24 「歓喜地」と「安楽に生ぜん」と「即の時、必定に入る」

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑ 練習した音源(約27分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
近くのご寺院では、下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 前回までの まとめ 》

第二段「依経段(いきょうだん)」まで は、『大無量寿経』に依(よ)って、私達が親しんでいる言葉で、「阿弥陀様の教え」と「お釈迦様の教え」が いわれていたので、わかりやすかったのですが、
第三段「依釈段(いしゃくだん)」に入ると、「お釈迦様が説かれた教え」が、七高僧を通して「大乗仏教」として確認されて行き、親鸞聖人にまで伝わって来る 約千六百年間の歴史が語られていく。
そして、七高僧 お一人 お一人 が、
・その当時の人々に、どのように「大乗仏教」を説かれたのか、
・そのことを親鸞聖人が、どのように受け止められたのか、
ということを確認していく中で、私達が聞き慣れない仏教用語 も 出てくる。
しかし、そのこと すべてを包んで「南無阿弥陀仏(帰命無量寿如来 南無不可思議光)」でございますし、正信偈を最後まで見ていくことができれば、「浄土真宗の全体が見えてくる」ということでもございますので、がんばって学んでいきましょう!

《 依釈段 龍樹章 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

-3-


〈 書き下し文 〉
釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、衆(しゅう)のために告命(ごうみょう)したまわく、
南天竺(なんてんじく)に、龍樹大士(りゅうじゅだいじ) 世に出(い)でて、
ことごとく、よく有無(うむ)の見(けん)を摧破(ざいは)せん。
大乗(だいじょう)無上(むじょう)の法を宣説(せんぜつ)し、歓喜地(かんぎじ)を証(しょう)して、安楽(あんらく)に生(しょう)ぜん、と。
難行(なんぎょう)の陸路(ろくろ)、苦しきことを顕示(けんじ)して、
易行(いぎょう)の水道(しいどう)、楽(たの)しきことを信楽(しんぎょう)せしむ。
弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、自然(じねん)に即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る。
ただよく、常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずべし、といえり。

 ↓ 特に関連している言葉

・「大乗(だいじょう)無上(むじょう)の法」と「難行(なんぎょう)」と「易行(いぎょう)」(前回 見終わりました)
  ↓↑ 関連している
・「歓喜地(かんぎじ)」と「安楽(あんらく)」と「即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る」
  ↓↑ 関連している
・「弥陀仏の本願を憶念(おくねん)」と「常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずべし」

 ↓

今日 の お言葉
・「歓喜地(かんぎじ)」と「安楽(あんらく)」と「即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る」

-4-


 ↓

『教行信証』親鸞聖人 著
このようなわけで、真実の行(ぎょう)信(しん)(第十七・十八願)を得ると、心は 大きな喜び に 満たされるので、この行(ぎょう)信(しん)を得た位(くらい)を歓喜地(かんぎじ)というのである。
この「歓喜地(かんぎじ)」と「阿羅漢(あらかん)の悟り でいう 初果(しょか)(初めて聖者(せいじゃ)の仲間に加わる位(くらい))」とが 似た所がある と いわれるが、そうではない。
「初果(しょか)」とは、たとえ 仏道修行を なまけ おこたって、生まれ変わり 死に変わり を 繰り返してしまった と しても、二十九回目の生 を 受けた時には、悟りを開くことができる、という 境地のこと で ある。
その境地と比べて、「歓喜地(かんぎじ)」とは、あらゆる世界の どのような衆生も、この行(ぎょう)信(しん)を いただくなら、仏 は 摂め取って 決して お捨て に ならない。
そのことを、龍樹(りゅうじゅ)菩薩は「即(そく)の時、必定(ひつじょう)に入(い)る」と いわれ、曇鸞大師(どんらんだいし)は「正定聚(しょうじょうしゅ)の位(くらい)に入(はい)る」と いわれたのである。
だから この仏(ぶつ)を阿弥陀仏と申しあげるのである。これを他力という。
仰(あお)いで 如来の本願を信じるべきであり、もっぱら 念仏の行(ぎょう) を修めるべきである。

 ↓ 同じ意味 の お言葉 を まとめると

-5-


・歓喜地(かんぎじ)
 「阿弥陀様の ご本願」が、私に届き、
 「間違いなく お浄土に往生させてもらえる。
 そして、お浄土に生まれれば、必ず 仏に成ることができる。」
 そのことを身にしみて 喜べた時、「歓喜地(かんぎじ)」という境地に至(いた)る。

・仏 は 摂め取って 決して お捨て に ならない(不退転(ふたいてん)に住(じゅう)せん(とどまる))
 「不退転(ふたいてん)」‐ 仏道修行において、すでに得た境地や信心を失わないこと。

・即(そく)の時、必定(ひつじょう)に入(い)る
 「即(そく)の時(とき)」‐ ただちに。そのまま。
 「必定(ひつじょう)」‐ 必ず浄土に往生して仏(ぶつ)に成(な)ることが確定する状態。

・正定聚(しょうじょうしゅ)の位(くらい)に入(はい)る
 「正定聚(しょうじょうじゅ)」‐ お浄土に往生すべき身

 ↓

この 四つこと は、「同じ境地」であり、親鸞聖人が発見し伝統された「浄土真宗の命・教えの一番根本になるもの」は、
「即(そく)の時(とき)(この身において)、不退転(ふたいてん)を得(え)る」「即(そく)の時(とき)、正定聚(しょうじょうじゅ)に住(じゅう)する」。
このことは、親鸞聖人だけが明らかにされたことで、他の高僧方は このこと を はっきりと言い切ることができなかった。
その根拠を、龍樹菩薩の「即(そく)の時、必定(ひつじょう)に入(い)る」から いただくことができ、親鸞聖人は、その ご恩徳の深さ に 非常に感謝しておられる。

 ↓

-6-


『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』親鸞聖人 著
「即得往生(そくとくおうじょう)」というのは、「即(そく)」は「すなわち」ということであり、時を経(へ)ることなく、日を置くこともない という意味である。
また「即(そく)」は「つく」ということであり、その位(くらい)に確(たし)かに定(さだ)まる という言葉である。
「得(とく)」は 得(え)なければならないこと を すでに得(え)た ということである。
真実の信心を得れば、ただちに無礙光仏(むげこうぶつ)は、その お心 の うちに その人を「摂取(せっしゅ)」して 決して お捨てにならないのである。
「摂(せつ)」は お摂(おさ)めになる ということであり、「取(しゅ)」は 浄土へ迎え取る ということである。
摂(おさ)め取(と)ってくださるとき、ただちに、時を経(へ)ること も 日を置くこともなく、正定聚(しょうじょうじゅ)(お浄土に往生すべき身)の位(くらい)に定まることを、「往生を得(え)る」と仰(おお)せになっているのである。

 ↓

『教行信証』親鸞聖人 著(初めの文章)
ここに愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞は、よろこばしいことに、インドの祖師方(そしがた)のご書物、中国・日本の祖師方(そしがた)の解釈(かいしゃく)に、遇(あ)いがたい のに 今 遇(あ)うことができ、聞きがたい のに すでに聞くことができた。
そして この真実の教(きょう)・行(ぎょう)・証(しょう)の法(ほう)を 心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。
そこで、聞かせていただいたところ を よろこび、得させていただいたところ を たたえるのである。

 ↓

-7-


『御消息集(ごしょうそくしゅう)』親鸞聖人 著(善性(ぜんしょう)本(ぼん) 五(親鸞聖人の お弟子 善性(ぜんしょう)が写した))
さて、『無量寿経』には、「次(し)如(にょ)弥(み)勒(ろく)(次(つ)いで 弥勒(みろく) の ごとし)」と説かれています。
弥勒菩薩は すでに 仏(ぶつ)に近(ちか)い位(くらい) に おられるので、さまざまな教えの中で 弥勒仏 と いわれています。
ですから、弥勒菩薩と同じ位にあるので、正定聚(しょうじょうじゅ)の位(くらい)に定まった人を「如来 と ひとし」とも いうのです。
真実信心を得た人は、その身 こそ 煩悩に汚(よご)れ 悪を犯す 嘆(なげ)かわしい身であるけれども、その 心 は すでに 如来と等しい ので、「如来と ひとし」 ということもできる と 知ってください。
弥勒菩薩は、心 が すでに 間違いなく この上ない さとりの境地 に定まっておられるので、竜華三会(りゅうげさんえ)のとき に さとりを開く と いうのです。
浄土の真実の教えを聞く人は、このこと を よく 心得なければなりません。
善導大師(ぜんどうだいし)は『般舟讃(はんじゅさん)』に、「信心のひと は、その心 すでに つねに 浄土に居(こ)す」 といわれています。「居(こ)す」 というのは、信心を得た人の 心 が常に浄土にある と いう意味です。これは「弥勒 と おなじ」ということについていわれているのです。等正覚(とうしょうがく)という位が「弥勒 と おなじ」といわれるのですから、信心を得た人は「如来 と ひとし」ということなのです。

 ↓ まとめると

・「弥勒菩薩と同じ位‐等正覚(とうしょうがく)」→「正定聚(しょうじょうじゅ)(お浄土に往生すべき身)」→
「心が常に浄土にある」→「如来と等しい」
・「信心の人は、その心 すでに 常に 浄土にある」

  ↓

「弥勒菩薩と同じ位‐等正覚(とうしょうがく)」→「正定聚(しょうじょうじゅ)(お浄土に往生すべき身)」→
「如来と等しい」

-8-


 ↓

『帖外(じょうがい)和讃』親鸞聖人 著
超世(ちょうせ)の悲願(ひがん) ききしより  われらは生死(しょうじ)の凡夫かは
有漏(うろ)の穢身(えしん)は かわらねど  こころ は 淨土に あそぶなり
 〈 意訳 〉
 「衆生の苦しみを必ず救う」という世を越えた 大きな あわれみ である 阿弥陀様 の ご本願 を聞いた時から、私達は「生まれ変わり 死に変わり 流転(るてん)し続ける凡夫」となったのでしょうか。
 (いや、そうではないでしょう、元から凡夫でありました。)
 私達は、迷いの世界に留(とど)まり続ける 煩悩に穢(けが)れた この身であることは変わらないけれども、お念仏を称えれば、「心」は いつでも お浄土に行って、お浄土の姿 を 楽しみ、また、その お浄土の姿 から いろいろなことが学べるのです。

 ↓

『親鸞との対話』曽我量深(そがりょうじん)
往生 も 身(み) にあり、というのが 浄土宗。
成仏 も 心(こころ) にあり、というのが 聖道門(しょうどうもん)。
往生 は 心 にあり、成仏 は 身 にあり、というのが 浄土真宗の教え である。
 〈 言葉の意味 〉
 「身にあり」‐この世の命 終わってから起こること。
 「心にあり」‐生きている今 起こること。
 「往生」‐浄土に往(い)って、生まれ変わること。
 「成仏」‐仏(ぶつ)に成(な)る(悟(さと)りに至(いた)る)こと。

-9-


 〈 意訳 〉
 浄土宗(じょうどしゅう)は、「往生」も「成仏」も 同じこと し、この世の命 終わってから起こること と考えている。
 聖道門(しょうどうもん) の 高野山(こうやさん)の真言宗(しんごんしゅう) や、比叡山(ひえいざん)の天台宗(てんだいしゅう) は、「往生」も「成仏」も 同じこと と考えているが、生きている今、修行をして、煩悩を無くすことで、悟(さと)りに至(いた)って 仏(ぶつ)に成(な)れる、と 考えている。
 そして、浄土真宗の場合は、「往生」は、信心をいただき、心 に 浄土が開けた時のこと を いい、「成仏」は この世に命 終わってからのこと と考えている。

 ↓ とは いうものの、

親鸞聖人の「往生」の いただき方 には、二通りある
一、「即(そく)得(とく)往生」‐ 生きている今、信心が決定し、心に浄土が開かれ、新しい人生が始まる。
二、「往生をとげる」‐ 命 終わって 浄土 へ 帰り、仏(ぶつ)に成(な)る。

 ↓

『末燈鈔(まっとうしょう)』十二通(つう) 親鸞聖人 著(親鸞聖人の お弟子 有(ゆう)阿弥陀仏への返事)
この身は いまは とし きわまりてそうらえば、さだめて さきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にて かならず かならず まちまいらせそうろうべし。
 〈 意訳 〉
 長く生きて、歳が きわまってまいりましたので、あなた より 先に 往生していくことになるでしょう。
 しかし、浄土で、必ず 必ず 待っていましょう。

-10-


 ↓ しかし、親鸞聖人が、

「浄土で、必ず 必ず 待っていましょう」と 言い切ることができたのは、信心をいただかれ、心 に 浄土 が 開かれて、「この世の命が終われば 必ず お浄土に生まれることができる」という確信があったから。

親鸞聖人の「往生」の いただき方 には、二通りある が、しかし、そのことは、
一、「即(そく)得(とく)往生」‐ 信心が決定し、心 に 浄土 を いただくことができ、
二、「往生をとげる」‐ 必ず、命 終われば、浄土 へ 帰り、仏(ぶつ)に成(な)れる。
という確信があったからこそ、語られていることであり、
曽我先生が いわれた
「往生 も 身(み) にあり、というのが 浄土宗(じょうどしゅう)。
(浄土宗(じょうどしゅう)は、「往生」も「成仏」も 同じこと し、
この世の命 終わってから起こること と考えている。)」
ということではない。

-11-


今日のまとめ

親鸞聖人がご苦労をさせて、七高僧の教え を さかのぼるように訪ね、
ついに、龍樹菩薩の所で「即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る」ということを学ばれ、
曽我先生が いわれた
「往生 は 心 にあり、成仏 は 身 にあり、というのが 浄土真宗の教え である。
(浄土真宗の場合は、
「往生」は、信心をいただき、心 に 浄土 が 開けた時 の こと を いい、
「成仏」は この世に命 終わってからのこと と考えている。)」
という「浄土真宗の命・教えの一番根本になるもの」が明らかになった。

-12-