16 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

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↑ 練習した音源(約26分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容を印刷して配っているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


第二段 依経段 釈迦章 五つの信心の利益
3、心光(しんこう)常(じょう)護(ご)の益(やく)
(「仏の光」が、私達の無明の心の中に 宿り、「真実」が届けられてくる)
〈 原文 〉
摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご) 已能雖破(いのうすいは)無明(むみょう)闇(あん) 貪愛瞋憎之(とんないしんぞうし)雲(うん)霧(む) 常覆(じょうふ)真実(しんじつ)信心天(しんじんてん) 譬(ひ)如(にょ)日(にっ)光(こう)覆(ふ)雲(うん)霧(む) 雲(うん)霧(む)之(し)下(げ)明(みょう)無(む)闇(あん)
〈 書き下し文 〉
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に照護(しょうご)したまう。すでに よく 無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといえども、貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、常(つね)に真実信心の天(てん)に覆(おお)えり。
たとえば、日光の雲霧に覆(おお)わるれども、雲霧の下(した)、明らかにして闇(くら)きこと なきがごとし。

 ↓
前回のお言葉
〈 原文 〉     
摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご)
〈 書き下し文 〉
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に照護(しょうご)したまう。
〈 まとめ 〉
お念仏を称える人の「心」に、「仏の光」が宿る。
そして、「仏の光」は、「私達の頑(かたく)なな 相対の心」を「内」から照ら出し、煩悩の根っこにある「無明」を破ってくださる。
そして その人は、身も心も和らいで、「立派な人生」を送ることができる。
また、その「仏の光」は、「得生(とくしょう)の喜び‐必ず浄土に生まれることができる」を照らし、護ってくださる。
 ↓

ー1ー


その「得生の喜び」は、ひとえに、阿弥陀様からいただいた喜び であるから、多くの人々と分かち合いたくなり、その喜びを伝えていくことが「私の使命」と なっていく。
 ↓
その方法として、「願生者(がんしょうしゃ)‐浄土に生まれたいと願う者」という立場に身を置いて、生活をしていく。
内には「得生の喜び‐必ず浄土に生まれることができる」をいただきながら、外には「願生者‐浄土に生まれたいと願う者」として、喜びと悲しみを共にしていく。
そこに「御(おん)同朋(どうぼう)・御(おん)同(どう)行(ぎょう)」という世界が開かれてくる。

 ↓
今日のお言葉
〈 書き下し文 〉
すでに よく 無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといえども、貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、常(つね)に真実信心の天(てん)に覆(おお)えり。
たとえば、日光の雲霧に覆(おお)わるれども、雲霧の下(した)、明らかにして闇(くら)きこと なきがごとし。

 ↓
三毒(さんどく)(無明(むみょう)・貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう))の煩悩
 人間を最も苦しめている煩悩を「毒」に例えている

「無明(むみょう)」
 愚痴‐智慧がないこと。凡夫の迷いの根本となる煩悩。
 真実に暗く、真実を正しく見ることのできる「明るさ」が欠けている哀れな状態。「おろか」

 ↓「無明(むみょう)」によって起こる心の働き

ー2ー


「貪愛(とんない)」
 貪欲‐むさぼり。必要以上に求める心。
 「大切なものだ!」と錯覚して、しがみつく愛着・欲望。
 「欲」「むさぼり」「ものおしみ(物を使ったり、与えたりするのを惜しむこと。けち)」

「瞋憎(しんぞう)」
 瞋恚(しんに)‐「自分の思い通りにならない!」と、怒り憎む心。
 周りの人を傷つけると同時に、自分自身をも傷つけ、落ち着いた心を失い、ますます間違った方向に自分を追いやってしまう。「いかり」「にくい」

 ↓
三毒の煩悩は、並べていわれることが多いが、種類が違う
 ↓

貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、常(つね)に真実信心の天(てん)に覆(おお)えり。
  ↓
 「天に覆えり」→「貪愛・瞋憎」は「天」にあるもの        
  ↓
 「天」に対していうならば、「無明」は「地」にあるもの

 ↓
すでに よく 無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといえども、
  ↓
 「地」にある「無明(愚痴)」は 破れるけれど、「天」にある「貪愛(とんない)(貪欲)」「瞋憎(しんぞう)(瞋恚(しんに))」はどうすることもできない、残ってしまう。

「二河白道(にがびゃくどう)図(ず)」

 ↓

ー3ー


「愚痴」を破ってくださるのが「信心」。
「欲も起こらなくなる、腹も立たなくなる」というものが「信心」ではない。
「貪欲」と「瞋恚」は、ご縁があると、条件がそろうと、起こってしまう。
物をもらう と うれしい し、また、その逆もある。
「腹を立てよう」と思って、腹を立てるわけではない。
条件がそろう と、ちゃんと起こってしまう。

 ↓
煩悩の根っこ「愚痴」さえ破れればいい。
根っこ が切れれば、そのうちに枯れる。「枯れた」ことを「成仏」という。
煩悩の根っこ が切れれば、「わるさ」をしなくなる。
迷いの元が断ち切られれば、流転(るてん)(迷い続けること)が終わる。
煩悩の根っこ「無明」が破られれば、煩悩があっても差し支えない。

 ↓
煩悩の根っこ「無明」は、「己(おのれ)知(し)らず」という一点。
「わが身が知らされる」というところに、「心光(しんこう)常(じょう)護(ご)のご利益(りやく)」がある。

 ↓
私達は「自分が どういう者であるのか」という「自分」を知らない。
私達は「自分が どういう心を起しているのか」という「自分に起こっている心」も、自分では わからない。

 ↓
「摂取の心光」は、そういう私の「心の中」に入って、私の心を照らしてくださる。わが身を思い知らせてくださる。

 ↓

ー4ー


無駄なものは、なに一つない。
「煩悩が起こる」ということを「ご縁」として、「煩悩を起こす必要がなかった」という世界が開けてくる。
煩悩が全部 仏の世界を開く ご縁 となっていく。

 ↓
(平成二十九年八月十日 正信偈のつどい で ご紹介)
不(ふ)断(だん)煩悩得(とく)涅槃
 〈 意訳 〉
 阿弥陀様の眼(まなこ)を賜り、煩悩 を 生きる力 に 転じて、煩悩の支配を離れた「涅槃」の境地に いたることができる。

 
私達は、時と場合によっては、本当に自分を見失うような事件にぶつかってしまう。しかし、そのことをご縁として、仏の世界が開かれ、自分に立ち返ることができる。
どっちへ転んでも無駄はない。これほど 確か で、心強いもの は ない。それが お念仏 の お働き。

 
「清浄光、歓喜光、智慧光」は、みんな「煩悩」が変わったもの。
(「貪欲」に対して「清浄光」、「瞋恚」に対して「歓喜光」、「愚痴」に対して「智慧光」)
これを「転悪成徳(てんまくじょうとく)(悪を転じて徳と成す)」という。
すべてが 仏の世界を開く ご縁 になり、生きる力 に変わっていく!

 ↓ 余談

ー5ー


根本煩悩(苦しみを生む根本 といわれる十の煩悩)
一、貪(とん)‐必要以上に「欲しい、手に入れたい」と思う欲
二、瞋(じん)‐腹が立って「イライラが収まらない、許せない」という怒り
三、癡(ち)‐物事の道理が分からないために起こる愚痴や愚行(ぐこう)
四、慢(まん)‐自分は凄(すご)い ということを他人に誇りたがる傲慢(ごうまん)な態度
五、疑(ぎ)‐物事を信じる事ができず、疑ってしまう
六、有身見(うしんけん)‐「自分の体は自分の思い通りになる」と思うこと
七、辺執見(へんしっけん)‐「善か悪か、白か黒か」に分ける極端な考え方
八、邪見(じゃけん)‐「自分の行いが自分に返ってくる」ことを知らず、身勝手な振る舞いをする
九、見取見(けんしゅけん)‐「他人は自分よりも劣っている」と思ってしまう偏見
十、戒禁取見(かいきんしゅけん)‐誤った考え方を信じ込み、「正しい事」と勘違いをしてしまう

枝末(しまつ)煩悩(根本煩悩が生まれる時に一緒に沸き起こってくる十の煩悩)
一、無慚(むざん)‐自分に対して恥(はじ)らいが無い
二、無愧(むき)‐他人に対して恥じ入る事が無い
三、嫉(しつ)‐人を羨(うらや)ましがる妬(ねた)みや嫉妬(しっと)
四、慳(けん)‐「もったいない」と物惜しむ心
五、悔(け)‐後悔する心
六、眠(みん)‐思うように体が動かない
七、掉挙(じょうこ)‐心が騒がしく興奮がやまない
八、惘沈(こんじん)‐滅入(めい)って ふさぎ込む
九、忿(ふん)‐抑えられないような激しい怒り
十、覆(ふく)‐犯した罪を覆(おお)い隠そうとする心

ー6ー


 ↓
信心をいただいたら、凡夫であることは変わらないが私達の中に、一つ「凡夫でないもの」が、動き出す。
「無明が破れた、自分に目覚めた、自分が わかった」
この一点だけは、「信を得た人」と「他の人」との 大きな違い。

 ↓
信心をいただいても、腹も立つし、欲も起こる。
けれども、腹が立ったこと や 欲の起こったこと を ご縁 として自分に立ち戻ることができる。煩悩に振り回されることが無くなる。

 ↓
貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、常(つね)に真実信心の天(てん)に覆(おお)えり。
 「貪欲・瞋恚の煩悩が、常に真実信心を覆っている」ということは、貪欲・瞋恚の煩悩を通して、私達に光が届けられている、ということ。
 そこに「仏智(ぶっち)の不思議、誓願の不思議」ということがある。

 ↓
たとえば、日光の雲霧に覆(おお)わるれども、雲霧の下(した)、明らかにして闇(くら)きこと なきがごとし。
  ↓
 信心をいただかれた方は、すでに無明の闇が破られ、その人の上に いつでも「真実信心の太陽」が輝いている

  ↓ けれども

 貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)は、常に真実信心の天を覆っている。(曇り空)

ー7ー


  ↓ しかし

 曇り空でも、太陽が昇れば、その光は雲にさえぎられることなく、その下は「闇」ではなく、明るい!

  ↓
 「カラリと晴れた」とは言ってない。「雲霧」は、煩悩の様子を表している。
 「カラリと晴れた」ということは、「成仏」を意味する。
 つまり、信心の生活は曇り空。曇り空だけれども、夜は明けている。
 だから、道を歩くのに、なにも不自由はない。

 ↓ 表と裏、同じことをいっている

正信偈 源信(げんしん)僧都(そうず)(七高僧 第六)の所
煩悩(ぼんのう)障(しょう)眼(げん)雖(すい)不(ふ)見(けん) 大悲(だいひ)無(む)倦(けん)常(じょう)照(しょう)我(が)
 〈 書き下し文 〉
 煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて 見たてまつらずといえども、大悲 ものうきことなく、常に我(われ)を照らしたまう、といえり。
 〈 意訳 〉
 煩悩が眼(まなこ)をさえぎって 光を見ることができないがそれでも 大悲の仏(みほとけ)は あくことなく常に 私を 照らしてくださるのです。このようにいわれたのです。

  ↓
 「いえども(雖(すい))」
 信心をいただいて、「心の中」に、「仏の光」が宿ったが、煩悩を起こす身であることは、変わらない。

ー8ー


 
「浄土真宗の構造」が言い表された 貴重な お言葉

 ↓「往生は いつなのか」浄土真宗 と 他の伝統仏教 との 一番の違い

信心をいただけば、無明長夜(じょうや)の闇(やみ)(無明を「明けることのない長い夜」に 例えた)は、晴れる。
貪愛・瞋憎の雲霧は、常に真実信心の天を覆っているが、ちゃんと 成仏する道 は、開けている。
お浄土に往生するのは、信心をいただいて、心にお浄土が開けた時。
生きている今、往生する。往生は、死後のこと ではない。

 ↓
『一念多念文意』親鸞聖人 著
真実の信心を得れば、ただちに無礙光仏(むげこうぶつ)は、その お心のうち に その人を「摂取(せっしゅ)」して 決して お捨てにならないのである。
「摂(せつ)」は お摂(おさ)めになる ということであり、「取(しゅ)」は 浄土へ迎え取る ということである。
摂め取ってくださるとき、ただちに、時を経ること も 日を置くこともなく、正定聚(お浄土に往生すべき身)の位(くらい)に定まることを、「往生を得(え)る」と仰(おお)せになっているのである。

 ↓

ー9ー


『親鸞との対話』曽我量深 著
往生も身にあり、というのが浄土宗。
成仏も心にあり、というのが聖道門。
往生は心にあり、成仏は身にあり、というのが浄土真宗の教えである。

 ↓

『浄土和讃』親鸞聖人 著
信心よろこぶ そのひと を  如来 と ひとし と ときたまふ  大信心は仏性なり  仏性 すなはち 如来なり
 〈 意訳 〉
 仏法を聞いて、「私は、阿弥陀様に願われて、信心をいただくことができた」と、本当に喜ぶ人は、仏に成ることが決まっているので、この人をほめたたえて「如来と等しい」と説かれる(華厳経(けごんぎょう))。
 この大信心(他力の信心)によって仏性(阿弥陀様は「すべての命あるものの心」にまでなっておられる ということ)を悟るから、大信心は仏性であり、仏性は即(すなわ)ち如来であり、涅槃(まことの仏に成ること)である(涅槃経(ねはんぎょう))。

ー10ー


 ↓「蓮の花」

 蓮は、泥の中に根を張り、純白(じゅんぱく)の花を咲せる。
また、蓮は、花が咲けば、必ず「実」ができる。
その実は堅く、水も空気も通さないため、何千年も腐らない。
ところが、その実に 水が入れば、たちまち永い眠りから覚めて芽が出てくる。
 そのような蓮は「三つの徳がある」と たたえられている。

一、汚泥(おでい)不染(ふせん)‐沼池に咲きながらも、泥に染まず純白の花を咲かせる。
  ↓ 例え
 ドロドロとした「社会の悪や誘惑」を養分として、純白の花を咲かせる。

二、花果(かか)同時(どうじ)‐蓮には「あだ花」がない。花が咲くのと同時に実ができる。
  ↓ 例え
 あらゆる命は、生まれると同時に「仏性」を宿している。

三、種子(しゅし)不失(ふしつ)‐蓮の種は、何千年経っても発芽力を失わない。
  ↓ 例え
 誰もが仏性を宿し、「悪人」と いわれる人も、仏に出会えば「懺悔(さんげ)の心」がわいてくる。

 ↓

信心をいただかれた方(花)は、仏と成ることが決まっている(実)ので、「如来」ではないけれども、「如来と等しい」と ほめたたえられている

ー11ー


まとめ

第二段 依経段 釈迦章 五つの信心の利益
3、心光(しんこう)常(じょう)護(ご)の益(やく)
(「仏の光」が、私達の無明の心の中に 宿り、「真実」が届けられてくる)
〈 原文 〉
摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご) 已能雖破(いのうすいは)無明(むみょう)闇(あん) 貪愛瞋憎之(とんないしんぞうし)雲(うん)霧(む) 常覆(じょうふ)真実(しんじつ)信心天(しんじんてん) 譬(ひ)如(にょ)日(にっ)光(こう)覆(ふ)雲(うん)霧(む) 雲(うん)霧(む)之(し)下(げ)明(みょう)無(む)闇(あん)
〈 書き下し文 〉
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に照護(しょうご)したまう。すでに よく 無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといえども、貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、常(つね)に真実信心の天(てん)に覆(おお)えり。
たとえば、日光の雲霧に覆(おお)わるれども、雲霧の下(した)、明らかにして闇(くら)きこと なきがごとし。
〈 意訳 〉
 お念仏を称える人の「心」に、「仏の光」が宿る。
その「仏の光」は、「得生(とくしょう)の喜び(必ず浄土に往生することができる)」と、「願生(がんしょう)の使命(多くの人々と共に浄土に生まれたい)」を照らし、護ってくださる。
また、心に宿る「仏の光」は、その人の中で太陽のように輝き、煩悩の根っこにある無明の闇を破ってくださる。
しかし、「煩悩を起こす身」を生きていることは、変わらないため、貪欲と瞋恚は晴れることなく、雲のように、その人の心を覆う。
しかし、煩悩の根っこ が 断ち切られているので、煩悩に振り回されることは無くなり、「煩悩が起こる」ことも、そのすべてが、仏の世界を心に開く「ご縁」となっていく。(転(てん)悪(まく)成(じょう)徳(とく)(悪を転じて徳と成す))
その人は、「如来と等しい」と ほめたたえられ、身も心も和らいで、「御(おん)同朋(どうぼう)・御(おん)同行(どうぎょう)」の世界を歩んでいく。

ー12.ー


 ↓ 生活が変わる

現生(げんしょう)正定聚(しょうじょうじゅ)(この世で、生きている間に、浄土に往生する)という新しい生活が始まる。

「浄土に往生した者の生活」(精神生活・宗教生活)
 「目に見えるもの(物質的なもの)」より「見えないもの(精神的なもの)」に、「生きがい」や価値を見出していく生活。
 精神が安定しているため、環境に対して、平常心を保って向き合うことができる。
  
 ↓ これまでの生活

「穢土(えど)の生活」(精神生活に対していうならば物質生活)
 「目に見えるもの(物質的なもの)」にしか「確かさ」が見出せず、お金や物に 縛られ、苦しみが多く、心に純粋さを失う。
 精神が不安定なため、環境に大きな影響を受ける。

ー13ー