上にはたらく力(ちから)となった ということです。〈 中略 〉

ー6-


※ 補足
曇鸞大師(どんらんだいし)‐「お釈迦様が本当に人々に伝えたかった教え(浄土真宗)」を、明らかにしてこられたインド・中国・日本の七人の高僧方の第三祖(そ)。中国に誕生され(四七六年~五四二年)、親鸞聖人は「曇鸞大師(どんらんだいし)から他力ということを教えていただいた」と、非常に感謝している。


 十劫(じっこう)の歴史を貫(つらぬ)くものは、あらゆる時代を貫(つらぬ)き、国の異(こと)なりを超えて変わらない真理・法(ほう)であります。しかし、その真理・法(ほう)を墜(おと)さざるもの、つまり不滅(ふめつ)ならしめるものは、ひとつの時代、ひとつの国家・社会に生きた人が、その具体的な問題を担(にな)いながら、教えに たずね、教えに生きた、その生活の事実です。
 法(ほう)は、人を待ち、人を得て、時代・社会に輝(かがや)き、はたらくのです。仏法の歴史はちょうど、一輪(いちりん)、また一輪(いちりん)と池(いけ)に蓮(はす)の華(はな)が咲(さ)きつがれてくるようなものだ と曽我量深(そがりょうじん)先生が指摘(してき)されているのも、その事実を押さえてのことなのでしょう。
池に咲いた華(はな)が、池の水が生きつづけていることを証(あかし)しているのです。
 同じように、歴史が絶(た)えない ということは、ただ、もとあった形がそのまま、いつまでも ずっと つづいている ということではありません。いつの時代にあっても、その時代の問題に、その教法(きょうぼう)が応(こた)え つづけてきたとき、はじめて歴史が生きつづけている と いいうるのです。その時代の問題に応えなくなったとき、その教えは すでに その命を失ってしまったのです。

ー7-


  法身(ほっしん)の光輪(こうりん)きわもなく

 「法身(ほっしん)」という言葉も、そのような法(ほう)の歩(あゆ)みをいいあらわしています。
「法身(ほっしん)」、それは「法(ほう)」の はたらく「身(み)」です。「身(み)」は、つねに時代・社会に生きているものです。「法(ほう)」は その「身(み)」を とおして具体的になっているのです。そして、その「法身(ほっしん)の光輪(こうりん)」が「きわもなく」ということは、法(ほう)が いつの時、どこの場にも活(い)き活(い)きと生(い)きて はたらいている ということです。
 「光輪(こうりん)きわもなく」ということは、宗教の問題というものが特別にあるのではない、ということの うなずき を意味しています。それが人間の問題・人生の問題であるかぎり、その問題に根底的(こんていてき)に応(こた)えてゆくのが教法(きょうぼう)である ということです。
 「光輪(こうりん)きわもなく」というのは、世界の隅々(すみずみ)まで、十方に走(はし)りまわって、なるほど どこに行っても光輪(こうりん)は ゆき とどいているな と納得している言葉ではありません。
そうではなくて、自分を光から もっとも遠い存在と自覚した その人 が、しかも その身(み)にまで及(およ)んでいる光輪(こうりん)に驚(おどろ)いた言葉なのです。さらにいえば、それは、教法(きょうぼう)に押(お)し出(だ)され、導(みちび)かれながら、信心にとって まったく無関係な場所と思われるところに身(み)を据(す)え、まったく無縁(むえん)な問題と考えられていた問題を担(にな)ってゆかれた人々によって、うなずかれてきた言葉 なのであります。
 親鸞聖人ご自身にあっては、
「いし・かわら・つぶて の ごとくなる われら(その日の生活もままならない、当時の身分制度のうえで最下層(さいかそう)とされたような人々や、生きるためには、悪事さえも あえてしなくてはならない一般民衆の人たち、親鸞聖人は そういう人たちと共に生きられた。)」
という自覚に身(み)を据(す)えて、本願を聞(き)き ひらいてゆかれた、その歩みのなかでうなずかれているのです。

ー8-


 我(われ)こそは教えの中心にあり、教えを担(にな)っている と自負(じふ)しているものにとって、「光輪(こうりん)きわもなく」などということは、単に 言葉の遊び でしかないのでしょう。
すくなくとも、そのような人々にとって「光輪(こうりん)きわもなし」ということなど、信心の本質にかかわる問題ではなかったのです。
 しかし、現代社会が かかえている問題、国家の問題、差別の問題、環境の問題、教育の問題などを、その もっとも具体的な場で担(にな)いながら教法(きょうぼう)を聞思(もんし)している人々にとっては、その信心の本質にかかわる言葉として、この「法身(ほっしん)の光輪(こうりん)きわもなく 世(せ)の盲冥(もうみょう)をてらすなり」は聞きとられているのです。

 ↓

《 正信偈 結誡(けっかい) 原文 》
弥陀仏本願念仏 邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)悪(あく)衆生 信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)甚(じん)以(に)難(なん) 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)

〈 書き下し文 〉
弥陀仏の本願念仏は、邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)の悪(あく)衆生、信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。
難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし。

 ↓

「信心の利益(りやく)」が お釈迦様の教え を通して 述べられてきて、
改めて、もう一度「弥陀仏の本願念仏は」と、阿弥陀様 の ご本願 を振り返り、
自分自身のこと を 省(かえり)みて、
「まことに、ご本願をいただくことのできない私である」という深い懺悔(さんげ)と、
その得難(えがた)い信心を獲(え)た喜び とをもって、「依経段(いきょうだん)」と 次の「依釈段(いしゃくだん)」を結んでいく。

 ↓

ー9-


『教行信証』行巻(ぎょうのまき)
悪と憍慢(きょうまん)と蔽(へい)と懈怠(けだい)のもの は、もって この法を信ずること難(かた)し。
悪(邪悪な者)、憍慢(きょうまん)(おごり高ぶる者)、
弊(へい)(「私は ダメ人間だ」と、自分に見切りをつけてしまう誤(あやま)った考え を持つ者)、
懈怠(けだい)(「もう どうでもいい」と、しなければならないこと を しない 怠(なま)け者)は、
この教え を 信じることが難しい。

 ↓ 正信偈では「悪」を「邪見(じゃけん)」と言い換え、
  「どのようなことが悪なのか」が はっきりと いわれている

〈 言葉の意味 〉
「邪見(じゃけん)」‐
人間の世界 や 仏(ぶつ)の世界 を知らず、理解できないため、「真実に背(そむ)いた ねじ曲がった考え方」になってしまう。
「自分の行い が 自分に返ってくる」ことを知らず、身勝手な振る舞いをする。
暗がり を 手探(てさぐ)り で 歩き、(まっすぐに歩けないため)あっちへ突き当り、こっちへ突き当り、生傷(なまきず)が絶(た)えない、そのような人生を送ってしまう。 

 ↓

一般仏教では、道を求めるため 真先(まっさき)に得なければならないもの は、
「正見(しょうけん)‐間違った見(けん)(ものの見方や考え方)を、正しいもの に 変えていく」いうことがある。
「ものの見方や考え方」を正(ただ)すか、正(ただ)さないか、これが求道(きゅうどう)の中心の問題となる。
「聞法をする」ことによって、邪見(じゃけん)が正見(しょうけん)に変わっていく、それが非常に大切なこと。
 ↓

ー10-


『教行信証』化身土巻(けしんどのまき)
我(わ)が所説(しょせつ)のごとし、一切 悪行(あくぎょう)は 邪見なり。
一切悪行(あくぎょう)の因、無量なり と いえども、
もし 邪見 を 説けば すなわち すでに摂尽(しょうじん)しぬ。
私(お釈迦様)が これまで説いたように、
すべての悪い行(おこな)い は 誤った考え(邪見)による。
すべての悪い行(おこな)いの因(いん) は、数限りなく ある けれども、誤(あやま)った考え(邪見)について説くだけで、すべて その中に収まってしまうのである。

 ↓

お釈迦様は、それほど「邪見」を 重く見ておられた。

〈 言葉の意味 〉
「憍慢(きょうまん)」‐
「自分は凄い」と思い上がり、誇り、他人を見下(みくだ)して、安心を得ようとする。
「本来の自分」の限界を知らない、わからない。己知(おのれし)らず。
自分を知らない人には、一生 満足はない。
不平不満は、「己知(おのれし)らず」から来る。
「慢(まん)」は、 自慢をしたり、卑下(ひげ)したりして、両極端になり、自分を見失わせる心。
「卑慢(ひまん)」‐ 自分を無理に卑下(ひげ)する。劣等感。「ああ、なさけない」

 ↓

自分を正しく理解するためには、「上へ」も「下へ」も 行き過ぎない。
これが一番 大切で、健康的で、明るい。
「本当の自分 が わかる」ということは、かえって 心が明るくなる。
「憍慢(きょうまん)・卑慢(ひまん)」は、心が暗くなる。

 ↑

ー11-


「信心」は「自分に返る」ということにも なる。
憍慢(きょうまん)によって、自分を見失っていたのが、自分に返っていく。
自分に返ったところに、非常に豊かな、明るい世界が開けてくる。

 ↓

「信心を獲(え)られない人」とは、「邪見の悪衆生」「憍慢(きょうまん)の悪衆生」と、二つの衆生 が 挙(あ)げられている

 ↓

〈 書き下し文 〉
信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし。

〈 言葉の意味 〉
「信楽(しんぎょう)」‐
信じて楽(ねが)う(好む)こと。
阿弥陀様 の ご本願 として「お念仏」が、私達に差し向けられていることを、疑わずに、素直に信じる。
そして、喜んで お念仏 を 楽(ねが)い(好み)求める。

 ↓

お念仏を通(とお)して、「邪見であり、憍慢(きょうまん)な悪衆生であった」と、思い知らされ、自覚していく。

  ↓

「信楽(しんぎょう)」とは、「邪見であり憍慢(きょうまん)な悪衆生」という内容を含(ふく)んだお言葉。


「受持(じゅじ)」‐
受けとめて保(たも)つこと。
施(ほどこ)されている お念仏 を しっかり と いただき続ける。受ける。(お念仏に)行き着く、落ち着く。

ー12-


邪見と憍慢(きょうまん)に ゆがめられて、私達は救い難(がた)い 愚(おろ)かな「悪衆生(あくしゅじょう)」と なってしまっている。
道理に背(そむ)いた「邪見」に とらわれ、広い世界を知ろうともせずに、狭い世界の中を生き、
「憍慢(きょうまん)」に とらわれて、思い上がって、阿弥陀様よりも、「自分の思い」を信用して、大切にし、「本当の自分」も わからずに、心が暗くなっている。
阿弥陀様は、
「その深刻な 悩み 苦しみ から 救い出したい」と願って、
「お念仏 南無阿弥陀仏」を贈り届けてくださっているが、
私達「悪衆生」には、阿弥陀様 の ご本願 として与えられている「お念仏」を、
「素直に 喜び、受け取り、保ち続ける」ということは、困難なこと の中でも、
最も困難なこと であって、それ以上の困難はない、と いわれている。
私達は、阿弥陀様の願い にも 背(せ)を向(む)け続けてしまっている「罪悪(ざいあく)深重(じんじゅう)の凡夫」となってしまっている。

 ↓

私達は「目先のこと」「自分の思い」ばかりを大切にして、お釈迦様が「今、現(げん)に、あなたは 悩み 苦しんでいる」と教えてくださっていても、なんとなく 頷(うなず)くことはできるが、すぐに そのことから眼をそらしてしまい、あまり 強い実感 として思うことができない。
浅い所で、「自分の幸せ」を追い求めて、思い通りにならないので「つらい」と言って、「これでいいのだ」「しかたがない」と、ごまかしながら生活をしている。

 ↓

ー13-


「阿弥陀様 の ご本願 を、衆生は 簡単に 信じることができない」ということは、
「阿弥陀様 の お心 は、衆生には受け止めきれないほどの深く広い お心 である」ということも表している。

 ↓

「私達には、お念仏を信じることは、まったく不可能だ」ということになる。

 ↓

「依経段(いきょうだん)」の後(あと)に続く「依釈段(いしゃくだん)」に、このような私達 だからこそ、「自力」ではない、
阿弥陀様 の ご本願 による「他力の信心」が差し向けられているという「七高僧の教え」が述べられていく。

 ↓

「邪見であり、憍慢(きょうまん)な悪衆生であった」ということは、自分では、とても気づくことができない。
まったく 阿弥陀様の ご恩 に より、お念仏 が 私達に差し向けられていること(回向)によって、
「いただく資格もない この私」が、初めて そのことを自覚することができる。
それで「難の中の難、これに過ぎたるはなし」とも いわれている。

 ↓

ー14-


〈 正信偈 原文 〉
弥陀仏本願念仏 邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)悪(あく)衆生 信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)甚(じん)以(に)難(なん) 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)

〈 書き下し文 〉
弥陀仏の本願念仏は、邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)の悪(あく)衆生、信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。
難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし。

〈 意訳 〉
改めて、自分自身のことを省(かえり)みると、
「阿弥陀様 の 深く 広い ご本願 が「お念仏」によって贈り届けられている」ということを、
「真実を知らずに、身勝手な振(ふ)る舞(ま)いをする「邪見」の この私 が、
「本来の自分」も知らずに思い上がる「憍慢(きょうまん)」な この私 が、
素直に喜び、受け止め、保ち続ける のは、困難なことの中でも、最も困難なこと で、
まったく不可能なこと で ありました。
しかし、不思議なことに、その私 に「お念仏」が届き、心に「他力の信心」が宿(やど)っているのです。

〈 言葉の意味 〉
「邪見(じゃけん)」‐
人間の世界 や 仏(ぶつ)の世界 を知らず、理解できないため、「真実に背(そむ)いた ねじ曲がった考え方」になってしまう。
「自分の行い が 自分に返ってくる」ことを知らず、身勝手な振る舞いをする。
暗がり を 手探(てさぐ)り で 歩き、(まっすぐに歩けないため)
あっちへ突き当り、こっちへ突き当り、生傷(なまきず)が絶(た)えない、そのような人生を送ってしまう。 

ー15-


「憍慢(きょうまん)」‐
「自分は凄い」と思い上がり、誇り、他人を見下(みくだ)して、安心を得ようとする。
「本来の自分」の限界を知らない、わからない。己知(おのれし)らず。
自分を知らない人には、一生 満足はない。
不平不満は、「己知(おのれし)らず」から来る。
「慢(まん)」は、 自慢をしたり、卑下(ひげ)したりして、両極端になり、自分を見失わせる心。
「卑慢(ひまん)」‐ 自分を無理に卑下(ひげ)する。劣等感。「ああ、なさけない」

「信楽(しんぎょう)」‐
信じて楽(ねが)う(好む)こと。
阿弥陀様 の ご本願 として「お念仏」が、私達に差し向けられていることを、疑わずに、素直に信じる。
そして、喜んで お念仏 を 楽(ねが)い(好み)求める。

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お念仏を通(とお)して、「邪見であり、憍慢(きょうまん)な悪衆生であった」と、思い知らされ、自覚していく。

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「信楽(しんぎょう)」とは、「邪見であり憍慢(きょうまん)な悪衆生」という内容を含(ふく)んだ お言葉。


「受持(じゅじ)」‐
受けとめて保(たも)つこと。
施(ほどこ)されている お念仏 を しっかり と いただき続ける。

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邪見と憍慢(きょうまん)に ゆがめられて、私達は救い難(がた)い 愚(おろ)かな「悪衆生(あくしゅじょう)」と なってしまっている。
道理に背(そむ)いた「邪見」に とらわれ、広い世界を知ろうともせずに、狭い世界の中を生き、
「憍慢(きょうまん)」に とらわれて、思い上がって、阿弥陀様よりも、「自分の思い」を信用して、大切にし、「本当の自分」も わからずに、心が暗くなっている。

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阿弥陀様は、
「その深刻な 悩み 苦しみ から 救い出したい」と願って、
「お念仏 南無阿弥陀仏」を贈り届けてくださっているが、
私達「悪衆生」には、阿弥陀様 の ご本願 として与えられている「お念仏」を、
「素直に 喜び、受け取り、保ち続ける」ということは、困難なこと の中でも、
最も困難なこと であって、それ以上の困難はない、と いわれている。
私達は、阿弥陀様の願い にも 背(せ)を向(む)け続けてしまっている「罪悪(ざいあく)深重(じんじゅう)の凡夫」となってしまっている。

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私達は「目先のこと」「自分の思い」ばかりを大切にして、
お釈迦様が「今、現(げん)に、あなたは 悩み 苦しんでいる」と
教えてくださっていても、なんとなく 頷(うなず)くことはできるが、
すぐに そのことから眼をそらしてしまい、
あまり 強い実感 として思うことができない。
浅い所で、「自分の幸せ」を追い求めて、
思い通りにならないので「つらい」と言って、
「これでいいのだ」「しかたがない」と、ごまかしながら生活をしている。
「阿弥陀様 の ご本願 を、衆生は 簡単に 信じることができない」ということは、
「阿弥陀様 の お心 は、衆生には受け止めきれないほどの深く広い お心 である」ということも表している。

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「邪見であり、憍慢(きょうまん)な悪衆生であった」ということは、自分では、とても気づくことができない。
まったく 阿弥陀様のご恩 に より、お念仏 が 私達に差し向けられていること(回向)によって、「いただく資格もない この私」が、初めて そのことを自覚することができる。
それで「難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし」とも いわれている。


『和讃に学ぶ‐浄土和讃‐』宮城顗(しずか) 著 
  世(せ)の盲冥(もうみょう)をてらすなり

 「門徒物(もの)知(し)らず」という言葉があります。言葉の由来(ゆらい)は わかりませんが、以前 ご門徒の家に お参りに行ったときのことです。たまたま その家に遊びに来ていた近所の お婆さん が尋ねました。
「あなたのところは何宗(なにしゅう)?」
「家(うち)は、門徒よ」
「ああ、門徒さん。そら、物(もの)知(し)らずで、楽(らく)で良いね」
うるさいこと、面倒な きまり がなくて、物知らずでも つとまって、楽(らく)で良いねとおっしゃっているのです。しかし、それなら真宗門徒は ただ 締(し)まりがないというだけのこと になります。
 そうではなくて、念仏者は聞法することによって いよいよ 物知らずのわが身(み)という 目覚め をもつ、そして、だからこそ、いよいよ生活の全体をあげて聞法に徹(てっ)してゆくことになる、ということをいいあらわしているのです。
 つまり、「盲冥(もうみょう)」が照らされる ということは、物知らずと思い知らされることなのです。

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 「盲冥(もうみょう)」なる者 ということは、いいかえますと、「邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)悪衆生(あくしゅじょう)」ということです。人間として嫌悪(けんお)すべき在り方 を 結果するもの、それは、「邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)」というすがた なのです。
 「邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)」ということについて、私は最近読ませていただいた平野恵子さんの「ものさしの話」を思い出します。
 飛騨(ひだ)高山の速入寺(そくにゅうじ)の坊守(ぼうもり)、恵子さんが、癌という病をかかえ、迫(せま)りくる死(し)をみつめながら、後(あと)に残してゆく子どもたちへの思いや願いをつづられた文章の、その『子どもたちよ、ありがとう』のなかに収められている「ものさしの話」。
 勉強をせず、いたずらばかりしている男の子、病気で歩くこともしゃべることもできないだろうと宣告(せんこく)された女の子 をかかえて、そんな子をもった「自分が余(あま)りにも みじめで」泣いて暮らし、ついには心中(しんじゅう)まで考えておられた ある日、外での遊びから帰ってきた男の子が、その小さな妹を抱きしめ、頬(ほお)ずりしながら、
「お母さん、ユキちゃんは奇麗(きれい)だね。顔も、手も、足も、お腹だって全部 奇麗(きれい)だよ、ユキちゃんは お家の みんなの宝物だもんね」
その言葉に、身(み)の縮(ちぢ)むほどの恥ずかしい思い とともに、
「その時、女(おんな)の人(ひと)(お母さん)には はっきりと分(わか)ったのです。自分が今日まで大切にしていた ものさし が、実は、自分の勝手な思いだけで作られた間違いだらけの ものさし であったことが、そして、その ものさし だけ を 正しい と信じていた自分は、この世で最も傲慢(ごうまん)で愚(おろ)かな人間だったのです」
と はっきり思い知らされた と おっしゃっている、その 今までのすがた が邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)のすがた であったのです。
 「世(せ)の盲冥(もうみょう)をてらす」とは、そのように 自分の ものさし が、実は自分勝手な思いだけで つくられた 間違いだらけの ものさし であることを、それを絶対に正しいものと信じて疑(うたが)わない愚(おろ)かさ を はっきりと思い知らす、ということなのです。

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人間が、人類が、自分勝手な思いだけでつくられた間違いだらけの ものさし で、どれだけ この地球を切りきざみ、世界を争いの渦(うず)にまきこんできたことか、
そのことを思いますとき、この言葉の重さを感(かん)ぜずには おれません。

ー20-