15 摂取心光常照護

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↑ 練習した音源(約25分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容を印刷して配っているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


今日のお言葉
〈 原文 〉
摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご)
〈 書き下し文 〉
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に照護(しょうご)したまう。

 ↓ 七月に見た 第二段 依経段(いきょうだん) 釈迦章(しゃかしょう) の 中心となる お言葉

如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海(ほんがんかい)を説(と)かんとなり。
五濁悪時(ごじょくあくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
〈 意訳 〉
「五濁悪世」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
だからこそ 五濁の悪時に生きる私達は、その「お釈迦様 の ご恩」に報(むく)いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願 の 教え」を、信じるべきである。

 ↓
『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願 の 教え」を信じる と、私達は どうなって いくのか?

 ↓「5つの信心の利益」


ー1ー


3、心光(しんこう)常(じょう)護(ご)の益(やく)
(「仏の光」が、私達の無明の心の中に 宿り、「真実」が届けられてくる)
〈 原文 〉
摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご) 已能雖破(いのうすいは)無明(むみょう)闇(あん) 貪愛瞋憎之(とんないしんぞうし)雲(うん)霧(む) 常覆(じょうふ)真実(しんじつ)信心天(しんじんてん) 譬(ひ)如(にょ)日(にっ)光(こう)覆(ふ)雲(うん)霧(む) 雲(うん)霧(む)之(し)下(げ)明(みょう)無(む)闇(あん)
〈 書き下し文 〉
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に照護(しょうご)したまう。
すでによく無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといえども、貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、常(つね)に真実信心の天(てん)に覆(おお)えり。
たとえば、日光の雲霧に覆(おお)わるれども、雲霧の下(した)、明らかにして闇(くら)きことなきがごとし。

 ↓
今日のお言葉
〈 原文 〉
摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご)
〈 書き下し文 〉
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に照護(しょうご)したまう。

 

〈 言葉の意味 〉

「摂取(せっしゅ)」‐「摂(せつ)」は お摂(おさ)めになる。「取(しゅ)」は 浄土へ迎え取る。

「心光(しんこう)」‐阿弥陀様の大慈悲心(だいじひしん)の光
                ↓ 
 「大慈(だいじ)」‐最も深い友情 を意味し、衆生をいつくしんで楽を与える
 「大悲(だいひ)」‐呻(うめ)き を意味し、衆生を憐(あわれ)み いたんで 苦を抜く
  ↓
 (平成二十九年十月十日 光琳寺報恩講 太田 浩史 師 談)
 お釈迦様が『無量寿経』の中で、このように言われている。
 「我(われ)、汝等(なんじら) 諸天(しょてん) 人民(にんみん)を哀愍(あいみん)すること(かなしみ あわれむこと)父母(ふぼ)の子を念(おも)うよりも甚(はなは)だし(はるかに超えている)。」
 人間には、なかなか 仏(ほとけ)の心が わからないけれども、たった一つ、わかる道があるんです。


ー2ー


 親が子を愛する気持ち、これを何千万倍にすれば仏(ほとけ)の心になる、というんです。
 子供が痛い目に遇ったり、病気になったりしたら、「代わってあげたい」と思う。
 その心を、そのまま、大きくしていったら、それが仏(ほとけ)の心です。
 だから、人の親になってみたら、仏(ほとけ)の心の ほんの一部 がわかる。
 だから、仏(ほとけ)は、あらゆる人を「自分の ひとり子」と言える方なんです。

「照護(しょうご)」‐照らし護られる

 ↓

〈 意訳 〉
阿弥陀様の大慈悲心の光に、照らされ、摂め取られれば、常に阿弥陀様に護られる 

 ↓ 具体的に

阿弥陀様の大慈悲心の光に、照らされ、摂め取られる
 お念仏を称えて、「阿弥陀様の大慈悲心の光に、照らされ、摂め取られる」と、その「仏の光」が、「私の心の中」に宿る。
 そして、「私の心」を「内」から照らし出し、「間違い」が「間違いであった」、「煩悩」が「煩悩であった」、「迷い」が「迷っていたんだ」と、私の「無明の心」に、「真実」を届け、煩悩の元である「無明」を破ってくださる。
  ↓
 「お念仏を称えることによって、「仏の光」が「私の心の中」に宿る」そのことを私自身が実感していく。
 その実感が「光に摂め取られる」「阿弥陀様に護られる」と表現されていて、そのことを通して、「命終われば、必ず お浄土へ迎え取ってくださる」という「阿弥陀様のお救い」を信じることができるようになっていく。

 ↓

ー3ー


常に阿弥陀様に護られる
 「私の心の中」に宿った「阿弥陀様の大慈悲心の光」が、「必ず浄土に生まれることができる」という「私の想い」を「内」から照らし、私達の「お念仏の生活」を護ってくださる。
 (「お念仏の生活」とは、常に新しい「光の世界 お浄土」を、心を留めていくこと)

 ↓
「必ず浄土に生まれることができる という想い」を「得生(とくしょう)」という
  ↓
 (平成二十九年八月十日 正信偈のつどい で ご紹介)
 親鸞聖人は、「得(とく)」と「獲(ぎゃく)」を、同じような意味で使っておられる場合もあるが、使い分けておられる場合もある
 「得」‐「未来に必ず える」という場合に使われる(浄土や涅槃など)。だが、「そのうちに」ということではない。ここで とは いえないが、すでに ここに 働きかけてきている。

 ↓
その「得生(とくしょう)の喜び」、「お浄土に生まれることができる」という喜びは、ひとえに、阿弥陀様からいただいた喜び。
阿弥陀様がお浄土を開いてくださり、「お念仏を称える者を必ず迎え取る」というお誓い があるからこそ、生まれてくる喜び。

 ↓
「その喜び」を、「自分一人だけのもの」にするのではなく、一切衆生、とくに ご縁のある人々と、分かち合いたくなってくる。
「阿弥陀様は、お念仏を称える者を、必ず お浄土に迎え取ってくださる」この喜びを伝えていくことが、「私の使命」のようにも思えてくる。

 ↓

ー4ー


しかし、その者の生活は、
「お浄土に必ず生まれることができる」という喜びを伝えていくために、謙虚に一歩下がって、
「願生者(がんしょうしゃ)‐浄土に生まれたいと願う者」という立場に身を置いて、「共に、お浄土に生まれる喜びを分かち合える日」を願って、生活を送っていく。
(「私は、浄土に生まれることができるんだ」と言ってしまうと、自慢しているようにも聞こえてしまう)

 ↓
『願生偈(がんしょうげ)』七高僧 第二祖 天親菩薩 著
世(せ)尊(そん)我(が)一心 帰命尽(じん)十方 無(む)礙(げ)光(こう)如来 願生(がんしょう)安楽(あんらく)国(こく)
 〈 意訳 〉
 世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に 十方世界に行き渡って自在に救いたもう阿弥陀如来を信じて安楽国に生まれることを願う。 ↓

『観無量寿経疏(しょ)』七高僧 第五祖 善導大師 著
願(がん)以(に)此(し)功徳 平等施(せ)一切 同(どう)発(ほつ)菩提心(ぼだいしん) 往生安楽国(あんらくこく)
〈 意訳 〉
 仏(みほとけ)の願いの大きな働きが、すべての命に平等に恵まれて、目覚めを求める心 を 一つにして 共に生きる世界 に 向かって 終りのない歩み を 続けていくことを

 ↓
内には「得生の喜び‐必ず浄土に生まれることができる」をいただきながら、
外には「願生者‐浄土に生まれたいと願う者」として、多くの人々と共にお浄土に生まれていくことを願う。
多くの人々と喜びを共にし、また 悲しみも共にして生活をしていく。
共に手を取って歩んでいくところに、「御(おん)同朋(どうぼう)・御(おん)同行(どうぎょう)」という世界が開かれてくる。

ー5ー


 

(平成二十九年九月十日 正信偈のつどい で ご紹介)
「回入(えにゅう)」‐ 回心(えしん)して帰入(きにゅう)する
           ↓
 真実に背を向ける「自分の計らい」「自分の思い」にこだわり続ける心を捨てて、大きな願いの中に生かされている「本来の自分」に 立ち戻ること。

 
お念仏を称えるたびに、自分の思いを捨てて、阿弥陀様を思い起こし、生かされてある「本来の自分」に 立ち戻っていく

 
お念仏を称える時も、「願生者‐浄土に生まれたいと願う者」としてお念仏を称える。
「私は得生者‐私は必ず浄土に生まれることができる者です」と言ってしまうと、身も心も硬くなってしまう。

 
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に照護(しょうご)したまう。
 「阿弥陀様の大慈悲心の光に、照らされ、摂め取られ、常に阿弥陀様が護ってくださる」
だからこそ、私達は、常に身心(しんじん)柔軟(にゅうなん)、身も心も柔(やわ)らかくなれる。

 
第三十三願「触光(そっこう)柔軟(にゅうなん)の願」
 私が仏になるとき、すべての数限りない仏方(ほとけがた)の世界が、私の光明に照らされるでしょう。
 そして、その光を、身に受けたならば、身も心も和らいで、すべてのものを超えすぐれた「美しい姿」になるでしょう。
 そうでなければ、私は決して悟りを開きません。

ー6ー


「私は得生者です」と言ってしまうと、身も心も硬くなってしまう
 ↓
摂取の心光、常に照らし、また護ってくださっている
 ↓
だから、私たちは、常に身心(しんじん)柔軟(にゅうなん)、身も心も柔らかくなれる
 ↓
第三十三願「触光(そっこう)柔軟(にゅうなん)の願」
私が仏になるとき、すべての数限りない仏方(ほとけがた)の世界が、私の光明に照らされるでしょう。
そして、その光を、身に受けたならば、身も心も和らいで、すべてのものを超えすぐれた「美しい姿」になるでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。

 ↓

「阿弥陀様の光明」は、「十二の光」として たたえられている。
無量光・無辺光・無碍光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光
 
「光明」とは、「智慧の姿」。
「その光を、身に受けた」とは、「真実」が届けられた、ということ。
「その光を、身に受けたならば、身も心も和ら」ぐ。
心が柔らかくなり、気軽に行動できるようになる。
 ↓
私たちは、だんだん「身」も「心」も、硬くなっていく。
「自分中心になろう」として、考え方が狭くなり、腰も重くなる。

ー7ー


 
「阿弥陀様の光明」は、「十二の光」として たたえられている。
無量光・無辺光・無碍光・無対光・炎王光(えんおうこう)・清浄光・歓喜光(かんぎこう)・智慧光・不断光(ふだんこう)・難思光・無称光(むしょうこう)・超日月光

 ↓
「光明」とは、「智慧の姿」。
「その光を、身に受けた」とは、「真実が届けられた」ということ。
「その光を、身に受けたならば、身も心も和ら」ぐ。
心が柔らかくなり、気軽に行動できるようになる。

 ↓
私達は、だんだん「身」も「心」も、硬くなっていく。
「自分中心になろう」として、考え方が狭くなり、腰も重くなる。

 ↓ 余談

古代中国の思想家「孔子(こうし)」の人柄 が いわれている お言葉
『意(い)なく・必(ひつ)なく・固(こ)なく・我(が)なし』
 「意なく」‐自分の主観だけで憶測することなく、広い視野を持って 物事を判断する
 「必なく」‐自分の考えを無理に通そうとすることなく、他人の意見にも しっかりと耳を傾ける
 「固なく」‐一つの判断に固執することなく、他の案にも柔軟に対応する
 「我なし」‐自分の立場や都合だけで物事を考えるのでなく、相手の立場を思いやって行動する

 ↓

ー8ー


私達は、どうしても、二つ並べる「相対の物差(ものさ)し」で物事を見てしまう。
「良い か、悪い か」(大体が、相手が悪くて、こっちが正しい、と思ってしまう)
「好き か、嫌い か」(自分に合う人は好きで、合わない人は嫌い)
「得 か、損 か」(得は良くて、損はダメ)
「勝ち か、負け か」(勝ち は 良くて、負け は ダメ みたいに思ってしまう)
「幸せ か、不幸せ か」(「あの人よりは、ましか」とか「おぞいもの・・」と、比べてしまう)
「間に合う か、間に合わない か」(自分の体でも、間に合う内は いいけれど、間に合わなくなるとダメだ おぞいものだ、と思ってしまう)

 ↓
この私達の頑(かたく)なな「相対の世界」に、「比較や対立するもののない、何ものにも縛られない 絶対 の お働き」として、「阿弥陀様の光」が 響(ひび)いてくださる。

 ↓
その光の「お働き」に出会うと、
「なんと、頑なな自分であったかな、自分中心だったな・・」
と、気づかされる。そう気づかされた時、身も心も柔らかくなる。
「頑な だったけど、だんだんと 柔らかくなっていく」というものではない。

 ↓
「真実」も同じように、「真実の世界」が どこかにある というわけではなくて、「真実」に出会い、
「私は、どこまでも自分中心に物事を考えてしまう・・真実が無い者であった・・」
と、気付かされた時が、「真実の世界」が私に届けられた時 となる。

ー9ー


まとめ

今日のお言葉
〈 原文 〉
摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご)
〈 書き下し文 〉
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に照護(しょうご)したまう。

お念仏を称える人の「心」に、「仏の光」が宿る。
そして、「仏の光」は、「私達の頑(かたく)なな 相対の心」を「内」から照ら出し、煩悩の根っこにある「無明」を破ってくださる。
そして その人は、身も心も和らいで、「立派な人生」を送ることができる。
また、その「仏の光」は、「得生(とくしょう)の喜び‐必ず浄土に生まれることができる」を照らし、護ってくださる。

 ↓
その「得生の喜び」は、ひとえに、阿弥陀様からいただいた喜び であるから、多くの人々と分かち合いたくなり、その喜びを伝えていくことが「私の使命」となっていく。

 ↓
その方法として、「願生者(がんしょうしゃ)‐浄土に生まれたいと願う者」という立場に身を置いて、生活をしていく。
内には「得生の喜び‐必ず浄土に生まれることができる」をいただきながら、
外には「願生者‐浄土に生まれたいと願う者」として、喜びと悲しみを共にしていく。
そこに「御(おん)同朋(どうぼう)・御(おん)同(どう)行(ぎょう)」という世界が開かれてくる。

ー10ー