22 弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

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↑ 練習した音源(約24分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
近くのご寺院では、下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


正信偈 の お勤め について 
蓮如上人が、「正信偈」と「和讃(和訳の教行信証(きょうぎょうしんしょう)といわれている)」に、当時の流行歌(りゅうこうか)で節(ふし)をつけ、「真宗門徒の朝夕の お勤め」とされた。
その 大変な ご苦労 により、私達は、正信偈に非常に親しみ、身近な お聖教(しょうぎょう) となっている。


正信偈 の お心
「南無阿弥陀仏という お念仏 が、この世の中に生まれる土台となった出来事」と「その お念仏 が この世の中に広まっていった歴史」に感謝をして、合掌をしている。
その 正信偈の内容 は「浄土真宗の全体 が ここに言い尽くされている」と いっても過言ではない。

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正信偈の前の文章の要約
(正信偈は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』行巻(ぎょうのまき) の 終わり に記されている)
「阿弥陀様 の ご恩 が、はかりしれないほど深いことを知り、阿弥陀様に身をゆだねて生きる菩薩」が、「正信偈」を作り、申し上げておられている。
その「正信偈」とは、お釈迦様 の 真実 の お言葉 に従い、大(おお)いなる祖師方(そしがた)の説き明かされた言葉を一つ一つ確かめている偈(うた)である。
(正信偈は、親鸞聖人が記されたものだが、親鸞聖人の「個人的な感情」は、一切 含まれていない。
 親鸞聖人は、当然 昔からあったはずの「菩薩が阿弥陀様を讃(たた)える偈(うた)」を、「正信念仏偈」(正式名称)と称(しょう)して、文字にして記しただけだ と 思っておられる。)

第一段 総讃(そうさん)
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「心の底から阿弥陀様を敬い、日々の拠り所として生きていきます」という お心の表明。
(「総讃(そうさん)」は、独立している お言葉 だが、正信偈全体を包んでいる お言葉 でも ある。)

第二段 依経段(いきょうだん)
「弥陀章(みだしょう)」法蔵菩薩因位(いんに)時(じ)~必至滅度(ひっしめつど)願(がん)成就
「釈迦章(しゃかしょう)」如来所以(しょい)興出(こうしゅつ)世(せ)~是(ぜ)人(にん)名(みょう)分陀利華(ふんだりけ)
『大(だい)無量寿経』に依(よ)り、
・「弥陀章」で 現に今 私達に働き続けてくださっている 阿弥陀様 と阿弥陀様の ご本願 の いわれ を 述べ、
・「釈迦章」で 阿弥陀様 の ご本願 を 私達に伝えるために わざわざ この世に お出(で)ましくださった お釈迦様 を 讃(たた)え、その お釈迦様の教え を いただく「私達の心構え」が述べられている。

  ↓

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「第二段 依経段(いきょうだん)の 結びの言葉」
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。
五濁(ごじょく)悪時(あくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
〈 意訳 〉
「五濁悪世」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
だからこそ 五濁の悪時に生きる私達は、その お釈迦様の ご恩 に 報いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の教えを、信じるべきである。 

  ↓

( 結誡(けっかい) )弥陀仏本願念仏~難(なん)中(ちゅう)之(し)難(なん)無(む)過(か)斯(し)
弥陀仏の本願念仏は、邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)の悪(あく)衆生、信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)すること、はなはだもって難(かた)し。難(なん)の中(なか)の難(なん)、これに過(す)ぎたるはなし。
〈 意訳 〉
改めて、自分自身のことを省みると、
「阿弥陀様の深く広い ご本願が「お念仏」によって贈り届けられている」ということを、
「真実を知らずに、身勝手な振る舞いをする「邪見」の この私が、
「本来の自分」も知らずに思い上がる「憍慢」な この私が、
素直に喜び、受け止め、保ち続けるのは、困難なことの中でも、最も困難なことで、まったく不可能なことでありました。
しかし、不思議なことに、この私に「お念仏」が届き、心に「他力の信心」が宿っているのです。

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  ↓
 邪見と憍慢により、私達が、本願念仏を信じることは、この上なく困難になっている。
 そして、阿弥陀様が起こされた誓願が、まさしく 邪見・憍慢(きょうまん)の悪衆生を救う誓願であることを、これからの「依釈段」により、七高僧が明らかにしてくださる。

 ↓↑「第二段 依経段」と「第三段 依釈段」が 対応している

第三段 依釈段(いしゃくだん)
( 総讃(そうさん) )印度(いんど)西天(さいてん)之(し)論家(ろんげ)~明(みょう)如来本誓(ほんぜい)応(おう)機(き)
七高僧が、お釈迦様の お心 を 明らかにし、阿弥陀様 の ご本願 が民族や時代の異(こと)なりをも超えた「本当の救い」であることを証明している。

釈迦如来楞伽山(りょうがせん)~必(ひっ)以(ち)信心為(い)能入(のうにゅう)
七高僧が出られて、本願念仏の教え を 正しく伝え、本願の働き に 目覚めるよう 促(うなが)してくださった からこそ、「大乗の中の至極(しごく)」と いえる 浄土の真実の教え が 誤(あやま)りなく 島国である日本にまで 伝えられたことを、感銘深く述べられる。

( 結びの言葉 )弘経(ぐきょう)大士(だいじ)宗師(しゅうし)等(とう)~唯(ゆい)可(か)信(しん)斯(し)高僧説(せつ)
民族 や 時代の異(こと)なり をも 超えて、七人の高僧方が、「お浄土へ往生して、救われて行ってほしい」と、働きかけてくださっている。
その ご恩 に 報(むく)いるためにも、すべての人々は、心を一つにして、正しい お念仏 をいただいて、信心をいただいてほしい、という 願い を 述べ、「第三段 依釈段(いしゃくだん)」を結ぶ。

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 ↓ 第三段 依釈段(いしゃくだん)の 結びの言葉(正信偈全体の結びの言葉 ではない)


〈 原文 〉
弘経(ぐきょう)大士(だいじ)宗師(しゅうし)等(とう) 拯済(じょうさい)無辺極濁悪(ごくじょくあく) 

〈 書き下し文 〉
弘経(ぐきょう)の大士(だいじ)・宗師(しゅうし)等(とう)、無辺(むへん)の極濁悪(ごくじょくあく)を拯済(じょうさい)したまう。

 ↓↑「依釈段の結び」として、「依釈段(総讃)」と 対応し、改めて 七高僧の意味を確認する

「依釈段(総讃)」
印度(いんど)・西天(さいてん)の論家(ろんげ)、中夏(ちゅうか)・日域(じちいき)の高僧、大聖(だいしょう)興世(こうせ)の正意(しょうい)を顕(あらわ)し、如来(にょらい)の本誓(ほんぜい)、機(き)に応(おう)ぜることを明(あ)かす。


〈 言葉の意味 〉

「依釈段(総讃)」
「印度(いんど)・西天(さいてん)の論家(ろんげ)、中夏(ちゅうか)・日域(じちいき)の高僧」

 ↓↑ 対応している。

「弘経(ぐきょう)の大士(だいじ)・宗師(しゅうし)等(とう)」

 ↓

「弘経(ぐきょう)」
「お経」を弘(ひろ)めてくださった。自らが「お経」を いただかれて、「その お経の精神」を明らかにしてくださった。
そうして、「お経」が 人々に伝わっていった。

   ↓

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「お経」とは、「お釈迦様の 法話」を「文字」にしたもの。
しかし、お経は、数多くあり、現在でも 五千四十八巻の お経 が伝わっている。
その中から、「お釈迦様が本当に願われたこと」を、その通りに読み取る のは、容易なこと では ない。
(人は、悲しいことに、自分に都合がよく、理解できる範囲のことしか、知ることができない)


「大士(だいじ)」
「菩薩」と同じ意味。
昔のインドの言葉「ボーディ・サットヴァ・マハー・サットヴァ」が、国で「菩提薩埵摩訶薩埵(ぼだいさったまかさった)」と音写され、「菩提(ぼだい)」は「仏の覚り」、「薩埵(さった)」は「生きもの・人」、二つを合わせた「菩提薩埵(ぼだいさった)」は「仏の覚りを求める人」、これを短く省略して「菩薩」という言葉になった。
「摩訶(まか)」は「偉大」、「薩埵(さった)」は「生きもの・人」、二つを合わせた「摩訶薩埵(まかさった)」は「偉大な人」→「大士(だいじ)」(中国の言葉に当てはめると)
「菩薩」も「大士」も、「お釈迦様の教え を 顕(あきら)かにしようとしておられる偉大な人」ということで、同じ意味になる。
ここでは、インドの龍樹(りゅうじゅ)菩薩と天親(てんじん)菩薩を指す。
「すべての人々を救いたい」と願われた お釈迦様の大乗仏教の教え を最も深く汲み取られた方々。

「宗師(しゅうし)等(とう)」
「真(まこと)の宗(みむね)」を誤りなく伝えてくださった祖師(そし)方(がた)。
(「祖師」とは、お釈迦様から仏教を伝授(でんじゅ)され、これを集大成し、発展させ、あるいは それによって一宗一派を開創(かいそう)し、また これを弘(ひろ)めた高僧方を指す。)
中国の曇鸞大師(どんらんだいし)・道綽禅師(どうしゃくぜんじ)・善導大師(ぜんどうだいし)、日本の源信僧都(げんしんそうず)・源空(げんくう)(法然)上人。二菩薩の教え に 沿って、お経 の お心 を 誤りなく 読み解かれた方々。

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 ↓
この七人の高僧方こそが、お釈迦様が お説きになられた阿弥陀様の本願念仏の教え を 世に弘(ひろ)められ、後の時代にまで 正しく 伝えてくださった!

 ↓ このことを受けて、

親鸞聖人は、『教行信証』教巻(きょうのまき) の 始め に、
「さて、真実の教(きょう)が顕(あらわ)されているのは、『大無量寿経』である。」
と、明言(めいげん)する(はっきり言いきる)ことができた。

 ↓
『大無量寿経』
「大」を「広い」という意味 で いただいて、『無量寿仏の ご本願 が 説かれている書物 すべて』と 考えた方がいい。
(『仏説 無量寿経』のこと、と いわれることが多いが)
そのように いただけば『観無量寿経』は、『無量寿(仏)を観(かん)ずる経』、『阿弥陀経』は『阿弥陀(無量寿仏)を説く経』となり、「広い意味では 無量寿経」と いえるようになる。


「依釈段(いしゃくだん)(総讃(そうさん))」
大聖(だいしょう)興世(こうせ)の正意(しょうい)を顕(あらわ)し、如来(にょらい)の本誓(ほんぜい)、機(き)に応(おう)ぜることを明(あ)かす。
〈 意訳 〉
この方々は、お釈迦様が この世に お出ましになられた 本当の深い お心 を明らかにしてくださった。
そして、阿弥陀様の ご本願 が、民族 や 時代の異なり をも 超えて、あらゆる人々の救いであることを、真に証明してくださっているのです。

 ↓↑そのことによって、(対応している)

「無辺(むへん)の極濁悪(ごくじょくあく)を拯済(じょうさい)したまう」

 ↓

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「無辺(むへん)」
あらゆる場所に生きている数限りない人々。
(「インド・中国などの大国と比べれば、辺地(へんち)にある 小さな粟粒(あわつぶ)を散らしたような島国(粟散片州(ぞくさんへんしゅう))に住む この親鸞にまで、七高僧の教えが届き、救われることができた」という 喜び が 込められている。)

「極濁悪(ごくじょくあく)」
極(きわ)めて濁(にご)りきった悪世(あくせ)に生き、煩悩を起こし、業(ごう)を造り、そして その業(ごう)によって また 報い を 受けて 苦しんでいる。

「拯済(じょうさい)したまう」
拯(すく)いとり、本当の安楽(お浄土)に済(わた)らせようとしてくださる。

 ↓

弘経(ぐきょう)の大士(だいじ)・宗師(しゅうし)等(とう)、無辺(むへん)の極濁悪(ごくじょくあく)を拯済(じょうさい)したまう。
〈 意訳 〉
数多くある お経 の 中から、「大乗仏教の教え」を深く汲み取られ、世に弘(ひろ)めてくださった七人の高僧方が、民族 や 時代の異なり をも 超えて、極(きわ)めて濁(にご)りきった悪世(あくせ)に苦しむ あらゆる人々に、「お浄土へ往生して、救われて行ってほしい」と、働きかけてくださっている。


〈 原文 〉
道俗(どうぞく)時衆(じしゅう)共(ぐ)同心(どうしん) 唯(ゆい)可(か)信(しん)斯(し)高僧説(せつ) 六十行(こう)已(すでニ)畢(おわリヌ。) 一百二十句(くナリ。)

〈 書き下し文 〉
道俗(どうぞく)時衆(じしゅう)、共(とも)に同心(どうしん)に、ただ この高僧の説(せつ)を信ずべし、と。
六十行(こう)、すでに畢(おわ)りぬ。一百二十句なり。

 ↓↑ 対応している 「結びの言葉」では、信心を勧(すす)める伝統がある

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「第二段 依経段(いきょうだん)の 結びの言葉」
如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。
五濁(ごじょく)悪時(あくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、如来如実(にょじつ)の言(みこと)を信ずべし。
〈 意訳 〉
「五濁悪世」を抜け出していく道は、「阿弥陀様 の ご本願」を頼りにして生きるほかには ない。
お釈迦様が、この世間に お出ましになられたのは、ただただ、その「海のように すべてを包み込んでいる 阿弥陀様 の ご本願」を、私達に知らせるためであった。
だからこそ 五濁の悪時に生きる私達は、その お釈迦様の ご恩 に 報いるためにも、『大無量寿経』に お説きになられた「阿弥陀様 の ご本願」の教えを、信じるべきである。 


〈 言葉の意味 〉

「道俗(どうぞく)」
僧侶 と 僧侶でない人。僧侶であろう と、僧侶でなかろう と、「阿弥陀様の ご本願」は すべての人々に向けられている。
(親鸞聖人は、「共に お念仏 を いただく道俗」のことを「御同朋」「御同行」とも呼んでいる。)

「時衆(じしゅう)」
その時々の人々。親鸞聖人の時代の人々は もちろんのこと、今を生きる私達も含まれている。

「共(とも)に同心(どうしん)に」
「すべての人々が、互いに、あれ これ と 思いをめぐらせるのではなく、同じ心になってほしい」という願い。

 ↓ このことから、

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「お文様 五帖目 第一通」
末代無智の、在家止住(しじゅう)の男女(なんにょ)たらん ともがらは、こころをひとつにして、
〈 意訳 〉
末法の世の中で、これといった智慧がなく、ただ漠然(ばくぜん)と家庭生活を営んでいる人達は、男も女も 心を一つにして、

「ただ この高僧の説(せつ)を信ずべし」
他の人々の教え ではない、インドの龍樹(りゅうじゅ)菩薩・天親(てんじん)菩薩、中国の曇鸞大師(どんらんだいし)・道綽禅師(どうしゃくぜんじ)・善導大師(ぜんどうだいし)、そして、日本の源信僧都(げんしんそうず)・源空(げんくう)(法然)上人、この方々こそが「阿弥陀様の ご本願」を、「お釈迦様の大乗仏教の教え」を明らかにされ、そして 身をもって本願を生きられて、世の中に弘めてきてくださった。

 ↓
その長い歴史と伝統に、強い確信を持って、「ただ この高僧の説を信ずべし」と、静かな口調なのですが、しかし、これ以上ないほどに力を込めて、私達に「お念仏によって、信心をいただいてほしい!」と勧めて、正信偈を結ぶ。

 ↓
親鸞聖人 ご自身 が、七高僧の教えに出遇い、
「私は、この 本願念仏の教え に 出遇うために、この世の中に生まれてきたんだ!」という深い感動、
「この教え を なんとしてでも、後の世に伝えて行かなくてはならない」という使命感、
そして ご自身が経験している「他力の信心 に 生きる歓(よろこ)び」そのすべて を 込めて、
「心を一つにして、ただ この高僧の説を信してほしい!」と願っておられる。

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「六十行(こう)、すでに畢(おわ)りぬ。一百二十句なり。」
正信偈は、『教行信証』行巻(ぎょうのまき)の終わりの所に、「漢文」で書かれている。
「漢字 七文字」を「一句(ひと区切り)」、一行(こう) に 二句 という形で書かれてある詩。

 ↓
帰命無量寿如来 南無不可思議光
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
〈中略〉
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
六十行已畢 一百二十句

 ↓
そのことを わざわざ最後に書く 親鸞聖人は、「几帳面な人だった」ということが うかがえる。
また、わざわざ 数 を いわれているのは、「一行一句 おろそかにしてはならない」ということでもある。

 ↓
〈 原文 〉
弘経(ぐきょう)の大士(だいじ)・宗師(しゅうし)等(とう)、無辺(むへん)の極濁悪(ごくじょくあく)を拯済(じょうさい)したまう。

〈 書き下し文 〉
道俗(どうぞく)時衆(じしゅう)、共(とも)に同心(どうしん)に、ただ この高僧の説(せつ)を信ずべし、と。

〈 意訳 〉
数多くある お経 の 中から、「阿弥陀様の ご本願」を、「大乗仏教の教え」を深く汲み取られ、身をもって本願を生きられて、世に弘(ひろ)めてくださった七人の高僧方が、民族 や 時代の異なり をも 超えて、極(きわ)めて濁(にご)りきった悪世(あくせ)に苦しむ あらゆる人々に、「お浄土へ往生して、救われて行ってほしい」と、働きかけてくださっている。

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その ご恩 に 報いるためにも、僧侶であろう と、僧侶でなかろう と、すべての時代の、すべての人々は、心を一つにして、他の教え ではない、「この高僧方の教え」によって、正しい お念仏をいただいて、信心をいただいてほしい、と。


今日のまとめ

第二段「依経段」まで は、『大無量寿経』に依(よ)って、私達が親しんでいる言葉で、「阿弥陀様の教え」と「お釈迦様の教え」が いわれていたので、わかりやすかったのですが、第三段「依釈段」に入ると、「お釈迦様が説かれた教え」が、七高僧を通して「大乗仏教」として確認されて行き、親鸞聖人にまで伝わって来る 約千六百年間の歴史が語られていく。
そして、七高僧 お一人 お一人 が、
・その当時の人々に、どのように「大乗仏教」を説かれたのか、
・そのことを親鸞聖人が、どのように受け止められたのか、
ということを確認していく中で、私達が聞き慣れない仏教用語 も 出てくる。
しかし、そのこと すべてを包んで「南無阿弥陀仏(帰命無量寿如来 南無不可思議光)」でございますし、正信偈を最後まで見ていくことができれば、「浄土真宗の全体が見えてくる」ということでもございますので、がんばって学んでいきましょう!

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