↑ 練習した音源(約23分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容を印刷して配っているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。
今日のお言葉
〈 原文 〉
能(のう)発(ほつ)一念喜愛(きあい)心(しん) 不(ふ)断(だん)煩悩得(とく)涅槃
〈 書き下し文 〉
よく一念喜愛(きあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃を得(う)るなり。
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第二段 依経段(えきょうだん)「弥陀章」法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就 「釈迦章」如来所以興出世~是人名分陀利華
『大無量寿経』に依り、
・「弥陀章」で 現に今 私達に働き続けてくださっている阿弥陀様、そして その「阿弥陀様の ご本願 の いわれ」 を 述べ、
・「釈迦章」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるためにわざわざ この世に お出ましくださった お釈迦様 を 讃え、
その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。
↓ 前回 七月に見た「釈迦章」の始め
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かんとなり。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
〈 意訳 〉
「五濁悪世」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
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だからこそ 五濁の悪時に生きる私達は、その お釈迦様のご恩 に 報いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の 教え を、信じるべきである。
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『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の 教え を信じる と、私達は どうなって いくのか?
↓ 5つの「信心の利益」
1、大乗の利益「能(のう)発(ほつ)一念喜愛(きあい)心(しん) 不(ふ)断(だん)煩悩得(とく)涅槃」
信心(浄土の大菩提心(だいぼだいしん))を起こすならば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃を得ることができる
2、一乗(いちじょう)の利益「凡(ぼん)聖(しょう)逆(ぎゃく)謗(ほう)斉(さい)回入(えにゅう) 如(にょ)衆(しゅう)水(し)入(にゅう)海(かい)一味(いちみ)」
はからいの心 から離れて、如来の本願の世界 に 心身をゆだねるならば、いかなるもの も 仏になることができる
3、心光常護(しんこうしょうご)の益(やく)「摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご) 已(い)能(のう)雖(すい)破(は)無明(むみょう)闇(あん) 貪愛(とんない)瞋憎(しんぞう)之(し)雲霧(ふんむ) 常(じょう)覆(ふ)真実信心天(てん) 譬(ひ)如(にょ)日光覆(ふ)雲霧(うんむ) 雲霧(ふんむ)之(し)下(げ)明(みょう)無(む)闇(あん)」
「仏の光」が、私達の無明の心の中に 宿り、「真実」が届けられてくる
4、横超(おうちょう)の利益「獲(ぎゃく)信(しん)見(けん)敬(きょう)大(だい)慶喜(きょうき) 即(そく)横(おう)超截(ちょうぜつ)五悪趣(ごあくしゅ)」
他力によって娑婆を超えていく
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5、諸仏称讃(しょうさん)の利益「一切善悪(ぜんまく)凡夫人(ぼんぶにん) 聞信(もんしん)如来弘誓願(ぐぜいがん) 仏(ぶつ)言(ごん)広大(こうだい)勝解(しょうげ)者(しゃ) 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)」
「孤立している人間」を、しっかりと立ち上がらせる
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弥陀仏本願念仏 邪見憍慢(きょうまん)悪(あく)衆生 信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)甚(じん)以(に)難(なん) 難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)
改めて、阿弥陀様 の ご本願 を 振り返り、自らを省みて、深い懺悔(さんげ)と、得難い信心を獲た喜び とをもって、「依経段」と 次の「依釈段」とを結ぶ
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「信心の利益」
1、大乗の利益
信心(浄土の大菩提心(だいぼだいしん))を起こすならば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃を得ることができる
〈 原文 〉
能(のう)発(ほつ)一念喜愛(きあい)心(しん) 不(ふ)断(だん)煩悩得(とく)涅槃
〈 書き下し文 〉
よく一念喜愛(きあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃を得(う)るなり。
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〈 言葉の意味 〉
「一念」「喜愛(きあい)の心(しん)」→「信心」を表す言葉
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「信心」‐一点も私(わたくし)の無い心。明るく、濁りの無い、透明な、鏡のような意識。
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「一念」‐すべて が お念仏の中に起こっている、それを「一」と表された
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「一心」‐二心(ふたごころ)が無い、「お念仏以外に何もない」という心(天親菩薩)
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「唯(ゆい)」‐「念仏 も する」「暇があったら念仏する」ということではなく、「お念仏以外に何もない」という心
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『正信偈』は「唯」の精神で貫かれている(「唯」が六回 出てくる)
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「喜愛(きあい)の心(しん)」‐『仏説 無量寿経』下巻 十八願成就文の「信心歓喜(かんぎ)」の お心。「喜愛」は「歓喜」と「愛楽(あいぎょう)」
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・「歓喜」‐「信心を賜っている」「願い が この私 に 差し向けられている」そのことに気づかされた 本当に大きな喜び
・「愛楽(あいぎょう)」‐本当に求めるべきもの。自分の命をかけて求めなければならないもの。
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・「どうしても 自分を心配する心 から離れられない(我執)」という「暗い心」から はじめて 逃れて、本当に明るい心 を 取り戻す。今まで 長い間 一度も開(ひら)けたことのない 非常に深い我執の雲 が 破れて、明るい光が差してきた。
・この人生において本当に求めなければならないものが、はっきりした。
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「いまだかつて 遇ったことのないものに 遇った!」「本当の明るさを得た!」という喜び。
信心は、人間を明るくする。
損をしても明るい。病気をしても、明るく病気をする。苦労していても明るい。
私達は、苦労が嫌なのではなく、「明るく 苦労をしたい」と思っているのではないでしょうか。
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「菩提心」‐仏道を求める根性。大乗仏教では、菩提心を発(おこ)すことを、悟りを得るための第一の条件とする。
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浄土真宗では「菩提心」を「信心」と言い換え、親鸞聖人は「信心」のことを「浄土の大菩提心」と言っておられる
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「信心」は、私達が「自分の意志」で 起こすものではなく、「南無阿弥陀仏」を通して、「阿弥陀様 の ご本願 の お力」によって起こる
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「仏道を求める根性」は「人間の根性」だけれども、「信心」は「仏の根性」。
「仏の根性」に生きていくところに、「ご信心は、浄土の大菩提心」と親鸞聖人が言われる大事な意味がある。
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「煩悩」‐身や心を煩(わずら)わせ、悩ませる心。本能が濁ったもので、妨げ となり、人間を苦しめ、悩ませ、騒がせる。
↓↑
「涅槃」‐すべての煩悩が取り除かれた、心穏やかな状態
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「完全に煩悩を滅した状態」は、「命 終わった時のこと」なので、「涅槃」は「死」と理解されるようにも なった。
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人が亡くなること →「涅槃に入る」「入滅」(煩悩が滅した状態に入る)
↓「涅槃」を「悟り」という積極的な意味で理解しようとすると
「一念」「喜愛の心」が 起こされることによって、煩悩を無くさないままで、煩悩の支配を離れた「涅槃」という境地にいたることができる
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私達が「信心を持つ」ということは、物事を見通す「仏の眼(まなこ)」をいただくこと。「物事を底の底まで見抜く力」が与えられる。
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「煩悩」とは、本能が濁ったもの。
「煩悩が強い」ということは、生命力がある証拠。
煩悩を転ずれば、私達を支える 大きな力になる、命が いきいき としてくる。
↓ 例えば、
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「三つの髻(もとどり)」‐自分を飾るもの を 象徴する煩悩
↓↑ 煩悩 に 違う方向 を 与えることによって、正しい心に導く
「三誓偈(さんせいげ)」‐法蔵菩薩が、師 世自在王仏(せじざいおうぶつ)に、四十八願の内容を申し述べられ、重ねて、四十八願を明確にするために、「三誓偈(さんせいげ)」を述べられた
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「三誓偈」第一の誓い
私が発(ほっ)した願い が すべて成就しないのであれば、私は仏に成りません。
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「一切の人々を助けたい」という 本願 を 必ず実現させようとする、法蔵菩薩の強い決意が表わされている
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勝他(しょうた)(三つの髻)
周りの人と比べて、「自分の方が、優れている」と、思おうとする心。逆にいうと、人から見下されるのを嫌う心。
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「他に勝って優越感を得ようする煩悩」に、「共に、救われていく」という方向を与える
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「三誓偈」第二の誓い
悩み苦しむ あらゆる人々を救えないのであれば、私は仏に成りません。
↓
あらゆる人々の悩み苦しみを取り除いて、本当の安らぎを与えたいという誓い
↓
利養(りよう)(三つの髻)
金持ちになろうとする心。お金を持っていない人を見下す。財産の 多い 少ない によって、人の価値を決めてしまう心。
↓
「自己保身の煩悩」に、「共に、安らかに生きていく」という方向を与える
「三誓偈」第三の誓い
私の名声(みょうしょう)(名号 南無阿弥陀仏)を あらゆる処(ところ)に行き渡らせたいが、もし 私の名が聞かれないことがあるならば、私は仏に成りません。
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すべての人々に「南無阿弥陀仏」を届け、受け取らせることによって、生きていることを心の底から喜べない私達 に、真の喜び を 与えたいという誓い
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名聞(みょうもん)(三つの髻)
有名になって、一目置かれる存在になろうとする心。権力を求め、その権力で、周りの人を従わせようとする心。
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「自分の名前 を みんなに知ってもらいたい」という煩悩 に、南無阿弥陀仏と一つになって生きていく方向を与える。
(「私の名前」が、「俗名」→「法名」→「南無阿弥陀仏」と変わっていく)
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親鸞聖人は、「得(とく)」と「獲(ぎゃく)」を同じような意味で使っておられる場合もあるが、使い分けておられる場合もある
↓
「得」‐「未来に必ず える」という場合に使われる。(浄土や涅槃など)だが、「そのうちに」ということではない。ここで とは いえないが、すでに ここに 働きかけてきている。
「獲」‐ 現在 得た。信心の場合は、必ず「獲」という漢字を使う。
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「不断煩悩得涅槃」は、「得」(未来に必ず える)。「獲」(現在 得た)ではない。彼の土において得る。
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しかし、「一念」「喜愛の心」を獲たときに、涅槃が 今 この穢土へ働きかけてくる
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「未来の涅槃」‐すべての煩悩が取り除かれた、心穏やかな状態
↓ 働きかけ、現在に映し出される
「現世の涅槃」‐煩悩の支配を離れた境地
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まとめ
〈 書き下し文 〉
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かんとなり。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
よく一念喜愛(きあい)の心を発(ほっ)すれば、煩悩を断(だん)ぜずして涅槃を得(う)るなり。
〈 意訳 〉
「五濁悪世」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
だからこそ 五濁の悪時に生きる私達 は、その お釈迦様のご恩 に 報いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の教えを、信ずるべきである。
『大無量寿経』に示されている お釈迦様 の お言葉に従い、阿弥陀様の願い に 気づかされ、信心を賜り、暗い我執から はじめて 逃れて、「本当に求めるべきもの」がはっきりしたならば、阿弥陀様の眼(まなこ)を賜り、煩悩 を 生きる力 に 転じて、煩悩の支配を離れた「涅槃」の境地に いたることができる。(大乗の利益)
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