25 「弥陀仏の本願を憶念」と「常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」

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↑ 練習した音源(約27分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
近くのご寺院では、下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


《 前回までの まとめ 》

第二段「依経段(いきょうだん)」まで は、『大無量寿経』に依(よ)って、私達が親しんでいる言葉で、「阿弥陀様の教え」と「お釈迦様の教え」が いわれていたので、わかりやすかったのですが、
第三段「依釈段(いしゃくだん)」に入ると、「お釈迦様が説かれた教え」が、七高僧を通して「大乗仏教」として確認されて行き、親鸞聖人にまで伝わって来る 約千六百年間の歴史が語られていく。
そして、七高僧 お一人 お一人 が、
・その当時の人々に、どのように「大乗仏教」を説かれたのか、
・そのことを親鸞聖人が、どのように受け止められたのか、
ということを確認していく中で、私達が聞き慣れない仏教用語 も 出てくる。
しかし、そのこと すべてを包んで「南無阿弥陀仏(帰命無量寿如来 南無不可思議光)」でございますし、正信偈を最後まで見ていくことができれば、「浄土真宗の全体が見えてくる」ということでもございますので、がんばって学んでいきましょう!

《 依釈段 龍樹章 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

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〈 書き下し文 〉
釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、衆(しゅう)のために告命(ごうみょう)したまわく、
南天竺(なんてんじく)に、龍樹大士(りゅうじゅだいじ) 世に出(い)でて、
ことごとく、よく有無(うむ)の見(けん)を摧破(ざいは)せん。
大乗(だいじょう)無上(むじょう)の法を宣説(せんぜつ)し、歓喜地(かんぎじ)を証(しょう)して、安楽(あんらく)に生(しょう)ぜん、と。
難行(なんぎょう)の陸路(ろくろ)、苦しきことを顕示(けんじ)して、
易行(いぎょう)の水道(しいどう)、楽(たの)しきことを信楽(しんぎょう)せしむ。
弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、自然(じねん)に即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る。
ただよく、常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずべし、といえり。

 ↓ 特に関連している言葉

・「大乗(だいじょう)無上(むじょう)の法」と「難行(なんぎょう)」と「易行(いぎょう)」(前回 見終わりました)

  ↓↑ 関連している

・「歓喜地(かんぎじ)」と「安楽(あんらく)」と「即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る」

  ↓↑ 関連している

今日 の お言葉
・「弥陀仏の本願を憶念(おくねん)」と「常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずべし」

 ↓

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「常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)」

 ↓

「常に如来の号(みな)を称(しょう)するという大悲(だいひ) 弘誓(ぐぜい)(広大な お誓い)の第十七願」

 ↓

『教行信証』行巻 親鸞聖人 著
つつしんで 往相(おうそう)回向(穢土(えど)から浄土に往(い)く すがた。自利(じり)(自(みずか)ら利(り)すること)の成就)を うかがうと、大行(たいぎょう)があり、大信(だいしん)がある。
大行(たいぎょう)とは、阿弥陀如来の名号を称えることである。この行は、あらゆる善(ぜん)を おさめ、あらゆる功徳を そなえ、速(すみ)やかに 衆生を その善と功徳 で 満たしてくださる、
真如一実(しんにょいちじつ)(まこと で、うそ いつわりが無く、永久に変わらない)の功徳が満ちみちた海 のように 広大な法(ほう) である。だから、大行(たいぎょう)というのである。
ところで、この行は大悲の願(第十七願)より出てきたものである。
この願(がん)を 諸仏称揚(しょうよう)の願(がん) と名づけ、また 諸仏称名の願(がん) と名づけ、また 諸仏咨嗟(ししゃ)の願(がん) と名づける。また 往相回向の願(がん) と名づけることができるし、また 選択(せんじゃく)称名の願(がん) とも名づけることができる。

 ↓

親鸞聖人は「第十七願が大悲の願である」ということを、
龍樹菩薩の著書『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』から発見された。

 ↓

『高僧和讃 五(『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の ご和讃)』親鸞聖人 著
本師(ほんじ)龍樹菩薩の おしえ を つたえ きかんひと
本願 こころにかけしめて つねに弥陀を称(しょう)すべし
 〈 意訳 〉
 龍樹菩薩の「難行(なんぎょう)(困難な修行 によって 悟り に至(いた)る)・
 易行(いぎょう)(阿弥陀様 の ご本願 によって お浄土で仏(ぶつ)に成(な)る)の 教え」を、
 伝え聞く私達は、阿弥陀様の ご本願 を憶念(おくねん)(いつも心に留(とど)めて忘れない)して、常に名号を称えるべきである。

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『高僧和讃 六(『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の ご和讃)』親鸞聖人 著
不退(ふたい)のくらい すみやかに  えん と おもわんひと は みな
恭敬(くぎょう)の心(しん)に執持(しゅうじ)して  弥陀の名号 称(しょう)すべし

〈 意訳 〉
 速(すみや)かに不退転(ふたいてん)(すでに得た境地や信心を失わない)の位(くらい)に到(いた)りたい と思う者は、謙虚な心を大切にし、名号を称えよ。

 ↓

第十七願 大悲の願
私が仏(ぶつ)になるとき、すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、皆 私の名 を ほめたたえるでしょう。
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。

 ↓

すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、阿弥陀様の名号「南無阿弥陀仏」 を
ほめたたえている。だからこそ、私達に 名号 が 届けられ、名号 を
いただくことができる。

 ↓ 次に、

親鸞聖人は「第十七願は大悲の願であり、念仏 は 仏方(ほとけがた)から聞かせていただくもの」と、発見することができたからこそ、「第二十願 自力の念仏 で救われるのか」
「第十八願 他力の念仏 によって救われるのか」という
「回向(えこう)(功徳を振り向けること)の問題」を明らかにすることができた。

 ↓

第二十願 至心(ししん)回向の願・植(じき)諸徳本(しょとくほん)の願・不果遂者(ふかすいしゃ)の願
私が仏(ぶつ)になるとき、すべての人々が、私の名を聞いて、私の国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心から「私の国に生れたい」と願うなら、その願い を きっと 果(はた)し遂(と)げさせましょう。 
そうでなければ、私は決して悟りを開きません。

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 ↓

『浄土和讃 六四』親鸞聖人 著
至心(ししん)・回向・欲生(よくしょう)と 十方衆生を方便(ほうべん)し
名号の真門(しんもん)ひらきてぞ 不果遂者(ふかすいしゃ)と願(がん)じける

 〈 意訳 〉
 阿弥陀様は、第十八願 他力念仏 に入れない者のために、第二十願を起(おこ)こし、「自力真実心(しんじつしん)から、称名念仏して 唱(とな)えた念仏 を 往生の行(ぎょう) として 振り向け、わが国に生まれたい と 欲(おも)え」と、自力念仏の道 を開き、十方衆生を誘(さそ)い、ついには、「真実報土(ほうど)の往生を遂(と)げさせる」と お誓いくだされた。

 ↓ そして、

親鸞聖人は、
「お念仏は、私達が回向する(振り向ける)もの ではなく、阿弥陀様から回向されている(与えられている)もの である」と、
「法然上人の「念仏為本(いほん)」とは、「信心為本(いほん)(信心を本(ほん)と為(な)す)」のことである」
ということを明らかにし、公(おおやけ)にされた。

 ↓

第十八願 至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん)成就(じょうじゅ)の文(もん)(『仏説 無量寿経』下巻の始め)
あらゆる衆生は、その名号を聞いて、信心を獲(え)た 歓喜(よろこび) が あふれて一念(いちねん)(疑いなく仏(ぶつ)を信じる心)となるであろう。
阿弥陀如来は 心から、その一念(いちねん)(疑いなく仏(ぶつ)を信じる心)を回向してくださるのである。
「彼(か)の国に生まれよう」と願えば、たちどころに往生を得(え)て、不退転(ふたいてん)に住(じゅう)する。
〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉
ただ、五逆(ごぎゃく)の罪(つみ)を犯(おか)した者と、仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る者だけは除(のぞ)かれる。

 ↓

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それまでの仏教界 では、

あらゆる衆生は、その名号を聞いて、信心を獲(え)た 歓喜(よろこび) が あふれて、
たとえ、ただの一念(極(きわ)めて短時間)の間でさえ、心から回向して、
「彼の国に生まれよう」と願えば、たちどころに往生を得(え)て、不退転(ふたいてん)に住する。

と 読まれていた所を、親鸞聖人は

あらゆる衆生は、その名号を聞いて、信心を獲(え)た 歓喜(よろこび) が あふれて
一念(いちねん)(疑いなく仏(ぶつ)を信じる心)となるであろう。
阿弥陀如来は 心から、その一念(いちねん)(疑いなく仏(ぶつ)を信じる心)を回向してくださる
のである。
「彼(か)の国に生まれよう」と願えば、たちどころに往生を得(え)て、不退転(ふたいてん)に住(じゅう)する。

と 読み切られて、
「お念仏は、私達が回向する(振り向ける)もの ではなく、阿弥陀様から回向されている(与えられている)もの であり、その「お念仏を称(とな)えようと思う心」も「阿弥陀様から回向された心」なんだ!」
と、「信心為本(いほん)(信心を本(ほん)と為(な)す)」であることを、徹底して明らかにされた。

 ↓ そして、

親鸞聖人は「自力の念仏」を唱(とな)えて、この私 が 阿弥陀様に 念仏を回向しようとする。
それこそが、阿弥陀様の教えを謗(そし)る心 となる。
そのことを自覚させるために、〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉がある、と いただかれた。

 ↓

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 ↓

「五逆(ごぎゃく)の罪」‐私を お育てくださるものに背(そむ)く(逆(さか)らう)重い罪。
一、父を殺す(害(がい)父(ぶ))。
二、母を殺す(害母(がいも))。
三、聖者を殺す(害(がい)阿羅漢(あらかん))。
四、仏(ぶつ) の お体 を傷つけて 血を流させる(出仏(しゅつぶつ)身(しん)血(けつ))。
五、教団を分裂させる(破(は)和合(わごう)僧(そう))。

 ↓

『御消息集(ごしょうそくしゅう)』親鸞聖人 著
善知識(ぜんちしき)を おろそかにし、師(し)を謗(そし)る者を、「仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る者」というのです。
また、親を謗(そし)る者 を 五逆の者 というのです。

 ↓

「五逆(ごぎゃく)の罪」「仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る」とは、心で思うだけ で 罪となる。
(「親 や 先生 を、100% 信じて疑わない」なんてことは、私達にはできない。)
私達は、本来ならば〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉の所にいる。

 ↓

〈 唯除(ゆいじょ)の文(もん) 〉は、
「私は 五逆(ごぎゃく)の者 である・・ 仏(ぶつ)の教えを謗(そし)る者 である・・本来ならば、助からない者なんだ・・」と、
「罪の深さ・自力の限界」を徹底的に知らせて、
「だからこそ、私は、阿弥陀様から与えられている「他力 の お念仏」を頼り としなければ、救われることはないんだ」という「信心為本(いほん)(信心を本(ほん)と為(な)す)」を知らせてくださる お言葉。

 ↓ 次に、「阿弥陀様 の ご本願 を、私の本願 とする」

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『正像末和讃 二一』親鸞聖人 著
如来の回向に帰入(きにゅう)して 願作仏身(がんさぶっしん) を うるひと は
自力の回向を すてはてて 利益(りやく)有情(うじょう)は きわもなし

 〈 意訳 〉
 「如来の回向」に帰入(きにゅう)(計らいを捨てて、他力に帰(き)し、真実の世界に入る)して願作仏身(がんさぶっしん)(成仏を願う信心)を得(う)る人は、「自力の回向(自分の力 で 自分のために、また 他人のために回向すること)」を捨て尽(つ)くして、如来の徳の現れ として 衆生を利益(りやく)すること 際限(さいげん)もない。

 〈 左訓(さくん)(親鸞聖人が示された字句(じく)の説明・解釈)〉
 「如来の回向」‐弥陀(みだ)の本願を われらに与えたまいたる を 回向 と 申すなり。
 これを 如来の回向 と申すなり。

 ↓

「如来の本願 を「わが いのち」とすることができた」ということが、
「如来の回向 に 帰入(きにゅう)した(計らいを捨てて、他力に帰(き)し、真実の世界に入る)」ということになる。

 ↓

「南無 阿弥陀仏」とは、「阿弥陀様 の ご本願 を わが いのち とする」、
「阿弥陀様 の ご本願 を、私の本願 とする」という意味もある。
だから、「弥陀仏の本願 を 憶念(おくねん)(いつも心に留(とど)めて忘れない)」ということは、
「私が 阿弥陀様 の ご本願 を 生き続ける」ということ と 別ではない。

 ↓

弥陀仏の本願 を 憶念(おくねん)(いつも心に留めて忘れない)して、
「阿弥陀様 の ご本願 を、私の本願」として生き続ける信心 を獲(え)た 念仏者の周りには、「仏(ぶつ)の世界」が公(おおやけ)になり、具体化されていく。
それが「大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずる」ということの内容、「還相(げんそう)回向(浄土から穢土(えど)に還(かえ)る すがた。利他(りた)(他(た)を利(り)すること)の成就))」と なっていく。

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 ↓ 親鸞聖人は、どのような「大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずる生活」を送られていたのか?

『正像末和讃 五八』(恩徳讃(おんどくさん))親鸞聖人 著
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報(ほう)ずべし
師主(ししゅ)知識の恩徳も 骨をくだきても謝(しゃ)すべし
 〈 意訳 〉
 ・阿弥陀様 の 大悲(呻(うめ)き を意味し、衆生を憐(あわれ)み いたんで 苦(く)を抜く)である往相(おうそう)回向・還相(げんそう)回向 の 恩徳(おんどく) と、
 ・お釈迦様を始め とした三国 七高僧 等の善知識(ぜんちしき)が、阿弥陀様 の ご本願 を 伝承して、私達を導かれた恩徳(おんどく) は、
 身(み)を粉(こ)にし、骨を摧(くだ)いても、報謝(ほうしゃ)(恩に報(むく)い、徳に感謝する)すべきである。

 ↓

「ある時 生まれ、ある時 死んでいく・・」そういう私達が
「私の全存在をかけてもいい! 自分を捨てもいい!」と言えるような仕事・使命が見つかった、与えられた。
それが「私が助かった、助けられた」ということになる。

 ↓

念仏者を貫(つらぬ)いている 大きな喜び は「阿弥陀様に奉仕していく」ということ。
だから「身を粉にしても、骨を砕きても」と言える。
親鸞聖人は、そういう喜びを「恩徳讃」で表わされている。
それが「大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずる」ということ。

 ↓

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第二十願の「自力の念仏」では、
「念仏によって、私は もう助かった」という所 に 腰(こし)を据(す)えてしまい、
「大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずる」ということが抜け落ちてしまう問題がある。

 ↓

『正像末和讃 仏智(ぶっち)疑惑(ぎわく)和讃 二』親鸞聖人 著
仏智(ぶっち)の不思議を うたがいて 自力の称名 このむ ゆえ 
辺地(へんじ)懈慢(けまん)に とどまりて  仏(ぶつ)恩(おん)報(ほう)ずる こころ なし
 〈 意訳 〉
 阿弥陀様の智慧の不思議 を 疑って、自力の念仏 を 好(この)むから、「辺地(へんじ)(浄土の辺鄙(へんぴ)の地)・懈慢(けまん)(信心堅固(けんご)でない人が立ち止まる所)の 仮の浄土」に留(とど)まって、仏(ぶつ)の恩(おん)を報(ほう)ずる心がない。

 ↓ 次に、「念仏者の悲願(ひがん)」

親鸞聖人は、『尊号(そんごう)真像(しんぞう)銘文(めいもん)』の中で、
「和朝(わちょう)(和(やわ)らぎ朝家(ちょうか)(国))愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞が「正信偈」の文(もん)」と 示されている。

 ↓

『十七条憲法』聖徳太子 著
一つに曰(い)わく、和(やわ)らかなるをもって貴(とうと)しとし、忤(さか)うること無(な)きを宗(むね)とせよ。
第一条 平和を最も大切にし、抗争(こうそう)(互いに張り合い、争う)しないことを
規範(きはん)とせよ。

 ↓

聖徳太子から始まる 仏法の教え を 中心としたお浄土が映(うつ)し出(だ)されるような「和(やわ)らぎの国」。
それが「念仏者の悲願(ひがん)」となり、聖徳太子が示された「世間虚仮(こけ) 唯仏(ゆいぶつ)是(ぜ)真(しん)(世間は、空しく、本物ではない。ただ 仏様だけが、真実なのです。)」これが 念仏者の生活の根拠、生活の原点となる。

 ↓

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今日のまとめのようなこと

蓮如上人も、「仏法を主(あるじ) とし、世間を客人(きゃくじん)とせよ」という立場で生活をしておられた。それが「信心為本(いほん)(信心を本(ほん)と為(な)す)」ということでもある。
いつ、どこで、どのような生活をしようとも、
「世間が どう言おう」と、「自分が どう思おう」と、世間は客人(きゃくじん)とし、
「阿弥陀様が、この私に、どのように呼びかけてくださっていて、それに順(したが)うためには、どうしたらいいのか」と、仏法を主(あるじ) とし、弥陀仏の本願 を 憶念(おくねん)して、阿弥陀様と 共に 生きていく。
そうして、この娑婆世界を生きる 念仏者 の 周り には、自然と「お浄土の世界」が 実際に 形 を 現してくる。それが大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずる「還相(げんそう)回向(浄土から穢土(えど)に還(かえ)る すがた。利他(りた)(他(た)を利(り)すること)の成就))」と なっていく。

 ↓ 具体的に
  「常に如来の号(みな)を称(しょう)して」、「弥陀仏の本願を憶念(おくねん)」して、
  「大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)」ずる生活 とは、

「二〇一五年 二月二十日 中日新聞 平川(ひらかわ) 宗信(むねのぶ)氏(中京大学教授) 談」
 人間は、業縁(ごうえん)の身として、様々な歴史的関連と社会的関連の中に生きています。
今の日本社会は、朝鮮植民地支配、中国侵略、朝鮮戦争、ベトナム戦争などがもたらしたもの の 上 に 成り立っている社会です。そこに生きる私達は、この歴史に組み込まれています。
また、私達は、発展途上国の人々 が 過酷な労働 で 生産した物 を 消費して生活しています。私達が原発を容認していたことが、福島の放射能被害を生み出しました。安保条約(あんぽじょうやく)と米軍基地を容認することが、沖縄 の 基地被害 を生み出しています。

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このような政治的・社会的構造に組み込まれて存在しているのが、「自己」です。
 このような 社会と関わって生きている自己 を問わずに、自己を問うことはできません。
自己を問うこと は、社会を問うこと であり、社会を問うこと で、自己の生き方 が 問われます。
自己 と 社会 とが、共に 問われるのです。
自己を問わず に 社会を問う のは 真宗ではありませんが、社会を問うことなし に、自己を問うこと も できません。
人類社会の全ての問題 を 自己の課題 として取り組んでいくのが、真宗者である と 思います。
 全ての社会問題 が 真宗者の課題 であることの 根拠 は、還相回向にあると思います。
真宗の根本 は、往相(おうそう)回向・還相(げんそう)回向の「二種(にしゅ)回向」です。
阿弥陀如来からの、念仏申す身となって 浄土に往生せよ との呼びかけ が 往相回向、浄土往生した者として本願に生きよ との呼びかけ が 還相回向です。
そして、この二種の回向は、如来からの回向 として 本来 一つのはず です。
本願に生きること が 浄土往生すること であって、本願に生きること以外 に 浄土往生 はないはずです。
現実世界で本願を わが願い として生きる、本願に願われた世界を求めて 身を尽くす。それが、真宗者でありましょう。
私は、そこに 真宗者 の 生きる根拠 と 救い があると思うのです。

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