18 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華

↑ 練習した音源(約21分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
下記の内容を印刷して配っているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん) 成就の文(もん)

〈 原文 〉
諸有(しょう)衆生、聞(もん)其(ご)名号、信心歓喜(かんぎ)、乃至(ないし)一念。至心(ししん)回向。願生(がんしょう)彼国(ひこく)、即(そく)得(とく)往生、住(じゅう)不退転(ふたいてん)。唯除(ゆいじょ)五逆(ごぎゃく) 誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)。

〈 書き下し文 〉
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん。
至心(ししん)に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願(がん)ずれば、すなわち往生を得(え)、不退転(ふたいてん)に住(じゅう)せん。ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば除(のぞ)く。

〈 意訳 〉
阿弥陀様は、心を尽(つ)くして、生きとし生けるものに、「真実」を伝えよう としてくださっている。
その 阿弥陀様のご苦労 は、人々に「南無阿弥陀仏の由来 と お心」が伝わっていくことで、実現されていく。
そうして、人々が、諸仏・善知識(よき人)を通して、「南無阿弥陀仏の由来 と お心」を聞き、
「すべての出来事は、南無阿弥陀仏の中で起こっている」ということを知らされ、信心を得て、歓喜(よろこび)にあふれることになる。
そして、その人が「私も阿弥陀様のおられる お浄土 に 生まれたい」と願えば、阿弥陀様の不可思議な お力 に よって、たちどころに 心がお浄土に往生し、命終われば、必ず お浄土に生まれて、仏に成ることができる。
ただし、「重い罪」や「仏法を謗る」などの 悪 を 犯す者は、除かれる。

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〈成就文〉      〈正信偈〉
信心歓喜(かんぎ) → 獲(ぎゃく)信(しん)見(けん)敬(きょう)大(だい)慶喜(きょうき)(前回 見ました)

〈成就文〉        〈正信偈〉
即(そく)得(とく)往生 → 即(そく)横(おう)超截(ちょうぜつ)五悪趣(ごあくしゅ)(前回 見ました)

〈成就文〉       
住(じゅう)不退転(ふたいてん)
 ↓
〈正信偈〉
一切(いっさい)善悪(ぜんまく)凡夫人(ぼんぶにん) 聞信(もんしん)如来(にょらい)弘誓願(ぐぜいがん) 仏(ぶつ)言(ごん)広大(こうだい)勝解(しょうげ)者(しゃ) 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)
  ↓
 「不退転」‐ 仏道修行において、すでに得た境地や信心を失わないこと

 ↓
第二段 依経段 釈迦章 五つの信心の利益
5、諸仏称讃(しょうさん)の利益(りやく)(「孤立している人間」を、しっかりと立ち上がらせる)

 ↓
諸仏が称讃(しょうさん)(ほめたたえる)してくださるから、不退転(信心を失わない)に住(じゅう)する(とどまる)ことができる。

 ↓
今日のお言葉

〈 原文 〉
一切(いっさい)善悪(ぜんまく)凡夫人(ぼんぶにん) 聞信(もんしん)如来(にょらい)弘誓願(ぐぜいがん) 仏(ぶつ)言(ごん)広大(こうだい)勝解(しょうげ)者(しゃ) 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)

〈 書き下し文 〉
一切善悪の凡夫人(ぼんぶにん)、如来の弘誓願(ぐぜいがん)を聞信(もんしん)すれば、仏、広大勝解(しょうげ)の者(ひと)と言(のたま)えり。この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく。

 ↓

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〈 言葉の意味 〉
「一切善悪の凡夫人(ぼんぶにん)」
  ↓
 世間で「善人」と称される有能な人であろうと、
 世間で「悪人」といわれる無能な人であろうと、
 「およそ 往生とは縁がない」と 思われるような人であろうと、
 「自分の力では とても往生できるはずもない」と 思われる人であろうと・・

 ↓
「凡夫人(ぼんぶにん)」
 →「凡夫」のこと。 聖者(しょうじゃ)でない普通の人。その一面を押さえて「群萌(ぐんもう)」「凡小(ぼんしょう)」「貧苦(びんぐ)」とも いわれる。
  ↓
 「群萌(ぐんもう)」
  →独(ひと)り では生きていけない、寄り集まらなければ生きられない者。

 「凡小(ぼんしょう)」
  →非常に狭く、浅い生き方をしている者。
  「凡」‐「深さ」を失っていることをいう。浅く生きている。「済んだ、済まない」「足りる、足らない」「多い、少ない」
「儲かった、損した」ということばかり言って、非常に浅い生き方をしている。
  「小」‐「広さ」を失っていることをいう。広い世界を失い、自分のこと しか わからず、根性が小さくなっている。

 「貧苦(びんぐ)」
  →智慧がなく、内に求めなければならないものが見えない者。
   自分に、ちゃんと 備わっているもの があるのに、それに気が付かず、一生懸命 外に 何か を 求めていく。
   しかし、そこには満足がなく、安心もない。
   「貧」は 満足の無い心、「苦」は 安心ができない心 をいう。

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  ↓ わかりやすく言うと、

 凡夫とは、「縁」に動かされている弱い者。
 良い ご縁 に 恵まれれば、計らずも良いことをする。
 悪い縁が訪れれば、「こんなことをしては いけない」と思っても、してしまう。
 「自分の心掛け」では、どうすることもできない、縁によって動かされている弱い者を「凡夫」という。

 ↓
如来の弘誓願(ぐぜいがん)を聞信(もんしん)すれば、

〈 言葉の意味 〉
「如」‐一切を動かしている 命の源。私達も、「如」に突き動かされて生きている。 
   「そこから生まれ、それに支えられて生きて、やがて そこへ帰っていく」という「命の源」。
 ↓
「如来」‐その「如」を 失っている人間に、「如」を知らせるために、来た。

「弘誓願(ぐぜいがん)」
 →「すべての人々を救わなければならない」と誓い、しかもいつでも どこでも 私達に働きかけ続けてくださっているので、「弘(ひろ)い(広大な)誓願」と いわれている。
 ↓
「本願」のこと‐人の善悪や能力を越えていて、それら すべてを包み込む大きなお力。本願は「如(にょ)の心」を表している。

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 ↓
本願(如(にょ)の心)が、名号(南無阿弥陀仏)となって、私達を呼びかけ続けてくださっている。
 ↓
         が        となって私達に届けられてくる
「本願」(如の心) →「南無阿弥陀仏」       =       「如来」


 ↓ 阿弥陀如来という形を示して、
 
            に呼び覚まされて
「阿弥陀如来の呼びかけ」    →    如の心(本願)に目覚めていく


「聞信(もんしん)」‐ 聞法(もんぽう)をして信ずる

 「聞法」
  一、法を聞く。阿弥陀様の願いが語られている場に、足を運び、身を置く。
  二、「親鸞聖人が「念仏の教え」を、どれほど喜ばれたのか」を受け止め、お互いに 確かめ合う場が、聞法の場。

  ↓
 「阿弥陀様の本願」が説かれているのが『仏説 無量寿経』。
 「仏」とは「お釈迦様」のこと。「無量寿」とは「無量寿仏‐阿弥陀様」のこと。
 『仏説 無量寿経』とは、お釈迦様が、阿弥陀様について お説きになられた お経 。
 阿弥陀様が「どのようなことを、どのように願っておられるのか」を教えてくださったのが、お釈迦様。

  ↓

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 阿弥陀様は、私達を救うために、念仏「南無阿弥陀仏」を用意してくださった。
 「この お念仏 を、そのまま 素直に受け取ってほしい」と、阿弥陀様は願い、
 いつでも、どこでも、私達に働きかけ続けてくださっている。
  
  ↓
 私達は、真実を知らないために、迷い続け、悩み、苦しみ、不平・不満をつのらせながら、日々を過ごしている。

  ↓
 このような私達を哀れんで、お釈迦様は『仏説 無量寿経』を説いてくださった。
 「念仏「南無阿弥陀仏」によって、助けたい」という阿弥陀様の願いを説いてくださった。

  ↓
「その願い」に、気づかせてもらえる場所が、聞法の場。
「その願い」に、気づかされると「聞信」になる。

  ↓
 「信ずる」とは「疑わない」ということ。
 「疑いの心」は、「教え」よりも、「自分の思い や 考え」を大切にするときに起こる。「何のために信じるのか」「信じれば自分はどうなるか」等

  ↓
 「信ずる」とは、「自分の思い」から離れて、「思い」を空(から)にして、謙虚に「教え」と 向き合うこと。

  ↓
 「お釈迦様の教えを伝えていく」ことも「聞法」になる

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 ↓
仏、広大勝解(しょうげ)の者(ひと)と言(のたま)えり。

〈 言葉の意味 〉
「仏」‐ここでは、お釈迦様 のこと

「広大」‐「阿弥陀様 の お心」。「凡小(ぼんしょう)」の反対。

「勝解(しょうげ)」‐対極を明らかにする働き
 ↓
「勝解(しょうげ)の者(ひと)」‐偉大な、勝(すぐ)れた見解を持つ人

 ↓

〈 意訳 〉
「あなた方が、凡夫だからこそ救いたい。どのような人であっても、例外なく救いたい。」
という 阿弥陀様の広大な願い を聞いて、信ずるならば、
「その人」を お釈迦様は、「広く偉大な、勝(すぐ)れた見解を持つ人である」とほめたたえてくださる。

 ↓
阿弥陀様の本願 は「如(にょ)の心」
「如」‐一切を動かしている 命の源。私達も、「如」に突き動かされて生きている。
   「そこから生まれ、それに支えられて生きて、やがて そこへ帰っていく」という「命の源」。
 ↓

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・「如」が わかった人が「広大勝解(しょうげ)の者(ひと)‐広く偉大な、勝(すぐ)れた見解を持つ人」
 「その人」は「独立者」となる。一人でいても、にぎやかで、満足できる。

・「如」が わからない人は、孤立者。
 他のもの との つながり が 見えず、「独りぼっち」になり、寂しい。
 だから、なにか「支え」がほしくて、人間の考えの中で、外に それを求めていく。「金」「財産」「地位」「名声」・・
 また、「人」「子供」をも「自分の支え」にしようとする。
 人を「支え」にしようと思っていたら、なかなか思うように いかない。えらい目に遭うこともある。
 「支えにならないもの」を「支え」にしようとするため、無理が出てきて、ますます寂しくなっていく。

 ↓
『歎異抄(たんにしょう)』第六章 唯円(ゆいえん)(親鸞聖人の お弟子)の聞き書き
親鸞は弟子一人(いちにん)も もたずそうろう

 ↓
これが、独立者の宣言。そのようなことを言われた僧侶は、親鸞聖人ただ一人。
(弟子が多いほど、師匠の「支え」となる。弟子が多いほど、師匠の名 も 有名になり、お布施も増えてくる。)
「広大勝解(しょうげ)の者(ひと)」は、「凡夫」ではあるが、どんなことが起こっても グラグラ 心が動かない。
広大な 阿弥陀様の お心 に気づかされ、その 阿弥陀様の お心 に生きる人。

 ↓

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この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく。

〈 言葉の意味 〉
「分陀利華(ふんだりけ)」‐インドの言葉「プンダリーカ(白い蓮の華)」を音写した言葉
  ↓
 インドには、たくさんの種類の美しい花 が咲いていたが、その花の中で、「蓮の華」が もっとも気高く尊い華 と されてきた。
  ↓
 お寺 や お内仏(お仏壇)などに「蓮の華」が たくさんある。

  ↓「蓮の華」は どのような所で咲いているのか

 『教行信証』親鸞聖人 著
 高原(こうげん)の乾いた陸地には蓮の花は生(しょう)じないが、低い湿地の泥沼(どろぬま)には蓮の花が生(しょう)じる。

  ↓
 もっとも尊ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような明るくて風通しのよい、すがすがしい場所に育つのではない。
 誰からも遠ざけられるような、汚(きたな)らしく ジメジメとした泥沼にこそ、蓮の華は咲く。
 一切の汚(よご)れ に 汚(よご)されていない真っ白な蓮華 は、ドロドロと濁(にご)りきった泥沼(どろぬま)の中にしか咲かない。何とも不思議。

 ↓

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 「泥沼」
  →世間の泥 に まみれている。
   煩悩にあふれた日常に埋没して、そこから脱け出そうにも脱け出せない。
   「何が人生の最後の依り処になるのか」を 考えることもできない。

  ↓
 濁(にご)った世の中 に 生きていかなければならない が、その濁(にご)った世の中 に 溺(おぼ)れない。濁(にご)りの中 に いても 濁(にご)らない。
 それが 信心の利益の五つ目「諸仏称讃(しょうさん)の利益(りやく)(「孤立している人間」を、しっかりと立ち上がらせる)」。

  ↓
 「教え」をいただいて、わが身のあり様を つくづくと思い知らされて、阿弥陀様から差し向けられている願い を よくよく聞かせていただき、疑うことなく 素直に「教え」と向き合うならば、
 「泥の中に咲く 気高く 清らかな 白い蓮華である」と、お釈迦様は ほめたたえてくださる。何とも ありがたいことです。

  ↓
 蓮の花を「妙好華(みょうこうげ)」とも いい、信心を獲た人を「妙好人(みょうこうにん)」とも いう。
 妙好人は、阿弥陀様の眼(まなこ)から ご覧になって「好(この)ましい人」という意味にも なる。

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まとめ

第二段 依経段 釈迦章 五つの信心の利益
5、諸仏称讃の利益(「孤立している人間」を、しっかりと立ち上がらせる)← 不退転(ふたいてん)に住(じゅう)せん

〈 原文 〉
一切(いっさい)善悪(ぜんまく)凡夫人(ぼんぶにん) 聞信(もんしん)如来(にょらい)弘誓願(ぐぜいがん) 仏(ぶつ)言(ごん)広大(こうだい)勝解(しょうげ)者(しゃ) 是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)

〈 書き下し文 〉
一切善悪の凡夫人(ぼんぶにん)、如来の弘誓願(ぐぜいがん)を聞信(もんしん)すれば、
仏、広大勝解(しょうげ)の者(ひと)と言(のたま)えり。この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく。

〈 意訳 〉
「自分の心掛け」では どうすることもできない縁によって動かされている弱い「凡夫」が、
阿弥陀様の本願に込められた「命の源へ帰れ」という呼びかけ を、疑うことなく、素直に受け止め、向き合うならば、
お釈迦様は、「その人」のことを
「広く偉大な、勝(すぐ)れた見解を持つ人である」
「泥の中に咲く 気高く 清らかな 白い蓮華である」と ほめたたえてくださる。

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