26 「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」と「龍樹章まとめ」と「天親章の構造」

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↑ 練習した音源(約29分)を入れてみました!
(練習して、録音して、聞き込んでから、やっと やっと 法話をしております。)
近くのご寺院では、下記の内容をプリントに印刷しているので、話の中で「○ページを見てください」というようなことが出てきます。


「三月(前々回)」と「四月(前回)」の まとめ

〈 原文 〉
憶念(おくねん)弥陀仏本願 自然(じねん)即(そく)時(じ)入(にゅう)必定(ひつじょう) 唯(ゆい)能(のう)常(じょう)称(しょう)如来号(ごう) 応(おう)報(ほう)大悲弘誓(ぐぜい)恩 

〈 書き下し文 〉
弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、自然(じねん)に即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る。
ただよく、常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずべし、と いえり。

〈 言葉の意味 〉
「弥陀仏の本願」‐「本願」とは「本(もと)からあった 願い」とも読める。
 「本(もと)からあった 願い」とは、私達には思いも及ばないほど遠い昔から 生きとし生けるもの に働き続けている「願い」のこと。
 そのことが「阿弥陀様 の ご本願」として表現されている。

「憶念(おくねん)」-いつも心に留(とど)めて忘れないこと。

 ↓

弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、
〈 意訳 〉
遠い昔から「生きとし生けるもの の 命」に備(そな)わり、働き続けている「願い」が「阿弥陀様 の ご本願」として表現されていることに気づかされ、「阿弥陀様 の ご本願」を「私の本願」「私の命」として、いつも 心に留め、保ち続けて、「阿弥陀様 の ご本願」を生きていく。

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〈 意訳 〉
「自然(じねん)」-自(おのずか)ら然(しか)る。理屈では説明しきれないけれども、なぜか そのようになる。
  ↓
「阿弥陀様の不思議な ご本願」は、「なぜか そのようになる」と しか、私達には受け止めることができない。

「即(そく)の時」‐ただちに。そのまま。

「必定(ひつじょう)」‐必ず浄土に往生して仏(ぶつ)に成(な)ることが確定する状態。

「ただよく」‐ただ ひたすら。

「常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)」‐「常に如来の号(みな)を称(しょう)する」という大悲(だいひ) 弘誓(ぐぜい)(広大な誓願(せいがん))の「第十七願」のこと。
  ↓
第十七願 諸仏称名の願 往相(おうそう)廻向(えこう)の願
 私が仏(ぶつ)に成(な)るとき、すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、皆 私の名 を ほめたたえるでしょう。
 そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
  ↓
すべての世界の数限りない仏方(ほとけがた)が、阿弥陀様の名号 を ほめたたえている。
そのことを通して、私達は「南無阿弥陀仏」をいただくことができる。

 ↓

弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、自然(じねん)に即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る。
ただよく、常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずべし、と いえり。

 ↓ なのですが、

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ただよく、常に如来の号(みな)を称(しょう)して、弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、
自然(じねん)に即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る。
〈 意訳 〉
遠い昔から「生きとし生けるもの の 命」に備わり、働き続けている「願い」が、「阿弥陀様 の ご本願」として表現されていることに気づかされ、ただ、ひたすら、常に、阿弥陀様 の お名前「南無 阿弥陀仏」を称えて、阿弥陀様 の ご本願 を「私の本願」「私の命」として、いつも 心に留め、保ち続けて、「阿弥陀様 の ご本願」を生きていけば、ただちに、そのままで、必ず浄土に往生して仏(ぶつ)に成(な)ることが決定される。それは、私達には説明のできない、不思議としか 言いようのないことなのです。


大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずべし

 ↓

『正像末和讃 五八』(恩徳讃)親鸞聖人 著
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主(ししゅ)知識の恩徳も 骨をくだきても謝(しゃ)すべし
〈 意訳 〉
阿弥陀様 の 大悲(呻(うめ)き を意味し、衆生を憐(あわれ)み いたんで 苦を抜く)である
・往相(おうそう)回向(穢土(えど)から浄土に往(い)く すがた。自利(じり)(自(みずか)らを救済(きゅうさい)すること)の成就)
・還相(げんそう)回向(浄土から穢土(えど)に還(かえ)る すがた。利他(りた)(他(た)を救済(きゅうさい)すること)の成就)
の恩徳(おんどく)と、
お釈迦様を始め とした三国 七高僧 等の善知識が、阿弥陀様 の ご本願 を 伝承して、私達を導かれた恩徳(おんどく)は、
身を粉にし、骨を摧(くだ)いても、報謝(ほうしゃ)(恩に報い、徳に感謝する)すべきである。

 ↓

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「ある時 生まれ、ある時 死んでいく・・本当のことを言えば、死にたくはない・・」
そんな 人として生まれた意味を知らずに、むなしく日々を送っている私達 が
「阿弥陀様に奉仕(ほうし)するために、私の全存在をかけてもいい! 自分を捨てもいい!
 私の本当にしたい仕事が見つかった! 私には 与えられた使命 がある!」
と、目が覚めた。
それは、「身を粉にしても、骨を砕きても」と言える 大きな喜び である。
(このことが「私が助かった、助けられた」ということになる。)

 ↓

・「阿弥陀様の お救い を 信じる心(法(ほう)の深信(じんしん))」から、
・「天(あめ)の下(した) 誰もが 皆 兄弟である」という事実をいただき(往相(おうそう)回向)、
・「迷いの世界から出られる拠(よ)り所(どころ)が、私には まったく無い(機(き)の深信(じんしん))」 
という 思い から、
・「だからこそ、この場所に、仏法の教え を 根付かせよう と 励(はげ)む(還相(げんそう)回向)」
この四つのことがあって「真実の信心」となり、
それが「大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずる」生活となる。

 ↓

「この世の中に問題があればあるほど、仏法の教えを、お念仏を伝えていこう!」
そのように励む「念仏者」が生まれることを、阿弥陀様は願っておられる。
親鸞聖人は具体的に「大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずる」ことは、念仏を相続して、浄土の サンガ(仏教を学ぶ集まり)を実現していくこと として展開されている。

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《 依釈段(いしゃくだん) 龍樹章 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より


〈 原文 〉
釈迦如来(しゃかにょらい)楞伽山(りょうがせん)  為(い)衆(しゅう)告命(ごうみょう)南天竺(なんてんじく) 龍樹大士(りゅうじゅだいじ)出(しゅッ)於(と)世(せい) 悉(しつ)能(のう)摧破(ざいは)有無(うむ)見(けん)
宣説(せんぜつ)大乗(だいじょう)無上(むじょう)法(ほう)  証(しょう)歓喜地(かんぎじ)生(しょう)安楽(あんらく) 顕示(けんじ)難行(なんぎょう)陸路(ろくろ)苦(く) 信楽(しんぎょう)易行(いぎょう)水道(しいどう)楽(らく)
憶念(おくねん)弥陀仏本願 自然(じねん)即(そく)時(じ)入(にゅう)必定(ひつじょう) 唯(ゆい)能(のう)常(じょう)称(しょう)如来号(ごう) 応(おう)報(ほう)大悲弘誓(ぐぜい)恩 

〈 書き下し文 〉
釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、衆(しゅう)のために告命(ごうみょう)したまわく、
南天竺(なんてんじく)に、龍樹大士(りゅうじゅだいじ) 世に出(い)でて、ことごとく、よく有無(うむ)の見(けん)を摧破(ざいは)せん。
大乗(だいじょう)無上(むじょう)の法を宣説(せんぜつ)し、歓喜地(かんぎじ)を証(しょう)して、安楽(あんらく)に生(しょう)ぜん、と。
難行(なんぎょう)の陸路(ろくろ)、苦しきことを顕示(けんじ)して、易行(いぎょう)の水道(しいどう)、楽(たの)しきことを信楽(しんぎょう)せしむ。
弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、自然(じねん)に即(そく)の時(とき)、必定(ひつじょう)に入(い)る。
ただよく、常に如来の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報(ほう)ずべし、と いえり。

〈 意訳 〉
お釈迦様が お亡くなり に なられてから、約二百年後に、
「すべての人が、真実に出会い、与えられた命を尽くしていってほしい」と、悟りを開かれてから四五年間、休む間もなく、人々に「教え」を説き続けられた「お釈迦様のお姿」を想い、今一度「お釈迦様の教えの深い意味」を考え直していこうとする「大乗仏教」が起こっていった。
その大乗仏教の経典『楞伽経(りょうがきょう)』に、「お釈迦様の予告」という形で、このように いわれている所 が ある。

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「後の世、インドの南の方に、龍樹という名の菩薩が誕生し、人々が こだわっている「物事に執着(しゅうぢゃく)する誤った考え」や「すべてのもの に 価値や意味を認めない考え」などを、ことごとく砕き破り、「大乗無上の法(ほう)‐誰でもが、真実に出会い救われていく この上なく優れた教え」を説き明かす。
 そして、龍樹菩薩は、「本願の念仏」を心から喜べる身(歓喜地(かんぎじ))となり、阿弥陀仏の極楽浄土に往生するであろう。」
それは、「大乗仏教」が起こってから約五百年間、「親から子へ 子から孫へ 孫から その子供へ・・・」と、
大切に 口伝(くでん)で 伝えられてきた『楞伽経(りょうがきょう)』に、
当時の人々が「龍樹菩薩こそ が お釈迦様の後継者である」ということを記したもの で あろう・・・
お釈迦様が お亡くなり に なられてから約七百年、
大切に 口伝(くでん)で お釈迦様の教え を 伝えては きていたが、
誰も お釈迦様のように悟りを得られた方 が 現れていなかった。
そのような悲しい現実の中で、ようやく、誰もが待ち望んでいた「歓喜地(かんぎじ)」という悟りの位(くらい)にまで登(のぼ)られた龍樹菩薩 が 現れてくださった。
それは、当時の人々にとって、
「お釈迦様の教えは、時代の異なりをも超えた あらゆる人々の救いであることが証明された出来事」であり、
「お釈迦様の教えを、これからも後(のち)の世(よ)に伝えていかなくては ならない」と
改めて 思わせていただける「大きな希望」となった。
そのようなことから、後(のち)の人達にも
「龍樹菩薩という お釈迦様の後継者が現れた」と わかるように、大切に口伝で伝えられてきた『楞伽経(りょうがきょう)』に「お釈迦様の予告」という形で、加えられたもの と 思われる。

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龍樹菩薩は、
「「自分の力」を頼りにして、「困難な修行」に励(はげ)む「聖道門(しょうどうもん)の教え」は、苦しみに耐えながら けわしい陸路(りくろ)を進むようなものでしかない」
と、明らかに教え示され、
「それに対して、「阿弥陀様 の ご本願」に おまかせしきって、お浄土に導いていただく「浄土門(じょうどもん)の教え」は、船に身をゆだねて水路を進むようなもので楽しいことである」
と、明らかに教え示してくださり、
「阿弥陀様 の ご本願 を疑わずに、「お念仏」を素直に喜んで 受け取るように」と、人々に お勧めくださった。
また、龍樹菩薩は、
「 遠い昔から「生きとし生けるもの の 命」に備わり、働き続けている「願い」が、「阿弥陀様 の ご本願」として表現されていることに気づかされ、ただ、ひたすら、常に、阿弥陀様 の お名前「南無 阿弥陀仏」を称(とな)えて、「阿弥陀様 の ご本願」を「私の本願」「私の命」として、いつも 心に留め、保ち続けて、「阿弥陀様 の ご本願」を生きていけば、
ただちに、そのままで、必ず浄土に往生して仏(ぶつ)に成(な)ることが決定される。
  そして、その者は、むなしい人生 が 終わり、「身を粉にしても、骨を砕きても」と言える「阿弥陀様に奉仕する大きな喜び」の中で、阿弥陀様の手足 と なって、浄土の サンガ(仏教を学ぶ集まり)を実現していく。
 それは、私達には説明のできない、不思議としか 言いようのないことなのです。」
と、明らかに教え示してくださった。

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《 天親(てんじん)菩薩(七高僧 第二祖) 》

『七高僧ものがたり-仏陀から親鸞へ』東本願寺出版部 より

 天親(てんじん)菩薩は、龍樹菩薩が お亡くなりになられてから約百五十年後に、
北インドに誕生された。(生年(せいねん) 西暦三九五年頃 ~ 没年(ぼつねん) 四八〇年頃)
お釈迦様が お亡くなりになられてから約九百年が経っていた天親菩薩の時代は、
仏教が大きく二つの部派(ぶは)に分かれていた。
・「上座部(じょうざぶ)仏教(小乗仏教)」‐煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地を目指す教え。
・「大乗仏教」‐多くの人が、誰もが、迷いの無くなった状態に導いて行ける教え。
そして さらに分裂が進んでいて、
いくつもの部派(ぶは)が林立(りんりつ)(林のように、たくさん並び立つ)し、
それぞれの部派(ぶは)では、「お釈迦様の教え」を誤(あやま)りなく、正しく伝承するために、
「教えの緻密(ちみつ)な理論化」が進められていた。
 天親(てんじん)菩薩は、若くして伝統のある上座部(じょうざぶ)仏教に出家をし、
その天才的な記憶力・理解力によって、学問を究(きわ)め尽(つく)し、
「千部(せんぶ)の論師(ろんし)」と呼ばれるほど 厳密(げんみつ)な教学の書物 を 数多く書き記し、
その部派(ぶは)を代表する学僧(がくそう)となられていた。
 そうしたところ、天親(てんじん)菩薩の兄の無著(むじゃく)に、
「お釈迦様が、私達に本当に伝えたかった 教え は、大乗仏教である!」と、
厳(きび)しく批判され、説得をされて、兄の無著(むじゃく)から大乗仏教を学ぶようになっていった。
 しかし、天親(てんじん)菩薩にとって、これまでの上座部(じょうざぶ)仏教(煩悩を無くした阿羅漢(あらかん)という境地を目指し、学問・修行を通して 悟りへ と 近づいて行く教え)とは全く違う、
大乗仏教(どのような者であっても、誰もが救われていく教え)は、
どれほど深く学問を積んでいっても理解することができずに、
大きな壁にぶつかるように、自分の力の限界を感じ、苦悩の日々が続いていった。

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 そのような中で、天親菩薩は、『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』に出遇(であ)われた。
これまでは
「自分の心を正しくしていくことによって、悟りへ と 近づいていくのが大乗仏教だ」と、思い込んでいたが、そうではなく、
「阿弥陀様の願いの中に素直に身をゆだねて、阿弥陀様に救われて お浄土で悟りを開く、それこそが、お釈迦様が本当に私達に伝えたかった大乗仏教であった」
と、気づかれた。
 そして天親菩薩は、
「『仏説(ぶっせつ) 無量寿経(むりょうじゅきょう)』の教えを、自分が どのように受け止めたのか」を表(あらわ)された『浄土論(ろん)』を まとめられた。

 ↓

『 浄土論(ろん) 』
始めに、天親菩薩の「阿弥陀様 の お浄土 に生まれたい」と願う心が「偈(うた)」として述べられ、その後に「長行(じょうごう)」という その「偈(うた)」の意味を解説しているお言葉がある。
(「論(ろん)」という言葉は、「難しい理論が述べられている」と感じてしまうが、)
天親(てんじん)菩薩の「お浄土へ生まれたい」という お気持ちを表された「論(ろん)(意味や解説)」。

 ↓

《 天親章(しょう) 》に出てくる正信偈 の お言葉 は、すべて『浄土論(ろん)』の お言葉に依(よ)る。
また、次の《 曇鸞(どんらん)章(しょう) 》の お言葉 も、曇鸞大師(どんらんだいし)が『浄土論』を注釈(ちゅうしゃく)された『浄土論註(じょうどろんちゅう)』の お言葉 が中心となってくる。
親鸞聖人の「お名前」(諸説(しょせつ)ある)は、一二二四年 五十二歳の時に、関東において『教行信証』の草稿本(そうこうぼん)が完成した時に、「天親(てんじん)菩薩」と「曇鸞大師(どんらんだいし)」の一字ずつ を いただかれた「親鸞(しんらん)」を、「自分の名前」とされている。
それほど、親鸞聖人の人生の中で、天親(てんじん)菩薩が書き記してくださった『浄土論(ろん)』との出会いが、大きな意味を持っていた。

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 ↓

『 浄土論 』意訳(偈(うた)だけ)
世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に 十方世界に行(ゆ)き渡(わた)って自在(じざい)に救いたもう阿弥陀如来を信じて
安楽国に生まれることを願う。
私は、修多羅(しゅたら)(ここでは『仏説無量寿経』)を依(よ)り処(どころ)とし、そこに示されてある真実功徳の法(ほう)に帰依(きえ)して、この 願生(がんしょう)の偈(うた)(浄土へ生まれたい という願い込めた偈(うた))を説(と)いて、仏(ぶつ)の教(おし)え と 相応(そうおう)しよう。
(相応(そうおう)とは、例えば 函(はこ)と蓋(ふた)とが ぴったり あうようなものである(『浄土論註(ろんちゅう)』))

〈 浄土について 〉
彼(か)の世界の ありさま を観(かん)ずるに、この娑婆(しゃば)の因果(いんが)に超(こ)え勝(すぐ)れている。
なにものにも さえぎられない ことは、空のごとく、広大であって、境界線(きょうかいせん)のようなもの は 無い。
「平等に、すべての者が往生できる大道(だいどう)」に かなった智慧と慈悲、この「迷いの世間」を越(こ)え出た「煩悩の穢(けが)れのない善」によって成就されている。
清らかな光明 を そなえている ことは、鏡や太陽や また月のようである。
「平等に、すべての者が往生できる大道(だいどう)」に かなった あらゆる宝からできていて、すぐれた荘厳(かざり)を具(そな)えている。
煩悩の垢(けが)れの無い光が、浄土の すべての飾(かざ)り に曜(かがや)いている。
いろいろな宝より できている浄土の荘厳(しょうごん)功徳 は、柔(やわ)らかで、自由に めぐっている。
これに触れる者は、浄(きよ)らかな楽しみ を生(しょう)じる。
さまざまな宝の華(はな)が、池 や 流れ に 咲き乱れて、そよ風 は 花びら を ゆるがせ、光が乱れ交わって、キラキラと輝(かがや)いている。
りっぱな建物があり、そこでは十方の世界を眺(なが)め、さえぎられることがない。

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いろいろな宝の樹(き) に、それぞれ異(こと)なった光 がある。
宝の欄干(らんかん) が 広く めぐらされてある。
多くの宝から できている網(あみ) が あまねく空を覆(おお)っている。
さまざまな鈴が、声をたてて、妙(たえ)なる法(ほう)を説いている。
時に応じて清浄(しょうじょう)なる華(はな)や衣(ころも)を雨ふらせ、あまねく妙(たえ)なる香りがする。
如来の智慧(さとり)より現れている国土(こくど)の光明は、衆生の煩悩の闇を除く。
清浄(しょうじょう)なる「浄土」の名 は、遠く十方世界に響いて、人々を悟らせる。
正覚(しょうがく)の阿弥陀法王(ほうおう)によって、よく治め、持(たも)たれている。
浄土の聖者(せいじゃ)達は、阿弥陀如来の正覚(しょうがく)の華(はな)の中より生まれる。
仏法(ぶっぽう)の味(あじ) の 楽しみ を受け、心が安定した状態に入ること を食(しょく)とする。
永久(えいきゅう)に 身の苦しみ 心の悩み を 離れて、楽しみを受けることは、常に絶間(たえま)がない。
大乗(だいじょう)(どのような者であっても救われていく教え)の善根(ぜんこん)によって成就された如来の世界は、平等で、海が 一つの味 に なるように、成仏できない者は無く、嫌(いや)な譏(そし)りの言葉も無い。
衆生が求める すべての願い は、よく満足せしめられる。
こういうわけであるから、私は、阿弥陀如来の浄土に生まれることを願う。

〈 阿弥陀様 と 浄土の聖者(せいじゃ)達 について 〉
はかり知られぬ宝で飾られてある 何とも言えず素晴らしい清浄(しょうじょう)な蓮華(れんげ)でできた台座(だいざ) を、阿弥陀様の座(ざ) とする。
阿弥陀様の後光(ごこう)の直径は、両手を広げられたほどの大きさ があり、その お相(すがた)は、あらゆる者に超えている。
阿弥陀様の妙(たえ)なる名号(みこえ)は、十方世界に響きわたる。
阿弥陀様 の お心 は、地(ち)・水(みず)・火(ひ)・風(かぜ)や空(そら)と同じく、平等であって分別(ふんべつ)がない。

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浄土の聖者(せいじゃ)達は、大乗の悟りを開かれている。
それは、阿弥陀様の清浄(しょうじょう)なる智慧より生(しょう)ずるのである。
阿弥陀様は、須弥山(しゅみせん)(古代インドの世界観で、世界の中心に そびえ立つ巨大な山)の如(ごと)く すぐれて、これに超えるものがない。天人(てんにん)や菩薩などの浄土の聖者達は、皆阿弥陀様を尊敬し、仰(あお)ぎ見る。
阿弥陀様の本願の お力 に 出会って、空(むな)しく過(す)ぎる者(もの)は無(な)く、よく 速(すみ)やかに、海のごとき大きな功徳を満足させてくださる。

〈 浄土の聖者達について 〉
安楽国には、浄(きよ)らかな如来の説法があり、浄土の聖者達も また、十方に現れ、休みなく、清らかな法(ほう)を説いている。
太陽が 天上にあって 光が地上を遍(あまね)く照らすように、浄土の聖者達は、浄土を動かずとも、さまざまな姿となって現れて、また 須弥山のように不動(ふどう)である。
浄土の聖者達は、さまざまな姿となって現れて、一念(ひとおもい) 一時(ひととき)に、あまねく十方の世界に往(い)って、諸仏を供養し、また あらゆる衆生を利益(りやく)する。
清浄(しょうじょう)なる音楽・華(はな)・衣服・妙(たえ)なる香(かお)り など によって、十方諸仏を讃嘆(さんだん)し 供養することに、分け へだて の 心 が無い。
仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)の無い いずれの世界にも、菩薩は往(い)って、仏法を示すこと 仏(ぶつ)のようにしたい と願う。

私は、この「願生(がんしょう)の偈(うた)(浄土へ生まれたい という願い込めた偈(うた))」を作って、あらゆる衆生と共に、阿弥陀如来を信じて、安楽国に往生しよう。

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正信偈《 天親章 》の構造

『浄土論(ろん)』
世尊(せそん)よ 私は一心(いっしん)に 十方世界に行(ゆ)き渡(わた)って自在(じざい)に救いたもう阿弥陀如来を信じて
安楽国に生まれることを願う。
 ↓
『正信偈』
天親菩薩造(ぞう)論(ろん)説(せつ) 帰命無碍光如来
 〈 書き下し文 〉
 天親菩薩、論(ろん)を造(つく)りて説(と)かく、無碍光如来に帰命したてまつる。

広(こう)由(ゆ)本願力(ほんがんりき)回向 為(い)度(ど)群生(ぐんじょう)彰(しょう)一心(いっしん)
 〈 書き下し文 〉
 広く本願力の回向に由(よ)って、群生(ぐんじょう)を度(ど)せんがために、一心を彰(あらわ)す。


『浄土論』
私は、修多羅(しゅたら)を依(よ)り処(どころ)とし、
そこに示されてある真実功徳の法(ほう)に帰依(きえ)して、この願生(がんしょう)の偈(うた)を説いて、
仏(ぶつ)の教(おし)え と 相応(そうおう)しよう。
 ↓
『正信偈』
依(え)修多羅(しゅたら)顕(けん)真実 光闡(こうせん)横超(おうちょう)大誓願(だいせいがん)
 〈 書き下し文 〉
 修多羅(しゅうたら)に依(よ)って真実を顕(あらわ)して、横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)を光闡(こうせん)す。

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『浄土論』
始めの二行目「安楽国に生まれることを願う。」から
最後から三行目「仏法を示すこと 仏のようにしたい と願う。」まで
 ↓
『正信偈』
帰入(きにゅう)功徳大宝海(だいほうかい) 必(ひつ)獲(ぎゃく)入(にゅう)大会衆(だいえしゅ)数(しゅ)
 〈 書き下し文 〉
 功徳大宝海(だいほうかい)に帰入(きにゅう)すれば、必ず大会衆(だいえしゅ)の数(かず)に入(い)ることを獲(う)。

得(とく)至(し)蓮華蔵世界(れんげぞうせかい) 即(そく)証(しょう)真如法性(しんにょほっしょう)身(しん)
 〈 書き下し文 〉
 蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に至ることを得(う)れば、すなわち真如法性(しんにょほっしょう)の身(しん)を証(しょう)せしむと。


『浄土論』
私は、この「願生(がんしょう)の偈(うた)」を作って、あらゆる衆生と共に、阿弥陀如来を信じて、
安楽国に往生しよう。
 ↓
『正信偈』
遊(ゆ)煩悩林(りん)現(げん)神通(じんづう) 入(にゅう)生死(しょうじ)園(おん)示(じ)応化(おうげ)
 〈 書き下し文 〉
 煩悩の林(はやし)に遊びて神通(じんづう)を現(げん)じ、生死(しょうじ)の園(その)に入(い)りて応化(おうげ)を示す、といえり。

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